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第5話……海辺の希望

「こんなことしてていいのかな…?」


 私は小さな自動車のハンドルを握りながら、つぶやいた。砂漠の風が窓の隙間から吹き込む。


「なに? わたくしはこの惑星アーバレストの最高司令官よ? その警護役が不服かしら?」


 セーラが助手席から軽く睨む。金褐色の髪が、陽光にきらめく。

「いえ、とんでもありません!」


 私は慌てて否定する。

 最近、私はライス伯爵家当主であり、最高司令官でもあるセーラの運転手を務めることが多い。

 戦場を駆け抜けてきたバイオロイドが、貴族のお嬢様の送迎役。戦士としての本能がざわつくが、契約と彼女の無垢な笑顔には逆らえない。


「それにね、マーダ連邦軍の前線はこの星から遠いの。今すべきは戦いを急ぐことじゃないわ。分かった?」


「かしこまりました。」


 ……戦いを急いでいる?

 セーラの言葉に、胸の奥がちくりと刺さる。小さな少女に窘められた気分は、決して心地よいものではない。


 だが、彼女の言う通りだ。

 クリシュナの再起動に成功したとはいえ、マーダ連邦との戦いはまだ遠い。この星での生活に、まず根を下ろさねばならない。


 車は砂漠を突き進み、やがて青く輝く海が地平線に現れる。荒涼としたアーバレストでは、こんな風景は貴重だった。


「さあ、着いたわ! 停めて。」


「はい」


 私は海岸近くに車を停め、後部ドアを開ける。さらにトランクから今日の荷物――釣り具一式を取り出した。

 セーラの「護衛任務」は、実は彼女の釣り場への送迎だったのだ。


 ごつごつした岩場に、釣り竿やクーラーボックスを丁寧に運ぶ。

 セーラは仮にも伯爵家の当主。庶民の釣りとは違い、彼女の装いはまるで絵画のように優雅だ。シルクのスカーフが風に揺れ、貴族らしい気品を漂わせている。


「さあ、釣るわよ! カーヴ、餌をつけなさい!」


「はっ!」


 貴族のお嬢様が自ら餌をつけるはずもない。私は手際よく釣り糸に餌をセットする。戦場での正確な動作が、こんな場面でも役立つとは。


「セーラお嬢様、浮きが沈んでますよ!」


「うるさいわね、黙って見てなさい!」


 彼女の釣りは、戦場のような殺伐さとは無縁だ。優雅に糸を投げ、波の音に耳を傾ける――まるで時間が止まったようなひととき。私は護衛としてそばに立ち、彼女の笑顔を眺める。


 ふと、セーラが海を見つめながら呟く。


「ねえ、カーヴ。海には水がたっぷりあるのに、コロニーの川は涸れがちだわ。どうにかならないかしら?」


「そうですね…」


 アーバレストの水資源は乏しい。淡水はわずかで、ほとんどの水は海水だ。海水淡水化装置は存在するが、運用コストが高く、コロニーには十分な設備がない。


 セーラの言葉に、私はふと思いついた。


「セーラお嬢様、ちょっと待ってください!」


「……え?」


 私は副脳に、クリシュナの搭載装備を検索させる。

【システム通知】『宇宙空母クリシュナの海水淡水化装置:惑星上陸作戦用、毎時1,500リットルの淡水生成が可能。』


「セーラお嬢様、イケそうです! クリシュナに海水淡水化装置があるんです!」


「え!? 本当? ぜひお願いするわ!」


 私たちは急いで館に戻り、コロニー外の荒野に停泊するクリシュナを始動させた。

 艦を海岸線へ向けて大気圏航行させる。操縦コンソールに次々と命令を入力すると、機械音声が即座に応答する。


『着陸用意完了!』

『気密区画正常!』

『発電システム接続完了!』

『海水淡水化プラント始動!』


「よし!」


 クリシュナは浅瀬に着陸し、対消滅機関の無尽蔵なエネルギーを動力に、海水淡水化装置が作動を開始した。


 海水が次々に透明な淡水へと変わっていく。砂漠の民にとって、水は命そのものなのだ。


「…すごいわ!」


 セーラのライトブラウンの瞳が、驚きと喜びで輝く。

 農業、飲料、工業――水の用途は無限だ。クリシュナの装置は、コロニーの未来を変える可能性を秘めている。


「カーヴ、貴方ほんとに使えるわね!」


「お褒めいただき光栄です!」


 やがて、知らせを聞きつけたフランツが地元業者と共に駆けつけた。

 送水パイプラインの敷設が急ピッチで進み、飲料水をコロニーまで引くことに成功。セーラの笑顔と、フランツの満足げな頷きが、私の胸に温かな達成感を刻んだのだった。




☆★☆★☆


 惑星アーバレスト。

 全土がライス伯爵領に属し、約1200万の住民が暮らすこの星は、酷暑の砂漠に支配されている。

 人々は半円形の居住コロニーのドームに身を寄せ、慢性的な水不足と食糧難に悩まされていた。


 灼熱の陽光と赤い砂が、まるで星そのものが息を潜めるように静まり返っている。


「そのパイプは第二工区へ!」


「了解!」


「カーヴ課長、この書類はここでいいですか?」


「ええ、そこでお願いします!」


 私はライス伯爵家の家宰、フランツによって「水資源開発課長」に任命された。

 だが名ばかりの役職だ。部下は一人もおらず、実質的な仕事は宇宙空母クリシュナが担っている。だが、この肩書きが、別次元に漂着した私に新たな目的を与えてくれた。


 現在、農業用水用のパイプライン敷設が急ピッチで進んでいる。クリシュナの海水淡水化装置を分離し、恒久的なプラントとして設置する計画だ。

 さらに、追加の淡水化プラントの建設も検討されている。


 クリシュナの対消滅機関は、ほぼ無尽蔵のエネルギーを供給し、コストを気にせず淡水を生み出せる。

 この技術が、アーバレストの未来を変えつつあった。



 昼時。熱砂の陽光が容赦なく降り注ぐ。アーバレストの太陽は、まるで星を焼き尽くそうとするかのように強烈だ。


「……あちち、暑いな!」


「ポコポコ!」


 足元で、ポコリンがパイプの継ぎ目から漏れた水をぺろぺろと舐めている。つぶらな瞳で私を見上げる姿に、思わず苦笑する。

 この小さなタヌキは、クリシュナの唯一の「生存者」だ。なぜ人間がいないのに、こいつだけが生き残ったのか。いまだに謎だ。


「カーヴ! お昼ご飯持ってきたわよ!」


 遠くからセーラの声が響く。彼女の運転する車が砂塵を巻き上げながら近づいてくる。金褐色の髪が風に揺れ、いつもの無垢な笑顔が輝いている。


「ありがとうございます!」


 セーラが差し出す籠には、サンドイッチと冷えた果実飲料が詰まっていた。

 最近の彼女のサンドイッチは、ちゃんとマスタードが効いている。戦場での不満を思い出すあのサンドイッチとは大違いだ。


 私はパイプの陰に腰を下ろし、卵サンドに齧りつく。マスタードの辛みが舌を刺激し、疲れた体に活力を与える。戦士として設計された私が、こんな日常の味に癒されるなんて。


「……やっぱり、サンドイッチはマスタードがないとな。」


 ふと空を見上げる。青く澄んだアーバレストの空に、クリシュナのシェフだった友の顔が浮かんだ。彼の作るサンドイッチは、戦闘後の私の唯一の楽しみだった。

 だが、あの笑顔は、もう二度と見られない。


「どうしたの、カーヴ?」


 セーラの声に我に返る。彼女のライトブラウンの瞳が、心配そうに私を覗き込む。


「……いえ、なんでもありません。」


 私は笑って誤魔化す。

 セーラのサンドイッチは、確かにあの友の味に似ていた。


 過去を失った私が、この星で新たな絆を見つけつつあるのかもしれない。ポコリンが私の足元で「ぽこ」と鳴き、セーラが笑う。

 この瞬間、アーバレストの熱砂が、ほんの少しだけ優しく感じられたのだった。



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