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29 慟哭


未零クローン、生成番号30番が初めて世界を認識したのは、緑色の培養液の中からだった。


未零クローンが目を開いた後、周囲では白い服を着た人間たちが忙しなく動き回り、未零クローンの刺激への反応や身体の欠けの有無などを詳しく調査した。


緑色の培養液の中から出され、立つ、座る、瞬きをする、呼吸を整える、剣を握る、そういった一通りの動きを指導される期間が1ヶ月は続いた。


未零クローンがおおよそ人としての機能、そしてダンジョン適性A相当の身体能力を持っていることが判明した時の研究者たちの喜びようはちょっとしたものであったが、生きるための動作と戦うための動作以外の何も教わっていない未零クローンには、そうした機微は全く分からなかった。


そして、命令を理解し実行するための知識と知能をつける教育期間に1年ほどを要した。


未零クローンの教わったことは道徳を除いた義務教育の最低限以下の知識に、人やモンスターの殺し方、そのくらい。


一度だけ、自分と同じ顔の存在が複数いることに混乱を起こさせないためか、未零クローンの元となったという未零本人の培養器の前に連れていかれたことがある。


自分と少し体の大きさの違う同じ顔のその人は、母と呼ぶには遠く、目を閉じたまま何も話さず、触れた培養器のガラスは冷たかった。


未零クローンの世界は3つのことで構成されていた。


1に命令を実行すること、2に戦うこと、3に可能な限り生存を継続すること。


それらが出来ていれば他には何も求められなかったし、未零クローン自身も何かを求めるという概念を持っていなかった。


未零クローンには赤子であった期間はなく、泣いて何かを求めた経験から存在しない。


生存に必要なものは望む前に与えられ、誰かを呼ぶ声も、呼ばれる名前も必要がなかった。


その閉じた世界に突如飛び込んできた人間があった。


周囲の人間が神の器、聖霊などと呼んでいる黒髪に虹色の目の、未零クローンと同じくらいの年頃の少年。


暑くて寒いこともあった国で、その少年は未零クローン自身が理解していなかった寒いという感覚に気が付いて、服を分けてくれた。


その上着に腕を通した時に感じた不思議な感覚、その正体はその後すぐに、少年が自身の体温をもって教えてくれた。


あれが、上辺の知識だけで知っていた、あたたかいという感覚なのだと分かった。


未零クローンはもちろん、お湯のシャワーを浴びたことも、お湯で濡らした布で清拭を受けたこともある。


そのときに感じていた、ただの温度の上下とは、何かが違う感覚だった。


少年に抱きしめられたときの、呼吸が鎮まる感じ、少年が「未零」と未零クローンを呼んだときの、脳に直接電気刺激を与えられたときのような感じ、そして今のように少年のことを考えている間の後頭部や胸部が浮きあがるような不可思議な感じ。


どれも未零クローンの知識にはないものだった。


そもそもが、あの国から組織へ戻って、少年の上着の提出を求められたとき、考えることなく首を横に振った自分、命令を拒絶する自分というものが未零クローンにとっては起こってはならない不可逆の異常であるように思えた。


組織は何故か、未零クローンから少年の上着を取り上げなかった。


あの夜からずっと持っていた上着を少年に返してしまって数十分、未零クローンは胸部にぽっかりと穴が開いてすうすう空気が通っているような感覚を覚えていた。


そして今、未零クローンには新しい命令が下った。


未零クローンの世界を構成するものは4つ。


1に命令を実行すること、2に戦うこと、3に可能な限り生存を継続すること。


命令には従うのみだ。


けれど4つめのことを考えると、何故だか胸部がやすりにかけられたかのようにザラザラとする。


やはり不可思議なその感覚を抱いたまま、未零クローンは剣を持ち、廊下へ出た。






仮称ケージ島での実験施設における誘拐被害者救出作戦は、おおよそ成功していた。


『暁火隊』の戦力ほとんどすべてを投入しての万全の布陣、情報部のサポートにより、怪我人もほとんど居ない。


施設の表側には、極北の無人島にそぐわぬ最新型攻撃特化警備ロボットや、謎の暗黒色の枷をつけたモンスター、そしてテロ組織の戦闘メンバーらしいモンスターと人間の混じったような異様な姿の敵など、一筋縄ではいかない戦力が備えられており、『暁火隊』末端戦闘メンバーなどはいくらかの負傷を覚悟した。


それらの攻撃を防ぎきり、逆に無力化していく大きな盾。


本隊に怪我人がほぼ居ないのは、『暁火隊』のナンバーワン・タンク、高楽が居た故である。


が、あまり褒めると調子に乗って余計なことをしかねないので、高楽の評価というものは大抵給与額でのみ為されるのが『暁火隊』の暗黙の了解であった。


途中、別区画から響いてきた謎のモンスターの鳴き声によって、戦闘メンバーたちが昏倒・行動阻害されるアクシデントはあったものの、万全に準備していたポーションのお陰で、すぐに戦線に復帰することが出来た。


そして今ようやく、事前に判明していた適性Bランクダンジョン攻略者である誘拐被害者の最後の1名を確保することに成功した。



「20名、救出完了だ!」



作戦成功を告げる日明の声を聞いて、本隊の戦闘メンバーが喜びの声を上げる。


戦闘員の捕縛や資料のまとめといった後始末の手を止めず、気を緩め明るい表情で周囲と和気藹々話し合う戦闘メンバーたちの中、1人浮かない顔で先ほど謎の鳴き声が聞こえてきた方向を見ている者があった。


戸ヶ森ゆに、此結普に憧れて『暁火隊』へ加入したこと、此結普ファンクラブに入っていることを公言して憚らない彼女の憂いの表情に気付いた女性メンバーが声をかける。



「ゆに、普様が気になるの?」


「確かにすごい鳴き声はしたけど、普様なら大丈夫でしょ」



口々にそう言われ、戸ヶ森は曖昧に頷く。


しかし戸ヶ森の頭に浮かんでいたのは冴えない顔をした、年下の黒髪の少年の姿であった。


戸ヶ森は不安げな顔のまま作業を進め、周囲のメンバーに苦笑されていた。


一方、或斗と普はカリスの萎びた無残な死体を放ったままで、隔離区画の最奥へと駆け、ようやく未零本人の居るとされる最奥の培養室へ辿りついたところだった。


カリスを撃破した直後、或斗は普へ怪我の手当てをと言ったが、普は「あとでポーション飲めば治る」と取り合わず、各所からダラダラと血を流したままでいる。


そんな見た目には傷だらけの普が扉を蹴り開けると、明々と電灯のついて、人の気配のない部屋があった。


中央には一際大きな培養器、しかし緑色の溶液が若干だけ残されて、肝心の中身は空になっていた。



「間に、合わなかった……!」



愕然とした顔で唇をわななかせる或斗の後頭部を普がはたく。


普は培養室に残された、まだ電源のついているコンピューターをいくらか操作し、或斗へ告げる。



「最終履歴は数分前だ。まだ間に合う可能性は高い、ボサッとすんなボケネズミ」



普は戦闘で故障しないよう懐にしまっていた連絡用無線イヤホンを取り出し、スピーカーモードをオンにして情報部の栞羽へ通信を発する。



「一足遅かった。だが追えば間に合う可能性がある。隔離区画の構造は掴んであるな? 俺らの通ったルートと被らない、移送部隊が選びそうな逃走ルートを割り出せ」



栞羽はいつものようにふざけることはなく、淡々と普の通信に応え、1分ほどで予測可能な逃走ルートを普へ伝える。



『別動隊の移動ルートと被らない逃走ルートを考えるならば、裏口へ近寄らない方向と予測されます。隔離区画には、裏口とは別に、海底まで通してある地下トンネルの入口があるようです。そちらへ向かった可能性が高いと考えられます。詳細な経路予測とその確度順位についてはタブレットに送信した資料を確認してください』


「トンネルなんてもんがあるなら初めから言え」


『地下トンネルは入り口含め、施設のコントロールとは全く別の指令系統で制御されています。施設の構造図からも徹底して存在が隠されており、初めに把握できなかったのはそのせいですね。おそらく安全性が問題視されており、完全に最終手段の脱出口とされていたのでしょう。現在情報部総出で当たっていますが、トンネル関連のハッキングには3時間以上はかかる見込みです。一旦トンネルまで逃げ込まれれば、追跡は難しいかと』


「チッ、了解」


『最後にもう1つ、トンネルへの入口ハッチには外部からの攻撃を探知して施設全体の爆破を実行する自衛プログラムが搭載されているようです。トンネル内へ逃げ込まれた場合でも、私たちがロックを解除するまでは待機してください』


「自衛じゃなくて自爆プログラムだろうが、クソ面倒くせえな」



普は通信を乱暴に切り、「全力で追うぞ」と短く或斗を促す。


頷き廊下に出た或斗を追って、空になった培養室を急ぎ出ようとする際、普は不意に不自然な空気の動きを感じ、一旦立ち止まる。



「普さん?」



神経を尖らせ周囲を睨むも、培養室内には何もない。


焦る或斗の顔を見て、普はそのまま振り返らずに培養室を出た。


そこからの移動は速かった。


或斗の走る速度に合わせていたら日が暮れると言った普がいつも通りに或斗を荷物担ぎし、栞羽の割り出したルートの中でもトンネルへ最短距離をとれる道を選んで走っている。


カリスとの戦闘も合わせて30分ほどはかかった道のりをものの数分で駆け抜ける。


途中の部屋の中身を確認しなくても良いという前提ありきの移動ではあるため、来るときには出せないスピードではあったのだが。


ようやく地下トンネルへのハッチが隠されている部屋のある廊下に着いた時、廊下の中ほどに剣を持った人影を発見し、普は急停止をかける。


そこには黒ローブを纏った未零クローンが剣を構えて立っていた。


或斗はその未零クローンを見て、先ほど休憩室で上着を返してくれた彼女だと直感する。


けれども未零クローンは先ほどとは違う無表情のままで、或斗から目を逸らし、普へ剣を向けていた。


普は静かに或斗を下ろし、剣を抜く。


或斗は立ち上がって、未零クローンへ懇願した。



「やめてくれ。道を開けてくれ」



或斗の声に反応して、わざと或斗から目を背けていたらしき未零クローンもつい視線を向けてしまう。


未零クローンは或斗を見ると、無表情を崩し、眉を下げた先ほどと同じ困り顔へ変わる。


普は未零クローンの様子を斟酌せず、剣を未零クローンへ向けて、或斗に短く問う。



「未零本人の現状は?」



或斗はハッとして千里眼の虹眼を発動させ、未零クローンを通して未零本人の今の様子を視る。


未零本人は暗い箱か何かの中に閉じ込められているようで、周囲の様子は分からないが、移動のためかガタゴトと揺られているのは分かった。



「移動中のようです。暗いので場所は分かりませんが……」



普は舌打ちするも、目の前の未零クローンを見据える。



「コイツを捕獲出来ればまだ位置の特定が出来る可能性はあるか」



そう言うと、今にも斬りかからんばかりの殺気を放って剣を構え直す。



「普さん、あまり手荒なことは……」



甘い自覚は持っている或斗が呟くように頼むと、普は意外にも「まあ手がかりだからな」と頷いた。


普は軽い踏み込みで廊下の先の未零クローンへ肉薄する。


それは戦闘と呼ぶほどにも時間のかからない決着だった。


2合ほどの剣の打ち合いの隙を見て、或斗が虹眼で未零クローンの剣を否定し、破壊する。


普は剣を振りかぶるように見せかけ、フェイントで蹴りを放って未零クローンを廊下の壁へ吹き飛ばした。


剣を失い、おそらく普の蹴りで骨の数本は折れただろう未零クローンは、それでもよろよろと立ち上がると、普へ素手で対抗しようとする。


その様子を見て普はため息をつくと、剣をしまう。


素手の構えを取り、未零クローンを気絶させようとしているようだ。


或斗は思わず普の前に飛び出た。



「もうやめよう、君では俺たちには勝てない」



そう言って、或斗は未零クローンへ手を差し伸べた。



「おいドブネズミ」



或斗の行動を制止しようと鋭い声をあげた普に、しかし或斗は無言で首を横に振って、静かにゆっくりと、未零クローンへ近づいていく。


或斗の頭には、2つの光景が浮かんでいた。


「カージャー」の命令で自らの心臓にナイフを突き立てた未零クローン。


或斗はもう、彼女らに「カージャー」の命令などで傷ついてほしくなかった。


そしてゾエーへと手を差し伸べた、気高い英の姿。


あのとき英も抱いていたであろう、信じたいという気持ちを、今の自分も持っているのだ、そう自覚する。


ふらつきながらも戦闘態勢を崩さない未零クローンは、或斗の顔を見て、やはり困り果てたという顔をしている。


或斗は数十分越し、いや5年越しにようやくその表情の意味を理解した。


孤児院での別れの日の未零の顔、そして上着を返してくれた未零クローンの顔、今の未零クローンの顔……その困り顔は、未零の或斗への想い、未零自身が或斗と別れがたい、別れたくないと思っている顔なのだと。


或斗には確信があった。


ゾエーの時とは違う。


目の前の未零クローンには人間としての心があり、それは未零の欠片でもあって、或斗の助け出したい命の1つなのだ。


或斗は熱を込めて言葉を重ねた。



「君の生まれた元となった、大切な人を助け出したいんだ。頼む、俺たちに力を貸してくれ」



ついに或斗と未零クローンとの距離が1mにも満たなくなる。



「俺と、一緒に来てくれ」



未零クローンは、どこか泣きそうにも見える、迷子のような顔をして、或斗の顔と差し出された手との間で視線を彷徨わせる。


黒い瞳と翠玉に似た瞳がお互いを映しあう。


未零クローンは戦闘態勢を解き、恐る恐る手を出して、炎にでも触れるように或斗の指先へ触れる。


その動作に或斗は自然に微笑みを浮かべた。


未零クローンは或斗の顔を見て、その表情を真似るように、ほんの少しだけ微笑んで見える口角の動かし方をした。


そして、或斗の手を、柔くも縋るように、きゅっと握った。


その瞬間、或斗の目の前で赤い液体が飛び散った。


それは或斗自身の体からではなく、未零クローンの体、胸の心臓のある位置から噴き出たものだった。


未零クローンの心臓を、透明な何かが貫いていた。


或斗は顔色を無くし、くずおれる未零クローンの体を抱き抱える。



「エノク……!」



その攻撃の正体を察した普は、舌打ちと共に或斗のすぐ後ろまで一足に跳んで周囲を見回すも、あの透明な敵の体はどこにも見えなかった。


普は周囲の空気の動きを探りエノクを捜し出そうとするも、普の察知できる距離には既に居ないようであった。


あの夏の夜にも見た、背にある6本の羽からの遠距離物理攻撃を使ったのだろうと推察するも、何もかもが遅かった。


ゴポ、と口から血を零した未零クローンを抱えて座り込んだ或斗は虹眼の力でどうにか血を止められないかと試行錯誤するも、終わっていく命を留める力は或斗の虹眼に備わっていなかった。



「普さん! ポーションは……!?」



必死に普を見上げるも、普は無表情に残酷な事実を告げる。



「手持ちのポーションはA級までだ。それに、心臓の破壊はS級ポーションでもどうにもならない」



どうしようもない。


その現実が、遅れて或斗の頭に理解として落ちてきた。


或斗は腕の中から血と共に流れ落ちていく命の温かさに、知らず涙を零す。



「駄目だ、いかないで、死なないでくれ」



いつか言えなかった「いかないで」という懇願も、今の未零クローンには叶えられない。


未零クローンは、己の体を抱き抱え支えてくれている或斗の顔をぼんやりと見上げると、その頬へ覚束ない手つきで指先を伸ばす。


そして血の付いた手で或斗の頬を包んだ。


或斗の頬を流れる涙は温かく、反対に未零クローンの手は冷たかった。


死にゆく者の冷たさをしていた。


未零クローンは、ハクハクと口を開いて、何かを言おうとしていた。


或斗は何も考えられない頭のまま、その口元に顔を寄せる。


消え入りそうなほど小さな、掠れた声で、未零クローンは生まれて最初で最後の言葉を発した。



「……あたたかいの、ありがとう」



そう聞こえた途端、未零クローンの手が力無く落ち、瞼が閉ざされる、永遠に。


或斗は背後に普の気配を感じていた。


普は今もなお、エノクを警戒して剣を握り、或斗の背後から警戒してくれていると、分かっていた。


けれど或斗はそれさえも気にかけることが出来ずに、ただ慟哭した。


或斗が人前で声を上げて泣いたのは物心ついて以降、初めてのことだった。


施設の外では冷たい雪が降りしきっている。


未零クローンの体は、岩を伝って施設へ流れ込む外部の冷気に晒されて、あっという間に冷たく変わってしまった。


或斗の悲痛な叫びは、施設の外の深い雪が静かにかき消して、どこにも届かず消えていった。


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