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だけど絶対に愛しない
だけど絶対に愛しない
四森
文芸・その他純文学
2025年06月01日
公開日
3.4万字
完結済
受験生の十(とおる)が暮らす実家には、引きこもりの兄・克(かつ)がいる。そんな克はカードに文字を書いて意思表示をするのだが、ある日、カードを返してほしいと言い始めた・・・

『だけど絶対に愛しない』(上)

 兄っていうのはつまり、母親のお腹から出てくるのがちょっと早かったっていうこと。

 母親のお腹にいた時点だけを静止画的に観測すれば、兄と弟の初期の肉体にはほとんど違

いなんてなくて、違いが生まれるのは生まれた後だっていうこと。

 でも、生まれた瞬間に弟は弟。

 しかし!兄は兄が生まれた瞬間には将来兄になる可能性ははらんでいるものの、母親が

弟をはらむまで兄になることは確定的ではない。

 ところが、弟は母親のお腹にはらまれた時点で兄がいることが確定。兄は生まれた瞬間

には一人っ子。だから、兄弟のようなお手本なしに自力で子どもとしての生き方を手繰り

寄せなければならない。一方、弟は兄というお手本がいるので、ある程度どうやって子ど

もとしてふるまえばいいのか思い至りやすく、楽だといえば楽だ。もっとも、良いお手本

になる兄もいれば、反面教師という意味合いでしか手本になりえない悪い兄もいるだろう。

 あれ、兄貴のことを否定したかったのに、これではまるで兄貴はお手本がなかったから

躓いたみたいで。それで、自分はお手本があったから躓かなかったみたいな受け止めを与

えかねない。

 そんな、兄貴を擁護するつもりなんて微塵もなくて。先に生まれて堂々としている兄は

兄なはずで、でも多様性の時代だから兄の兄としての様々なあり方も、あっていいはずで

はある。多様性を賛美するならば、兄ならぬ兄、弟ならぬ弟もいていいはず。そもそも、

もはや兄とか弟とかもう、そういう概念自体が古いのかもしれなくて。

 それはつまり、兄だからこう、弟だからこう、なんていう着想そのものが前時代的であ

るのかもしれなくて。

 だから、兄がどうの、弟がどうの、でものを考えてしまう、この弟としての自分の頭は

骨董品のように、実用では使い物にならない代物、遺物である可能性があって。まあ、な

にもそこまで卑下する必要もないのかもしれないけれども。

 自分にはこのさき大学受験っていうそれなりに大きなイベントが控えているのに、実家

に三歳上の兄が棲息しているのは、なんともやりきれないもので。生息よりも棲息って表

現のほうが、なんとなくヒッソリと息をひそめている感じがして兄貴にピッタリに思えて。

大学受験を控えているとはいえ、でもまだ自分は高校二年生。それで、今は秋。まだ、

受験勉強は本格化してきていない。もちろん、塾で個別指導は受けているけれど。高三に

なったら勉強勉強で嫌気がさすだろうなと思えて。そんな時に隣室に兄貴が閉じこもって

いるのはちょっと言葉にしがたい辛みちゃんってやつ。

 人生におけるイチ過程を「躓く」なんていう凡庸な言葉で表していいのかは判然としな

いけれど、本当だったら大学生になっているはずの兄貴が躓いたのが、まさに大学受験勉

強による挫折であると、自分は以前に兄貴から教えられたはずで。だから自分は兄貴の失

敗例を間近で見ているからこそ、躓けないプレッシャーなんてあって。まあ、そんなもの

本当は無いはずで。

 でも、なんとなく、両親からの「兄と違って、弟のお前は大丈夫だよなあ?」っていう、

考えすぎかもしれないけれど。両親はそんなに意地の悪い本音を持ってはいないのかもし

れなくて。まあ、兄弟揃ってニートだけはマジで詰むってことは、思わないまでも本能的には直感しているはずで。確率の問題でいうと兄弟が揃ってニートってのはなかなかのレ

アな展開かもしれない。けれども、自分

たちが直面しているのは確率の問題なんかでは断じてない。

 まあ、両親がどう思おうが、弟の自分だって躓くときは躓くだろうし。兄貴だって別に

躓きたくて躓いたわけでもないだろうし。だから、兄弟揃ってニートのルートを回避する

ってのは、実は弟の自分の固い意志だけでコントロール出来るものでもなくて。当然。

そんなこと両親だって当たり前に了解しているはずで。だから、まあ、両親に出来るこ

とといえば寺社にお参りにでも行き、学業成就のお守りでも貰い、自分に渡すことくらい

しかないはずなのであるが、自分は両親からそのようなものを受け取ってはいない。

 兄貴の言葉が落ちていて。

 伊坂幸太郎の『重力ピエロ』の冒頭<< 春が二階から落ちてきた。>> みたいな表現をちょ

っと真似してみたいなあ、なんて思っちゃったわけじゃあないんだ。まあ、『重力ピエロ』

のこともわざわざ引き合いに出さなければ誰も連想しないかもしれないけれども、それは

それで卑怯であると感じるから、こうしてわざわざ引き合いに出すわけで。そして、この

伊坂幸太郎リスペクトだってのは、誰かに伝えなくてはいけない思念であるような気がし

て。むろん、これは自己満足ってやつかもしれないけれども、少なくとも伊坂幸太郎を自

分は他の人たちとは共有できていなくて。他の人たちっていうのは、いわゆる同級生みた

いな近しい人たちっていう意味合いでのことだけれども。

 『重力ピエロ』における<< 春>> っていうのは兄弟のうちの弟のほうの名前で、<< 春が二

階から落ちてきた。>> っていうのは比喩でもなんでもなく、ただ、弟が二階から落ちてき

たことを兄の視点で描写した文章にすぎなくて。

 そんな伊坂幸太郎の『重力ピエロ』における兄弟とは別に自分・弟と兄貴の世界線は存

在していて。

 もちろん。

 小説の中の世界線と全く同じ世界線に現実の人間が存在することは出来ない。どんなに

完璧に現実をトレース出来た小説があったとしても。小説には必ず誇張と省略があるから。

誇張と省略のないものを小説とは呼ばないのだ。小説なんか一つも書いたことのない自分

にもそれくらいわかる。だから、自分ももし小説を書く機会があれば、誇張と省略を用い

て世界観を構築しなければならないとわきまえているわけだけれども、まあ、小説なんて

書かなくても生きていける。

 話がずいぶんと脇に逸れた。<< 兄貴の言葉が落ちていて。>> という文章が伊坂幸太郎の

小説のパロディであることさえ伝えれば良かったのだ、本当は。

 兄貴の言葉が落ちていて。

 兄貴の言葉が落ちていて、っていうのは『重力ピエロ』の場合と同様に比喩でもなんでもなく、兄貴は名刺くらいの大きさの硬いカードに文字を書くことによって意思表示をす

るんだって。

 そして、そのカードが床に落ちることはありえる、ってわかるだろう。

 物理の話だ。

 だから、兄貴の言葉が落ちていて、っていうのは比喩でもなんでもなく実際にありのま

まを表現したにすぎない。これを、「兄貴のカードが落ちていて」という表現にしなかっ

たのは、うーん、なんでだろう?

 『重力ピエロ』を引用しているから断っておかなくてはならないけれど、自分と兄貴の

父親が違うなんてことはたぶんなくて。

まあ、DNA鑑定でもしてみなくては本当のところは分からないはずだけれど、そんな

に込み入った話にはならないでほしくて。

願うと願わざるとに関わらず、そんなに込み入った話になってしまう時にはなってしま

うし、そんなに込み入った話にならない時にはならない。それは天のみぞ知るというやつ

で。

 兄貴はそれこそ社会から孤立するようになってから、名刺みたいなカードに自分の言葉

を書いて意思表明をするようになった。

なってしまったというべきかもしれない。

その文字は横書きで、カードの右下には「克(かつ)」という兄貴の署名がある。どう

もその署名こそが、カードに書かれたことが兄貴の言葉であるという証明らしい。

 面倒くさいことに、兄貴は声を出さなくて。失語症っていうわけではたぶんなくて。口

で喋ろうと思えばきっと喋れるはずで。

兄貴とカードを通じて、カードを使う理由を耳にした、いや目にしたことがあって。

 ―― 母さんと「言った・言わない」でケンカなった(克)

 ―― これからはカードでしゃべる(克) 

―― これなら言った・言わないにならないだろ?(克)

 ―― このカードっていうショウコがあるからな(克)

 ―― これから渡すカードは大事に取っといてくれよ(克)

 ―― 俺が言ってないことを言ったみたいに…… (克) 

―― 俺が言ったことを言ってないみたいに…… (克)

 ―― されないためにこのカードがあるんだからな(克)

 兄貴は一度決めたら頑固だ。頑として社会に交わろうとしないし、口で喋ることもしな

い。我が三島家での兄・克という課題が雪解けに達するのはいつになることやら。

 季節は雪の時季にはまだまだほど遠く、残暑がそれはもう厳しくて。いったいいつまで

残れば気が済むんだ、暑さ。それでいて、気付いた時にはもうすっかり寒くなっているの

だから気候というものは油断がならない。

自分の部屋は実家である一軒家の二階、もちろん兄貴とは別に一部屋与えられていて、

兄貴の部屋とは隣合わせで。

 一枚壁を隔てて兄貴が生きている。兄貴が自身の部屋を出てトイレにでも行こうとしているな、という気配を察知するのは壁一枚の隔てでは容易といえる。

 塾が終わって十時頃に帰宅し、ベッドに腰掛けていると、隣の部屋の気配が動き出し、

自分の部屋の扉の前に移動した。

 扉に注目すると、扉の下の隙間からスッと何かが差し出される。何かという言い回しは

余計だと思える。もちろん、例の兄貴のカード以外の何ものでもあるはずがない。決して

牛丼屋のクーポン券なんかの類ではない。兄貴は実用性とは反対方向のベクトルで生きて

いる。

 ―― 今までのカードを返してほしい(克)

 自分は引き出しに兄貴のカードを溜め込んでいた。今すぐ全部まとめてひっくるめて兄

貴に返そうと思えば返せる。

 兄貴は引きこもりみたいなもんだからネガティブな呪詛の言葉しか出てこない、なんて

ことはなくて、兄貴のカードには、

 ―― 十はジマンの弟(克) 

―― 十はユウシュウだから東大でもなんでも行ける(克) 

―― こんな兄ちゃんで悪かったな(克)

 なんて言葉が綴られていることもある。そういう記憶もあるし、ちゃんとそういうカー

ドもある。記憶と記録の二重保証。まったくもって安心安全で。

 十(とおる)ってのは自分の名前で。十と書いてトオルと読むことの説明やら自己紹介

やらが面倒で面倒で。だから、自分は自己紹介でもほとんど喋らないし、そしてそれ以外

の場面においても同級生たちと話すってことがなくなっていて。

 つまり、自分に友だちと呼べる者がいないのはこの名前を与えた両親のせいって考える

のは、でもあまりに短絡的、被害妄想的かもしれなくて。

 しかし、自分の主張として。苗字で呼び合う中学生・高校生時代はさておいて、小学生

のとき周りの同級生からしたら、「あれ。こいつの下の名前なんだっけ?たしか、十…… 。

でも、ジュウって名前なわけじゃないんだよな。めんどくせ。話しかけるのやめよう」と

思われていたかもしれなくて。小学生の頃ってそんなに整理された思考をしていたっけ?

それはさておき、小学校で馴染めなかったのが中学・高校でもそのままずるずると引きず

られた人生で。中学デビュー、高校デビューなんて自分にはほど遠くて。

 兄貴には「あ。ちょっと後でまた返事するから」とだけ言い、兄貴のほうでもおとなし

く自身の部屋に戻ったので、ホッとする。

自分は一階のダイニングルームに降りると、ちょうど母親が夜食の準備をしていたので、

聞いた。

「兄貴から、カード返してくれって言われなかった?」

 母親は家事の手を止めず、まるで右から来た質問を予測変換で左に回答するみたいに言

う。

「うん。言われたっていうか、そういうカードなら貰ったけど」

「カード返したの?」

「うん。私が、逆らうようなことすると思う?」

 母親のあまりにも他人事な態度に腹が立った。まるで兄貴の異変に重要さの欠片すら捉

えていない。いや、自分が考えすぎなのか?

それにしても、なんで、何とも思わないのだろう?

 何かが起こり始めているのに、気づいているのはまるで自分だけなのか?

 なんで気づかない?

 弟だから分かるのか?

 親には分からないのか?

 兄貴がカードを回収し始めた。これは、兄貴のなかで何かが動き出している証だ。

 自分の中で、兄貴が今後とる行動についての良い予想と悪い予想がある。

 前者は、兄貴がニート生活をキッパリとやめて、社会と混ざり合っていくこと。

 後者は、具体的には言えないのだが、とにかく良くないこと。

 階段をドタドタと駆け上がり、隣の兄貴の部屋の扉を叩く。

「ねえ。なんで、カード返さなきゃいけないの?」

 気配が扉の向こうで動いた。カードに文字をしたためている。カードを書くのも手慣れ

たものだ。

 扉の下の隙間からカードが差し出される。

 ―― 特に理由はない思いつきだよ(克)

 絶対に嘘だ。何年兄貴の弟をやっていると思っているのだ。憤懣遣る方無い心持ちだと

でも言おうか。

「ちょっとさあ。机の奥に落ちちゃってるのとか、あると思うから。まとめて渡すから、

ちょっと待ってくれない?」

 ―― 待つ(克)

 ひとまず時間稼ぎ。兄貴はきっと、カードの回収を終えるまでは、次のコトを起こさな

いであろうと、克の弟・十を十数年やっている身として確信する。

 兄貴はいったい何を考えているのだろう?

でも、それよりももっと訳が分からないのは、自分さえも自分が何を考えているのか分

からない時があることで。

 だから、自分は兄貴が何を考えているのかの心配をするよりも、自分が何を考えている

のかの心配をした方がよいのかもしれなくて。そうすれば、自ずと兄貴が何を考えている

のかも見えてくるかもしれなくて。

 だって、兄弟だから。

 兄・克、弟・十。

 伊坂幸太郎の『重力ピエロ』では、母親は同じだけれど、父親が違うという兄弟が出て

きて。

 でも、克と十の父親は(そして母親も)たぶん同じであると思えて。

 だから、物語性が生じる神秘なんか、自分たち兄弟の中には隠されていないような気が

して。兄弟のあいだに隠された秘密をめぐる冒険の旅に出る必要もない。

 それは、そういう物語性への羨望はあるけれども、現実に冒険が立ち起こった場合面倒

くさくて仕方ないのだろうなと思えて。

現実的すぎる?もうちょっと夢見てもいいのか、自分。でも、誇大妄想を抱かないのは

わずかばかり自分の精神状態が健全寄りであることの証明かもしれなくて。

 兄貴が学校に行かなくなったのは高校三年生の九月。通っていた高校の校内模試を欠席

してからというもの、ずるずると休み続けた。

不登校となった長男を見て、両親は兄貴が学校でトラブルに見舞われたことも想像した

だろう。何かの拍子に兄貴と現状に至った理由の話になり、兄貴は、 

―― 自分の問題(克)

 ―― ジュケンベンキョウについていけなくなった(克)

 ―― まわりは出来るのに自分が出来ないのが恥ずかしくて(克)

 と書いた。

 同じ説明を、兄貴は不登校になり始めた当時は口で喋っていたわけだから、口頭で両親

にしたのだと思う。

 それを聞いて両親は当然、志望校のランクを下げることも助言した。でも、兄貴の高校

は名門私立大学の系列校で、ほとんどの生徒が推薦入学やら自力で受験するやらして系列

の大学に行く。兄貴の成績ではそのどちらも叶わなかった。そして、高校で周囲と溶け込

めていなかったのなら逆に良かったのかもしれない。しかし、現実はそうではなく、親し

い友人たちが皆その大学に行くなかで、一人だけ違う大学に行くことは考えられなかった

らしい。

 兄貴はニートであることを除けば、カードでではあるが家族とも会話をしてくれる。

 弟にこう評されるのは兄貴にとり口惜しいだろうが、兄貴もまだまだ子どもだといえる。

もちろん、自分も。

 でも、自分は大人にならなくてはと思えて。せめて、兄貴の敵を討つといったらおかし

いかもしれないけれども。大学受験を敵とするというより、むしろ子どもから大人に至る

までに設定された通過儀礼という概念そのものを敵とするみたいに。

 十と克と、母・由紀子(ゆきこ)と父・十士郎(としろう)が暮らす一軒家は、街の外

れにあるちょっとした山の麓にあって、最寄り駅までは十分ほどで出られる。本数の少な

いバスを待つような便の悪さはないので気楽なものだ。

 駅を越えて反対側には商店街があって、自分が通う進学塾もそこにはある。シャッター

商店街とはいえないほどに、営業している店舗がそれなりにあり、雑居ビルなんかには、

法の網をかいくぐる薬草でも売っているのではないかとさえも思わせる怪しげでディープ

な一面もあった。

 昔の小説や映画に出てくる不良少年なんて言葉は今ではあまり使われないだろうが、そ

ういういわゆる「輩」と呼ばれる人たちが出入りするみたいなちょっとバイオレントな匂

いもあって。

 十と克のミニマムな世界。せいぜい、自分は電車で二駅の高校に通うだけ。高校の授業

が終わったら、塾で指導のある日は塾でそれを受け、指導がない日は塾の自習室で勉強を

するだけ。

 でも、これから。

 これから大学へ行って、社会人になって、世界が広がる。いや、世界を拡げる。

 しかし、世界はもともと存在していたものだろう?決して、自分で獲得するものとは言い難いかもしれない。

 夏目漱石の『三四郎』では、

<< 「日本より頭の中のほうが広いでしょう」>>

 と立派そうな人物の台詞として書かれていた。

 そういう意味では、兄・克のほうが見ている世界は広いのかもしれない。

 所属している世界は、自分のほうが広くて、でも見ている世界は克のほうが広いみたい

に思えて。

 だから、自分は世界に所属はしているけれども、世界と対峙はしていないのかもしれな

くて。とはいえ、じゃあ、兄貴が世界と対峙しているというのもどうも微妙で。まあ、世

界と対峙なんて大袈裟なことは他の誰かに任せて、アルバイトか何かと対峙くらいはせめ

てしてほしくて。もっとも、自分も兄貴も、充分な小遣いを貰っているので、お互いにア

ルバイトというものを生涯経験したことがないのだけれど。

 夜九時すぎに塾を出ると、商店街にいる人間たちはどこか浮かれていて、酔客のアンコ

ントロールぶりが嫌で。兄貴のように酔わなくてもちょっとおかしい人たちだっているの

に、わざわざ自分からすすんでおかしくなるのは何故なのだろう。自分も大人になれば酒

に頼ることになるのだろうか。

 まあ、自分のことを棚に上げて兄貴だけをおかしいと表現するのはいかがなものか。自

分もそれなりに狂気をはらんでいる自覚がある。ただ、自覚があるぶん自覚なき狂気より

はいくらか正常に近いと思えて。

たしか、夢野久作の『ドグラ・マグラ』でこんな描写があった。精神科医が、ある精神

病患者から、その患者本人が「自身は正常である」ということを証明するために自身で手

掛けた創作物を受け取る、というもの。どうも、精神的な混迷にある状態から前進するた

めの第一歩はそれに気付くことらしい、という教訓を自分に与えてくれた。

 帰ってくると、隣の部屋から賑やかな様子が伝わってきた、もちろん、兄貴が客人を招

いているはずもない。

「君もわかるだろう?十は、勉強を頑張っているんだ。なんといっても、俺という反面教

師がいるわけだからな。俺に出来なかったことを十にはやってほしいんだ」

 兄貴が口を使って喋っているということは、架空の相手に向かって話しているというこ

とにほかならない。

 妄想の人間相手との会話。

 なんらかの精神的困難に陥っている人間が、妄想で会話を繰り広げるというのはありえ

そうだ。ただ、その場合、妄想相手に会話をしている本人は、妄想を相手にしているとは

認識していないはずだ。妄想だと認識していれば喋らないはずだから。

 けれども、兄貴の場合はどうだろう。自分や両親といった実在する相手には、カードを

使って会話する。決して、自分や両親との会話に口を使うことはない。兄貴が口を使って

喋っているということは、自身が話している相手が妄想の人間だと認識しているのか。そ

ういう認識がありながら、発話するということがありえるのか。

 まあ、妄想の相手だと理解できていたら喋らない、っていうのは精神的困難に陥ってい

ない者による、あくまで正常であるとされる者による憶測であって、精神的困難は複雑だ。例えば、兄貴は妄想の人間相手にもカードを差し出すのかもしれない。でも、妄想の人

間はそれを受け取らない。

 だから、口で喋る。こういう受け止めも出来る。

 とはいえ、あの頑固な兄貴が、自分ルールを曲げるとは思えない。

 兄貴はしっかり相手が妄想の人間であると理解したうえで、それでもストレス発散か何

かのつもりで声を発しているというのが、どうやらしっくりくる説明になると自分には思

えた。

 声を出そうと思えば出せる人間が、たまには声を出さないとストレスも溜まるはずであ

ろう。

 ここで自分はふと思う。逆説的にいえば、兄貴が自分や両親に対して口を使って喋りだ

したら、自分たちのことを妄想の世界の住人だと思っているということになりはしない

か?

 おっと、これじゃあまるで兄貴がカードを卒業して再び口で喋る日がくる可能性を否定

しているみたいだ。

 兄貴がカードをやめ、普通に口を使って喋りだす時には、「もうカードはやめたんだ

ね?」という確認をとらなければならない、と心に刻む。兄貴がカードを使うのをやめて

口で話し始めた、良かったと思っていたら、実は自分らのことを妄想の相手だと思って口

で喋ってた、なんて笑い話にもならない。

ちょっと落語っぽいかな?いや、アメリカンジョークの類か?

 落語の知識もアメリカンジョークの知識もない自分の薄弱な表現でしらけてしまうとこ

ろだから、もっと知識があったほうがいいなと自分は反省をして。

 なにせ、知ったかぶりは良くない!

 まあ、とにかく、まるで兄貴が口を使って喋る世界線が来る感じがしなくて。

 兄貴がカードをやめるということは、もう何もかもをやめるということなのではない

か?そんなことはない?

「十が大学に受かってしまえば、俺はもう一安心だ。準備は進めている。カードの回収を

してるんだ。十からはまだ受け取ってないけど、そのうち渡してくれると思う。十からも

回収出来れば、これで全部消せるんだ」

 自室の勉強机の上に兄貴から貰ったカードを並べ眺めていて。そこには、自分のことを

肯定する言葉しか綴られていなくて。でも、本当の言葉はそこには書かれていないような

気がして。そのカードの上に文字として連ねることで、あたかもそれが本当であると、言

い切ってしまう、いや書き切ってしまうようで。そこに書かれれば、噓が本当のことにま

でなってしまうようで。

 人間は口頭ですら噓をつくことが可能で。書面となれば尚更。

 いや、立ち止まって考えたい。むしろ、その言葉が本心であるのだ、と素直に受け取る

ことの出来ない自分の心は、荒んでいるのかもしれなくて。

 たしかに、こうなる前から兄貴は、自分のことを気にかけてくれていて。でも、よっぽ

ど干渉してくるというわけではなくて。なにか、弟として困ったのポーズをした時に受け止めてくれる感じ。優しく見守る感じを持った兄貴だったような気がする。

 漠然としすぎているなあ。そうなのだ。じゃあ、具体的に兄貴のエピソードは?と聞か

れるとちょっと困ってしまう。一緒に食卓を囲んでいた時に醬油やらソースやらを取って

くれたくらいしか思い出せない。

 そんなバカな?

 兄貴が自分にしてくれたことが醬油やらソースやらに集約されてしまうだなんて。あま

りにも兄貴が可哀想。もっと何かしら恩を受けているはずなのに。勉強を教わったことだ

って確実にある。でも、なんの科目かは思い出せないけれど。

 自分ってもしかして、あまり人のことを見ていないのかもしれなくて。自分は人の見た

いところしか見ていなくて、見たくないところは見えないふりをするのかもしれなくて。

それは兄貴による「三島十」観にしても同じこと。兄貴は三島十の役立たずでクソみたい

な人間性には触れず、「優秀だ」とか褒めるばかりだ。

 そして、今度は自分が持つ「三島克」観についてだが、彼が繰り出すカードばかりを見

てしまうのかもしれなくて。

 兄貴のカードには、自分が言われたいと思っていることが書いてあるからかもしれなく

て。気に入らない言葉がカードに書かれていたとしたら、見なかったことにしてしまって

しまえばいいし。引き出しの奥に分別のトレイでも作って「これは言われて嬉しい好きな

言葉のカード」、「これは言われて嫌だった忘れたいカード」なんて分類、そんなことは

もちろんしていない。というか、する必要がない。兄貴は自分が読んで嫌な気分になるこ

とをカードに書かないから。

 でも、今となっては兄貴の優しさなんて存在しなかったのかもしれなくて。なんていう、

疑いさえも抱いてしまう。自分にとって、過去の中学・高校生時代の三島克も、隣の部屋

で息をひそめている今の三島克も、かろうじてぼんやりと存在していた(いる)ような気

がするだけで、たしかに存在しているのは、手元にあるこれらのカードだけで。

 もしかしたら、自分は兄貴に卑屈になっていてほしいのかもしれなくて。それであった

ならば何の情も抱くことなく、兄貴のことを軽蔑できるのに。

 自分は兄貴のことを軽蔑したいのか?まあ、「こんなクソみたいな兄貴がいて嫌になっ

ちゃう」っていう悲劇の主人公ぶりたい気持ちがこれっぽっちもないわけでもなくて。

とにかく、自分は兄貴の本当の言葉を聞きたい、いや読みたい。いや、どうなんだろう。

複雑。聞きたいようでいて、それでいて聞きたくないようでいて。

 自分にとってとても意味のあることは。三島十という単独の個体だけで存在を信じてい

るのではなく、兄・三島克とその弟・三島十という関係性のなかに組み込まれることで自

分の存在を信じているということだ。

これが、もし将来自立をするようになったとして、その時に兄がどうのと言っているの

ではいけないのかもしれなくて。三島十は将来もしかしたら、新しい家庭を持つことにな

るのかもしれない。その時に、○○の夫・三島十とか、△△の父・三島十とかいうふうに

自信を出来たらいいのだけれど。

 いつまで経っても三島克の弟・三島十をやっているわけにはいかないはずだ。

 きっと。


【つづく】

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