都心から離れた田舎、梅雨前の初夏らしい草いきれの空気と小川のせせらぎが聞こえる山の麓に、質素ながらも造りのしっかりとした和風の屋敷が建てられていた。
ダンジョン発生以前の古くから残っているのだろう屋敷の屋根や柱、床材の風合いは見る人が見ればかけられた金額の多寡が十分に察せられるであろう。
その屋敷の離れの一室、自室というわけでもない、壁紙もカーテンも白いだけの質素な部屋に、巳宝堂 茴香は1人軟禁されていた。
いつも誰かしらが侍っていた気がする後ろの空間に誰も居ないことをさほど不便にも感じず、茴香はただ、どうしてこうなってしまったのかしら、と自問する。
白い部屋の虚空を見つめる紫の目には権力の趨勢を左右していた頃の輝きはなく、どこかぼやけた光があった。
巳宝堂 茴香は36年前、巳宝堂本家の長女として生を受けた。
上には兄が1人あり、継嗣に恵まれていた父、本家の当主は女児の誕生を非常に喜んだという。
問題が浮き出始めたのは茴香に物心つく少しばかり前のことであった。
茴香は言葉を話し始めるのも、絵本を読み解くのも、算術を覚えるのも、運動能力、歳にそぐわぬ落ち着き、使用人への態度、何をとっても兄よりも上で、優秀であった。
優秀過ぎたと言える。
継嗣としての立場が脅かされると感じた兄は茴香に冷たくなったし、母は茴香が何をしても困った顔をする。
家の繋がりで交流した同い年の子供たちとは、誰1人話が嚙み合わず、茴香は首を傾げることが多かった。
父は兄のこの先の成長に賭ける姿勢で、とにかく茴香に余計なことをしないよう言いつけていたけれど、茴香にとっては自然に出来ることをしているだけであって、一体何が兄を怒らせるのか、母を困らせるのか判断つかなかった。
茴香に十分に物心がついた頃には、巳宝堂本家は家庭という単位ではいわゆる冷え切った雰囲気になっていて、茴香はそれが自分のせいであることだけは理解出来たけれど、どうしたら良く出来るのか、何をしなければこうならなかったのか、そういったことは分からないままであった。
ポリコレ、ジェンダーギャップ指数などが叫ばれる世の中にあって、茴香を見る度、眉を下げて「男の子だったら、ねえ」と言う母の、巳宝堂という家の旧さには何度辟易させられただろう。
ダンジョンというものが発生したのは、早くとももう茴香を嫁に出す家を選定してしまおうと父が巳宝堂傘下の家々の子供の見合い写真を捲っていた頃、茴香が11歳の時のことだった。
茴香はダンジョン適性の開花も人よりずっと早かった。
ダンジョンが発生してから1ヶ月ほどで、茴香の黒髪は淡い金色に変わり、黒かった瞳も時が経つごと紫色を帯びてきた。
今ではダンジョン発生による変異として知られている容貌の変化であるが、しかしダンジョン発生からたった1ヶ月の巳宝堂という旧家が受け入れられるはずはなかった。
母は薄気味悪い、と茴香を遠ざけ、父は嫁の出しどころが無くなったと怒り、兄は妹の変異を瑕疵と見なして嘲った。
元から冷えた家庭だったとはいえ、それまでは普通に会話もしていた間柄の家族たちから受けるそれらの仕打ちは茴香にとって、とても悲しいことだった。
ただ、茴香は悲しみに暮れるだけの女ではなかった、ダンジョン発生による社会の変化について興味を向けることにしたのだ。
自分と同じように髪や目の色が変化した人間と、変化しないままの人間がいることが分かり、そして数年経てば前者が恵まれた者であり、後者は恵まれなかった者だと分かった。
茴香以外に発露しなかったダンジョン適性は、手のひらを返した父と母との態度を一変させ、兄には更に劣等感を抱かせることとなった。
けれどその頃の茴香にとって、家族の態度の変化などはそう気になる事柄でもなかった。
ダンジョン適性に恵まれた者たちはパーティというものを組んで社会を変えようと立ち上がっていたりなどしていたが、茴香の目を惹きつけたのは恵まれなかった者たちであった。
住む場所を無くし、食べ物もなく、中世の絵巻物でしか見たことのないような腹の膨れた餓死をする人間たち、抗う力を持たないがためにモンスターから蹂躙され殺されていく人間たち。
それらを助けるはずの政府はダンジョンそのものへの対応と巳宝堂のような富裕層を守るための施策を打ち出すだけであり、貧する者窮する者が多く居るのは茴香のような社会の上層部からでも一目瞭然であったのに、誰も手を差し伸べない。
どうして誰も彼らを助けてあげないのかしら?
茴香は小さな興味で、茴香名義の資産を使って、一部の困窮するダンジョン災害被害者たちへ支援物資を渡し、仮設住宅を作らせて与えてみた。
茴香が今まで見かけることすらなかったような薄汚い恰好の人々は、一介の少女に過ぎない茴香を伏して見上げて、深く深く礼を述べた。
彼らが茴香を見上げる目は、まるで神様でも見るかのようなものであった。
その時、茴香は理解した、これが使命だったのだと。
人と隔絶されていると言えるほどに恵まれた生まれ、名家に生を受け、高い社会的地位と多くの資産を持ち、頭脳は優れ、ダンジョン適性は高い、そんな数えきれないほどの才能は全て、この憐れな人々を救うために持って生まれたものであったのだ、茴香はそう信じた。
茴香こそが新たな時代の救世主になるべくして生まれた人間で、そうならなければならない。
茴香は差し伸べた手に縋りつく衆生を見て、目の前が晴れるような心地と、胸のすく想いを感じた。
それからすぐに茴香は巳宝堂の名を掲げた慈善事業団体を立ち上げた。
家族はあまりいい顔をしなかったけれど、彼らはもはや茴香にとってはどうでもいい人々だ、茴香が救うべき人々は別にあって、家族は今まで通り安寧に暮らしていれば良い。
これで人々を助けることが出来る、自分の役割を果たすことが出来るのだと茴香は思った。
けれど、救世主茴香の前にはいつもたくさんの問題が積み上がっていた。
茴香の個人資産だけでは到底足りない、まかなえない支援物資、全世界どころか日本全国にも届かない自分の手、影響力。
ダンジョン発生の報を聞いて急ぎ向かった街が丸ごと滅んでいて、モンスターに食い荒らされた死体がゴロゴロと転がっている中を歩いたこともあった。
何より、茴香の理解の範疇外だったのは、人々の理解の無さだ。
同じ人間同士だというのに奪い合い、時に傷つけ合い、ダンジョン適性などというまだ時代的にも有耶無耶でしかなかったもので勝手に序列をつけ、弱者を踏みにじる。
茴香のお付きとして家からついてきた使用人たちですらそんな世俗の価値観にかぶれていた、ダンジョンが発生してからまだほんの数年だというのに。
ある街で、モンスターに襲われて死にかけていた子供をポーションで助けようとしたときに険しい顔で首を横に振った、幼少期からの教育係の言葉は茴香を絶句させた。
「そんな適性の低い子供など、捨て置くべきです。ポーションは貴重なのですから、茴香様のために使われるべきです」
茴香のための諫言と題して非人道的な言動を正当化するお付きの者たちには、茴香は心底から失望させられた。
茴香には全ての人類を救済する使命がある。
そうでなければ、茴香は何のため、この世にこのように優れて生まれたというのか。
茴香は周囲の人々にさえ失望しながらも、全国を駆けずり回り、たくさんの人々を救った。
時には生まれてこの方下げたことのない頭を、巳宝堂本家ゆかりの富豪へ下げ、必要な資金を引っ張ってきたし、まだ何も深くは解明されていなかった容貌の変異に怯える人々を安心させるため、健康診断を始めもした。
ポーションの研究開発に投資して、世の中への普及に大きく寄与した。
茴香は持てる力を全て使って、本当に多くの恵まれない人々を救ったのだ。
それでも、結局茴香の前に立ちはだかるのは、幼少期と同じ、人の心という茴香にはどうしようもできないものであった。
暴力などという人倫から離れたものを称賛するようになってしまった人々、助け合うのではなく、弱者を蹴落として保身に走る非道を常識としてしまう社会。
茴香は何度も世の中に訴えかけた。
ダンジョン適性などというものは才能の1つに過ぎず、人の価値はそれで決まるのではない、人々は助け合って生きていくべきだ、旧時代の震災でも助け合い絆強く生きていた頃を思い出してほしい、茴香は何度でも語りかけた。
だが茴香の言葉は所詮恵まれて生まれた者の傲慢に過ぎない、と見られたし、慈善事業のためのお題目だと見なされ、軽く消費されていってしまうものだった。
茴香の巳宝堂財団の成功を見て、2匹目のドジョウを狙おうと、人々から搾取するための事業を立ち上げる者さえいた始末だ。
大きくなる財団、出来ることが増えていくにつれて、反して茴香は人々への失望、挫折が強く感じられるようになってしまった。
人の心を言葉で変えることが出来ないならば、と違法薬物の開発を始めたのは、巳宝堂財団が隠蔽出来るだけの十分な力を持ってから少し経ってのことだった。
茴香に救われ、茴香の理念に共感してくれる少数の人々を犠牲に進めたその道も、あまりうまくはいかなかった。
茴香は諦めなかった。
茴香は人類を救うために生まれてきたはずだ、それならこんなことでつまずくはずがない。
失望と挫折を土壌に育てられた茴香の狂気は、「カージャー」との接触で開花した。
「カージャー」が国際テロ組織として密かに全世界でマークされていることは知っていたが、茴香にとって「カージャー」の理念は茴香の願うものと同じ、人々を救う道に繋がっているように思われた。
「カージャー」から共有された魔法的洗脳技術により、まずは財団員すべてに茴香の理想を"理解"させることが出来た。
それはとても簡単に進んだ。
この道が正しいのだと示されているようであった。
洗脳技術を使ったcor・telaプランを計画したとき、1番の障害になるのはやはり高ランクダンジョン攻略者の存在だと茴香は考えた。
高ランク適性者を1人でも洗脳しそこなえば、電波基地局の破壊など、邪魔をしてくる可能性がある。
茴香にとっては唾棄すべき、心底嫌っていた暴力という力が壁として存在することに気付いた茴香は、すぐに金の力で何人もの高ランクダンジョン攻略者を巳宝堂財団に雇い入れ、洗脳を施した。
けれど足りない。
日本一と目される武力を持つパーティ『暁火隊』を仮想敵として考えた場合、失敗の可能性が拭えないと茴香の頭脳は算出した。
cor・telaプラン実行が近づき、内心不安と焦りを抱えていた茴香に、お付きの人間から報告があった。
あの「カージャー」さえも求めてやまない「神の力」を持つ少年が居る、と。
「神の力」、その響きだけで、それこそ茴香が手にするにふさわしいものだと感じた。
ダンジョン適性などという不確かなものではない、絶対的で強力無比な力。
新しく世界を統べる茴香の手元にあるべき存在。
お付きの者の手配によって手に入れた少年の力はすさまじいものだった、日本最強と謳われる男を真正面から捻じ伏せてみせたのだから。
この力と財団の洗脳技術があれば、茴香は使命を果たすことが出来ると昂揚した。
それなのに何故か、「神の力」を持つ少年は茴香から離れていった。
そこから、何かが狂ってしまった。
いつも後ろに侍っていたお付きの者は消え、茴香は犯罪者のレッテルを貼られて、表に出ることさえ出来ず、茴香を忌み嫌っていた家族の軟禁の元、こんな場所で時間を浪費している。
こんなことはおかしい。
茴香は世界を、すべての人類を救う人間のはずだ。
このままであって良いはずがない。
けれどいくら考えても、ここから再び立ち上がり、cor・telaプランを敷き直す方法は思いつかなかった。
茴香が20年余りかけて築き上げた全ては失われたのだ。
茴香には不思議で仕方がなかった。
何も間違っていなかったはずだ、間違っていないなら、失敗するはずはない。
「どうしてこうなってしまったのかしら?」
もう一度、今度は声に出して、茴香がぼうっと呟く。
すると食事と入浴の際以外は人の出入りが禁じられているはずの離れの部屋に、茴香の疑問へ答える声が響いた。
「『だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる』」
茴香が声の方を見れば、部屋の入口に美しい男が曖昧な表情をして立っていた。
淡い亜麻色の髪、ターコイズブルーの美しい瞳の男性、ミラビリス・クロニアは目を伏せて、茴香へ近づく。
「貴女は"神の器"ではなかった。それだけのことだよ」
そう言って微笑むミラビリスは部屋の白いカーテンから差す日光の白い後光に照らされて、まるで茴香が夢見た救世主のようであった。
『『暁火隊』、正しく国を守る。一時は世間からのバッシングを受け、要らぬ恥をかかされたというのに曲がらず、名の通りの暁闇の光を日本にもたらした。『暁火隊』の奮闘なくば、今ごろ日本国民は巳宝堂 茴香の人形となり、自由意志を持たない生活をさせられていたかと思えば背筋が冷える思いである。孤軍奮闘した『暁火隊』の功績は、日本国の誉としてもっと公に称えられるべきである』
『日本最強の男、此結 普氏が今回の事件で大きく活躍したという情報を関係者から掴んだ。『暁火隊』に復帰して3ヶ月でこのような偉業を成した此結氏は、復帰に際して巳宝堂の陰謀を掴んでいたとの噂もある。彼の力はもはや武力という枠組みに収まらない』
などなど、ネット記事は『暁火隊』と普を称賛するもので溢れかえっている。
ところどころに挟まる「アスダン」という流行りのゲームの攻略記事が気になるが、おそらく普は或斗がゲームの類にうつつを抜かすことを許してはくれない気がするので、迂闊に見ないようにしておこう、と思いつつ、或斗は冷たい緑茶を口に含んだ。
或斗と普の居る休憩室はこの間と違って程々に閑散としている。
『暁火隊』の通常業務が完全に再開され、また水辺ダンジョン攻略も始まる時期で、戦闘メンバーとそれを支える後方支援部隊の面々は出払っているためだ。
他には巳宝堂関連の研究所の制圧だとか、洗脳の影響でまだ暴れている者の鎮圧だとか、色々と仕事は多い。
或斗と普も、巳宝堂関係の仕事を終えて『暁火隊』本部ビルへ戻ってきて、やっと一息ついているところである。
スマホの記事をすいすいと流し見しつつ、或斗は隣で足を組んで退屈そうにしている普へ声をかけた。
「普さん、すごい褒められてますね」
普は興味もなさそうに、どころか少し(或斗には伝わるくらいの少し)不機嫌そうに「当然だな」とだけ返した。
そう言っている間にも、休憩室に入ってきた別の戦闘メンバーから或斗が声をかけられ、通りがかりに髪をわしゃわしゃとされる。
高楽と違って髪のセットに命をかけているわけでもないので、こういったスキンシップはどちらかといえば嬉しい寄りの或斗である。
ここ最近、休憩室や食堂に居ると、知らない『暁火隊』のメンバーから話しかけられることが増えた。
或斗は知り合いがたくさん増えて、また『暁火隊』の面々から認められている実感を得られて嬉しく思っている。
こういったちやほやされる経験を飽きるほど積んできたのだろう普は慣れっこなのだろうが、褒められて不機嫌になるというのは何だかよくわからないところだ。
以前よりは或斗を受け入れてくれていると思うが、やはり見かけや言動だけでは本音が分かりづらい普の性質は変わらない。
或斗が緑茶を飲み終える頃、休憩室へ栞羽がやってくる。
栞羽と休憩という単語が上手く嚙み合わず、珍しいこともあるものだとしげしげ眺めていれば、栞羽は或斗と普のテーブルへ近づいて来た。
「そこの仲良しお2人さん、日明さんが執務室で呼んでますよぉ」
今までの地獄のように大変な仕事がひと段落したからか、少し顔色の良い栞羽が聞き慣れたふざけた調子でからかうように或斗たちへ声をかける。
或斗が返事をする前に普が舌打ちをし、栞羽の揶揄に言葉のバットを持って立ち上がる。
「誰が仲良しだ目腐れ女。いちいち一言多いんだよ伝言くらいまともにこなせ」
「いや〜、休憩室で男2人のんびりお茶なんか飲んじゃって、仲良しを否定するのは難しいですよ」
「やることがないだけに決まってるだろうが」
いつもの言い争いである。
大人げない2人の大人げない喧嘩を完全に無視する肝の太さを身に着けた或斗はさっさと席を立って、緑茶の容器をゴミ捨て容器に捨てた。
栞羽へ立てた親指を下に向けるジェスチャーをしてから休憩室を出ていく普へついて歩く或斗は世間話感覚で普へ訊いてみた。
「日明さん、何でしょうね。すぐ次の任務だとちょっと大変ですけど」
基本的に或斗の世間話に付き合うことは少ない普であるが、今回は珍しく少し考えるような素振りを見せた。
「まあ大体想像はつく」
「想像って何ですか?」
「眞杜さんから直接聞け」
そんなやり取りをしつつ、或斗と普は日明の執務室へノックをしてから入室する。
日明はどこか嬉しそうに、執務机に座ったまま書類をあちらからこちらへ、バタバタと処理している。
相変わらず忙しそうだ、栞羽のように死相が浮き出ていることは無いので大丈夫なのだろうが、日明の多忙さも或斗は少し心配である。
「普、或斗くん、来てくれたか」
2人が入室したのを見て、日明は笑い皺を深くして立ち上がる。
そして2人へ、執務机からとってきた1つの書類の束を見せた。
或斗は何の気なしに書類の表題を読み上げる。
「『自己の危難を顧みず国難を排した者に対する紅綬褒章授与式について』?」
首を傾げた或斗と対照的に、普は顔色を変えず日明の説明を待っている。
日明は書類をパラパラとめくりながら或斗へ説明する。
「今回の巳宝堂との件についてな、また国から『暁火隊』へ褒章が授与されることに決まった。その授与式へ、普と或斗くんの2人に出てもらおうと思ってな。今日はその説明と段取りについて話しておこうと思って呼んだんだ」
曇りのない笑顔で言う日明は、2人へ執務室のソファに座るよう勧める。
日明の言葉を聞いてからしばらくぽけーっと固まっていた或斗の後頭部を普が容赦なく殴る。
その衝撃で再起動をかけられた或斗は目と口を大きく開いた。
「ええっ!?」
執務室の外まで響く声で叫んだ或斗は、うるさい、ともう1発普から拳を振り下ろされた。