静かな部屋にエアコンの音が響いている。
なんだかんだですべての荷物を運び終わる頃には正午を回っていた。もちろん荷物の開封作業はこれからだが、そこまで手伝う必要はないようだ。
ひとまずテーブルやソファは使える状態にしてあるが、希美はあえて冷たい床の上に突っ伏していた。
それを見てエイダが上等のカップアイスを手に不思議そうな顔をしている。
「最初から思っていましたけど、どうして希美は労働に魔力を使わないのですか?」
魔力使いはそれを活性化させるだけで常人では考えられないような身体能力を得ることが可能だ。朋子とエイダはそれを使って重たい荷物をすいすいと運んでいたが、希美だけは常人と同じように体力だけで頑張っていた。
結果として疲れ果てた希美が質問に答えようと重たい顔を上げる前に、例によって篤也が勝手なことを口走る。
「察してやれ、エイダ。雨夜は苦しみを愛する女なのだ」
「やはりそうでしたか」
真顔でうなずくエイダ。どことなく哀れむような眼差しを向けてきている気がする。
「ちなみに頭を踏んでやると喜ぶので、ぜひそうしてやってくれ」
「分かりました」
答えて立ち上がるエイダ。
彼女が足を上げる前に、さすがに希美は飛び起きた。
「なんで変態に同意するの!?」
目くじらを立てると、エイダは笑顔のまま小さく舌を出す。
「希美ちゃん、早く食べないと、せっかくのアイスが溶けちゃうよ」
ソファではなくテーブルに腰かけていた朋子が白い素足をぶらぶらさせながら言った。履いていた靴下は丸めてポケットに押し込んだようだ。彼女もまた上等のカップアイスを、ゆっくりと口に運んでいる。
「大丈夫です、先輩。溶けないように魔術で保冷してますので」
「そういうことには術を使うのに、どうしてそこまで苦痛を愛するのですか?」
エイダは心底不思議そうに問いかけてきた。
「断じて愛してない!」
「愛のないただれた関係なのですね」
「ちっがーーーう! わたしは身体でできることは身体でする主義なんだ!」
元はと言えば父親の影響だ。
魔力を使えば身体機能は拡張できるが、それに頼りすぎれば本質的な感覚が弱まってしまう。
希美の父はそう言った後で、こう付け加えた。
『これはまあ本当のことなのだけど、それ以上に私は忘れたくないのだよ。魔力のような超常の力を持たない人たちの気持ちをね』
彼はいつも穏やかで、落ち着いた笑みを絶やさない人だった。口には常にパイプをくわえていたが、それに火がついているのを見たことはない。使用人の話によれば希美が生まれた時から、ずっと禁煙中とのことだった。
「真面目ですねえ、希美は」
苦笑するエイダ。なんだかこれまでになく上機嫌に見える。思い当たることが、ひとつだけあったので、やや意地悪く訊いてみることにした。
「今日はえらく上機嫌だな。男ができたからか?」
「いやいや、彼とはべつにそういう関係ではありませんので」
楽しげな微笑みを浮かべたまま、さらりと答えてくる。希美と違ってとぼけるのが上手いようだ。
やり返すことは諦めて希美はカップアイスのフタを開けた。アメリカの大手ブランドのものだけあって見るからに美味しそうに見える。
スプーンを使って口に入れるとなめらかな食感と濃厚な味わいが口の中いっぱいに広がった。
「美味しい」
「それは何よりだ」
篤也の声に何気なく視線を向けると、彼は奇妙なモノをせっせと組み立てている。
「な、何をしているの、先生?」
「見てのとおり、檻を組み立てている」
言われるまでもなく、それは分かっていた。問題は何のためのものかだ。
エイダがアイスを食べながらつぶやく。
「人間でも入りそうな檻ですね」
「ま、まさか、女子高生を入れる気じゃ――!?」
希美が思わず声をあげると、篤也は呆れ果てたようにため息を吐く。挙句の果てに生暖かい目をして、こう言った。
「そんなに入りたいのであれば一度くらいは入れてやってもいいが、これはコカトリスのための物だ」
「あ……」
考えてみれば当たり前の話だ。ニワトリ一羽用にしては大きすぎる気もするが、狭苦しいとかわいそうだと考えたのであればべつにおかしな話ではない。
そうやって納得する希美だったが、朋子が気になることを言う。
「ニワトリ用にしては格子が太すぎない?」
「人間でも閉じ込められそうですね」
続けてエイダが指摘する。もちろん高さが足りないので屈まないと入れないだろうが、それだけに閉じ込められたら簡単には抜け出せないだろう。
「さすがに鋭いな」
篤也は苦笑すると、妙に楽しげな顔でネタばらしを始めた。
「本来これは、西御寺一門が異能犯罪者を捕獲するために造った特別製の檻だ」
異能犯罪者とは文字どおり超常の力を悪用する人間たちだ。
篤也の実家でもある西御寺家は国内でも最大規模を誇る秘術組織の一つで、そういった犯罪者を秘密裏に取り締まる役目も担っている。
ただし、そのやり方は過剰なまでに苛だ。
一族の人間として生を受けた篤也は必然的にその組織に属していたが、ついには嫌気が差して、現在では完全に袂を分かっていた。
「見るからに非人道的な道具だが、バカとハサミは使い用だ。まあ、ちょっとした廃物利用といったところだな」
「なるほど……でも、今さらどこから持ち出してきたんだ?」
すでに篤也は西御寺家には出入りしていないはずだ。内部告発までして不正を暴いたため、一族の者たちからは敵視されていると聞く。不思議に思って訊ねた希美だが、すぐに訊いたことを後悔する羽目になった。
「こいつは六年前に
「ひぃぃぃっ!」
希美は悲鳴をあげて後ずさると、テーブルによじ登って朋子の背中に隠れた。そのまま彼女の背中にしがみつくようにしながら顔だけ覗かせて叫ぶ。
「それだと本当に女子高生の檻じゃないか! お前の一族は変態か!?」
「否定はしない。いや、むしろ全力で肯定しよう。西御寺家には専門の拷問官などがいるが、奴らは本気で頭がイカレている。もし六年前に私が未来を捕らえていたら、そいつらに引き渡さねばならなくなるところだった。そうなれば殺されるよりも、遥かに悲惨な、十八歳未満お断りの末路に行き着くことになっただろう。それもあって暗殺を選択したわけだが……」
苦い想いを吐き出すかのように、篤也は大きなため息を吐いた。そのまま肩をすくめて希美に告げる。
「とにかくお前を入れる予定はないから安心していいぞ」
「わざわざ言われると余計に不安になるんだけど」
引きつった顔を見せる希美だが、本気で篤也を疑っているわけではない。彼が本当は真面目で誠実な人間であることは、今日までのつき合いでハッキリしている。
(ハッキリしているはずなんだけど……)
普段のあまりにも堂に入った変人ぶりを見ていると、どうにも疑いたくなる。
それでも気を取り直して朋子の横に座り直すと、残りのアイスを口に運び始めた。
部屋のドアが乱暴に叩かれたのはその時だ。
「篤也ちゃん! 篤也ちゃーん!」
どんどんという音を響かせながら声をあげているのは花菱オーナーのようだ。
いつもはふざけた言動ばかりの篤也だが、相手の声が切羽詰まっていたためか、すぐに歩み寄るとよけいなことは口にせずに扉を開けた。
「何事だ?」
「あ、篤也ちゃん、聞いて!」
怯えた顔で現れた花菱は、篤也にすがりつくようにして話し始める。
「す、すぐ先の公園におかしな男がいるの! 最初はただの変な人かと思ったけど、朝からずっといて、木陰に隠れるようにしながら、アタシのマンションを怖い顔で睨み続けているのよ! あれは絶対に変質者だわ! だって変質的なオーラが出ているもの! アタシ怖くて怖くて!」
「変質者ならここにもひとりいるが」
混ぜっ返す希美だが、これには反応せずに篤也はそっと窓に近づいた。
かつては凄腕の暗殺者として名を馳せた彼は優れた魔術師でもあるが、こういう時、不用意に魔術を使ったりはしない。もちろん魔術ならば、より詳細に外の様子を確かめることが可能だが、相手に超常の力があった場合は、その魔力を感知されかねないからだ。
慎重に窓の外を覗き見た彼は、表情を険しいものにしてつぶやいた。
「確かにいるな。いかにも変質者といった男が」
「でしょ!」
同意を得られて多少なりとも安心した様子の花菱だったが、すぐにまた表情を曇らせる。
「でもどうしましょう? 放っておくのも怖いけど、お巡りさんを呼んでも、まだ何もしていないから適当に言い抜けられそうだし」
「何もしていないのですから、変質者と決めつけること自体早計ではないですか?」
常識人の朋子が文字どおり常識的な意見を口にするが、花菱はこれに悲しそうな顔を向けた。
「あなたの言葉は確かに理想ではあるけれど、残念なことに変質者は変質行為を行う以前に、すでに変質者なのよ。何か起こってからでは手遅れなの。なんとか早々に追い払う方法を考えなくちゃ」
「それも考え方としては間違ってませんが、確証もなしにどうにかするっていうのはさすがにマズイでしょ」
エイダは法の番人たる円卓の騎士らしく、真っ当な主張をすると、自分も窓に近づいて、そっと外の様子を窺った。
「変質者ってアレですか?」
「ああ、見てのとおりあまりにも変質的だ。変質者であることを疑う余地などないほどに完璧に変質者だ。“陽楠市見るからに変質者コンテスト”でもあれば、ぶっちぎりの一位になることは疑いの余地がない」
「そうですか? わたしにはただの冴えない若者にしか見えませんが」
「いや、あれはそう思わせておいて、いきなり人に手錠をかけるような男だ。変質者以外の何ものでもない」
篤也の言葉を聞いて朋子が呆れた声を出す。
「それってつまり、先生がさっき話していた刑事さんなんじゃ……」
「え? あの変質者がお巡りさんだっていうの?」
花菱が目を丸くする。
「うむ、まったくもって嘆かわしいことだが、あの刑事は現職の変質者だ。裏から圧力をかけて私への嫌疑は撤回させたはずだというのに、ここまで追ってくるとは変質者の鑑だな。もちろん褒める気は毛頭ないが、見事だと感服するしかない」
「褒めてるし……だいたい、それを言うなら現職の刑事でしょ」
カップアイスを片手に呆れた声を出す朋子。スプーンで一口すくってから、さらに言い足す。
「ようするに、その人は先生が怪しすぎて容疑の取り消しに納得がいかないんだよ」
「つまりは青臭い正義感というわけか。くだらんな。そんな甘い考えで、この世の中が渡っていけるものか」
「先生、顔と台詞が完全に悪役だからね」
「おっと、それはいかんな。胸に秘めておくべきものが、つい外に出てしまったようだ」
「胸に秘めてる段階でアウトだから」
「なんにせよ、このままにはしておけん。公園まで出向いて、からかって――もとい、抗議してくれよう」
篤也は仏頂面のままサングラスをかけて、さらに麦わら帽子をかぶると、ワイシャツのまま颯爽と部屋を出ていく。その肩にふわりとコカトリスが飛び乗った。
面倒くさいとは思いつつも、やはり多少は気になる。残りのアイスを食べ終えてから、希美はゆっくりと後を追いかけることにした。
「希美ちゃん、お任せ」
暑いのが嫌なのか、そもそも面倒くさいからか、朋子が手を振って見送る。
代わりというわけでもないだろうが、エイダが立ち上がってついてきてくれた。
「みんな、必ず無事に帰ってきて」
ドアを閉める前に花菱が不安げな声を出すのが聞こえていた。
セリフだけは戦士たちを見送る可憐なヒロインである。