実験施設の広間を埋めるカリスの巨体を見上げ、或斗は手始めにカリスのモンスター部分、カリスが後天的に身に着けているはずのセイレーンの上位個体の要素を否定しようとした。
多視の虹眼でカリスの持つ無数の巨大な口を全て視界に捉え、否定する……しかし、その口から響く鳴き声は止まらない。
直後、或斗へ向かってレーザーのように鋭くなった水魔法が飛んできて、或斗は慌てて虹眼でその方向性を捻じ曲げ、回避する。
同じように水魔法を避けて或斗の近くに降り立った普が叫ぶ。
「セイレーンだけじゃない、あの下半身は水龍だ!」
「水龍……!」
ダンジョン発生以後25年、世界各地で様々なドラゴンが確認されている。
それは『暁火隊』がかつて倒したフロストドラゴンもそうであり、琵琶湖のネッシーもそうである。
ドラゴンは大まかには3種に分類されている。
亜竜、ドラゴン、龍である。
この中で最も弱く、遭遇率の高いものが亜竜である。
亜竜は大抵小型の(といっても小さくて3m、大きくて50mまで幅がある)ドラゴン型モンスターで、飛竜などはここに含まれる。
ドラゴン、龍よりも倒しやすく数が多いが、鱗や骨を装備品に加工したり、血をポーション作成に使用したりと使いどころは多く、需要が途切れないために、一獲千金を狙った実力の足りないパーティが舐めプで挑んで帰ってこなかったりする、意外と人的被害を出しているモンスターである。
ドラゴンと龍に関しては、強さというより形態の種別分けである。
西洋で一般にイメージされる、四つ足で翼を持ち、爬虫類に似た体構造をしているものをドラゴン。
東洋で一般にイメージされる、小さな腕と翼があり、蛇に似て長く伸びた胴を持つものを龍と呼ぶ。
英語圏では後者はオリエントドラゴンなどと呼ばれているらしい。
亜竜より上の2種については、『暁火隊』など本当に選ばれた精鋭が集まって初めて討伐出来るもので、海の中に棲むと言われる(主に海洋貿易を妨害している)水龍や、天空や高山の頂上を住処とする天龍などについては、人間の手の届く範囲に居ないこともあり、ほとんど討伐例がない。
水龍は環境による部分も大きいとはいえ、鱗が魔法に対して強い耐性を持っており、体は強靭、そして強力無比な水魔法を扱い、適性Cの人間くらいなら1撃で殺し切ってしまえるほどの、いわば規格外の強さを誇ると言われている。
先ほどから或斗に向かってレーザーのように各方位から飛び交っている水魔法はそれ故か、と或斗は理解。
カリスの下半身全体を多視の虹眼で視界に入れ、水龍というカリスの持つ要素を否定した、がやはりこちらも効果がなく、ギリギリで方向を捻じ曲げた水レーザーが或斗の体をかすめて濡らす。
「これは……! もう完全に融合している!? キメラモンスターの状態です……!」
或斗はかつて夏の夜にバル=ケリムが操っていたキメラモンスターを思い出す。
別種のモンスターの能力を取り込んでいても、それが無ければ生存が保持されない状態まで融合していなければ或斗の虹眼で能力だけを1要素として認識し、否定出来る。
しかしキメラモンスターのように、モンスターの部位がその生命全体に寄与している、完全に融合した状態となってしまっていると、それはもう1つの命としてそこにあることとなり、或斗の虹眼ではその生命を否定出来ない。
或斗は愕然とする。
人とモンスターとがキメラモンスターの状態まで完全に融合しているということは、カリスはもう二度と人型、人間の枠の中には戻れないということだ。
カリスはもはや理性を無くし手加減もなく或斗を殺しかけているが、自ら人間の枠を脱してまで或斗を手中に収めようとする狂気には怖気と驚愕を抱かざるを得ない。
カリスは初めからずっと、主に或斗を狙って攻撃してくる。
その余波でカリスへ攻撃を加えようとしている普が追い散らされている状態だ、余波ごときで、あの普が。
カリスは初めこそ全ての口を開きセイレーンの叫びを放ったが、それ以降は無数の口をそれぞれのタイミングで開き、自在に、途切れなくセイレーンの昏倒の鳴き声を発してくる。
或斗は常に多視で普と自分の周囲の音を否定し、昏倒を避けている。
けれどもあまりに途切れない鳴き声に、次々と飛んでくる水魔法のレーザーへの対処まであって、戦闘開始から数度、或斗と普はセイレーンの叫びをまともに受け、膝をつく場面があった。
止まった的へ集中する水魔法、或斗はすぐに自分と普の体に影響を与えているセイレーンの昏倒効果を否定し、間一髪その場から退避する。
そんなギリギリの戦いを続けていると、特に隙を狙って動き回り、かつ或斗への攻撃も散らしてくれている普がまず負傷する。
水レーザーが普の腕をかすり、抉れた肉から血が噴き出る。
「普さん……!!」
「かすり傷だ、集中しろボケ」
普はそう言うも、首筋を脂汗が伝っているのが見えた。
かなりの痛みがあるのだろう。
或斗は焦り、状況の打破を考える……そもそもこんなところで足止めされている場合ではないのだ、未零を助け出すために来たのだから。
幸いにもカリスが気にしているのは或斗だけだ、或斗の能力はその場で動かず防御することには特化している。
「普さん、俺を置いて先に未零のところへ行ってください!」
抉れた腕を焼いて血を止め、またカリスへ向かおうとしている普へ、或斗は叫ぶ。
「俺は防御するだけだったら何とかなります!」
しかし、普は既に或斗の頭を蝕む頭痛を見透かしたようにその願いを一蹴する。
「未零を救出して、戻って来た時にお前がとっ捕まってたら振りだしだろうが! お前の力には時間制限もある、そもそもあのドブスにはもう理性なんか残っていやしねえ、捕まるどころかぶち殺されるぞ、驕ってんじゃねえ雑魚ネズミ!」
話している間にも或斗へ四方から水魔法レーザーが飛んでくる。
普は攻勢に出るのを一時中断し、或斗の力の温存のため、或斗を抱えて回避する。
或斗を抱えた普は、カリスの死角となる場所へ着地。
するとカリスは或斗を探すようにまた大きく無数の口を開き、セイレーンの叫びを行使する。
或斗が周囲の音を否定するも、ビリビリと揺れる床にその音の凄まじさを実感する。
「この叫びで攻撃にも防御にも集中出来ない……!」
或斗は抱えられたまま悔し気に顔を歪めた。
この巨体である、多視の虹眼で安全圏から何らかの攻撃を加えることは或斗にも可能なはずだ。
だが、セイレーンの叫びを否定してキャンセルしながら水魔法の方向を捻じ曲げるなど、或斗自身と普の身を守るだけで或斗の処理能力の上限を超えているのが現実であった。
普はカリスを見上げて何事か考えていたかと思うと、或斗を珍しく丁寧に下ろして立たせる。
「おい、俺に合わせられるな?」
出来ないと言われるとは考えていない普の問いに、或斗は何かの策があることを理解し、「……はい!」とだけ返した。
ぐるりと体の向きを変え、死角に居た或斗を見つけたカリスはまた大きく口を開く。
そのとき、普がカリスの長い胴の口へと飛び出していき、或斗は普の周囲のカリスの体の動きを止めた。
普はそのまま、大きく開かれた、剣のように鋭い牙が生えそろっている口の中へ飛び込み、氷魔法を展開して口から続く奥にあった声帯を破壊すると、口から脱出する。
出入りの際に、牙で擦れた普の体のあちこちが裂け、血が滲む。
だが普は止まらない。
カリスが声帯を破壊された痛みに叫び、施設の床も壁もビリビリと揺れる。
或斗は痛む頭を押さえながら、普の動きに合わせて多視を展開し、普と自分を守っている。
普は痛みに叫ぶカリスの口にこれ幸いと飛び込み、また声帯を破壊する、という動作を繰り返していく。
次々と増えていく普の体の傷に、或斗は焦る気持ちをぐっと堪え、先ほどのやりとりを思い出す。
普の腹案を聞いた或斗は驚愕し、まず普の体を案じた。
「口の中に飛び込むって本気ですか……!?」
「セイレーンの叫びの本質は声だ、声である以上、それを出すための声帯が存在する。それを全部ぶち壊してやれば、残るのはただの水遊び好きの蛇もどきだけだ」
普は何でもない風に言ってのけるが、口に飛び込んだ瞬間それが閉じられてしまったら、普の体はズタズタのミンチに変わる。
いくら普でも、そこまでの傷を負っては命が危ない。
「口には鋭い牙が生えそろってます、危ないですよ!」
「見りゃ分かるわ。それを何とかすんのがお前の役割だっつってんだろ。ドブネズミが命張ってる場面で人間様がかすり傷ごときを惜しんでいられるか」
命をかけて突き進む普を守る、それが或斗の役割。
上等だ、と或斗は眼光を鋭くした。
「やってみせます」
或斗の強い意志を宿した瞳を普は当然のように受け止めて、攻撃態勢に移った。
見上げるほど大きなカリスの体を次々飛び移りながら、普が順にカリスの声帯を破壊していく。
それでもカリスは或斗へ攻撃を集中させてくるため、或斗も普もやりやすかった。
痛みに声を上げ、開いた口へ普が飛び込む、そして水龍の胴を貫いて氷が突き出る。
魔法耐性が高いのは飽くまで水龍の鱗であるために、内側からの魔法攻撃には脆いのだ。
段々と、床や壁を震わせていたカリスの叫び声の音圧が下がっていくのが体感で分かる。
上半身で或斗だけを見つめて狂ったような叫びを上げるカリスは、己の劣勢を受け入れられないという風に長い体をうねらせた。
「アアアアア! 神ヨ、神ノ器ヨ!! ソノチカラ、寄越セェ!!!!!」
もはや破壊衝動に呑まれたカリスの脳裏に、執着の根源が過る。
カリスは10歳まで、ノエルという名前の、ごく普通の幸福な少女だった。
25年前に住んでいた地域一帯がダンジョンに呑まれ、飛び出してきた凶悪なモンスターに血縁者を皆殺しにされ、必死で1人逃げ出し生き延びるまでは。
それからの毎日は悲惨で、無情で、常に死の気配を隣に住まわせる日々であった。
ノエルの住んでいた小国はどこも混乱の最中にあって、どんな人も自分か、自分の家族を生き長らえさせることだけに必死だった。
当然、ノエルのような孤児を気にかける者など居ない。
いや、気にかけるという意味の解釈を変えれば何人もの大人がいた。
ノエルは顔こそ平凡であったが、世紀末の大予言も予想だにしなかった世の中の惨状に正気を、良心を失った男たちの考えることはほとんど同じであった。
親兄弟に守られた女子には中々手が出せない、死ぬ前に良い思いをしたい、孤児であれば気にする者は誰も居ない、それならば……。
あるいは、ノエルのような孤児を足りぬ食糧の代わりにしようと企み、騙すために甘い声をかけてくる大人もたくさんいた。
それまではごく普通にあった倫理観など気にしている余裕もないほど、当時の世界は追い詰められていたのだ。
ノエルは時に尊厳を、人を信じる心を失いながらも、必死で逃げのび、生き長らえた。
そうすることでしかあの日両親を置いて逃げ出した自分を肯定することなど出来なかったからだ。
ダンジョンネズミと雑草を生で齧る日々、それが数年も過ぎれば、次は人類の変質が始まっていった。
人々の毛や目の色がおかしくなり、人外の力を振るうようになっていく。
同じ孤児でも、ダンジョン適性というその力に目覚めて英雄のようになっていった者もあった。
ノエルは……ノエルには何もなかった。
ダンジョン災厄前と変わらない灰がかった薄汚い金髪に、薄ぼやけた青い目。
以前より良くなったことはといえば、少しだけ早く走れること、火種を自分で用意出来ること、瓦礫の下を漁る際に鉄筋を探して来なくてよくなったことくらいであろうか。
食糧調達や、逃げ延びるためにはそれでも充分であった。
だが社会が少しずつ落ち着いてくると、ノエルのような無能の孤児は社会の底辺、まるで腐敗臭をまき散らすゴミか何かのように扱われ始めた。
モンスターに立ち向かえない、生きぎたないだけの役立たず。
そのくせ食い扶持だけは立派に求めるものだから、性質が悪い。
尊厳を汚すためでも、食糧にするためでもなく、ただそこに居るからという理由で棒を持って追い回されたことが何度あっただろうか。
ダンジョンと共に歩むしかなくなった世界は、ノエルの生存さえ拒絶した。
ノエルは世界から見放された人間であった。
「カージャー」の存在を知ったのは偶然だった。
盗品を闇市で売りさばく中、噂を聞いたのだ。
ダンジョンを制御し、社会を整え、不平等からこの世を救済するという理念。
当初のノエルは内心馬鹿馬鹿しいと思っていた。
ダンジョン適性の高い者たちでも未だに制御できないダンジョンという存在を一介の闇組織ごときがどうにか出来るものか、と。
それでも今よりは良い生活が出来るかもしれない、そんな思いで「カージャー」に接触し、自らモンスター融合実験に志願した。
力が欲しいと思った、尊厳を汚した下種どもを、ノエルを世界から排除しようとした世の中の悪意を全て見下ろして踏み潰せるほどの力が。
そうしてノエルがカリスとなって手に入れた力は強力なもので、1度放てば適性がどうのとふんぞり返っていた連中も一様に膝をつき、カリスの前に首筋を無防備に晒すことになる。
カリスは望みのものを手に入れた。
「カージャー」の理念は正しいものだと妄信するようになった、カリスは「カージャー」に救われたのだから。
ダンジョンの根源たる神の力を持つ少年が居るということを知った時のカリスの感情は、何だっただろうか。
嫉妬であった気もするし、より多くを望む欲望であった気もするし、羨望だったか、「カージャー」のため役立てようという忠節だったか……今のカリスには何も思い出せない。
神の力は、「カージャー」が手にして、正しく使わなければならない。
それが、それこそが、カリスの、かつてのノエルの――
胴体部分の口にある声帯を破壊し終えた普は、即座に跳び上がってカリスの上半身の両肩と喉元とを切断すると、最後に額の大きな口へ剣を突き入れる。
これでカリスはセイレーンの声を発する部位を全て失った。
「ドブネズミ、もう多視は使うな、温存しとけ! あとは俺だけで片付ける!」
普の指示に、ふらつきを堪えて或斗は瞳の六芒星を消す。
少し垂れてきていた鼻血を手の甲で拭い、最後まで普の支援をするためカリスの上半身と対峙する普を見上げる。
光の乱反射のごとくランダムに飛び交う水魔法レーザーを勘と動体視力で避け続けた普は、カリスの上半身、胸の真ん中に刺さった蒼銀の杖を引き抜いて、その上から心臓を両断するように剣を振るった。
スッパリと心臓の上と下とで体の分かたれたカリスは唇と目をわななかせて信じがたいものを見るかのように引き抜かれた蒼銀の杖を見つめる。
カリスの胸から上を支えるものはもはや何もなく、それはボトリと広間の床に落ちた。
胸から下、水龍の下半身は、蒼銀の杖を引き抜かれた瞬間から萎れるように縮み、体積を小さくして広間に無残に転がっている。
巨体が倒れたというのに、ズシンという音さえ立たない、静かな幕引きであった。
床に落ちて緑色の血を流し続けるカリスの上半身は、芋虫のように肩の付け根だけで這い、遠くにいる或斗へ少しでも近づこうとする。
しかしそんな動きもほんの数秒の、最期のあがきであった。
カリスの視界から光が消え、何も見えず、何も感じなくなる。
死の冷たさがカリスを包んでいた。
「……神、ヨ…………私、ニ、救イヲ…………」
呟いた言葉は誰の耳にも届かず虚空に溶け、カリスはようやく永劫の眠りについた。