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遥かなる1歩の前進

31 遠川 或斗の新しい日常


2051年、地球にダンジョンが発生してから26年。


突如人類の生存圏を侵す形で現れた異空間、そしてその中に巣食うモンスターという未知の存在。


初めにたくさんの人が亡くなり、住む家を追われ、その後モンスター氾濫が起こって更にたくさんの人が亡くなり、人類の生存可能領域は狭まるばかりだと思われていた時代もあった。


ダンジョンが発生してからの5年ほどは混乱期と呼ばれ、国は役人や政治家、一部富裕層のための安全圏を確保するのに必死であったり、その間に一般人の中でも早めに変異を起こした人々が自主的にパーティを組んでモンスター打倒に繰り出したり、とまあ色々あったのだ。


具体的には、ダンジョン発生から4年目に伝説のパーティ『ほむらの心』が日本で初めてダンジョンを完全攻略し、消滅させたことは人々の大きな希望となった。


ダンジョン発生から5年目にはダンジョン省が設立され、ダンジョン素材の買取や、変異によってダンジョン適性という人外の力を持った人々を管理するための国営組織、ギルドが作られた。


この頃には既に、ダンジョンやモンスターから採れる資源が有用だという研究がかなり進んでいた。


その後、人類はダンジョン適性の高さを測る術を研究の末に獲得し、世の中はダンジョン適性の高低で人生の方向が決まる、ダンジョン社会と呼ばれる新しい世界になっていった。


そんな、というかどんな世の中にも外れ者、悪人というのは存在するもので、このダンジョン社会では「カージャー」と呼ばれる国際テロ組織が各所に影響を及ぼしている。


「カージャー」はダンジョン全てを掌握し、モンスター氾濫を故意に起こすことで人口の調整を行い、またダンジョン適性の高い人間を攫ってクローン人間を作り出すという倫理にもとる実験を行っている。


もちろん日本にも、「カージャー」の魔手は伸ばされている。


公安や警察といった国家権力寄りの、いわば国の武力としての顔であるパーティ『暁火隊ぎょうかたい』は日夜それらの悪と戦っている。


『暁火隊』に所属し、国家のために力を振るうのはダンジョン攻略者としての憧れの1つであり、配信活動などはほとんど行っていないにもかかわらず、非常に国民人気の高いパーティである。


さて、その栄えある『暁火隊』に所属している少年が1人。


遠川 或斗、17歳、男、孤児。


ハッキリ言おう、世の中クソである。



「おい、ここ埃残ってる。目が悪いにもほどがあるだろうが、掃除もロクに出来ねえのかクソドブネズミ」



家では姑顔負けの家事いびりを受ける。



「ちょっとノミ虫! 何廊下の真ん中歩いてんのよ! アンタなんかダンジョンネズミよろしく隅っこをコソコソしてるのがお似合いなんだから!」



職場へ出勤すれば同僚から罵倒をぶつけられる。



「聞いてんの!? ダンジョン適性無しの落ちこぼれの蛆虫以下!」



或斗は罵倒されようが足を踏まれようが殴られようが基本的に反撃することはない。


それは或斗の気質というのもあったが、ストレートに言ってしまえば反撃しても勝ち目が無いのである。


或斗はダンジョン適性の高さでその人生の価値が決まる、といって過言でないこのダンジョン社会の中で、非常に珍しく、そして最も無価値とされる「ダンジョン適性無し」の人間なのだ。


或斗の全力のパンチは高ダンジョン適性者にとっては撫でられるがごとし、走る速さにはチーターとアリくらいの格差がある。


以下に、そんなある意味珍獣に近い或斗の新しい日常の1日を紹介しよう。


或斗の朝は早い。


これは同居人である此結 普しゆい あまねが「俺より遅く起きるな、俺より先に寝るな」という旧時代の亭主関白じみたモラルハラスメントを強いているためである。


或斗は同居賃として、料理以外の全ての家事を一手に担わされているため、朝早くから細々した家事を片付けているのだ。


ただし音を立てると普から「うるせえ」と理不尽な拳を落とされるため、早朝の家事は無音でこなす。


起き出してきた普は身だしなみを整えると、2人分の豪華な朝ご飯を作ってくれる。


これは普の優しさとかいう三毛猫のオスみたいなものからではなく、単純に或斗がまともに料理を作れない故である。


ふわふわのスクランブルエッグにカリカリのベーコン、きつね色にトーストされた高級食パン、野菜のポタージュ。


どれもダンジョンネズミを食べ慣れた或斗の馬鹿舌では表現しきれないおいしさである。


朝食後は食器の片づけに洗濯、掃除、この掃除がなっていないと普からくどくど小言を言われ、掃除を急いでやり直す羽目になる。


やり直しで時間を食ったことをいびられつつ、普から急かされて一緒に『暁火隊』本部ビルへ出勤。


出勤した後は業務用に与えられたパソコンと悪戦苦闘しながら報告書などを作成する。


或斗は16年間スマホすら持ったことのない生活を送っていたため、機械文明に慣れるのに必死であった。


『暁火隊』後方支援部隊に所属する友人のミクリが教えてくれなければ、或斗は一生パソコンと和解できなかっただろう。


昼はビル内の食堂に赴いて昼食をとる。


何故かメニューの選択権は或斗にはない、一緒に昼食をとる普がすべてを指定するからだ。


好き嫌いというものが一切存在しない或斗にとってはさしたる不満もなかったが、或斗の先輩にあたる情報部の栞羽 拡しおりば ひろむなどはドン引いていた。


食堂では苦手な同僚とのエンカウント率も高い。


苦手というより或斗が一方的に嫌われているだけなのだが、戸ヶ森とがもりゆにという2歳年上の同僚は或斗を視界に入れる度突っかかって来ては罵倒をぶつけてくる。


戸ヶ森は此結 普ファンクラブなるカルト集団に属する、平たく言えば普の大ファンである。


或斗が普と同居していることから何かと構われて暴力を受けていることに至るまで何もかもが妬ましいらしい。


変な人だなあと思いながら或斗は罵倒をほとんど聞き流し、食事を終える。


午後には『暁火隊』リーダーである日明 眞杜ひあがり まもるや栞羽から呼び出されて、情報共有や次の任務についての話を聞く。


或斗は身の安全のため常に普に護衛されている事情から、どんな任務でも普と共に赴くことになる。


その普から自分の就く任務についての下調べも情報部に丸投げせず自分でやれと厳命されているため、午後もまたパソコンと悪戦苦闘しながら資料作成をし、作った資料は普から徹底的にダメ出しされる。


夕飯前には普に引きずられて帰宅、洗濯物の片づけや掃除、買い出しメモの作成など雑事をこなす。


普手製の晩御飯をたべ、夜は寝るまで普に与えられた課題図書で勉強をして、一定の時間になると普に蹴飛ばされながら布団にもぐり、早めの就寝となる。


中々良い生活だと思われるのではなかろうか。


しかし、世の中クソと言うには言うだけの理由があるのだ。






或斗は日明から執務室に呼び出され、『暁火隊』としての任務を受ける。


メンバーは或斗、普は固定として、そこに何故か戸ヶ森が入っていた。


或斗は面倒くさいを露骨に顔に出し、目で人選を誤っていませんか?と日明へ訴える。


日明は苦笑して、人選の理由を述べた。



「ゆにくんは悪い子ではないんだ。ちょっと……かなり、或斗くんには対抗心が強いようだが。とはいえ同じ『暁火隊』の仲間として、これを機に少しでも仲を円満にしてもらえればと思ってね」



日明は公明正大、善良と父性を具現化したかのような素晴らしい人であり、頼れるリーダーである。


ただし、たまに言葉を濁し過ぎるきらいがあった。


或斗は半目になって追及する。



「本音のところは……?」



目を逸らした日明は小さく咳ばらいをする。



「あー、なんというかね、ゆにくんは優秀なんだが、少し調子に乗っているところがあって……或斗くんとの任務で多少の謙虚さをみにつけてくれればと。或斗くんには災難だろうけど、どうか頼むよ」



或斗は日明に頭が上がらない。


初めて無条件にダンジョン社会の落ちこぼれである自分を人間として受け入れてくれた人物であり、或斗を『暁火隊』の戦闘メンバーとして認めてくれたこともある。


その日明から頼むと言われてしまうと、断ることなどとても出来なかった。


執務室を出た或斗は1人頭を抱えた。


大怪獣理不尽たる普に加えて、戸ヶ森の相手をしながら任務を遂行する……拷問に近いミッションである。


任務は国からの依頼であり、そう難しくはない。


足立区にある安全区域の近くに新しく出現したダンジョンの調査と、万が一にもそこでモンスター氾濫が起きないようモンスターを間引きすること。


ダンジョン発生以前の旧時代、東京の足立区といえば自転車が消失する街だとか、無法の乗り物が跋扈しているだとか、散々と治安の悪さを言い立てられている地区であったらしいのだが、今の足立区は安全区域、つまり密集した高級住宅街である。


安全区域とは、周囲に中規模以上のダンジョンが存在しない場所を高く堅牢な壁で囲って、モンスターが一切入ってこないよう厳しく警備している、政治家や一部富裕層、高適性者が住まう理想郷のような都市らしい。


或斗は行ったことはもちろん遠目に見たこともないので、実際のところは知らないのだが、行ったことのあるらしい普は「あんなボケた気色の悪い街に住めるか」と言い捨てていた。


まあ安全区域の良しあしはともかくとして、かつて散々悪し様に言われていた街が一転、ダンジョンの影響によって高級住宅街に変わるのだから、中々歴史というのも面白いものだとは思う。


そんな現実逃避をしつつ、気が向かないことはこの上なかったが、任務に向かうため、或斗は戸ヶ森を探した。


休憩室でココアを飲みながら足をブラつかせていた戸ヶ森へ任務の話をすると、案の定の罵声が飛んでくる。



「普様と一緒の任務は最高だけどアンタなんかと組まされるのはサイテー!」



抱き合わせプランしかご用意が無いので諦めてほしい。


遠い目をしている或斗を、戸ヶ森はキッと睨み上げて言い放つ。



「この際だから言っとくけど、アンタはゆにの下! 下の下の大大格下! ゆにはアンタなんか絶対認めないんだから!」



ダンジョン適性についてはその通りなので、何も言い返すところはない。


或斗はそれも聞き流し、今度は普を呼びに行ったのだが、普は普で戸ヶ森同行の旨を聞くと或斗へ「何でそんな面倒ごとを受けたんだ」と言わんばかりの目をした。


或斗は知らん、全部日明に言ってくれと言いたかったが、眞杜さん大好きの普の前でそんな口を聞こうものなら任務前から顔が腫れあがることは間違いない。


粛々と無言の苦情を受け入れ、或斗は任務へ赴く準備をした。


足立区安全区域近くに新しく出現したダンジョンは、仮称で「新ダンジョン176号」と名付けられているらしい。


というのも、こういった安全区域近くのダンジョンはそれこそ『暁火隊』のような名の通ったパーティへ早めに完全攻略依頼が出され、短期間で消滅させられるため、特徴ある名前をつける必要性が薄いのだ。


今回の或斗たちの任務はその前段階、戦力調査である。


何かの間違いでドラゴンなんかが中に生息していると、必要戦力を見誤って死人の出る事態になる。


今回出現したダンジョンはおそらく旧渋谷ダンジョンよりも小さいくらいの中規模のものだろうとされているので、ドラゴンはさすがにいないだろうけれども。


ダンジョンに入る前、近くで炊き出しが行われているのを見かけた。


これは今回のダンジョン発生によって住む家を追われた、避難せざるを得なくなった難民たちへの支援である。


炊き出しを行っている人々の胸元には金色の丸に囲まれたトランプのダイヤマークがある。


巳宝堂みほうどう財団のシンボルマークである。


正確に言えば再生と調和を示す金のウロボロスに、希望と飛翔を表す翼がついており、中心のダイヤは社会が目指すべき豊かさを表しているとか、そんな感じだった。


巳宝堂財団はダンジョン混乱期に大きくなった組織で、当初はダンジョン発生によって住む家や家族を失った人々への援助や自立支援、他にはダンジョン発生後の変異に対する健康診断などを行っていた。


設立されたときには財団の会長である巳宝堂 茴香みほうどう ういかの個人資産を投じて細々と行われていた慈善事業であったが、この20年で大規模な財団として発展、今では国や他の篤志家からも援助があるそうだ。


こういった慈善事業団体がダンジョン混乱期に立ち上がったのは世界広しといえど日本くらいのものらしく、巳宝堂財団は世界的にも高い評価を受けている。


或斗は今まで一応最低ランクとはいえ15歳までは孤児院で保護されていて、かつあの孤児院は巳宝堂とは全く関係ない、国からの援助を中抜きしているタイプの経営者が運営している残念施設だったため、或斗が巳宝堂財団の名前を知ったのはこの1年の間である。


初めて聞いた巳宝堂財団の名前に首を傾げた或斗を見て、普は「致命的に社会的常識が欠落してやがるこのポンコツドブネズミ。脳みそ5gしかないのか?」と信じられないものを見る目で或斗の知識不足を貶した。


まあ確かに、いくら学校の教師陣がやる気のない適当な大人たちだったとして、言われてみれば街の至る所に溢れているマークである、或斗が知ろうと思えばいつでも知れたと思う。


巳宝堂財団が行っている、孤児出身のダンジョン攻略者への支援なども、知ってさえいれば或斗だって毎日ダンジョンネズミを焼いて食べる生活は送っていなかっただろう。


しみじみと知識の重要性を実感した或斗は、反省を活かしてきちんと毎日普からの課題図書を読み、真面目に勉強している。


そういうわけで今までの或斗とは全く縁のなかった巳宝堂財団であるが、財団は国と提携してダンジョン適性検査を全国で行えるよう尽力していたり、資金のない高ダンジョン適性者の孤児などへ支援金を出していたりと手広く慈善事業を行っているため、国からの依頼の多い『暁火隊』に加入してからは関わることも多くなった。


戦闘メンバーの健康診断を年に2回実施してくれていたり、国からの依頼の際にポーションなど援助物資を融通してくれたりと、或斗もお世話になることが多い。


炊き出しをしている財団員たちへ軽く頭を下げてから、或斗はダンジョンへ入った。






「新ダンジョン176号」の調査、モンスターの間引き任務は良い調子で進んでいた。


というのも、モンスターが出てきた瞬間戸ヶ森が飛び出していき、瞬殺しては戻ってきて或斗を鼻で笑う、というルーティンが出来上がっているためである。


或斗としてはダンジョン内の地形やモンスター分類調査の方に集中出来て助かっているのだが、挑発に無反応な或斗に対して戸ヶ森は何かにつけては突っかかり、罵倒し通してくる。


踏み出す足の順番にまでケチをつけられたときはもはや笑った方が良いのか? と疑問に思うほどであったが、多分笑ったら適性Bランクの本気の暴力が飛んでくることが予測出来たため、或斗は困った顔をするに留めた。


任務は良い調子で進んでいても、道中は大変であった。


キャンキャンと小型犬の威嚇のような高い声で或斗を貶し続ける戸ヶ森、その声に引き寄せられて襲いかかってくるモンスター、マッチポンプでそのモンスターたちを片付けて或斗を馬鹿にする戸ヶ森、反応に困っている或斗をより一層過激な言葉でなじってくる戸ヶ森。


なんだ問題は戸ヶ森だけかと思っただろう、違うんだなこれが。


暴れ足りないのか、退屈なのか、戸ヶ森の甲高い声がうるさいからか、原因はサッパリ分からないものの、進むにつれて普がイライラし始めてきたのである。


しかも表向きには無表情を取り繕っているものだから性質が悪い、戸ヶ森は普の苛立ちに全然気が付いていない。


意図的に或斗にしか伝わらない程度のイライラを発しているのだ、パワーハラスメントこの上ない。


普の苛立ちはいつ爆発するかは分からないが、爆発の仕方は予測出来る、或斗に八つ当たりの拳が飛んでくるだけ、シンプルである。


真面目に調査任務をこなしているだけだというのに戸ヶ森の罵倒と普の苛立ちとに板挟みにされた或斗は、死んだ魚のような目でキリキリと痛む胃を押さえていた。


やっぱり世の中ってクソである。


そんなコンディション不良が仇となったのか、重大なアクシデントが発生した。


中層の途中で、またも独断専行、モンスターへ飛び出して行った戸ヶ森に制止をかけるのが一瞬遅れた。


戸ヶ森が斬り飛ばしたモンスターのすぐ近くには、よくよく観察しないと気づけないようなトラップが仕込まれていたのだ。


或斗は元モグリとして、ダンジョントラップには精通している方であるし、見破り方にも一家言ある。


或斗が声をかけようとした一瞬のうちに戸ヶ森の踏んだ床が光り、幾何学的な魔法陣がぐるりと戸ヶ森を囲う。


それがワープトラップであることに、或斗はすぐに気付いた。


ワープトラップには2種類ある、それぞれ踏んだ者がダンジョンの全く違う場所へ飛ばされるもの、踏んでしまうと強力なモンスターがその場に召喚されてしまうものである。


今回は前者であったらしい。



「戸ヶ森さん!」



或斗が叫んだときには既に、戸ヶ森の姿は消えていた。


或斗はすぐにワープトラップに駆け寄るも、ダンジョンのトラップというものには様々な種類がある。


近場の決まった場所にワープする程度のものであれば必要魔力が少ないので、同じワープトラップを踏めばすぐに同じ場所に辿り着ける。


ただ調べてみたところ、今回のワープトラップは相当離れた場所へ飛ばすものであったようで、ダンジョントラップを再度発動させるには魔力チャージに丸1日かかりそうな様子であった。


普は無表情を取り繕うのをやめ、不機嫌丸出しの顔で或斗へ言い放つ。



「部下を死なせたら眞杜さんが悲しむ。どうにかしろドブネズミ」


「どうにかと言われても……!」



或斗だってどうにかしたい、が初めて訪れたダンジョンで、どこに飛ばされたのかも分からない以上は、或斗の千里眼も役に立たない。


どうすれば……と焦りを浮かべて或斗は必死に思考を回す。


一方、ワープトラップで飛ばされた瞬間モンスターに襲われた戸ヶ森は、血で汚れたわき腹を押さえて止血しながら、何とか岩場の陰に隠れていた。


ワープトラップが戸ヶ森を飛ばした先はよりにもよって深層である、と戸ヶ森は推測していた。


推し量った材料はモンスターの強さだ。


襲われた瞬間、受け止めて反撃に転じようとした戸ヶ森であったが、予想以上の敵の攻撃の強さに剣が弾かれ、わき腹に深めの裂傷を負った。


彼我の実力差を悟った戸ヶ森はすぐに逃げに徹し、出血を厭わない全力疾走のお陰でどうにか振り切れた。


幸い腹膜や臓器は傷ついていないようだったが、あまり時間が過ぎれば血を失いすぎて気絶するだろう。


治療を受けるためにはダンジョンから脱出しなければならない。


大きな問題はここ深層からの脱出である。


戸ヶ森のダンジョン適性はB、Bの中でもかなりの上澄みである自負があったけれども、本来深層とは1人で訪れる前提の場所ではないのだ。


辿り着くことさえ適性Bの人間1人のみでは難しいというのに、深層の化け物どもと戦いながら、あるいは逃げながら深層を脱出することなど1人で出来るわけがない。


飛ばされてきたせいで地理も把握出来ていない、中層以上へ戻れるワープトラップがあるかどうかを調べることも、手負いの身では困難だ。


そうは言っても、この岩場の陰に隠れているのもジリ貧、時間稼ぎにしかならない。


それどころか、血の臭いに惹かれたのだろう、既に複数のモンスターたちの凶悪な気配がこの岩場の近くをうろつき始めているのを戸ヶ森は察知していた。


包囲される前に逃げ切るしかない、覚悟を決めて戸ヶ森は岩場から飛び出る。


獲物が出てきたのをいち早く察知した緑色の狼型のモンスターが5mはあるだろう巨体で戸ヶ森を追って来る。


口から突き出た鋭い犬歯、それを濡らしてしたたる涎を振り返りざまに見てしまい、戸ヶ森は背筋が死神の手に撫でられたように冷たくなったのを感じた。


戸ヶ森は必死に逃げた、他のモンスターを避け、傷の痛みを我慢して遮蔽物を越え……しかしさすがは狼型といったところか、気づいたときには同種の巨大狼型モンスターの群れに囲まれていた。


群れの方向へと追い込まれていたのだ。


戸ヶ森は自分の手札を数える。


負傷した身で全力は出せない、そもそも深層のモンスターの強靭さを思えば、全力が出せたとしても剣での攻撃は通用しないと考えた方が良い。


得意な魔法属性は炎、しかし深層のモンスター相手に怯ませる、あるいは隙を作れるほどの威力を練るとなると……圧倒的に時間が足りなかった。


じり……と狼型モンスターたちが、戸ヶ森を囲む円を狭めていく。


戸ヶ森が動いた瞬間、あるいはもう5秒もすれば飛び掛かってくるだろう。


こんなところで終わるのか。


こんな名前もついていないような、中規模ダンジョンごときで……死ぬ。


戸ヶ森は視界が涙で歪むのを自覚し、己のそんな弱さが悔しくて血が滲むほど強く唇を嚙みしめた。


たったそれだけの間に5秒は過ぎてしまった、5mの質量を持った化け物が十数体、戸ヶ森へ向けて飛び掛かってくる。


戸ヶ森は目だけは閉じず、次の瞬間には八つ裂きにされるだろうことを覚悟した。


その想像は覆される。


戸ヶ森へ飛び掛かって来ていた狼型モンスター十数体は全て、一瞬で地面へと叩きつけられて、グチャリと原型を留めず潰れて死んだ。


戸ヶ森の視線の先では、こちらへ向かって走ってくる普に抱えられた或斗が、六芒星の浮かんだ虹色の眼を展開している。



「たす……かった……?」



戸ヶ森は力なく、モンスターの血が飛び散っているのも構わず、その場にへなへなと座り込んでしまった。






夕方、或斗はやはり報告書作成のためパソコンと格闘していた。


文字を打つのにも未だキーボードを確認しながらポチポチやるしかない或斗の資料作成進捗は非常に遅い。


栞羽などはどうやってあの速度でキーボードを叩いているのだろうか、適性がCもあると指が増えたりするのか?


そんな馬鹿げた妄想が巡るほど必死にパソコンの画面を睨んでいた或斗の机に、缶のココアが置かれる。


ミクリかな、と思って見上げた先には戸ヶ森が居た。


或斗は咄嗟のギョッとした顔を隠し損ねた。


戸ヶ森は医務室での治療を終え、服も着替えてきたようで、あの痛々しい赤黒い色はどこにも見えなかった。



「あ、ええと……怪我は大丈夫、ですか?」


「アンタなんかに心配されるほど落ちぶれてないわ!」



思わず心配の言葉をかけた或斗へ、戸ヶ森はいつもの甲高い威嚇を返した。


元気そうで良かったな、と思った或斗の視線が、机の上に置かれたココア缶へ向かう。


さすがに自分で飲むのを見せつけるために或斗の机に置いたわけではないだろう。



「あー、その。ココア、ありがとう……」



或斗が首を傾げながらそう言うと、戸ヶ森は憎々し気にキッと或斗を睨む。



「今日アンタに助けられたのは偶然だから! 2分の1の確率で普様に助けてもらえたのに、余計なことして!」



戸ヶ森はそうなじるけれども、実際のところ或斗がワープトラップの先の空間を無理やり理屈づけて透視の虹眼で視たことによって深層という場所を特定出来、救助が間に合ったというのが真実である。


それに多分、深層のモンスター十数体くらいであったらよほどのことがない限り、普は或斗に助けさせたと思う、ファンクラブの面倒くささを厭って。


しかし或斗は燃え盛る焚火にガソリンをぶち込む趣味は持っていないため、黙って頷いておいた。


クソな世の中にも渡り方というものがあることを、ここ1年で或斗は学んだのである。


戸ヶ森は或斗へビッと人差し指を突き付ける。



「見てなさい! こんな借りすぐに返してやるんだから!」



そう言い放つとぽこぽこ怒っているらしい足取りで去って行った。


嵐のような人だ、或斗は呆然と見送った。


或斗はもらったココアの甘味に感謝しながら、自分の虹眼の力について考えた。


やはり、どうしてこんな能力があるのかは、分からない。


よりにもよってダンジョン適性無しの落ちこぼれである自分に。


今日だって、普に抱えて運んでもらわなければ間に合わなかっただろう。


けれど虹眼の力で戸ヶ森を見つけ出せた、助けることが出来た。


間に合って良かった、達成感と安堵が冷たいココアの甘さと共に胸に広がった。


或斗には目的がある。


「カージャー」を倒し、未零を助け出す。


そのために今日、仲間の1人を助けられたのはまた1つ、或斗の自信と希望に繋がった。


或斗は飲み終えたココア缶を置き、グッと拳を握ってから、またパソコンに向き直った。


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