「いえ。れ、歴史的にそういう評価があるという話です」
「うむ。観念的ねえ。私が生きているあいだは散々もてはやされたけれども、死んでから
は散々言われているわけか。どうせ、つまらん連中の言うことだろう。観念的の反対は即
物的。つまり、私の全盛期の作品は即物的に、しっかりと映像で語ることによってカット
を生み出していた。しかし、観念的というのは…… 。余計な意味づけをせず、映っている
ものだけでカットを構築できなくなっていったわけか、私は。そういうことだろう。観念
的の反対は即物的。観念的の反対は即物的。観念的の反対は即物的。観念的の反対はソ、
ソクブ。カ、カンネン。カンネン。ソク、カンネン。カン、カン、カン、カン。カン、カ
ン、カン、カン、カン、カン、カン」
イカゲームの姿を映し出す映像がノイズまみれになった。
ボクシングのゴングを鳴らすみたいにAIがカンカン言い出したところで、その映像が
終了したのはなんとも皮肉めいているといえる。
宇品涼子が喋る。
「うーん。やっぱり、うまくいかないわね」
自分の心の中のザワザワとしたものを、自分は彼女に伝えるべきだと思った。
「あの。これは、よく意図がわからないんですけど。これじゃあ、AIとやり取りしただ
けで降霊でもなんでもないのでは?」
「そうかしら?今喋ったのはあなたの意見?それともお兄様があなたの口を借りてしゃべ
らせているの?」
ムッとする。
「じ、自分の意見で…… 」
「じゃあ、イタコさんがいれば納得する?AIの音声が聞こえる隠しイヤホンをしていて、
質問がAIに入力され、AIの回答をイヤホンで聞いてそのまま喋るだけのイタコが目の
前にいたら、あなた本当の降霊と思うのかしら?私みたいな女子大生じゃなくて、いかに
も教祖さまって感じの、作務衣でも来た白髪のおじいさんが喋ったら、セミナーの説得力
は増す?」
自分は彼女の問いに返答をする術を持たなかった。追い打ちをかけるように彼女はまる
で自分を死体蹴りするかのように言い放つ。
「あなたは見たいものが見れなくては満足できないようね。ごめんなさい。私はあなたが
見たいものを見せてあげられないみたい。でも、見たいものしか見れないようでは、それ
って生きてるといえるのかしら。生きるっていうのは、見たくないものも見えてしまうこ
となんじゃないの?」
セミナーからの帰り道、商店街にあるマクドナルドで兄貴と一緒にジュースを飲んだ。
ナゲットやバーガーやシェイクを頼む余裕はない。
そのあいだ、兄貴はしきりにカードに文字を記していた。兄貴から自分の手へと渡され
たカードには、複数に渡って兄貴の意見が書かれていた。自分は兄貴が「セミナーで女に
言われたことなんか気にするな」といった擁護のメッセージをくれるのだ、と思った。
でも、現実はまるで違っていた。
―― 村上春樹の『風の歌を聴け』にデレク・ハートフィールドっていう作家の名前が出てくる…… (克)
―― そんな作家は実際には存在しなかったんだがヘミングウェイとかフィッツジェラルド
という実在の作家と並べられて書かれていてな…… (克)
―― だから刊行当時当時の読者が図書館に「デレク・ハートフィールドの本を探してい
ます」って押し寄せたらしい…… (克)
―― もちろん図書館にデレク・ハートフィールドの本なんてない…… (克)
―― 当時の読者はそのことをそこでやっと気づくんだ…… (克)
―― あの宇品って人が言っていたのは今ではデレク・ハートフィールドが架空の作家だ
ってことはスマホで調べられる…… (克)
―― でもデレク・ハートフィールドが架空だと知ることではなく図書館に行くことに意
味があるってことだろう…… (克)
自分と兄貴とは読んでいる本が違う。村上春樹といえば、伊坂幸太郎の作風がよく「村
上春樹のようだ」と言われることを思い出す。伊坂幸太郎本人は「村上春樹よりも大江健
三郎に影響を受けた」と言っている。その言いぶんが重要なことなのかどうか、自分には
今一つわからない。ただ、重要かどうかはさておき、人間には言っておかなければならな
いこと。どうしても誤解されたくないことがある、というのは理解できる。一度誰かに誤
解されてしまったことの誤解がとけるかどうかに関わらず、それは誤解なんだという主張
をせめてしておかなければならないような。思ってもみない解釈をされるのって、たぶん
辛いものだと思えるから。
セミナーで兄貴から渡されたカードを含め、最近のカードは古いカードとまとめて兄貴
に返すと告げてある。
セミナーで兄貴から渡された数枚のカードの中に、兄貴のカードでないものが含まれて
いた。
それは、宇品涼子の名刺。LINEのQRコードもある。いつの間に彼女はこんなもの
を紛れ込ませたのだ?まるで手品師である。まだ、名刺という紙切れの物質だからいいよ
うなものの、いつの間にか頭の中に思想のようなものが紛れ込まされたとしたら恐ろしい。
まだ物質だからホッとする。
QRコードをスマホで読み込んでみる。
―― 「うしぴょん」さんを友達追加しますか?
アイコンは可愛い牛のぬいぐるみの画像だった。有名なキャラクターというわけではな
いのだろうが、愛嬌があって可愛らしい。おおよそ、愛嬌のないぬいぐるみというものも
想像できないけれども。
うしぴょんを友達追加すると、通話の着信がすぐにあったので驚いた。
うしぴょんとの通話をオンにする。
「追加してくれてありがとう。今日のセミナーに来てくれた方?」
「あ、えっと。兄弟で来ていたほうの弟で、三島十といいます」
「そう。トオルくんね。アカウント名はTENか。どういうことなんだろう。でも、良か
った、あなたとは個人的に話をしてみたいと思ったの」
「あ、あの。あなたたちの会に入るかどうか、というよりも、今後もセミナーに行くかどうか今のところあまり前向きではないです。自分は来年受験生ですし」
「そう」
「あ、でも。兄貴のほうは興味を持ったみたいで。セミナーの後も、何かを力説してまし
たよ。だから宇品さんの熱弁も甲斐があったかもしれないです」
少しはポジティブなことも言わなければいけないような気がしたから言ったまでだ。こ
の美しい女性とのあいだの縁とか繋がりのような何かが途切れてしまうのは実に惜しいか
ら、彼女に媚びる。そんな自分が恥ずかしいと思えないほどに冷静さは欠いている。
彼女の声のトーンはきわめて慎重なものだった。
「そんな話はどうでもいいの。個人的に話をしたいって言ったでしょう?」
すると、ピコーンッ!!と通知があった。通話状態のまま、スピーカーモードにし画面
を操作してみると、全裸の女性の写真が送られてきていた。うさぴょんから。そして、そ
の写真の女性は、うさぴょん、いや宇品涼子だった。上半身の裸の写真や、全身の裸の写
真。豊満なバストのアップの写真。
自分の動物的な本能が嫌でも刺激されてしまう。
「あ、あの。これ、なんですか?」
「どう?私の体、素敵でしょう?」
「だから、何なのかって」
「こういうの嫌い?」
「嫌いじゃないけど」
「あなた、童貞?」
「訳が分からない」
「お姉さんが童貞卒業させてあげようか?」
「ねえ、ちょっと」
アハハという笑い声とともに彼女は言う。
「冗談よ。だってね、お姉さん、ゲイなの。あ、同性愛者の男性のことだけじゃなく、同
性愛者の女性のこともゲイっていうのよ。レズビアンともいうけど。ビアン。同性愛者の
男性のことはレズビアンとは言わないけどね」
ドクン、ドクン。下腹部に血が集まる。
でも、きわめて冷静であるように振舞わなければならない。こんなことに動じるような
やわな男じゃないんだぞって。
「もう、なんなんですか?からかってるってことですよね?」
「いいえ。ちょっと真面目な話をしていいかしら?」
声のトーンが変わったので、こちらの動揺した気持ちも少しは落ち着いた。
「はあ」
「私は、女性しか好きになれない。でも、トオルくんみたいな年下の彼氏がいる大学の同
級生が羨ましいの」
「じ、自分だって、涼子さんみたいな女性と付き合いたいですよ」
なんで、こんな恥ずかしいことがこの時は言えたのだろうか。言わなければ後悔するだ
ろうみたいな理性的なことではなかった。あくまで本能が突き動かされたのにすぎない。
そんなものが自分の中にあることに、少なからず寒気を覚える。
「なんだか、もしかしたらあなたみたいな素敵な男性だったら、好きになれるんじゃない
か、って思ったのよね」
「はあ」
「だから、あなたと密室で二人きりになりたい。そうして、試してみたかった、自分の体
を。でも、そんなことしたら私、警察に捕まっちゃうかもね」
「あの、何が言いたい…… 」
「ねえ、写真をよく見て」
全身の写真。太股のところが違う色をしている。
「ねえ、太股に入れてるタトゥー。これ、なんだか分かる?」
太股を拡大してみるが写真が不鮮明だ。
「これね、蛇のタトゥーなの。商店街の、第2糸色ビルの近くにあるお店でやってもらっ
たんだ」
「はい」
「素敵でしょ?」
通話が終わった。
通話中には我慢していた、大きなため息をはいた。大きな大きなため息。そして、うず
く下腹部。
もう、宇品涼子の裸の画像にはアクセス出来なくなっていた。送信取り消しされたのだ
ろう。見れる状態のときに保存するということもしていなくて、幻の画像になってしまっ
て。
なんだか自分はムラついてしまい、適当にネットで動画を漁って、自分の手で処理した。
まだ、残暑が厳しい。シャツのボタンを閉じておくのが嫌で、前を全開にしてシャツを羽
織るようにする。
それにしても、ムラムラと胸の内から性欲が湧き出てきて、自分の下腹部が一旦制御で
きなくなっても、一発抜いてしまえば、こんなにも落ち着きを取り戻せる。もう性欲はチ
リジリに霧散してしまって、セックスしたい欲望なんてまるでなくなっている。
自分が理性でコントロール出来ない動物的本能の持ち主に他ならないことに嫌気がさす。
こんなのは誰しもが通る道だとはいえ、自分もまた例外でないことに絶望する。この人の
ことを愛そうと思い、その人でしか欲情できないようにはなれないものか。そうではない
からこそ、人類はここまで継続してきたともいえるのか。
そしてスッキリしてしまうと、今度はまた兄貴のことが頭の中に去来して。自分は、ワ
イシャツのボタンを全開にし、羽織るように着ていて。
覚悟を決める。ふとした思いつきにすぎない。年上の女性にからかわれてきっと性欲が
おかしな方向に進んで、それが一時的に解消されて、自分の中にある方位磁針がめちゃく
ちゃな方を指すようになったとしか思えなくて。
今までのカードを全部かき集め、輪ゴムで束にしてまとめると結構な厚さになった。
兄貴の部屋の扉をコンコンとノックする。
「なんだ?」というカードが出されるより早く自分は声を張る。
「今までのカード、全部集めたよ。耳を揃えてお返ししますよ。でも、束にしたから厚み
的にこの隙間には入らないんだ。ドアを開けてほしい」
兄貴はドアノブを回しドアを開けると、自分が入るのを待たず後退していく。まるで自
分の方向から機械仕掛けの壁が迫って圧迫されてでもいるかのように。このまま兄貴に圧
をかけて、兄貴をペッタンコに潰せたらいいのにとも思える。
自分は、兄貴の正面に立つ。兄貴を部屋の壁と自分の体とで挟む。
なんだか兄貴が小さく見えて。百七十センチ台後半は身長があるはずなのに。
半年に一度しか切らない髪の毛が、兄貴の額を覆い隠す。その前髪を自分は、手ではね
上げた。かわいい顔。いや、あどけない顔?幼い顔ともいえる。フッ。
兄貴にカードを書かせる隙なんて与えない。カードを使えないとすれば、その口を動か
して喋るがいい。そんなこと出来ないクセに。兄貴、頼むから兄貴であってくれよ。自分
は兄貴の目をまっすぐに見て言う。
「ねえ。どういうつもりなの?カード集めてさあ。この世から自分の痕跡でも消すつも
り?で、自殺でもするつもりなの?自殺する人って、身の回りの所持品を整理してから死
ぬらしいけど、カードもその一環なの?」
自分の手で兄貴の口を塞ぐ。でも、そんなことしなくても兄貴は口を使うつもりなんて
ないことは明らかで。
自分はやってやるのだ。兄貴の机の一角に、未記入のカードをすぐに出せるよう入れて
おくためのトレイがある。その未記入のカードを一枚一枚自分は破って放り捨ててしまう。
ゴスロリ服の美少女が枕を割って中の羽毛を引きずり出し宙に放るように、自分も一心不
乱にカードをちぎり、放って、部屋に撒く。
自分の手は既に兄貴の口から離れているが、代わりに兄貴が自身の手で口を塞いでいる。
口を塞がなかったところで、言葉なんか出てきやしないのに。
「どう?もう、兄貴は声を失うんだよ。カードなくてさあ」
兄貴の机の引き出しという引き出しを洗い出し、未記入のカードを一枚残らず破り捨て
てしまった。
「もう、書けないね?でも、これで満足でしょ?だって、カード残るの嫌だったんだもん
ね。最初から書かなきゃ、回収の手間も省けるってもんだよ」
呆然と自分の狂行を見るだけだった兄貴だが、ふと瞳に強い光を宿し、兄貴の机のそば
で「カードがまだあるのではないか?」と探している自分に、兄貴は近づいてきた。そし
て、机にあったマーカーを持った。
そのマーカーのキャップを取り、ペン先を兄貴は弟の胸に押し当てた。兄貴の手が、自
分の胸で踊る。自分としては、胸板がくすぐったい心持ちで、とても気分が悪かった。
いったい、何をされたのか?
自分は兄貴の部屋を出て、洗面台に向かった。鏡で自分の胸部を映して確認する。
<< 愛し る>>
鏡に映って反転しているので、ぱっと見ででは分からないが、どうやら「愛し る」と書
いてあるみたいだ。他人の胸部に「愛」というそれなりに画数の多い漢字を、読めるよう
に書くのは一つたいしたことだ。いや、その愛の字はゴチャゴチャできっと自分以外の人
間だったら読めやしない代物なのだけれど、兄貴のカードを散々読んできた自分には読めるってことである。
それにしても、愛しる?
愛してる、じゃなくて?
なんだい、そりゃ……
マーカーで人の胸部に文字を書くなんていう芸当は、兄貴はやったことがないはずで。
そんなことをやったことのある人間がまず、いないはずで。だから、「愛してる」と上手
く書けなくて、「愛しる」になってしまったのか。それにしても、まず何故「愛してる」
なんて書こうとしたのか?兄貴は本当に自分のことを愛してるのか。「愛」は書けたのに、
「て」を書けなかったのは何故か。
あるいは、兄貴は自分のことを愛してるわけではなく、「愛しる」のかもしれない。
愛してると愛しるはほとんど同じような言葉と見せかけて、実は意味において全く異な
る可能性も否定はできない。
自分の部屋に戻りスマホを見ると、LINEの通知が溜まっていた。全てうしぴょんか
らのメッセージだった。
―― ごめんなさい
―― 悪気はなかった
の ―― 全部私の悪ふざけなの
―― セイメイとウミの会なんてのもまるで存在しない
―― あなたのことをね塾に通ってるのを見てあなたに何とか話しかけられないかな
と思って
―― 全部冗談なの悪い冗談
―― 悪い悪い冗談
―― あなたの気を引きたかっただ
け ―― あなたと二人きりになりたい気持ちだけが本当でさ
―― でもそんなことしなくてよかった ―― 本当に引き返せないとこまで行っちゃうとこだったもんね
―― 全部忘れて
―― なんて都合よすぎるかな?
―― メッセージの送信が取り消されました
―― メッセージの送信が取り消されました
―― メッセージの送信が取り消されました
―― メッセージの送信が取り消されました
―― メッセージの送信が取り消されました
―― メッセージの送信が取り消されました
―― メッセージの送信が取り消されました
―― メッセージの送信が取り消されました
―― メッセージの送信が取り消されました
―― メッセージの送信が取り消されました
―― メッセージの送信が取り消されました
―― メッセージの送信が取り消されました
―― メッセージの送信が取り消されました
―― メッセージの送信が取り消されました
―― メッセージの送信が取り消されました
―― メッセージの送信が取り消されました
―― メッセージの送信が取り消されました
―― メッセージの送信が取り消されました
―― メッセージの送信が取り消されました
―― メッセージの送信が取り消されました
兄貴から貰ったカードは一枚一枚スマホで写真に収めてあった。それをコラージュして
加工した画像を作成なんかしてみて。
兄貴は自分のことを「十」と呼ぶ。それで、カードの右下には「克」という署名がある
から、十と克、克と十が並ぶ。それを自分は兄弟で並んで写った家族写真のように感傷に
浸って眺めた。
十克
十十克
十克
十十十克
克克十
克十
十
克
兄
十兄
兄?
その時、自分はスマートフォンを痛打し、父親に対しLINEの通話の発信をしていた。
「もしもし」
「ねえ。ちょっといい」
「なんだ、急に。メシ食ってたんだ」
「自分と兄貴の名前のことなんだけどさ」
「なんだ」
「いま、手元に書くものある?」
「うん?ホテルのメモ用紙があるけど」
「あのさ、兄貴の名前、克って書いて」
「ちょっと待ってくれ。…… 。克だな?うん」
「それでさ、『克』の字を上と下に分けるんだ」
「分ける?」
「するとさ、『十』と『兄』になるでしょ?」
「十と兄」
「だからさ。克っていう兄貴の名前は、十っていう弟の自分を下から支える。最初から、
子どもを二人作る予定で、第一子の名前を克にしたんじゃないの?第二子は十と決めてい
て。克っていう兄にさあ、兄より後に生まれてくる弟の十の助けになる兄になってくれよ、
って意味でさあ」
「なんだか、よくわからないけど。克と十の名前の由来の話をしてるんだな?」
「え?」
「克っていうのは生まれたとき、俺の名前の十を入れようと思ってな。それで、克って字
にちょうど十が入ってるからってことで付けたんだ。カツって響きもいいしな」
「は?」
「十はな、もちろん俺の名前からも取っているんだが。父さん、カツ重が好きでな。カツ
丼じゃなくて、カツ重。カツ丼よりも贅沢な気分になるからな。ちょうど、克と十で字面
ではカツ重になるだろう。カツとじとご飯の相性みたいに、仲のいい兄弟になってほしく
てな。それで俺と母さんっていう家族が重箱になって、克と十を温かく囲むんだ。まあ、
とにかくカツ重が好きで。今もホテルの人にお願いして、カツ重食べてたんだ。ほんとは
カツ丼しかないんだけどな、鰻重用の重箱に入れて無理言って作ってもらったんだ」
自分はスマートフォンを窓の方に投げつけた。窓が割れることはなかった。こんな話し
か聞けない機械なんか、いらない。まるで宇品涼子の言うとおりだ。この機械は本当に何
ものとも繋がっていない。父親に自分の発見を肯定してほしいなんていう欲を出すべきで
はなかった。全てを台無しにした、なにもかもスマホのせい。父親と連絡を取る術がなけ
れば、自分は自説を本当のようにして生きられたのに。
そして、自分は商店街の、いまだ行ったことのないエリアへ足を踏み入れた。うさぴょ
んがいいことを教えてくれたのだ。うさぴょんこと宇品涼子が本当の名前であるかもわか
らないけれど、彼女はたくさんのことを自分に教えてくれた。
行き先は、彼女が言っていた、自身の体に蛇のタトゥーを入れてもらったという第2糸
色ビル近くのタトゥー屋さん。なんだろう。昔風の言葉でいうと、アングラな感じってい
うのかな。ワクワクしちゃう。
*
兄貴が扉をすんなり開けてくれたことは意外だった。
この前、兄貴の未記入のカードをめちゃくちゃにしたっていうのに。
「ねえ、兄貴。兄貴の名前の克っていう字を記号として見て。上と下に分けると、十と兄
になる。これはね、克っていう兄が、十っていう弟の自分を下で支えるってことなんだ。
父さんにも確認取ったんだ。だからね、兄貴は決してちっぽけな存在なんかじゃないし、
兄貴のおかげで自分は支えられてるんだ。これからも兄貴は自分のことを支えなきゃダメだよ。だって、そういうものとして生まれた時に名前を与えられて決定づけられてるんだ
からさ。死ぬなんてバカなことはやめてさあ」
それから、自分はワイシャツのボタンを上から順にあけ、全開にし、はだけた。
愛し る
「兄貴はさあ、カードを回収して、自分がこの世に残したものと一緒に消えようとしたの
かもしれない。でも、カードを消したって兄貴の言葉がなかったことになるわけじゃない。
でもね。そういう理屈を超えたことが自分の胸にあるんだ。兄貴にこの前書かれちゃった
この『愛し る』のマーカー。なに?愛してるって書こうとしたの?動いてる人間の体に
なんか上手く書けないよね。笑っちゃう。これさあ、商店街にある、タトゥー屋さんで、
タトゥーにしてもらっちゃった。未成年だから施術は禁止されてるのかもしれないけど、
お願いしたらやってくれたんだ。もう、兄貴の言葉は消えないね?自分の体が滅ぶまで、
兄貴が残した痕跡はずーっとこの世界に存在し続けるんだ」
兄貴は後ずさった。
そして、頭を抱えて、口で喋った。
口で言葉を喋ったのだ。
「ああ。ついに、十の妄想まで見るようになっちまったか。あいつがこんな訳の分からな
いこと言うはずないのに。クソッ」
兄貴はそう口で言ったのだった。カードに書くでもなく。自分は兄貴が見ている妄想な
のかもしれなくて。
「ねえ、兄貴。もうカードに書くのをやめて、口で喋るようになったってことだよね?」
「うるさい、うるさい。妄想が偉そうに兄貴なんて言うな。でも、あれだな。なんだ、克
が十を支える兄?名前が両親が考えた作品だとしたら、十の解釈は批評ってことになるな。
じゃあ、その批評に対して俺は何も言えない。村上春樹が批評を批評してはいけないって
言ってい
べらべら。ぶつぶつ。
*
キーンコーンカーンコーン!!
昼休みで弁当を食べた後に、なんで、自分はいつも教室でひとり本ばかり読んでいるの
だろう。本を書いた人の文章を受け取る以外に、いま、この場所を共有しているクラスメ
イトたちと一緒に何かをするほうが大事かもしれないのに。
「なあ、三島。お前、いつも本読んでるな。オススメ教えてくれよ」
本当にオススメを教えてほしいと思ってるわけ?って思っちゃう。きっとそういう風に
思っちゃうのもよくないところなんだろうな。
「又吉直樹の『火花』とか?」
「あー、なんか聞いたことあるかも」
相手が少し興味を持ったみたいだったのをいいことに、自分はまくし立てた。
「村田沙耶香の『コンビニ人間』とか、あと中村文則の『教団X』とか。でも、村田沙耶
香でいうと『地球星人』のほうがいいかな。あんなに人を食った話はないよね。あー、こ
れネタバレかあ?」
自分はエヘヘと気分よく本の話をしていたのだけれど、気づくと同級生はもう自分の近
くにはいなくて。不思議とこういう時に一番敬愛している伊坂幸太郎の名前は出さない。
仮に、伊坂幸太郎の本をオススメして面白くなかったと言われたら、自分がまるごと否定
されたような気持ちになるからだろうか?
それにしても、同級生って?中島だっけ、長井だっけ?
もしかして、自分は誰とも話せていなかったりする?
兄貴が一方的にカードを書くのと同じことをしちゃってる?もしくは、まだ会話のラリ
ーを続けているぶんだけ、兄貴のほうが高等だったりする?
「おい、三島いるか?」
生徒指導の先生だ。生徒指導室まで連れていかれた。クラスのみんなは、自分が何かや
らかしたと思ったかなあ。いや、誰も自分に興味なんてないのかなあ。自分が誰にも興味
ないのと同様に。
「落ち着いて聞いてほしいんだけどな。お父さんが、出張先で事故にあわれたみたいなん
だ。詳しいことは、帰って家族に聞いてくれ。とにかく、今日はもう帰っていいから。来
週の
ぶつぶつ。べらべら。
ああ。そ。
ああ、そう。
三島由紀子、
三島十士郎、
三島克、
三島十。
こんな家族。
ああ、そうか。でも、やっぱり家族だもんな。
もう、だけど、絶対に愛してない。
いや、
だけど、絶対に愛しない
【完】