「こんなところまで、ご苦労だな。冴えない
「あ、あんたは!」
「残念だが、貴様に私を逮捕することはできん! 司法の犬など闇の組織の力の前では、まったくの無力なのだ!」
希美とエイダがその場にたどり着く前から、ふたりの大きな声が聞こえてくる。
犬の散歩をしていたどこかのおばさんが、何事かと足を止めている姿が目に入った。
「人払いの結界でも張っておくか」
やや大げさな気もするが、わざわざ恥を広める必要もない。
希美は術式を瞬時に組み立てると、無言のまま発動させた。
この術は魔術師にとってポピュラーなものだ。超常の力の隠匿は裏社会の人間にとって義務に等しいため、ほとんどの魔術師が、これを習得している。
効果には段階があって弱いものは、なんとなくそこから離れたくなるだけだが、最も強いものになると、その場所に近づこうとしただけで、理由も分からないままパニック症状をきたすほどになる。
ただし、最初から術の中心地にいる者と、強い魔力を持つ者には効果が薄い。また魔力が弱くても並外れた意志の強さがあれば、効果を打ち消すことが可能だった。
今回希美が使ったのは効果の弱いものだ。
発動させると次の瞬間には、おばさんはごく普通の足取りで遠ざかっていく。自分の精神に外部からの干渉があったことには、まったく気がついていないだろう。
「相変わらず見事ですね。呪文もなしにこうも安定した効果を発揮させるなんて」
裏社会のプロフェッショナルであるエイダに褒められて、希美は照れくさそうに頬をかいた。
「わたしは血統に恵まれているからな。もちろん努力はしたけど、自分の才能を努力の賜物だと豪語するつもりはない。それは傲慢というものだ」
希美の言葉にエイダは苦笑を浮かべた。
「耳が痛いですね。わたし自身、身に覚えがありますが、普通だと才能のある人ほど、自分の能力は努力によって培われたものだと言い張る傾向にあります」
「人間が与えられる才能ほど不平等なものも稀だよ。努力だけで結果が得られるはずはないし、人によっては健康面や経済的な事情で努力の機会すら得られないことが多々ある」
「虚しい現実ですね。その点で言えば、わたしなんかはメチャクチャ恵まれてますよ。なおさら心しておかなかれば」
エイダの亡き祖父は人格的には問題があったが、世界最強と謳われる十二騎士のひとりだった。その才覚と功績によって没落していたアディンセル家を立て直し、一代で莫大な財を成したという。
父親は騎士ではないが、彼もまた、元老院直下の組織に所属していて、円卓内部で強い発言権を有していた。
その後ろ盾はエイダが好む好まざるかは別として彼女にとって大きなプラスとなったはずだ。
この手の情報は、本人がとくに秘密にしてないということで、篤也の口から聞かされたが、その一方で希美は自らの経歴を偽っている。
真実を知っているのは朋子だけだが、このところ隠し続けることに罪悪感にも似た感情を抱くようになってきていた。
秘密にしていることには、それなりに大きな理由があるのだが、仲間にさえ打ち明けずにいることは果たして正しいのだろうか。
そう考えて、希美はあえて「血統」などとボロが出るような言い回しをしたのだが、エイダはそれを軽く流してしまった。
迷った末に足を止めて、希美は遠慮がちな声を出す。
「なあ、エイダ……。本当を言うとわたしは……」
「構いませんよ。あなたが孤児でないことは分かっていますが、その事情までも無理に話す必要はありません」
「エイダ……」
「すべてを明かしてもらわなければ、相手が信じられないというほど、私は狭量ではないつもりです。人にはそれぞれ事情があります。それに、考えようによっては秘密があることも、その人の愛すべき個性なので、詮索なんて無粋なだけですよ」
意外な思いやりを見せる戦友に、希美はそれを意外だと感じている自分を恥じた。何度も死線を共にくぐり抜けた相手だというのに、その内面をまだまだ理解できていないようだ。
そんなことを考えていると、エイダはイタズラめいた笑みを浮かべた。
「わたしがこんなことを口にするのは意外だとか思っていますね?」
「そ、そんなことは……」
見透かされて焦るが、彼女は気にする素振りもなくつぶやく。
「いえ、実は師匠の受け売りなんですよ」
「お師匠様? 円卓十二騎士の……」
「ええ、世界最速の騎士、マーティン・ペンフォードです。わたしもスピードには自信がありますが、師匠にはまるで及びません」
苦笑いを浮かべつつも、それを語るエイダの顔はどこか誇らしげだ。
「戦闘技能はもちろんですが、師匠からは実に多くのことを学びました。今の言葉もそのひとつです」
「そうか……。立派な人なんだな」
「ええ、本当に」
しみじみとうなずくエイダ。おそらく故郷にいるその人のことを思い返しているのだろう。遠い眼差しを空に向けてつぶやく。
「人々は師匠の強さや功績ばかりに目を奪われていますが、本当はその人柄こそが尊いものだと思うのです」
それは希美にとっても共感できる言葉だった。
希美の父もまた、魔術師としての才覚ばかりが世に知れ渡っていたが、あれほど気さくで思慮深い人間は、なかなかいるものではない。
母親にしても然りだ。彼女は高名なヴァイオリン奏者だったが、希美にとって重要なのは、その才能ではなく人柄だった。
ふたりはすでにこの世になく、そのぬくもりを感じることさえできないが、注いでくれた愛情が、受け取った言の葉の数々が、今も希美を支えてくれている。
「ありがとう、エイダ。その言葉に甘えさせてもらうことにするよ」
「はい」
朗らかに笑うエイダ。いつもどこか生意気そうな笑みを浮かべている彼女だが、この瞬間の笑みには険がなく、とても魅力的に思えた。
「さあ、行きましょう。先生と刑事の話がこじれる前に」
促されて希美はエイダと並んで歩き始めた。