或斗の記憶の中の未零は、いつも余裕のある態度をしていて、中々困った顔というのを見たことはなかった。
未零が困った顔をしているときは大抵、そういうポーズであって、「困ったね」と口にしながら実際のところはそう困っていないという、そういう人柄であった。
普あたりに言わせればそういうところは「ガキのくせにスカしていてムカつく」とされそうであるが、或斗は未零のそんな歳不相応の余裕に安心感を覚えて、好きだった。
そんな未零も、或斗が目の前で泣く時だけは心底困った顔をしていた。
或斗が泣くことだってそう多くはなかった、未零からもらったものを他の子供に盗られたときや、酷い悪夢を見た時、そして未零との別れの時。
未零が孤児院を出て行く朝は孤児院の職員も子供たちも総出で見送り予定となっており、或斗はその隅っこの更に隅っこで手を振るしかなかった。
当然まともに言葉を交わすことなど出来ようはずもない。
だから或斗と未零の別れのやりとりは、夜寝静まった孤児院の、ぼろくて汚い屋根裏部屋でコッソリと行われた。
或斗はいつも通りに話して、見送れる気でいた。
それが屋根裏部屋へ上がって来てくれた未零を見た瞬間に、ボロボロと涙があふれて止まらなくなった。
或斗は声を上げて泣くことはほとんど無い、声を上げても聞きつけて助けてくれる人など未零以外に居なかったし、無様に泣き喚くとより一層自分の惨めさが心に響いて、本当にダメになってしまう気がしたから。
涙で歪んだ視界の中で、未零が珍しい狼狽えた顔をしているのが見えた。
行かないでとはとても言えず、かといって他に何を言っても未零との別れが決定づけられるだけに思えて、或斗は無言で泣き続けてしまった。
未零は困り切った顔で、ああ、とか、ううん、とか、やはり珍しく要領の得ない呻きをあげながら或斗の涙を1つ1つハンカチでそっと拭いてくれた。
結局或斗の涙が止まらないのを見て、未零は心底困ったという顔をしてから、或斗を強く抱きしめた。
密着した未零の温かさで、或斗はやがてクスンクスンと鼻を鳴らすほどにまで落ち着いた。
未零はいつもの濁りのなく澄み切った綺麗な声で、或斗へ言葉をかけた。
「或斗が私を想ってくれているように、私も或斗を愛している。だから、必ず、必ず私たちはまた会えるよ」
体を離せばまた涙を浮かべてしまう或斗に、やっぱり未零は困り切った顔をしたのだった。
或斗の目の前の未零クローンは、何故かあの時の未零を思い出すような、心底困ったという顔をしている。
栞羽の合図とともに実験施設の裏口から突入した或斗と普は、サッパリ人の居ない実験施設の隔離区域に違和感を覚えていた。
施設内は岩場の空洞を利用しつつ、掘削して鉄やもっと丈夫な合金板をはめこんでいる無骨な造りで、ところどころの壁や天井に岩の面が見えていて、そこから冷気が侵入しているのだろう、空調など全く効いていないかのごとくに寒かった。
時間短縮のために或斗が透視の虹眼で見て行く部屋の中は全て無人で、培養器のある部屋があっても中身は残されていないようである。
ただし、警備が薄いということではない。
最新型の武力特化警備ロボットや、暗黒色の枷を嵌められた狼系モンスターが十把一絡げに売り出せるほどうろついており、或斗たちを襲ってくる。
それらは或斗が虹眼を使うまでもなく、普がいつもの万能破壊キックや剣の1撃、魔法などで瞬殺してしまうのだが、それでも少しずつ時間はとられる。
「普段からこう、ってわけじゃなく、今慌てて移送準備をしている可能性が高いな。下らねえ時間稼ぎの臭いがする」
普は狼系モンスターを切り捨てるとともに、そう吐き捨てた。
まだ時間稼ぎが必要な状況なのであれば、間に合う可能性は高い。
或斗は未零の居る部屋を探して、あるいは研究員の1人でもいれば場所を聞き出そうと思って、透視で次々と膨大に立ち並ぶ部屋の中を確認していく。
すると、ある休憩室のような部屋に1人分の人影があるのに気づいた。
「普さん、あの部屋に誰かいます!」
或斗の指した10mほど先の部屋へ、普が扉を蹴り開け、或斗と2人で踏み入る。
そこにいたのは16歳の姿をした未零、つまりは未零クローンであった。
「外れか」
「……普さん、待ってください」
「ああ?」
部屋の中に居た未零クローンは或斗を目にすると、パチリと瞬きした。
その様子があの秋の夜ミゼールポレンで出会った、30番と呼ばわれていた未零クローンと被る気がして、或斗は剣を抜こうとする普を止めた。
未零クローンは腰に佩いていた剣をその場に置いて、剣ではない何かを手に持って或斗へ近づく。
普が視線だけでも殺せそうなほど近づいてくる未零クローンを警戒しているのが或斗にはわかったが、未零クローンは気にも留めず、ただ或斗へ手にしたものを差し出した。
それは見覚えのある、元々或斗のもの、或斗がミゼールポレンで彼女に貸した夏用の薄い上着であった。
或斗は思わず受け取る。
隣の普の殺気の籠った視線が痛かったが、或斗はどうもこの未零クローンに隔意を抱くことは出来そうになかった。
上着を渡した未零クローンは、受け取った或斗を見て、何故か未零が心底困った時に見せた顔をしている。
「どうしたんだ?」
或斗が問うも、未零クローンはただ困り果てた顔で或斗を見上げている。
それは今まで見てきた未零クローンとは全く違う、人間臭さに溢れた様子であった。
何も答えない未零クローンに、或斗も困って2人して困り顔を突き合わせた状態となっていたが、その膠着を普の拳が破壊する。
殴られた或斗の頭も破壊されたかと思った。
「ポンコツのもどきに構ってる場合かボケナスネズミ。ちょうどよく手がかりが目の前に居るんだから本物の様子を確認しろ」
普の言にハッとした或斗は、目の前の困り顔未零クローンを千里眼の虹眼で視て、視界を本物の未零へ繋げる。
本物の未零はまだ前回見たのと同じ培養器の中で眠らされている。
前回見た時の部屋は薄暗かったが、今の部屋の中は明かりがハッキリとついており、そして大勢の研究員らしき人間たちが培養器の周囲をうろついて、どうやら移送の準備を進めているようだと分かる。
他の大きな培養器のあった部屋と全体的な造りが似通っているため、未零本人が囚われているのは必ずこの隔離区画のどこかだと或斗は確信する。
「まだこの隔離区域のどこかの部屋にいるようです、研究員が大勢で移送の準備を進めています」
「じゃあさっさと行くぞ愚図」
罵倒と共に(普基準で)軽く或斗の足を蹴飛ばして先を急がせる普。
或斗は1度だけ、やはり困り顔のままの未零クローンへ振り返った。
「ごめん、ここで待っててくれ」
それだけ言いおいて、或斗は普と部屋を出た。
警備ロボやモンスターの障害物を普が露払いしながら、隔離区域の廊下を2人は駆け抜ける。
厳重に過ぎる警備をものともせず進めるのは普の武力のお陰で、1つずつ部屋を確認する手間を省けるのは或斗の虹眼のお陰、別動隊として2人の役割はどちらも欠かせないもので、2人は快進撃を続けていた。
施設裏口から入って10分ほどだろうか、或斗はある部屋にまだ中身の入っている培養器が複数あることに気付く。
「普さん、あの部屋、中身の入った培養器が10個くらいあります」
「……本物の居る部屋までの道筋をつけるためにも、資料くらいあれば見ていくか」
あまり時間をとるようなら切り上げて出るぞ、と或斗へ釘を刺してから、普はその部屋の扉も蹴り開ける。
その部屋の培養器の中身は異様であった。
どれも未零のクローンであろうことだけは分かる、しかしそれらは全て「製造途中の人間もどき」としか言いようのない姿をしている。
腕の欠けているもの、顔が半分しかないもの、上半身だけのもの……そしてそれらの造りかけクローンたちは、一様に培養器の中でもがき苦しんでいるように見えた。
「これ、は……」
悍ましい光景に一瞬足を止めてしまう或斗を置いて、普はいち早く部屋の中に入り、置き去られた資料を漁る。
或斗もすぐに普に続き、バラバラに放置されている資料を斜め読みした。
この部屋の資料にはクローン計画の概要や派生計画について書かれてあった。
以前から聞いていた「カージャー」の理念に沿って、高ダンジョン適性者を複製し、数のある兵士として確保するというのが計画の主旨のようだ。
『複製計画は順調に進んでいる。
クローンを兵士としてすぐに運用出来るよう、ダンジョンコアがモンスターを生み出す工程を研究し、それに近しい培養方法を編み出した。
これによって受精卵からではなく初めから成育完了した個体を生み出すことが出来る。
2045年に捕獲した実験体α、ミレイ・チカドメでの成体クローン生成は5件成功しており、成功例から条件や薬液の種類を特定し、生産を安定軌道に乗せる。
ただし、適性A相当のクローン生成自体は成功であるが、戦闘能力は元々のミレイ・チカドメの実力には遠く及ばない。
この問題の対策には2つの派生計画が講じられている。
1つ、クローンに人格を持たせ、自己判断で自己強化を図れるよう設計する。
2つ、クローンを部位ごとに分け、通常の適性A個体より更に強化された身体部位を生み出し、それらを合体させて強化型クローンを生み出す。
1つめの計画については一考の余地があるものと思われる。
成体クローンをモンスターや他適性Bランク実験体を相手に鍛錬させることによって実力の向上が見られた。
命令違反の可能性など、懸念点はあるものの、自己強化出来る程度の自我を持たせることが可能であれば、より強化された兵士としての運用が可能である。
現在、生成番号30番に僅かな自我の芽生えが見られるため、要観察。
2つめの派生計画については、強化の度合いの差によって部位同士が上手く固着しない・拒絶反応を起こすなど改善点が多すぎる。
いずれは実用化を目指すものとして、一旦は計画を凍結、失敗部位は廃棄を予定している』
或斗と普が見つけた資料を読むに、未零本人は隔離区域の最奥の培養室にいるらしい。
そしてこの部屋にある10個の培養器に入っている未零クローンもどきは、2つめの派生実験計画の失敗作であるということも分かった。
更に資料を捲れば、この失敗作たちは今回の移送を機に廃棄されているもので、既に生命維持のための薬液交換が止められていて、そのためにもがき苦しんでいるということ、生命維持用の薬液は回収されており、製造法はこの資料には載っていないことなどが分かる。
それらの事実を突き合わせれば、「カージャー」が放棄した以上、この失敗作たちの生命を維持することは不可能である、という結論が或斗にも理解出来た。
或斗は呆然と、或斗の背より高い培養器の、緑色の薬液の中でもがいている未零の形の一部たちを見上げた。
研究者たちは本当に急いで必要な物品だけを持ち去り、この場所を廃棄したようだ。
培養器の電源さえ落とせば、失敗作の彼女らの命はその場で終わるとあるのに、それさえせずに逃げ出している。
そのせいで、彼女らは無駄に苦しんでいた。
生命の成りそこないのような形をしているのに、それでも生きようと羽根をむしられた蝶のようにもがいている。
終わらせてやるのが救いだ。
それは或斗も理解していた。
1分1秒でも早く培養器の電源を落とし、安らかに眠らせてやることが、この"失敗"と烙印を押された命たちを助けることになるのだと。
ぐるぐると眩暈がして、こみ上げる吐き気が喉を焼く。
殺す?
この、ただ生み出されただけの罪もない未零の欠片たちを、確かに生きようと必死に一部しかない体を動かしている彼女らを、殺すことが、それだけが正解なのか?
或斗は自分の虹眼で何か出来ないか考えた。
必要な薬液の役目を虹眼で代用して命を繋げ、本部の茂部に引き渡して、薬液を開発してもらい、生き長らえさせる。
可能ではあるだろう。
ただしそれは、本物の未零を諦めることが絶対条件だ。
そして、ただ1つの命としてこれからも成立出来ないであろう欠片たちの時間を延ばすだけの自己満足でしかない。
或斗は薄明るく緑に光る培養器を前に、指先1つ動かせないで、未零の欠片の命たちを凝視していた。
知らず息が荒くなる、瞬きも出来ない。
殺さなくては、助けに来たのに?
助けるというなら、終わらせることこそがそうだ、或斗が培養器の電源1つ落とすだけ、それだけ。
それだけのことが、或斗にはどうしても出来ない。
パッと培養器の明かりが落ちた。
培養器の中で苦しんでいた命たちは少しの間動いていたが、やがて静かに、眠るように動きを止めて、培養器の中に浮かぶ悪趣味なオブジェへと変わった。
或斗が自分の体の震えを自覚して、ようやく手を動かし、わななく指先で培養器に触れる。
酷く冷たいガラスの感触だけがあった。
ゆっくりと振り向けば、培養器の電源を落とした普が無表情に培養器の中身を見ていた。
それが意図して作られた表情だということは、彼の瞳から漏れ出る怒りを見て取った或斗にはすぐにわかった。
「……普さん。すみません……」
「ドブネズミに向かない仕事をさせるのは時間の無駄だ、奥へ急ぐぞ」
或斗の謝罪に応えることなく、普は或斗の腕を強く引き、薄暗くなった室内を後にする。
或斗と普は無言で、隔離区画の奥へ向かう。
やがて廊下から警備ロボやモンスターが居なくなり、10m四方ほどの広い空間に出る。
その中心に、黒ローブの、フードを被っている人影があった。
蒼銀の杖は持っているが、成人程度の背丈で、少なくともゾエーではなさそうだった。
普は或斗を背に庇う形で立ち止まって剣を抜き、構える。
或斗もいつでも虹眼を発動させられるよう、気を抜かずに黒ローブを見る。
よく見ればその黒ローブの持っている蒼銀の杖は根本が刃物のように鋭く尖っていて、太い針のようにも見えた。
黒ローブは自ら被っていたフードをはねのけ、その異形の顔を見せる。
その顔を或斗と普は覚えていた。
耳元まで避けた平たい口、潰れた鼻、ギョロリと飛び出た目、顔中にある鱗……魚人面の「カージャー」幹部、カリスである。
「3秒以内に退かなきゃ殺す」
普が剣先に怒りと殺気を込めて、カリスへ向ける。
カリスはそんな普の強い存在感を悠々と無視して、ただその後ろの或斗だけを見ていた。
「遣わされた聖霊たる神の分身……ああ、偉大なる神の力を、今こそ我らが手に!」
カリスはそう叫んで、蒼銀の杖の針のように細くなった根元を自らの胸の中心に突き立てる。
「おお、オオオオオオオオッ!!」
カリスの方向から凄まじい魔力の奔流が巻き起こる。
普はその魔力の異常な性質を感じ取って、顔をしかめて1歩下がる。
黒ローブが裂けて、カリスの体全体がゴキリボキリとひしゃげるような音を立てながら巨大化していく。
巨大化しながらも特に、胸より下、下半身が蛇のごとくズルズルと伸びて、広間にとぐろを巻く。
広間全体を埋め尽くすほどの大きさになったカリスはもはや人間としての形を残してはいなかった。
巨大化した上半身、頭部の額と首、肩に牙の生えた口が出来ている。
下半身は深い青色の鱗に覆われ、時々鋭いヒレが生えている、蛇というよりはもはや龍であろう、普はその体が水龍のものだとオーラから半ば確信を持っていた。
その20mはありそうな、とぐろを巻いているその水龍の下半身にも、1mほどの間隔を空けて、剣のように鋭い牙を生やした巨大な口が生じていた。
カリスは自分の巨体の持てる全ての口を大きく開けて、吸気する。
まさか、と或斗は思い、咄嗟に多視の虹眼を展開、自分と普の半径3m以内の"音"を否定する。
瞬間、巨大な複数の口から発されたセイレーンの叫びが、実験施設内の「カージャー」の敵すべてに向けられる。
或斗たちには分からないことだが、そのとき、遠く2kmは離れた施設の本区画で実験被害者らを救助していた『暁火隊』戦闘メンバーたちが次々膝をついていた。
「な、なに……!?」
戸ヶ森も例外なく急に聞こえたつんざくようなモンスターの叫びによって、思わず膝をつき、ぐらつく頭を押さえていた。
『暁火隊』のメンバーたちは日明の指示によってポーションを含み、状態異常から脱して救助活動と制圧を続ける。
しかし全員の意識は叫びの聞こえた方向、別動隊の2人がいるはずの隔離区画へ向けられていた。
ひるがえって或斗と普は、凄まじい音圧に晒され、ビリビリと肌が震える。
鼓膜には気圧変動でくぐもるような現象が起きていた。
或斗が咄嗟に音を否定したため、爆発音のごとき轟音を直接喰らうことは避けられ、状態異常も喰らわなかったが、音の余波は大きすぎた。
施設の露出した岩部分が振動で砕け、地震のように足下が揺れる。
しかも叫び終えたカリスは水龍特有の水魔法を使うため、巨大な水の玉を周囲に浮かべていた。
「上ッ等だ魚人面ブス、蛇だろうが龍だろうがなます斬りにしてやる……!」
普が音圧で起きた腕の痺れを振って払い、剣をしかと構える。
或斗は虹眼に六芒星を浮かべ、カリスの巨体を見上げた。