いつものように兄貴の部屋の扉に向かって語りかける。
「ねえ。本当のところ、僕のことをどう思ってるの?」
これではまるで、喧嘩中のカップルみたいな言い草だ。「愛してる」の言葉を言わせた
うえで、でも、それを聞いたところで「本当に?」と疑ってしまうような。
―― なんだよ急に!!笑(克)
「笑」の一文字だけで、こんなにも口頭と違うメッセージ性が生じて。だって、口頭で
は、「面白いね」と言って本当に面白いと思っていることにはならなくて。あたかも、ま
るで一切笑っていないような気すらして。だいたい、「笑」なんて書かなくても、自分は
兄貴が自分の質問におかしみを感じていることを察知できるんだって。ちょっと兄貴は自
分のことを見くびりすぎかもしれなくて。
「僕は兄貴の、本当の言葉が欲しいんだよ。僕のこと、鬱陶しくないのかよ」
まあ、まるで、メンヘラ。完全にメンタルがヘラっちゃってる。でも、それはお互い様
だろう。だって、それが証拠に兄貴からはこんな返答が来た。
―― それはこっちのセリフだよ(克)
―― こんな兄ちゃんで悪いよ(克)
それは自分からしたら兄貴の本当の言葉ではないと感じてしまう。
もっと酷いことを言ってほしいのかもしれなくて。「弟がいるせいで、『お兄ちゃんな
んだからちゃんとしなさい』って教育されて嫌だった」とかさあ。「一人っ子のままに親
の愛を独占したかった」とかさあ。「親から『弟の勉強見てやってくれ』とか言われてダ
ルかった」とかさあ。
そういうのはまるで無いのかねえ?
自分は抗弁する。
「そうやって、いつも兄貴のほうばかり下げてさ」
―― いやいや本当だよ十は模試の結果とかもだんちがいにユウシュウだ(克)
「模試がどうとか、兄弟で関係あるのかよ」
ただ、兄貴がこの模試ってやつにとてつもなく執着があるのは、今までの兄貴との会話
から充分に理解しているつもりだ。
実際に、兄貴のカードはこう続く。
―― いや俺の場合はさ高校の校内模試でマトモな点をとらなきゃスイセンもらえなく
て…… (克)
―― でもその時期どうせ点取れないからってフダンの試験はズル休みしてて……(克)
―― その流れでもういいやって模試の日にも休んじゃって…… (克)
―― クラスメイトから「あこいつ進学に大事な模試休んだやつだ」って…… (克)
―― 思われるのが嫌で模試休んだ日から学校行けなくなった…… (克)
―― バカみたいだよなそんなの誰が気にするかよそもそも俺も気にしすぎなんだよな
(克)
兄貴のカードにおいて、「まだ話はこれで終わりではない」という時は、文章の最後に
「…… 」と綴られている。「…… 」がないということは、これで兄貴の言いたいことは終
わりか。
兄貴が差し出してくるカードが湿っていた。兄貴が書いたボールペンの文字も滲んでい
て。自分は兄貴の文字がどれだけ読みづらくなっていようとも、解読する自信がある。だ
って、弟だから。
兄貴は泣いているのかもしれない。カードにしみ込んだのは兄貴の体から出た水分であ
るのかもしれない。
でも、兄貴が泣いているのかどうか、本当のところは体感できない。もし、口で会話を
していたならば、嗚咽とか不自然な呼吸とかで、「ああ。泣いているのだな」と体感でき
るのに。
事実としてあるのは、兄貴から差し出されたカードが濡れているということだけ。
結局、後に残るのはカードだけだ。
三島克という人間が存在したという事実を支えるのはカードのみ。いや、自分や両親の
記憶の中にはある。でも、それは不滅でなく、吹けば飛ぶような脆さで。そして、克はそ
のカードを回収しようとしている。このあいだは、「これで全部消せる」とかいう不穏な
ことを、口を使って妄想の相手に対して言っていた兄貴だ。
母親の三島由紀子は何も考えずにカードを返却してしまった。父親の三島十士郎が、カ
ードを返却したのかどうかは知らない。父親は出張が多く、帰ってくるのも自分が学校に
行っている昼間のことが多いようだ。
それにしても、兄貴がカードを書きながら泣いているっていう現実はあまりに茶番じみ
ている。いっそ、茶番の三文芝居だったらいい。兄貴が泣いていると見せかけて、カード
に目薬でもたらしていたら面白いのだ。俳優が涙を流すシーンで泣けない時に目薬を使う
みたいにさ。
とにかく、兄貴が泣いたのか、目薬をたらしたのか、なんてのはどうでもよくて、ただ、
湿ったカードを貰ったってことなんだよ、実際はさ。その他のことはもうオマケなんだと
思えて。
ピコーンッ!!
スマートフォンがメッセージの受信を知らせる。画面を見ると、父親からのLINEだ
った。
―― 今度、気晴らしに野球でも見に行かないか?
―― チケット貰ったの?
―― いや。お前がその気なら、買おうと思ってな
―― じゃあ、やめとくよしばらく勉強も区切りつきそうにないし
スマホの電源を切って、机の奥にしまいこんだ。以降、父親からどんなメッセージが来
るのかは気にしない。なにが野球だよ。こっちは兄貴のカードの回収のことで頭がいっぱ
いなのに。
でも、LINEで父親に兄貴のカードのことを聞くのは躊躇われた。それこそ、LIN
Eに文面で残るのが嫌だったのかもしれない。
自分のその時の考えが紙やらサーバーやらに残るのはとてつもなく不気味なことだ。だ
って、それはその時だけのものでしかないこともあるから。人間の考えって変わる。何年
も前にXでポストしたことが今になって掘り起こされるってことが著名人なんかだとある。
その時はXではなくツイッターだったし、ポストじゃなくてツイートだったのに、発信した内容だけがまるで不変のものみたいにさあ。
自分の抵抗もむなしいもので結局、父親と野球を見に来ることになってしまった。東京
ドームの楽天イーグルス対日本ハムファイターズの試合。
日本ハムは北海道に移転する前に、東京ドームを本拠地として使用していて、当時は東
京ドームを読売ジャイアンツと共有していたことになるらしい。
でも、この日の試合は、楽天イーグルスの主催試合で。楽天イーグルスは普段東北の仙
台にある球場を本拠地にしているが、時折本拠地以外の場所で開催する。それがプロ野球
だ、と父親は教えてくれた。
両チームは最下位争いを繰り広げていて、あまりペナントレースの一部としては盛り上
がりに欠ける。クライマックスシリーズに進出できることもおそらく自力では難しいくら
いまで取り返しのつかない順位に甘んじているのだ、とこれも父親の知識。ペナント?ク
ライマックス?レースとシリーズはわかる。
父親は、近鉄バファローズとオリックスブルーウェーブが合併して、結果オリックスバ
ファローズと楽天イーグルスが誕生したという話や、件の日本ハムが北海道に移転する前
には東京ドームを使っていたという話を得意そうに披露した。まるで、神話の一場面を実
際に目にしてきたような熱を帯びた語り口である。やはり何十年も何かの証人であるとい
うのはそれだけでその証人本人からしたら誇らしいものなのだろうか。そりゃあ、本能寺
の変やら桜田門外の変やらを生で見たって人がいたら、めちゃくちゃに凄いと思うけどさ
あ。まあ、それらと、日本のプロ野球と、大きな目で見たらそう変わりはないのかもねと
も思えて。
自分は野球の薀蓄なんかどうでもよくて。目の前で繰り広げられている、プロ野球の試
合にもあまり関心を持つことが難しくて。
でも、父親と今日こそ兄貴の話をする絶好のチャンス。何か気まずい展開になったとし
ても、球場の歓声がそれをかき消してくれるような期待をして。
「父さんはさ、兄貴から『カード返して』って言われた?」
「急になんの話だ」
「母さんはカード全部返しちゃったって」
「ああ」と言って、父親はしばらく黙りこくったあと、あきらめたように口を開いた。
「ここだけの話だけどな。父さんは、なかなか家にいないだろ?でも、克のやつは『父さ
んに渡しといて』って母さんにカードを預けるんだ」
「それ、どうしたの?もう返しちゃった?」
「いや。正直、克がカードを返してほしがってるっていうのも初耳だ。実を言うと、あい
つのカードは一枚も手元にない。自分で処分したんだ」
「え。なんで?」
衝撃で声が大きくなる。野球場のザワついた喧騒の中で周りの席の客の何人かがこちら
を見たものだから、その声量はそうとうなものだったに違いない。
「それも、カードの文面を読む前にな。克の書いた言葉を見るのが怖くて」
開いた口が塞がらない。でも、なんとか言葉をはく。
「信じられない。兄貴がどんな思いであれを書いてると思うわけ」
「お前は、お前の兄さんから責められる立場にないだろ。父さんは、克からどんな恨みつ
らみを吐かれても、おかしくないからな。怖いんだよ」
父親はそれ以降も何か弁明を続けていたようだが、自分の耳には入ってこなかった。も
しかしたら、兄貴のほうでもこういう意図があったのかもしれなくて。つまり、口で言葉
を発したら相手が耳でもふさがない限り、言葉が届いてしまうけれど、カードならば相手
が見なければ言葉を受信しないという選択肢がとれる。
父親の話を聞くまで、自分はそんなこと考えてもみなかった。
与えられたカード。
与えられる側は何ら判断の権利を有しないとばかり思い込んでいたが、まさか与えられ
たものを受け止めないという選択肢があろうとは。
父親による兄貴のカードを見ずに捨てるという行動にあっけにとられてしまったが、兄
貴が意を決して発信したものを読まないという態度が腹立たしくなってきて。責任がどう
とか言っていたが、自分も親になれば分かるのだろうか。
父親からカードを見ていない、それどころか見ないまま捨てたのだと打ち明けられた日。
母親から観測すれば、夫と次男が野球観戦に行った日のことであるが。その日から、自分
の心の中のモヤモヤがなかなか晴れなくて。そんなことは今に始まった話じゃなく、兄貴
が「カードを返してほしい」と言い出した時から。いや、兄貴がニートになってから。と
いうか、結局のところ、自分の物心がついてからずーっとそんな晴れないモヤモヤを抱え
ているのかもしれなくて。
カードの持つ意味をめぐって、人によってこんなにも差があると知って。でも、父親は
カードに書かれていることの意味を重く捉えているからこそ、読まないという選択をして
いるのかもしれなくて。そもそも、兄貴がどれほどの意味を込めてカードを書いているの
かもわからなくて。書かれたカードという実在がそこにはあるだけで。だからこそ、自身
の手で処分してしまったという父親の軽薄さに暗澹たる気持ちになる。
まだ、読まないにしても、どこか金庫の中にでも放り込んで、鍵をかけてしまっておく
のではいけなかったのか。いけなかったのだろう。処分してしまうことで読める可能性を
ゼロにしてしまう罪深さ。それは「業」といっても大袈裟でないだろう。でも、その不可
逆的な行為が重要なのだろう。そして、逆にいえば、処分してしまえば後になって読みた
くなっても読むことは叶わない。
ふと思いついて、自分は再び兄貴の部屋の扉の外側に立つ。
「ねえ。父さんからは、カード返してもらったの?」
父親は自身の手で処分してしまったカードの返却を迫られて、どう対処したのか。本人
の口からは聞いていなくて。でも、興味があって。
兄貴のカードで返事がくるのは驚くほど早い。まるで、始終扉の内側に耳をつけて弟の
言葉を待っているかのように。
そんなわけはないのだけれど。
―― ああ母さんがかわりに渡してくれた(克)
自分はそこで想像をめぐらせた。捨ててしまったカードをどうやって?
父親に渡ったカードはそのほとんどが母親を経由してのものだっただろう。カードに封
がしてあったわけでもないだろうから、母親は父親に向けたカードに目を通していた可能
性がある。もしかしたら、それらのカードをスマホで写真に収めていたかもしれない。
だとしたら、母親は父親が捨ててしまったカードを捏造したのかもしれなくて。兄貴の
署名入りのカードの紙自体は、もともとは商店街にある百円ショップで売っているものだ。
そして、兄貴の筆跡を真似て写真を元にカードの文面を書いて捏造して。とにかく、母親
ならいくらでも兄貴のカードの模造品を作れるに違いない。兄貴がすり替えに気づいてし
まうリスクはあるけれども、まさか兄貴のほうで自分のカードを一枚一枚写真に収めてお
いて、母親から受け取った父親に渡したカードの「鑑定」をおこなっているとはどうにも
考えられなくて。
母親は夫が長男のカードを捨てることを予期していた?
だとしたら、三島由紀子は母親としても妻としても優秀に思える。母親は克のカードの
回収にまるで興味がない風を装っているけれど、実際のところは大立ち回りをしているこ
とになる。けれども、母親に事実確認をする勇気は自分にはない。ある程度、曖昧なこと
にしておいたほうがいいこともこの世界にはあるはずで。自分はこの世界の不確かさを何
故こんなにも愛するのだろう。確定させてしまうともう確定する前には戻れないという不
安はいつまでもどこまでも自分に付きまとっている気がして。
―― それがどうかした?(克)
「いや。なんでもない。邪魔したね。じゃあ」
その日も、いつもと同じように塾に行くつもりで。学校が終わって一人で駅まで歩き、
電車で二駅ぶんのそれほど退屈でもない距離を乗り、自宅の最寄り駅でおりて商店街へと
足を運んだ。そのとき、LINEの通知があり、個別指導を担当している岡室(おかむろ)
先生が本日休みになったというメッセージを受け取った。塾の近くのコンビニの前で、一
緒に岡室先生から指導を受けている塾生がいるのを見つける。そんなに話したこともない
のに、自分は「今日、むろせん休みだって」と言っていて。でも、その塾生はコンビニか
ら出てきた別の塾生の女子と話し始めた。
二人は自分のことを「なんで、こいつは話しかけてきたんだ?」と思った。
思った?なぜ、思ったと断定できる?
いや、そう断言はできなくて。でも、二人がそう思ったように感じて。道を真っ直ぐに
行くと塾があるので、本当は自習室で勉強をしようと思っていたのだけれど、何か思い出
したことがあるみたいにコンビニの手前を曲がって路地裏に入った。もちろん、思い出し
たことなんかありはしなくて。思い出すべきことなど何一つもなくて、自分がやるべきこ
とは思い出すことじゃなくて、忘れないことで。
ここ数日、勉強の合間の休憩時間を使って、サブスクでスタンリー・キューブリック監
督の映画『アイズワイドシャット』をちょっとずつ見ていて。そのせいか、今日はな
んだかいつもと違うことが起きるような気がして。
<< アイズワイドシャット>>
=<< 目をパッチリと閉じる>>
パッチリとよく閉じた目で、よく見ろ。いや、よく見るなってこと?
映画監督のスタンリー・キューブリックについて気になってネットで調べたのだけれど、
彼は飛行機が大の苦手でイギリスからほとんど出ることはなかったらしい。それでいて、
『アイズワイドシャット』の舞台はアメリカのニューヨークだ。そのほとんどのシー
ンはロンドンで撮影されたという。自分の目には、「これはニューヨークっぽいなあ」と
映っていたけれども、実際のところニューヨークがどんな風なのかは知らなくて。自分は
キューブリックによって作られたニューヨークしか知らず、本物のニューヨークのことな
ど語る資格はないけれど、世界の多くの人間は、実際に行ってみたこともないところにつ
いて雄弁に語る人間が多いもので。
一つ言えるのは、休憩中にキューブリックの映画を見たのでは、まるで休憩にならない
ということ。
雑居ビルがあって。第2糸色(いとしき)ビルと書かれていて。催し物を知らせるパネ
ルが立っていて。「SEIMEIUMI」と書かれている。
最初そこに女性が立っていることに気がつかなかった。じっくりと舐め回すように見た
わけでもないが、なんとなくの雰囲気とオーラ的なものから、おそらく女性なのであろう
と判断をする。
優しい声。誰かに聞かれる前に空気中の蒸気が付着して地面に落ちてしまうような。
「セミナーがあるんだけど、よかったらあなたもどう?」
相手の姿を直視できない。こういうときは、相手にせずすぐにその場を立ち去るべきで
あると分かっていた。このような類の人々と関わり合いになるべきではないのだという刷
り込みがある。もし自分に友人がいたとして、友人と連れ立っていたとしたら指をさして
バカにするような対象かもしれない。
「あなたは、そのままでいいのかしら?」
耳を貸すまいと思っていたのに、彼女の声が自分の鼓膜を振動させる。よく見てみると
大学生くらいと思えるお姉さんだ。リクルートスーツを着ている。
「世界は決して変わらない。でも、世界を見るあなたの目を変えることは出来る」
彼女は何も間違ったことは言っていないはずで。でも、自分は彼女の言葉の何かしらの
箇所が間違っていると指摘をしなければいけないような気がして。だって、そういう人た
ちが間違っていてほしくて。まず、自分には理解できない世界の住人であることを強く願
っていて。彼らのことを「なんだかおかしなことを言っている人」と取り合わない態度は
大人のように思えて。そして、実際には彼らはおかしなことなんて言ってないのに、そう
いう大人側につくことで、安堵できる社会なんてあって。
必死に口を動かす。パクパク。傍から見たら、餌を求めて水面に口を出す鯉のようで滑
稽だろうか。
「セミナーは怖いですって。さすがに。高校生ですよ、自分?」
声になったかは分からない。声になっていたとして彼女に届いたかも分からない。
でも、彼女は自分の声が届いたことを強く了解するように、告げる。
「そうよね」
そう言って、彼女は一枚の名刺を渡してきた。自分は思わず受け取ってしまった。文字なんか書かれていない。小さいカードなのに余白を贅沢に使っていて、ただ中央にQRコ
ードが印刷されているだけ。
「ごめんなさいね。いきなり、あなたを連れて行ったら、きっと私は怒られていたわね」
彼女の口ぶりはちっとも申し訳なさそうでなかった。
家に帰り、ベッドに寝転んで、スマホでQRコードを読み取る。
ブラウザで表示されたWEBサイトのタイトルは< セイメイとウミの会> というものだ
った。
*
もともと海にいた生物が陸に上がってきてヒトとなったという理論を嫌う宗教家や信者
は、この世界に数多く存在します。
神が生み出したヒトという存在は、最初から地上にいたのだと。そうでなければならな
いのだと。
当会の「ウミ」は「海」でもあり、そして「産み」でもあります。
ヒトの由来が「海」であろうとあるまいと、いずれにしろ「産み」という行為の結果、
人間は赤ん坊として生きることを始めます。
ところで、産むという行為はつまり、何十年後かに確実に死ぬ人間を一人増やすという
ことに他ならないとも言えるでしょう。
当会は、子どもを持てない方々、あるいは持たないという選択をした方々を温かく迎え
入れています。
死ぬ人間を増やさないというのは、善行なのです。
そして、子を持たないという選択は、動物的本能を超越した、もっとも人間的な行いな
のです。
仮に子どもを持たない選択をして、後年「やっぱり子どもを持つべきだった」と後悔し
たとしてもそれはそれで結構なことではありませんか。
子どもを持ってその子どもに「生まれてきたくなかった」という思いをさせるよりかは
はるかに素晴らしい。
子どもという新規の生命存在を巻き込むべきではない。既にある己という一人の生命存
在で思いを抱えて一人で死ぬがよいのです。
子を増やせという刷り込み、洗脳はあくまで統治者や権力者、宗教指導者にとっての、
労働力・上納金の確保、信者の獲得のためのお題目にすぎないではありませんか。
皆様がたの両親、それをさかのぼって先祖は確実に子を持ってきた結果、皆様がたの存
在につながっています。
だからこそ、子を持たないことは、先祖の誰もが出来なかった崇高な行いであると考え
ます。
子を持たないことに対して、子を持つことによって受け継がれてきたバトンを落とすよ
うな、ネガティブな捉え方をするべきではありません。
むしろ、先祖の誰一人として達成できなかった前人未到の偉業と思うべきなのです。
もっとも、もちろん言うまでもないことですが、今生きている人間はどうせいつか死ぬ
のだから早まって死ぬ必要はありません。
命ある限り踊るのです。
しかし、死ぬ人間を決して増やすことなかれ。
*
伊坂幸太郎の『重力ピエロ』にロシアの文豪トルストイの引用があったのを思い出した。
セックスなしでは人類は存在し続けられないじゃないか、という問いに対し、なぜ人類
が存在し続けなきゃいけないのか、と返すやつ。
思いつきで、QRコードの印刷されたカードを兄貴の部屋の扉の下の隙間に差し込んで
みた。
普段は、兄貴側からしかカードが排出されることのないこの一方通行の隙間を、兄貴の
ものでないカードが逆走したのだ。これも何かの始まりの合図のように自分には思える。
いや、その狼煙を上げたのは他ならない自分なのか。
―― 十からカードをもらうとはな笑(克)
もちろん、しばらく間が開いて。兄貴が自身の手をちゃんと動かして書いたカードであ
るはずだからで。
―― なかなか興味深いな(克)
兄貴はそう言ってきた。いや、書いてきた。 ―― 十はどう思ったんだ?(克)
「いや…… 。それについて深く考えちゃいけないような気がして」
これが自分が兄貴に言うべきことのすべてだった。伊坂幸太郎によるトルストイのこと
は言わなかった。
―― なるほど一理あるな(克)
「半出生主義、って聞いたことあるけど…… 」 ―― さすが十だなよく知っている…… (克) ―― 生まれてきたくなかったってやつだな…… (克)
―― この会は生まれてきたっていう結果に関してはしょうがないって感じかそれを繰り返さないことが大事みたいな…… (克)
―― 今度この会に行ってみるか?(克)
「え?…… 。いや、このカードもらった時に、未成年はまずいみたいな」
―― 俺がついてれば大丈夫だろ(克)
そんな力強い言葉をはけるなら、その気持ちをボートのオールのように持って、社会と
いう大海に漕ぎ出せばいいのに、とは自分には思えない。自分にはまだ、そんなことを思
える資格がないはずで。
思うのに資格なんているのか?
別に、兄貴は引きこもってはいるものの、コンビニに行ったり、図書館に行ったり、す
る。ただ、定期的に関係性を継続する他人がいない、というだけで。
自分は、兄貴とともに家を出ると、兄貴の手を引きこそしないものの、「こっち、こっ
ち」と商店街のほうに引率をするような気分だった。
自分にとっての不満の話。いつだったか気付いて自分で驚いたのだけれど、兄貴は決し
て弟である自分に面と向かおうとしない。兄貴は自分の背中を見てばかり。まるで向かい
合うのを恐れているみたいで。向かい合ったから何か起こるわけでもあるまいに。
普通、弟のほうが兄貴の背中を見るはずなのにと思えて。いつもそう。たまに兄貴の部
屋に入れたとしても、絶対に目を合わそうとはしない。
この日も、商店街の第2糸色ビルまでの道のりにおいても、兄貴が自分の背中を見るよ
うな形になった、結果的に。兄貴の背中を見たかった。兄貴の背中にくっついていったら、
その結果冒険していたというような寓話みたいな世界線への羨望もある。
兄貴もさすがにいちいちカードに書いてはこないが、「商店街の場所ぐらいわかってる
よ」と言いたげだ。それはそうだ。兄貴の「声」の成分であるカードは、自身で商店街に
ある百円ショップで買っているのだから。
そして、例の路地裏のところへとやって来た。
土日祝日の昼の部であれば、未成年でも参加が可能だと会のウェブサイトには書いてあ
った。
※兄貴との取り決め。
―― カードを回収できないから十以外とは会話しない(克)
―― もし俺が話さなくてはいけなくなったらその時は十にカードを渡すからそれを読
み上げてくれ(克)
雑居ビルの四階の会議室、定員三十名ほどのところに参加者は十数人の男女、年齢層は
十代から三十代のように思う。
あの時の彼女がいた。彼女が司会でもやって、登壇者は別にいるものだとばかり思って
いたが、その会の主役は彼女だった。あの時とまったく同じ格好。
「みなさん。本日はお集まりいただき、ありがとうございます。本日お話しさせていただ
きます、後永(こうえい)大学二年、宇品(うしな)涼子と申します。まず、はじめに、
この会では、写真撮影、動画の撮影、録音は一切禁止です。その点はご了承ください。今
回の参加者のかたの中には私よりもご年配のかたもいらっしゃるかと思いますが、今回は
僭越ながら私が会のすべてを任されております。気に入らないかたは、どうぞご退室ください。今に限らず会の最中に具合が悪くなったりご気分を害されたりしましたら、どうぞ
自由にご退室くださいますよう。私たちの考え方は多くの方の顰蹙を買うであろうと存じ
ております」
宇品涼子は会議室を見まわした。部屋を去る者はいなかった。この部屋にやって来た者
たちはそれなりの覚悟でやってきているはずだから当然かもしれなくて。参加者は皆、Q
Rコードを渡されてやって来た者たちなのだろうか。まず間違いなく言えるのは、自身ら
の現状に不満があって、何かしらの救いを求めてやって来ているということで。本来、救
いなどいうものは内面にあるはずなのだが、とかく人たちは外でそういうものが落ちてい
やしないかと捜しがちで。
「では、続けさせていただきます。本日は、意味についてのお話。そして、後半は最新の
技術を駆使した降霊術のショーを行います。まず…… 」
そう言って彼女は、リクルートスーツの胸ポケットからボールペンを取り出した。
それを二つの指でつまみ、顔の前に持ってきてから、指を離してボールペンを落下させ
た。
「みなさん。いま、なにが起こりましたか?」
……。
今、自分たちの目の前で何が起きたのかは明々白々だ。改めて言ってみせるよう
なことでもないだろう。けれど、彼女がこう言うのだから何か仕掛けがあるはずだ。兄貴
のほうをうかがうと、彼の目もまたそう思っているように見えた。
宇品涼子は前方の男性参加者に手を向けた。
「今、なにが起こりましたか?」
「ペンが落ちました」
宇品涼子は微笑んだ。
「その通り。ペンが落ちました。私がペンを落とした、ということも出来ますね。ところ
で、では、なぜ、ペンが落ちたと思いますか?」
彼女は同じ男性参加者に向けて言う。男性参加者は質問に答える。
「手を離したから」
「そうでしょうか?では仮に、私が宇宙空間にいたとしたら、手を離してペンは落ちるで
しょうか?」
「あ、えっと…… 。すみません。正確に言うんですね。手を離して、ペンは重力に従った
から落ちた、です」
「その通りです。皆さん、拍手」
拍手は威勢のないパチリパチリという散発的なものしか起こらない。二、三人しか拍手
していないのだろう。もちろん、拍手をするまでのことを彼がやってのけたわけでもない
のであるし。
「そう。私が手を離すまでは、私の手が重力の邪魔をしていました。そして、手を離すと、
ペンは重力に従って落ちました」
彼女は空気をスゥッと吸い込み、それを吐いてから言った。
「しかし。しかしですよ。しかし、重力なんかどうでも構わないのです」
彼女は落ちたままだったボールペンを拾い上げた。そして、もう一回落とす。
「重力があるから落ちるわけではありません。ものが落ちるのは重力があるからだと考える以前にも、ものは落ちました。重力や万有引力という概念がある前にもものは落ちまし
た。詭弁に聞こえるかもしれませんが、重力という言葉よりも、ものが落ちるという事象
のほうを大切にしてほしいのです」
また、ボールペンを拾い上げ。
「このボールペンに関しても、これがボールペンであるということではなく、この細い棒
のようなものの先端を紙に押し当てて手を動かせば、線を引けるという事象のほうが重要
なのです。電車の中でも、スマートフォンを皆さん見ていますね。それで、世界中と繋が
っている気分になっている。でも、それは情報を頭の中で整理しているのにすぎない。実
際はなにも見ていない。掌に世界はないのです。テロという言葉にも惑わされないでくだ
さい。SNSで『どこそこでテロがあった』という情報だけを見て、テロがあったと思わ
ないでください。事象は、爆発か何かが起き、複数の人間の生命維持活動が停止したとい
うことです。昨日までテロをされる側だった人間がテロをする側に回る日が来る。そのと
き、テロはテロではありません。物事の本質を見ましょう。そして、私は今テロの話をし
ましたが、決して政治や思想の話をしているわけではありません。『テロがあったと思わ
ないでください』というのもSNS上のフェイクニュースに言い及んだわけではありませ
ん。物事をしっかり、正確に観測しましょうというお話です。決して、なんとなくのイメ
ージで語ってはいけない。あなたは、あなたの頭の中にあるものを人に伝え、そして伝え
られてもいます。あなたは、まず、しっかりと世界を見なければならない。そこで起きて
いる事象を見なくてはならない。あなたの頭の中の引き出しから解説を出してきて、『こ
れはこういうことだ』と当てはめるのではなく、まず、しっかりと観測をしましょう。あ
なたにはおおよそ理解が追いつかないようなこともこの世界では起こりうる。でも、あな
たに理解しがたいことも、しっかりと事象が起こっているのだということは認識しましょ
う。事象は決してあなたの価値観や物事をはかる物差しを基準にして起こるわけではない
のですから」
彼女がひとしきりの演説を終え満足したように見えると、半分以上の参加者が部屋を出
て行った。あとに残ったのは、自分と兄貴と、あとは宇品涼子と繋がろうとでも考えてい
るように勘ぐってしまう男子大学生と見える四名そこそこくらいのものだ。
でも、宇品涼子は、部屋から退室した者たちの存在などまるで気にもとめないみたいだ
った。最初からそんな人たちはいなかったのかもしれないし、あるいは、彼女にとって、
「人なんていない」のかもしれない。
いやいや。まずいって、自分。ちょっと彼女の話の内容に引き込まれてしまった。洗脳
されやすいんだな。危ない、危ない。用心しないと。
彼女は自分に向けて言った。のだと思う。
「ごめんなさいね。あなた、受験生でしょう?落ちる、落ちるって言っちゃって」
「い、いや…… 。はい」
―― 出るか?(克)
自分は首を横に振る。
「それでは残った皆さんと一緒に続けていきますね」
彼女は部屋を暗くし、彼女が背にしている壁にプロジェクターを投影させた。
「今回は実験的な企画です。イタコってご存知でしょう?降霊術をおこなう霊能力者ですね。当会は、人工知能・AIにイタコが出来るものかどうなのかという実験を行っていま
す。ちょっと皆さんお付き合いいただけるかしら?」
「なあ、もう行こうぜ」
そう言って男子大学生たちも出て行ってしまい、残されたのは自分と兄貴だけになって
しまった。
「残った二人は、お友達、には見えないわね。ご兄弟かしら。それとも全くたまたま居合
わせた他人だったら運命的なのだけれど」
そう言って、彼女は兄貴を見つめた。
「あ。すみません。この人は自分の兄で。あんまり人と喋らないんですよ」
カードで喋る云々という説明は億劫だから省略した。というより、上手く伝える自信も
なければ、説明したところで伝わるのかどうか。いや、伝わったとて意味があるのかとい
う問題もある。
プロジェクターが映し出したのは、韓国ドラマの『イカゲーム』でデスゲームの進行を
管理する者たちのようなフルフェイスのマスクを被った人間の、その上半身のように見え
る姿だった。
「これが、AIイタコ。そうねえ。お兄さんが喋らないのだったら、弟くんがお題をくれ
る?誰を降霊してほしいか。誰でもいいわよ」
自分が答えあぐねていると、隣の兄貴からカードが差し出された。
―― 黒沢明(克)
自分は兄貴の目を見た。兄貴は頷いている。
「え、映画監督の、く、黒澤明さん…… で」
彼女はパンツのポケットからスマートフォンを取り出し、操作した。
すると、投影されたイカゲームが「私が、黒澤だが?何かね?」と言い始めた。
私が、黒澤だが、何かね?とは、あまりにもバカバカしい。けれど、兄貴は真剣にペン
を走らせて、自分にカードを寄越した。
―― 黒沢監督の映画が高く評価されたことは言うまでもありません一方で晩年の作品
は観念的だという評価もあります(克)
走り書きだが、自分には読める。
「く、黒澤監督の映画が高く評価されたことは言うまでもありません。一方で、晩年の作
品はカ、カンネン的だという評価もありますが、どうお感じになりますか?」
最後の文句は自分で付け足した。兄貴が質問したかったことはおそらくこういうことな
のだろう。あるいは、自分は余計なことをしたのかもしれない。そういう評価があること
をAIイタコに伝えたかっただけで、質問までしたかったのだかどうだか。ただ、相手は
AIなのであって、黒澤監督本人なわけではないのだから、そんな評価があることを伝え
たところでと考えると、それを踏まえてAIから何か返答を得たかったのは明白だ、と自
分には思えるのだけれど、間違っているだろうか?
自分たちの思惑のことなんか我関せずに、イカゲームが喋る。
「なるほどなあ、うむ。先だっての涼子くんの話とも通じるものだ。映像で語るのではな
く、あまりにも意味を押し付けたと、君はそう言いたいのかね?」
―― いえ歴史的にそういう評価があるという話です(克)
【つづく】