大きなハプニングを挟んだものの、その後は予定通りの調査日程をこなして本部へ戻ってきた『暁火隊』一行。
冷房の効いて電子機器特有のプラスチックのにおいがする本部地下の情報部には、もう海の気配はない。
ただし議題は海でのこと、神奈川県沖海岸線での調査と或斗の体験についてであった。
「結局、或斗くんの迷い込んだという洞窟ダンジョン以外、件の海岸線には何も無し、か」
「はい~、意図せず県警の人員を借りて地形調査まで出来たことは大きいですねぇ。見事、何も無いということが分かりましたぁ。警察に借りを作った形なのがいささか面倒ではありますが」
「国側への貸しなど、唸るほどある。気にするほどのことじゃないだろう」
日明と栞羽が調査結果のまとめを評する。
だが、やはり或斗の迷い込んだダンジョン、その入口に書かれてあった「カージャー」のマークと、それが古びていたという事実は全員に疑問をもたらした。
「100年以上前のもの、か……しかし『カージャー』の思想は明白にダンジョンありきのものだ。ダンジョンが出来る前に組織が設立されたとは考えにくい」
「そもそも、『カージャー』が何かを探していた形跡から行きついた場所にあったダンジョンですもんねぇ。件のダンジョンを『カージャー』の目的であった"遺跡"と仮定しても、『カージャー』が自分たちのマークの入ったダンジョンを探していたというのは何というか……因果の逆転が発生していると言いますかぁ」
「クロニア氏が読んだダンジョン語の文章にあったらしい"神の欠片"についても気になるな。或斗くんの力を神の力と呼んで執着している集団だ、"神の欠片"を探していたというのなら、一定の納得は得られる。クロニア氏はダンジョン適性Aだと言っていたんだろう?」
日明の問いに或斗が頷く。
「はい。それに、洞窟ダンジョンで見せてくれた実力はすごいものでした。普さんとおな……じとは言いませんけど、適性Aという言葉に間違いはないんじゃないかと」
意見の途中で普の苛立ちを敏感に察知した或斗は言葉をサッと濁したが、或斗を威圧した普本人も、ミラビリスの適性については或斗の意見を補強する立場をとる。
「クラーケン戦のときに見せた一撃で、ある程度の能力は察せました。俺と比較してどうかは不明ですが、少なくともそこのタフネス馬鹿よりは強い可能性が高いです」
タフネス馬鹿呼ばわりされた高楽は調査行以降、燃え尽きた顔をして沈黙している。
あのクラーケン出現以降、調査のために海水浴場が閉鎖され、水着の女子をナンパする機会を来年の夏まで失うことになったためである。
或斗は別に海水浴場の閉鎖は関係なく誰も捕まえられなかっただろうから気にすることもないのではないかと思ったが、言葉が時にはナイフより鋭くなることを(主に普から)学んでいたので、黙っておいた。
「そうか。であれば、ダンジョン語の誤読の可能性もほぼ無いだろう。マークの謎はおくとしても、やはり『カージャー』の目的が件の洞窟ダンジョンであった可能性は高いな」
「本当にビリーさんが居てくれて助かりました。ダンジョンの踏破と脱出はもちろんですけど、ダンジョン語は俺にはサッパリ読めませんでしたから」
今回の調査では行く前よりも疑問が増えたというくらい収穫らしい収穫は無かったが、ミラビリスが居なければ疑問へ繋がる情報さえ得られなかっただろう。
或斗がミラビリスへの感謝を口にすると、栞羽が思わし気な顔で「ミラビリス・クロニア氏についてなんですがぁ」と切り出す。
「うちにはゴロゴロいるので忘れがちですけど、ダンジョン適性Aの人間は人口における割合にして0.001%ほどです」
日本の現人口1億人前後で考えると千人居るか居ないかというところですね、と補足する。
その辺りは或斗も学校の授業で習っているのでさわりは知っている。
適性Aの人間はかなり少なく、B以降Dまでは順に割合が増えていき、E以下は減っていく。
表にすれば一番上だけが極端に細い丸形になるだろうか、A~Fまでの人口における比率はそんなものであるらしい。
言うまでもなく適性無しの或斗は欄外である。
「よって、適性Aの人間はどこの国でもそのほとんどがダンジョン攻略者になるよう強く勧められますし、ダンジョン攻略者であれば必ず一定以上には有名にならざるを得ません」
燃えカスになってるそこの残念高楽さんでも国内ではちゃんと有名です、と添える栞羽。
燃え尽きている間に散々な言われようである。
高楽の件には触れず、日明は言われて気が付いたというように瞬きをする。
「ああ、確かに……クロニア氏の名前は寡聞にして知らないな」
「はい。調査から戻って以降、ミラビリス・クロニア氏の名前、ビリーという通称でも検索をかけましたが、当該人物と思われる情報はヒットしませんでした。全くの無名ということです」
「そりゃ臭い話だな」
ミラビリスに散々財布呼ばわりされた普は口の端を歪めて笑った。
「ビリーさんは俺を助けてくれました……! 悪い人だとは思えません……!」
「悪人が悪人です~ってツラに書いてるわけねえだろアホカス」
「でも……!」
或斗の弁護の声に、日明が頷く。
「素性は気になるが、クロニア氏が居なければ或斗くんの無事はありなかっただろうことは確かだ。むやみに疑う必要はないと私も考えるよ」
「そうですねぇ、日本もそうしているように、どの国でも秘匿戦力として政府が秘密裏に適性Aの人間を抱えています。クロニア氏はそういう、どこかの国のエージェントである可能性が高いかと」
「えーじぇんと」
或斗は道端で行き倒れ空腹に腹を鳴らすミラビリスと、アロハシャツを着て海で浮き輪付きの溺死という逆に器用な事故を起こしかけていたミラビリスを思い浮かべた。
あれがエージェントを務める国というのも中々想像できない、滅ぶんじゃないか? その国。
栞羽は「ただ」と続ける。
「他国のエージェントが虹眼くんに接触した、という事実は気にかかります~。以前の動画は世界的に拡散されていますから、虹眼くんの力を測りに来た可能性は排除できません」
「他勢力についても、気を配っておくべきか……」
「うちは特に政府絡みの仕事が多いですから……虹眼くん、分かりましたぁ? クロニア氏にも自分の力のことや『暁火隊』のこと、ペラペラ喋っちゃダメってことですよぉ」
「あ、はい……気をつけます」
確かに、こうして釘を刺されなければあののんびりした雰囲気に当てられて何でもペラペラと喋りそうだ、と或斗は自覚する。
或斗が頷いたのを見て、日明は話題を変える。
「それで、或斗くんの新しい力……先ほどまでの仮定を正しいとするなら、"神の欠片"を得たと考えられなくもない。そちらはどうなんだ?」
或斗は実際に新しい虹眼を発動させて見せながら説明した。
今までは通常の人間の視野と同じ範囲しか見えず、虹眼の能力もその範囲でしか発動させられなかった。
新しい虹眼は人間の視野にとらわれず、視点の位置を自在に変えられ、多方向、やろうと思えば360度全てを同時に見られる。
「以前までの虹眼と切り替えは出来るのかい?」
「はい、どちらかといえば、意識することで新しい虹眼を使えるといった感じですね」
或斗は以前までの虹眼と新しい虹眼を切り替え、左右の目で変えてみせたりもした。
「新しい虹眼を発動させているとき、瞳の中に六芒星が見えるな」
「そうなんですか?」
鏡の前で確認しては居なかったため、或斗は指摘されて初めて自分の目の視覚的変化を知る。
六芒星といえば、ダンジョンコアに触れたとき、六芒星のイメージの中に浮かんでいた記憶があった。
或斗はそのことも合わせて報告する。
「ふ~む、中々のおもしろ現象ですねぇ。ファッションじゃ済まない厨二病って感じでとっても素敵だと思いますよ、虹眼くん」
「それ褒めてませんよね?」
栞羽コーディネートファッションが普からボロクソに貶されたことは記憶に新しい。
普を理不尽の塊だと認識している或斗も、一般的なセンスとかそういった部分については栞羽より普の言を重視することにしていた。
「或斗くん自身の身の安全のためにも、虹眼の力が強化されたのはプラスだろう。今後一層『カージャー』の動向に気を配る必要はあるが、バル=ケリムの件で相手の動脈を握れたことは大きい。油断せず、引き続き調査を続けていこう」
日明がそう結んで、情報部での報告会は終わる。
さて、報告会が終わるとどうなるか?
知らんのか、普ブートキャンプがはじまる。
そんなわけもどんなわけもないが、或斗は普と共に旧新宿ダンジョンの深層へ来ていた。
普曰く、「試運転」とのことである。
或斗が首を傾げると、「クソ軽い頭を傾ける前に自分で物を考えろこのカス虫が。自分の力を細部まで確認しとかないといざという時に詰むだろうがアンポンタン」と丁寧に罵倒して説明してくれた。
ここでダンジョンの階層と攻略難度の話をしておきたい。
ダンジョンは大まかには3つ、細かくは5つの部分に分けられる。
大まかな方では上層・中層・深層、細かい方では低階層・上層・中層・深層・最深部である。
最深部は名の通り、ダンジョンコアがある場所だ。
或斗はつい最近例外を経験したばかりだが、一般的なダンジョンではこの最深部にモンスターが出てくることはないらしい。
低階層というのは、主にモグリがうろつける範囲を指す。
モグリでも活動できるほどモンスターが弱く、出現率が低いため、ダンジョン攻略者を本業としていない一般人でも気軽に来られる場所と言われている。
無論、モグリなんかをやるしかない適性弱者たちは油断すると低階層でも普通に死ぬのだが。
あとの上層・中層・深層の3つについてはダンジョンの傾向やパーティメンバーの能力内訳にもよるので明確な基準ではないものの、目安となる推奨適性ランクをギルドが発表している。
上層は適性C~Dだけで組んだパーティでも踏破可能、中層の踏破には適性B以上のメンバー1人が確実に必要、深層は辿り着くために適性B以上のメンバーを2人以上は必要とし、深層の踏破には適性B以上のメンバーが5人以上は必要、とそのようにされている。
ひるがえってこの此結 普という男、ソロでダンジョン踏破をいくつも成し遂げている。
規模が大きくモンスターも強力と名高いこの旧新宿ダンジョンでも、以前は或斗というお荷物をハンデに持ちながら、実質1人で悠々と深層へ到達、最深部まで踏破している。
世間一般の常識を完全に無視した化け物である。
そんな大怪獣理不尽が今回或斗に課したことは、普の力を借りずに旧新宿ダンジョンの深層へ潜ること、であった。
再三言うが、或斗のダンジョン適性は無し、無しなのである。
イカレてやがると思ったところで、それを口に出しても或斗の体のどこかしらが折れることこそあれ、普が折れることはない。
今までの生活で数えきれないほど、主に普との訓練で死にかけた或斗であるが、今回こそは本当に死ぬかと何度も思った。
普はやれと言ったらやらせる人間だ、初めから助けなど期待してはいけない。
或斗は虹眼を駆使して文字通りの死ぬ気で戦い、駆けた――すると恐ろしいことに、本当に1人の力で深層まで辿り着けてしまったのである。
或斗は放心した。
持たざる者の身で成し遂げた偉業を誇るべきか、化け物の仲間入りを嘆くべきか。
確実に分かったのは、虹眼の進化が戦力に及ぼした影響は計り知れないということだ。
自分の成し遂げたことをまだ呑み込めていない或斗に対し、普は一切の躊躇も容赦もなく言い放った。
「じゃあしばらくはこの辺で雑魚どもを狩れ」
普の言う雑魚というのは、世間一般ではダンジョン適性B以上の人間を5人は必要とする……或斗は深く考えるのをやめた。
普が出来ると思っているのなら、出来るのだろう。
そして実際出来た。
普のように雑魚扱いなどはとても出来なかったが、或斗は虹眼の力で巨大だったり異形だったりする深層のモンスターたちを1人で相手取り、勝利を続けていた。
そんな或斗の大偉業の連続に対して、普がかけてくれた言葉をいくつか紹介しよう。
「おっそいんだよ何もかもが。見るだけで勝てるスペックがあるのに何をビビってんだクソヘタレ」
「魔法だろうが突進だろうが攻撃は全部虹眼で止めろ、お前のゴミカス身体能力で避けようだなんて考えに至る脳の欠陥には驚かされるわ」
「だから1歩も動く必要はないって何で未だに分かってねえんだボケ1回くらい死んどけドブ舐め野郎」
(広義に解釈すれば)愛の溢れる叱咤を糧に、或斗は深層を進んでいく。
或斗も普の
深層の半ばまではそんな感じで問題なく進めていたのだが、いつしか或斗は頭痛がするのに気づいた。
はじめは脱水症状かと思い、水を飲むなどしていれば痛みも紛れたのだが、やがて頭痛の起こる間隔は狭まり、痛みも強くなって来る。
それでも戦闘の連続でアドレナリンが出ていたのだろう、或斗は頭が割れんばかりの頭痛で体の動きが強制的に止まるまで、戦闘を続けてしまった。
戦闘を終えて急に動きを止めた或斗に普が怪訝な顔を向けたが、それに反応することも出来ず、続けて鼻血がドパッと出て、或斗はその場で気を失った。
次に目を覚ました或斗の視界には、白くて清潔感のある天井があった。
何か前にもこんなことあったな、しかも同じ旧新宿ダンジョンだった気がする……或斗が体を起こすと、『暁火隊』本部医務室であることが分かった。
或斗が起きたことに気付いて、医務室勤務の田村医師と何事か会話していた普が鬼の形相でベッドへ向かって歩いてくる。
開口一番「このド間抜けが」と罵倒が飛び出してきたが、田村医師の前だからだろうか、幸いにも拳は飛んでこなかった。
「頭が足りないにもほどがあるだろうが。自分の不調くらい自分で把握しろアホボケカス」
実際頭痛がしていたのには気が付いていた上で報連相を怠ったので、何も反論出来ない。
或斗は大人しく謝っておいた。
普はひとしきり或斗を罵倒すると、「眞杜さんに報告に行く」と医務室を出て行った。
そこへ田村医師がゆったりとした動作でやってきて、或斗を窘める。
「若いからって無茶はいけないよ、或斗くん」
何か前にもこんなことあったな。
今回ばかりは或斗が無茶をしたのは真実なので、或斗はしおらしく頭を下げた。
田村医師は頷くと、或斗の状態について説明してくれる。
「運び込まれた時は頭部がかなり熱を持っていてね。状況から、脳の酷使による発熱だと考えられる。オーバーヒートというやつだね」
医師として新しい力についても聞いたけれど、と前置いて続けられた説明によると、或斗の新しい虹眼の力は脳にかかる負担が大きいとのことだった。
考えてみれば、常人とは全く異なる視界と視点を、他のことを考えながら処理するのだ。或斗という常人の脳で。
それはガタもくるだろう、或斗は納得した。
「いや、納得して頷くのは良いんだけどね。下手すると死んじゃうから、もう頭痛がするほど新しい力を使っちゃダメだよ」
「はい……」
或斗が神妙な顔で頷くと、田村医師はほっこりとした笑みで話題を移した。
「懐かしいなぁ。普くんが君を運び込んできた時の焦った顔。未零さんが訓練中倒れた時に、ここへ運び込んできた時の顔とそっくりだったよ」
「そんなことが……」
未零もあの地獄のしごきを受けたのかと思うと複雑だが、思わぬところで普と未零の関係値を想像出来る話を聞けた。
クソガキ呼ばわりで本人は素直に認めはしないが、あれほど懐いている日明率いる『暁火隊』を抜けてまで5年もの間未零を探し続けていたのだ。
どんな感情であれ、かなり可愛く思っていたのではないだろうか。
実際、未零は世界一可愛いし。
と、そこまで考えてから或斗ははたと疑問を抱く。
そうなると、或斗は普からどう思われているのだろうか。
初めて会った時には殺されかけ、その後は暴言暴行のオンパレード、未だにドブネズミ呼びがデフォルト。
バル=ケリムの拠点に潜入したときも、先日の海での行方不明時も、周囲が言うには大層心配してくれていたとのことだったが、先日の海の件なんて感動の再会シーンでビンタ5発である。
きちんと情を持った、感情表現が不器用な人だというのは或斗も理解しているが……。
或斗は16歳、ちょうど未零が行方不明になったのと同じ年頃だ。
同居しているのも、或斗を守っているのも、日明から頼まれてのことで……普は責任感が強いから、或斗が危機に陥ることを自分の失態だと感じているのではないだろうか。
普は或斗をあの頃の未零と重ねて見ていて、日明からの頼みで失敗する自分を許せなくて……結局、或斗自身のことをどう思っているのだろう。
或斗は、普のことを強くてすごい人だと思っている。
信頼している、と思う……何かにつけて暴力が飛んでくるのとか、今回みたいな無茶ぶりをしてくるのとかは何とかしてほしいと思っているけれども。
普はいつも厳しくて、普との間にはいつも少し緊張感が漂っていて、日明に対するように無条件でもたれかかれる間柄ではない。
ミクリとの間にあるような対等な友人としての信頼関係でもないし、未零と普が築いていたような先輩後輩関係でもない。
或斗と普は違いすぎる。普は何事においても常に格上で、或斗は格下だ。
普と出会って、あの夜明け色の瞳で目を覚ましてから、1ヶ月強。過ごした日々は酷く濃いものだった。
未だに普と或斗の間にはブラックボックスがある。
或斗はそれを少しだけ、寂しく思った。
或斗が医務室から出ると、廊下の端にある階段を上っていくミクリを見かけた。
『暁火隊』に保護されている間も何か出来ることを、と雑用を請け負っていることは本人から聞いて知っているので、本部の中を歩いていることはさして不思議なことでもないのだが、雑用にしては、階段を上っていくミクリは荷物などを何も持っていなかった。
何となく気になって、それから先ほど感じた寂しさを紛らわせたくもあって、ミクリを追って階段を上ってみる。
ミクリは健脚でスタスタと上へ行き、屋上へ出た。
『暁火隊』本部の屋上は、夜以外の時間は解放されている。
もちろん安全柵で囲んであって安全であるし、そもそも旧時代の人間と違ってダンジョン社会の人間、特に暁火隊に属するようなエリート適性者たちは屋上から落ちたくらいでは死なないのでそういう意味でも安全であり、小さな休憩所のようなものも設置されているくらいだ。
扉から離れた向こう側にはヘリポートがあり、有事の際はヘリで移動することもあるとか。
そんな栞羽から聞いたことのある説明を思い出しながら、安全柵の前で夕陽を見つめているミクリへ声をかけた。
「ミクリ」
「あれ、或斗くん。倒れたって聞いて心配してたんだけど、もう平気なの?」
ミクリにまで伝わっているとは、普の焦りというのは『暁火隊』でもそのくらい珍しいものなのだろうか。
栞羽あたりが普の平素と違う様子を面白がって広めているだけの可能性もあるか。
「心配かけてごめん。問題ないよ、大丈夫」
「良かったぁ」
「ミクリはどうして屋上に?」
そう問うと、ミクリはもう1度夕陽の方を見て、「考え事してたんだ」と言った。
「考え事って? 何か悩み事でもあるのか?」
或斗が心配の表情を浮かべると、ミクリは首を横に振り、道を定めた強い瞳に夕陽を映して答えた。
「私ね、『暁火隊』に入れてもらうことにしたの。後方支援部隊として、だけどね」
或斗は驚く。
『暁火隊』の後方支援部隊はダンジョン適性でなく知性や人柄で選ばれるという話をこれまた栞羽から聞いたことがあったので、ミクリが入れること自体に驚いたのではない。
「『炎の継手』のポーターは? 仲良くなれたって言ってただろ?」
「うん。でも、事情を話したら、皆応援してくれた。『炎の継手』のみんなとしても、後方支援部隊とはいえ『暁火隊』と繋がりを持てるのは助かるって、リョウさんが言ってたし」
或斗は、傷を負い「カージャー」に攫われる未零の姿と、優しさから「カージャー」に尊厳ごと命を奪われてしまった英のことを思い出して、心をざわつかせた。
「危険だ。俺はミクリにこれ以上危ない目には遭ってほしくない」
ただでさえ或斗の事情に巻き込んで怪我をさせ、迷惑をかけたのだ。
何より、ミクリの優しさは英と重なる部分があって、もしもミクリまでああなってしまったらと思うと、とても平静に受け止めることは出来なかった。
止めようとする或斗に向き直って、ミクリは悲し気に言った。
「この間、或斗くんが海で行方不明だった時、私、何も出来なかった」
「それはだって……ミクリは保護されてる身で」
「そう、だから、このままじゃダメだって思ったの」
ミクリは眉を下げて胸の前で手を組むと、或斗へ言う。
「きっと、或斗くんの方が危ないんでしょう? 私は、大事な友達が危険な時に、外野でいるのはもう嫌なんだ」
その声には純粋な心配の感情と、ただ真っ直ぐな決意が滲んでいた。
ミクリの決意を受けて、色んなことが或斗の頭の中を巡った。
英のときに感じた大きな後悔、無力感。
けれども今日成し遂げた、独力での旧新宿ダンジョン深層到達は、確かに或斗の力の表れである。
ミラビリスの言葉――運命という主の導きとどう向き合うか、それこそが人の価値というものだ――それらは或斗の中を巡って、やがてストンと胸の奥のあるべき場所へと収まった。
「……じゃあ、ミクリが助けてくれるように、ミクリが危なくなったら俺が助ける。ミクリや、他の皆を守ってみせる」
或斗はもうダンジョンの低階層で小金を稼ぐだけのモグリの生き方をする気はない。
最底辺の持たざる者であることは依然変わらないが、或斗には確かに何かを成せる力が備わっている。
バル=ケリムの拠点を暴き、『暁火隊』に貢献して、未零へ1歩近づいた。
深層のモンスターを倒せるほどの、強い力を得た。
普や日明に庇われて守られるだけの弱者ではなく、ミクリや日明……そして普だって、守れる人間になる。
或斗の視線は自然と沈みゆく夕陽に向かい、ミクリもつられて同じ方向を見つめる。
強い覚悟を秘めた2人の顔を、その心に似て燃え上がるような赤色をした夕陽が照らしていた。