目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

39 衝突


4月末、普はイライラしていた。


というか、ここ1ヶ月ほどはイライラしていることが増えた。


とにかく頭の縁が蝕まれているかのような、腹の底がふつふつするような、不快な感覚がずっとある。


特にドブネズミ、本名遠川 或斗を見ていると、何となく腹が立つということが多くなった気がする。


苛立ちは解消されなくてはならない、普は謎の苛立ちを覚えたとき、とりあえず或斗の頭をはたくことにしている。


脈絡なくはたかれた或斗が「???」と疑問符を浮かべて普を見上げてくると、苛立ちは若干解消され、スッとする。


このことから、普は最近の苛立ちについて、ここ1年ほどずっと叩きやすいところに居たストレス解消グッズ、正式名称遠川 或斗が手元にないことが増えたためだろうと理解している。


今年の3月初め、或斗が正式に『暁火隊』へ加入することとなり、普も『暁火隊』に復帰した。


それまでは四六時中行動を共にせざるを得なかった普と或斗だが、『暁火隊』本部ビル内なら或斗を1人にしても問題は起きない。


或斗が外に出る任務の際、あと昼食時以外、普は或斗から離れて行動することが増えた。


普は或斗と違い、日本最強を謳われる適性Aの貴重な人材だ、さすがに或斗が動くとき以外の時間をただ浮かせておくのはあまりにもったいない。


或斗がオフィス区画で不出来にもパソコンの操作ごときにつまずいている間も普は外での仕事を振られることが多い。


普は自他ともに認める天才なので、午前の仕事は午前中に片付け、午後の仕事はまた別のものを引き受けることが出来る。


そのため昼食時は或斗と共に居ることが多く、或斗はその事実から自分が本部ビル内にいる間は普も本部ビル内のどこかにいるのだろうと考えているらしいことが分かる。


つくづく鈍い、間抜けなドブネズミである。


当然の話だが、普が或斗と昼食を共にするのは好き好んでのことではない。


日頃から普が行っている或斗の栄養管理を徹底するためだ、普は完璧主義である。


よって或斗の食べるメニューは全て普が決め、管理している。


栞羽などはその件について物言いたげな顔をしていたが、どうせロクでもない馬鹿げた語りが出てくるに決まっているので黙殺している。


普は或斗を本部ビル内で1人にすることについて、せいぜい或斗が周囲からいびられてしょげる程度のことしか起こらないだろうと考えていた。


予想外だったのは、『暁火隊』の懐の深さというか、意外にも或斗が『暁火隊』に馴染んでいることであった。


他でもない日明が立ち上げ、大きくしたパーティだ、懐が深いのは当然でもあったが、自己評価が低く人見知り傾向のあるウジウジドブネズミがそこに馴染めているというのは普の考えとズレた状況だ。


朝の出勤時、普と或斗が本部ビル内を歩いていると、普の知らない戦闘メンバーや後方支援部隊の人員が或斗へ気さくに挨拶をしている場面をよく見る。


もちろん普へも彼らは敬意をもって挨拶するわけだが、なんとなく或斗への対応と違う、普が今までの人生で存分に感じてきた壁が存在している。


そのこと自体は普の強さと特別さを示す反応に過ぎない、普にとってはどうでもいいことだ。


ただ何となく、イライラする。


或斗は去年の救出作戦のときから、此結 普ファンクラブというカルト集団に属する戸ヶ森という女からよくキャンキャンといびられていたのだが、どうもその女との関係性も普の知らないうちに変わっている。


先日戸ヶ森から緊張した面持ちで話しかけられ、面倒この上ないものの対応してみれば、「或斗と2人で出かけたいので一時的に席を外してほしい」などという要請であった。


意味不明だ、普は当然却下した。


戸ヶ森はポカンとして「どうしてですか?」などと尋ねてきたので、「お前が俺より弱いからだ」と返しておいた。


或斗はその特異な能力のために、常に「カージャー」から狙われる立場にある。


普は完璧主義である、日明から頼まれた或斗の護衛という仕事について手を抜くつもりは一切ない。


才能・知能・経験・努力量すべて普に劣る女と乳繰り合わせるために護衛の仕事を放棄するなど馬鹿げた話である。


戸ヶ森はよく分かっていない顔で呆然としていたが、普は放置してその場を去った。


とにもかくにも、最近の或斗には何かとイライラさせられる。


出会った当初の鬱々とした不幸ヅラは最悪であったが、最近の何か謎の自信を得たような顔も腹立たしい。


或斗は何も分かっていない。


自分がどれだけ雑魚カスゴミクズ身体能力の馬鹿であるか、今まで普が居なければ何回死んでいたか、普がいないと何も出来ない自分の無能というものを理解していない。


まったくもって腹の立つ話である。


何につけてもイライラするので、普は自宅のその辺で掃除をしている或斗を呼びつけ、とりあえず頬をつねった。



「なんなんれすか」



或斗は怪訝そうに間の抜けた顔を晒している。


やはりドブネズミはこの間抜けヅラを晒しているのがお似合いである、満足した普は読書に戻った。


或斗はサッパリ理解が出来ないという顔でしばし首を傾げていた。







26年前、ダンジョンが発生する前の日本にはゴールデンウイーク、GWと略される大型連休があった。


あった、というと過去形になるが、別になくなったわけではない。


パーティや企業によっては、旧時代からの慣習と暦通りにGWとしてまとまった休みをとらせるところもある。


『暁火隊』は警察・公安の武力として働くことも多い政府寄りのパーティであるため、GWは無い。


ただ、所属人数が多く、1人や2人休んで回らなくなる規模のパーティでもないので、有給自体は日頃から取りやすい、ホワイトな職場環境となっている。


某情報部統括のようなブラックな働き方をしているのはごく一部なのだ。


そんな世間でのGW直前、或斗が日明へ、相談があると思い詰めた顔で言いだした。


前日に横断歩道の前でアホヅラを晒してボケっとしていたのでとりあえず頬を張って連れ帰ったのだが、ただ意味なくボケっとしていたわけではなかったらしい。


防音環境と盗聴対策がしっかりしている5階の応接室で、或斗が日明と普へ語ったのは、巳宝堂財団が怪しいということだった。


或斗は先日のサルストでの旅で虹眼の新たな能力"視魂"に目覚めており、胡乱な話ではあるが、人間の本質、魂とでもいうべきものが視えるようになったらしい。


街頭ビジョン越しに巳宝堂財団会長である巳宝堂 茴香のそれ、魂について視てみたところ、サルストで或斗を襲撃してきた武装集団の魂に絡みついていた黒い靄の親玉のようなオーラを持っていたという。


件の武装集団は全員洗脳とドーピングという非人道的な処置を施されており、ドーピングに使われた薬物からは「カージャー」との繋がりが見られると報告を受けている。


すなわち、巳宝堂財団と「カージャー」とが関わりを持っている可能性があるということだ。


話を聞いた日明は眉を寄せ、にわかには信じがたい、と悩んでいる。


それもそのはずだ、巳宝堂財団は『暁火隊』の結成より前から存在し、人々の生活を助け、政府との繋がりも深い慈善事業団体なのである。


この中で最も巳宝堂財団と関わりが多かったのは日明であり、急な話を飲み込むのには時間がかかるのは当然と言えた。


或斗は自分でも根拠の薄い話をしている自覚があるのか、眉を下げて不安げに俯いた。


だが普は日明とは違う。


この5年強『暁火隊』から離れていた分、政府というものを外側から見る機会も多かったし、ソロで動くにあたって、人の汚い本質に嫌というほど向き合わされてきた。



「ハッ、慈善事業団体なんてもん、元から胡散臭い。それに、巳宝堂なら『暁火隊』、うちの情報を掴むのも簡単だ、『カージャー』へ漏れていた情報について、巳宝堂経由だったものがあると考えれば納得がいくことも多い」



普が或斗の懸念について同意したことで、或斗は少し安堵の色を見せた。


何でもかんでも顔に出る、単純なドブネズミである。


日明はしばらく考えていたが、最終的にはやはり或斗を信じてくれた。



「或斗くんと或斗くんの虹眼の力を疑っているわけではない。思えば、政府を介した関わりが多いだけで、巳宝堂財団会長の人柄についてはあまり知らないからな」



先日の襲撃者の身元などをとっかかりにして、情報部に巳宝堂財団を調べさせる、と決断してくれた日明に、或斗は礼を言い、やはりどこか力強い印象を与える顔をする。


日明の手前堂々と殴るわけにもいかなかったのでその場では吞み込んだが、普は最近の或斗がこういった顔をする度、不快な胸のザラつきを感じて苛立ちが募るのである。


それから1週間弱の後、世間のGWなる期間が明ける頃になっても、『暁火隊』の誇る裏部隊情報部は巳宝堂についての黒い噂を何一つ掴めていない、と本部ビル地下の情報部へ呼び出された普と或斗は報告を受けた。


しかし何徹したのだろうか、あからさまに寝不足の顔をしている栞羽は、その報告とは真逆の結論を出した。



「巳宝堂財団は怪しいです」


「でも、怪しい噂は何も無いんですよね?」



或斗は不思議そうに栞羽へ尋ねる。


栞羽は小さく首を縦に振ったが、だからこそです、と言い切った。



「普通の組織であれば、誰かが横領をしたとか、下っ端の不始末ですとか、そういったものが1件2件は存在するものです。特に巳宝堂財団の規模は大きく、歴史も二十余年と決して短くはありません。それなのに、不祥事の類が1つたりとも存在しないだなんて、奇妙過ぎます」



或斗はなるほど、と頷いた。


話を聞いて頷くだけのバカネズミは分かっていないだろうが、これは非常に厄介である。


情報部、しかも栞羽が関わって何も掴めないというのは、末端の末端にまで上層部の支配が完全に行き届いており、揺らがせがたい、そもそも揺らがせるための尻尾すら見つけられないということなのだ。


或斗の虹眼の力は万能であり、神の力と「カージャー」が呼ぶのも納得がいくほどの性能を有しているが、一般人が或斗個人を見ればダンジョン適性無しの底辺、何故か『暁火隊』に加入させてもらっている胡散臭いガキに過ぎない。


つまり証拠能力がないのだ、客観的な悪事の証拠を掴まなければ、どのような悪事を働き、企んでいたとして、政府と密接に関わっているほどの勢力を誇る巳宝堂財団を摘発することなど不可能である。


その辺りの思考は栞羽も同じであるようで、モニター前で椅子の背にもたれかかり、ため息をついた。



「とはいえ証拠は何も無いんですよねぇ。そもそも、『カージャー』と違って狂信的な理念も発信していない上、既に社会的な地位と十分な武力を手にしている巳宝堂が虹眼くんを捕まえることで得るメリットというのもよくわかりませんし~」



肩をすくめる栞羽の無責任な仕草に、普は言葉の刃を振りかぶる。



「グダグダ言ってないでもっとマシな情報掴め無駄残業女」


9時17時くじごじ出退勤の健康優良児普ちゃんには分からない苦労を重ねる拡ちゃんに何て口を聞くんですか~、もういっそ普ちゃんが巳宝堂財団の本拠地とか襲撃してムショ入り代わりに証拠掴んできてくださいよぉ」


「誰がわざわざ臭い飯食いに行くか、お前と違って網走刑務所と府中刑務所の味比べしに行きたいと思えるほどけったいな脳みそしてねえんだよ」


「同居人の幼気な少年の昼食まで雁字搦めにしているグルメさんは言うことが違いますね~、はたから見ると重すぎ彼氏そのものなので止めた方が良いですよアレ」


「蛆の湧いた脳から直に声出してんじゃねえよ耳が腐るわクソ女」



栞羽とぎゃいぎゃいいつもの言い争いをしていた普は、大人げない大人たちを他所に或斗が何事か考えている様子であったのを見逃した。


その2日後である。


『暁火隊』本部ビル前に、見慣れないリムジンが停車し、中から長いストレートの金髪に慈愛の紫の瞳を持つ女、巳宝堂 茴香が降り立った。


茴香は受付でアポイントもなく押しかけて来た非礼を詫び、日明ではなく或斗を指名して呼び出したのである。


何の話も聞かされていない受付嬢である似鳥は慌てて或斗を1階へ呼び出す。


ちょうど普も外回りの任務はなく、ビル内に居る時間であったので、或斗を1人で行かせるような愚は犯さず、1階のソファに腰かけて待っていた巳宝堂 茴香との対話に同席した。


茴香は眉を下げ、心から申し訳ないと思っていそうに見える顔で、或斗へ急な訪問を詫びた。



「急に呼び出す無礼をお許しくださいな、遠川 或斗さん。私は巳宝堂 茴香、巳宝堂財団の会長を務めております」


「ええと、いえ、あの、大丈夫です」



戸惑いつつも或斗は一瞬だけ六芒星の虹眼を発動し、直に茴香の魂のオーラを確認したようだった。


その結果は、或斗の浮かべた苦い顔でおおかた察せる。


茴香はおそらく敢えて、その動作に気付いたような素振りは見せず、にこやかに本題を切り出した。



「本日は或斗さんへ良いお話を持ってまいりましたの」


「良いお話、というのは……?」



或斗の分かりやすい警戒に気付いているだろうに、茴香は優し気な笑みを崩さず続ける。



「或斗さん、『暁火隊』をお辞めになって、うちへいらっしゃいませんか?」


「え?」


「聞けば、『暁火隊』では特に重要な任務には就かせてもらえず、外へ出かける際は此結さんがずっとついて回る暮らしをなさっているとか。特に、此結さんからは過度に厳しい指導を受けられていると……そんなのって、ご不自由でしょう?」



気の毒そうに眉をひそめる茴香に、普は青筋を浮かべた。


或斗について回らなければならず、不自由をしているのは普の方である。


ムカつくことこの上ない言い様だ、普は脳内で巳宝堂 茴香の名前の横に「クソ女死ね」と書き込んだ。


茴香は普の怒気を無視し通して、優雅に胸の前で手を合わせ、良いお話とやらの条件を並べる。



「巳宝堂へいらっしゃったなら、そんな扱いは決していたしませんわ。もちろん、巳宝堂の警備は万全ですから、或斗さんを危険な目に遭わせることなどございません」


「それはお前らが『カージャー』のお友達だからか?」



普は口角を上げ、あからさまな挑発を行った。


茴香はその挑発に乗ることなく、ただ少しだけ目を伏せ、微笑みを崩さず言った。



「そのような事実はございません。いくら有名ダンジョン攻略者の方とはいえ、何の根拠もない誹謗を軽々に口になさるのはお控えになった方がよろしいかと。巳宝堂には法務部もございますので」



普など見る価値も無いと言わんばかりに視線も合わせず、キッパリと否定し、逆に普を脅しつけてみせた茴香の態度からは、巨大組織の長たる存在感と器の大きさが見て取れた。


普は内心舌打ちをした。


この女は一面的には「カージャー」よりも厄介だという、強い確信を得る。


茴香はすぐに普から意識を外して、或斗へ真摯に向き直る。



「大変失礼かとは存じますが、現在の『暁火隊』で或斗さんが受けていらっしゃる待遇については調べさせていただきました。そうですね、給与面だけで言えば、私たちは或斗さんへその10倍はお渡しする準備があります」



『暁火隊』は日本の誇る有名パーティであり、ほとんどのダンジョン攻略者の憧れの的である。


加入したばかりの下っ端とはいえ、或斗に支払われている給与は一般的な基準で考えても決して安くないどころか、ダンジョン適性無しの人間がもらう額としては破格に過ぎる金額である。


茴香は平然と、その10倍を出すと言い切った。



「いかがかしら?」



茴香は揃えた膝に両手を重ねて置き、優雅に首を傾げて尋ねた。


儚げな印象の淡い金糸が揺れ、後光でも差していればまるで女神のようであっただろう、茴香の持つ雰囲気にはそれほどの力がある。


普は当然、或斗が断るものと考えていた。


或斗が『暁火隊』へ加入した理由は金銭だの名誉だのといった世俗的な理由ではないのだ。


あの冬の日の或斗の慟哭を普は、普だけが今も鮮明に覚えている。


あの時の己の油断と無能を思い出す度、6年前の大失敗にも似た苦々しい気持ちにさせられる。


殴ろうと罵ろうと半殺しにしようと、決して泣き声を上げなかった或斗の悲痛な叫びを、普は二度と繰り返させない。


その普の内心に反して、或斗は「少し考えさせてください」と言った。



「保留、ということでしょうか?」


「はい、しっかり考えてからお答えします」



或斗は普を一瞥もせず1人で、勝手に茴香と話を進めていく。


普は胸の底の部分が酷くザラつき、胃の奥から吐き気にも似た怒りが湧き上がってくるのを感じた。


茴香の目の前でなければ或斗を医務室送りではすまないほどに殴りつけていただろう。


或斗といくらかやり取りをして、茴香は普の抑えきれていない怒気へチラリと目線をやって笑みを深めると、席を立つ。



「良いお返事を期待しておりますわ」



コツコツとヒールの音も優雅に、茴香は『暁火隊』本部ビルから出て行った。


茴香が去ってすぐに、或斗と普は日明に応接室へ呼ばれた。


巳宝堂 茴香の来襲とその内容については、受付の似鳥から既に連絡を受けているらしい。



「巳宝堂への移籍について、返事を保留にしたのはどうしてだい? まさか本当に、うちに不満があるわけではないだろう」



日明は心配の感情を浮かべた顔で、或斗の真意を問う。


或斗はいくらか考えて、言葉を選んでいるようだった。


その間も、普は長い手指をタンタンと早いリズムで動かして、苛立ちをあらわに爆発の時を待っていた。



「……外側からでは探れなくとも、内側からなら何か分かるかもしれません。俺1人で巳宝堂へ潜入してみたいです」



応接室へ入って来た時からずっと殺気立っていた普が或斗を殴り飛ばそうとしたのを、事前に察知していた日明がその拳を掴んでギリギリで止める。



「普、殴っては話にならないからやめなさい」



日明からいつになく厳しく止められた普は暴力を爆発させることこそ堪えたけれども、声に強い殺気を込めて或斗へ低く静かに怒鳴りつけた。



「お前1人で探ってくるなんて出来るわけがないだろうが、ダンジョン適性無しの落ちこぼれの分際で何を勘違いしてやがる」



或斗が今生きてこの場に居るのは常に普が護衛をし、死にかけては病院へぶち込んできたからだ。


普の手を離れた或斗が無事でいるイメージなど1つたりとも湧かない、アッサリと死んで行方すら分からなくなるのが関の山、それを未だに理解していない或斗の頑迷さが普には我慢ならなかった。


しかし或斗は普を見上げて、懇願するように真っ直ぐ返す。



「俺にダンジョン適性がないことは事実です。だからこそ向こうも油断してくれるかもしれない、虹眼の力もある、俺にしか出来ないことかもしれない」



或斗の黒い瞳に宿る強い光が普にとっては不愉快で堪らない。


コイツはやはり何も理解していない、度し難い馬鹿で考え足らずのガキだ。



「カスが少し特異な力を手に入れたからって調子に乗りやがって。お前1人で出来ることなんざ何もねえよ、いい加減に身の程を弁えろドブネズミ」



否定を続ける普へ、或斗は少し傷ついたように眉を寄せて、それでも言い募ろうとする。



「少しは俺のことを信じてください。最低限の自衛くらいなら出来ます。巳宝堂の適性検査イベントのときも」


「無銭飲食男に手助けしてもらってただろうが、お前の考えは蛮勇ですらないただの無謀だ」



あの日も、一歩間違えれば或斗は五体満足でいなかった可能性が高かった。


たまたまミラビリスとかいうあの胡散臭い男が居たから、普が居なくとも無事で……そもそもこの馬鹿には危機感というものがまともに備わっていないのだ、万一あの宗教かぶれ男が敵組織と繋がりを持っていたらなどと考えることも無い。


普は日本最強を自負している、世間でもそう言われている、しかし人間である以上腹立たしいことに手の届く範囲には限界がある。


或斗はわざわざ自分から安全圏を抜け出して死の待つ魑魅魍魎の巣へ飛び込もうとしている。


普にとって、その愚かさは心底苛立たしく、殺したいほど憎かった。



「自分の力の程度も把握出来ない、理解しようとする知能もない無能には、もう一度胃液だらけの地面でも舐めさせないといけないか?」



普が温度を消した目でゆらりと立ち上がり、或斗を見下ろす。


今度は止めても爆発する、と予感した日明は「座りなさい」と素早く普を咎める。


真っ二つに分かれた2人の意見を受けて、日明は結論を出す。



「或斗くんに何も出来ないとは私は思わない。だが現時点で巳宝堂はあまりに得体が知れない。今回直接勧誘に来たのも、私たちが影で調べていることを察知したからである可能性が高い。そしてそれを私たちに知らせる余裕すらあるのだろう。洗脳魔法のこともある、流石に或斗くんを1人で行かせることはできない」



努めて落ち着いた声を出して、日明は或斗を諭し、普の怒りのボルテージを下げようとした。


或斗は何か言おうと口を開け、視線を彷徨わせていたが、最終的には「わかりました」と日明の出した結論に従った。


傷ついた顔で悄然と頷いた或斗を、普は怒りを少しも抑えられていない射殺しそうな目で睨んでいる。


応接室を出ても、普と或斗の間には暗く深い亀裂のような、重い沈黙が横たわっていた。









「虹眼くんと普ちゃんって喧嘩でもしたんですかぁ?」



巳宝堂 茴香の来襲から3日後の夕方過ぎ、いつも通り残業をしている栞羽は、様子を見に来た日明へ軽い口調で尋ねた。


喧嘩、喧嘩というか何というか……日明は「ううむ」と難しい顔をして唸る。


栞羽は上司を前にしても椅子の背へ抱き着くようにして座り、椅子をクルクルと回すという不真面目極まりない態度で続ける。



「拡ちゃんネットワークによるとぉ、あの子たち2人で居る時はお通夜の空気、ランチに2人が来ると飯が不味くなることこの上ない、高楽さんは普段の5倍吹き飛ばされていると話題ですよぉ」


「そんなにかぁ」


「そんなにですぅ」



日明は頭を抱えて、どうしたものかと顔をしかめた。


栞羽はクルクルと回り続けながら、「普ちゃんってば、お馬鹿さんですからねぇ」と小さくため息をついた。


一方、噂されているところの普と或斗はいつも通り普のマンションへ無人タクシーに乗って帰宅途中であった。


この3日間、業務上の必要性が発生しない限りはお互いに話しかけることもなく、家でも無言、まさに爆発手前の爆弾のような緊張感が2人の間に漂っていた。


一応日明の結論を受けて、その日のうちに巳宝堂へ断りの連絡を入れた或斗であるが、まだ何か要らないことを考えている気配を普は感じ取っていた。


一向に考えを改めず、いつものように謝ることさえしてこない或斗へ、普は過去最大、あるいは去年の夏或斗が死にかけた時以来ほどに怒り続けていた。


怒りに満ち満ちた普の態度を見ると、或斗は眉を下げ、傷ついた表情をするのであるが、筋違いも甚だしい。


何故ただ普の手の届く範囲で大人しくしておくというそれだけのことが出来ないのか、理解に苦しむ。


重苦しい静寂と破裂しそうな緊張感が天秤を揺らすような空気の車内で、顔を上げた或斗が普の方を向いた。



「あの、普さん」



或斗が何かを言おうとした、その瞬間。


2人の乗る無人タクシーがものすごい衝撃を受け、大きく揺れる。


揺れの中普の目に入ったのは、或斗の載っている側のタクシーの側面に、窓すら黒いスモークで隠した黒塗りの怪しい車が衝突している様子だった。


そしてその黒い車から伸びてきたゴツい男の腕が、鍵がかけられ開かないはずの無人タクシーの扉を開け、一瞬で或斗の体を引っ張り出して、黒い車の中へと引きずりこんだ。


普が無人タクシーから出ようとするほんの3秒ほどの間に、もう一度黒い車が無人タクシーへさきほどよりもずっと強い力で衝突してきて、無人タクシーは吹き飛びひっくり返る。


軽い脳震盪を起こしたと思しき普が無理をおして体勢を立て直し、揺れる頭でほとんどまとまらない思考の中、それでもひしゃげて物理的に開かなくなった無人タクシーの扉を蹴破って外に出るまでの3分ほどの間で、黒い車は行方をくらませていた。


大事故で騒めく道路に、獣の唸りにも似た低い怒声が響いた。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?