深夜の執務室は、木造りの温もりとガスランプの淡い光に満ちていた。
ランプに群がる虫が熱に焼かれては床に落ち、かすかな焦げる音が静寂に響く。
フランツさんの声が、その静けさを切り裂いた。
「マーダから技術を奪え、ですと!?」
「その通りだ。カーヴ。人類とマーダが共存することはあっても、軍事技術の共有まで踏み込むことはない。それぞれの勢力が、自らの力を隠し持つ理由があるのだよ」
フランツさんの言葉は重く、冷たく、しかしどこか熱を帯びていた。
人類がマーダを倒した後、必ず訪れる次の戦い――人間同士の覇権争い。
それを見据えて、各勢力は技術を秘匿し、力を蓄える。
特に、かつての王家の地位を狙う者たちは、ライス家を含め、数多く存在したのだ。
「さらに言えば、マーダとて一枚岩ではない。彼らは高度な知的生命体だ。交渉の余地があるかもしれないし、彼ら内部の対立を誘発できれば、我々に有利に働く可能性もある。そのためには、より積極的に彼らと接触する必要がある」
フランツさんはそう言うと、木製の机に古びた宇宙図を広げた。そこには、人類もマーダも足を踏み入れていない広大な未開宙域が描かれていた。
星々の点描が、まるで無限の可能性を秘めたキャンバスのように広がっている。
「この宙域を見てくれ。ここは未踏の領域だ。新たな星図を描き、古代文明の技術を獲得し、ライス家の繁栄をさらに高めてほしい。君の任務は、我が家の未来を切り開くことだ」
フランツさんの目は、星そのもののように輝いていた。その情熱は、ライス家への絶対的な忠誠から生まれている。
私は、彼が人類全体よりもライス家を優先しているのではないかと感じずにはいられなかった。
その忠誠心は、きっと常人の域を超えた何かだったかもしれない。
「承知しました!」
私は一礼し、執務室を後にした。コロニードームの外では、水平線が朝焼けに赤く染まり始めていた。
新たな宙域への旅立ちが、すぐそこに迫っている。
翌日、A-22基地の広場に集まった隊員たちの前に、私は演台に立った。
普段は口数が少ない私が、こうして皆を前に話すのは珍しいことだった。
「皆、よく聞いてくれ。私はこれから人類未踏の宙域開拓に向かう。留守の間、基地司令官をレイ、副司令官をトムに委ねる。総員、彼らを支え、全力で任務を遂行してほしい!」
「「「はっ!」」」
隊員たちの声が一斉に響き、基地の金属壁にこだまする。私はボードに書かれた人員配置や防衛計画を指しながら、フランツさんとの協議で決まった事項を淡々と説明していった。アーバレストの防衛を盤石にするための指示は、細部に至るまで緻密だった。
「以上だ。皆、一丸となってアーバレストを守り抜いてくれ!」
「「「了解!」」」
演台を降りると、肩から重い荷が下りたような気がした。レイとトムが新たな責任を背負うことになる。
彼らの顔には緊張と決意が混ざり、頬がわずかに紅潮していた。私は彼らを信頼していたが、同時に、彼らが人間としてこの重圧をどう受け止めるのか、密かに案じてもいた。
「ブルー、お前も残りたかったか?」
私は隣に立つバイオロイドのブルーに声をかけた。ブルーは、今回私の旅に同行する唯一の仲間だ。
さらに、ペットのポコリン――二足歩行可変戦闘機「ドライブアーマー」のパイロットとしても活躍する小さな相棒――も一緒だ。
「いやいや、旦那のご飯係がいなけりゃ困りますぜ!」
ブルーは軽口を叩き、ポコリンが「ぽこここ!」と愛らしい鳴き声を上げたのであった。
☆★☆★☆
――その日の晩。
A-22基地の飛行甲板は静けさに包まれていた。見送りに来てくれたのはトムと数人の仲間だけだ。
ほかの隊員たちは任務に追われている。非番の彼らにわざわざ足を運ばせたことに、少し申し訳なさを感じる。
「……では、行ってくる!」
「ご無事で!」
トムの声が力強く響いた。宇宙空母クリシュナは、整備と最終点検を終え、必要物資を満載していた。
私はコックピットに座り、操縦桿を握る。
エンジンの低いうなり声が響き、クリシュナはアーバレストの赤茶けた大地を離れ、ゆっくりと上昇を始めた。
「クリシュナ、第二宇宙速度へ!」
『了解、ブースト加速します!』
戦術コンピューターの無機質な声が応える。レイやトム、そして海賊上がりの荒々しい兵員たちとの別れは、ほんの一瞬の出来事に思える。
窓の外では、愛着ある赤い大地がみるみる小さくなり、やがて一つの球体として遠ざかっていく。暗黒の宇宙に飲み込まれる瞬間、心にわずかな寂しさがよぎった。
アーバレストの重力圏を脱し、クリシュナの重力制御装置が安定した頃、隣に座る暫定航海長のブルーが不思議そうに口を開いた。
「旦那、この宇宙図、ほぼ真っ白なんですけど……」
「ああ、そうだ。だからこそ、調べに行くんだ!」
「ええー!? 間違ったら迷子じゃないですか!?」
ブルーの言葉に、はっとする。確かに、この未開宙域は人類がほとんど足を踏み入れていない領域だ。下手をすれば、帰還の道すら見失うかもしれない。
未知の航路への不安が、胸の奥で小さくうずいた。
「なんとかなるよ、きっと。」
私は軽く笑ってごまかした。
「ええー!」
ブルーの不満げな声が艦内に響くが、私は彼をなだめながら操縦を続けた。
ユーストフ星系の外縁に到達すると、進路を遮る小惑星はほとんどなかった。
不安を押し殺し、私は長距離ワープの準備に取りかかった。
未知の宙域――そこは、人がまだ開拓の手を伸ばしていない星系だ。未発掘の古代文明の遺産が眠っている可能性が高く、ライス家にとって技術的躍進の鍵となるかもしれない。
ふと、頭に古い記憶がよみがえる。太古の大航海時代、報酬を夢見て海に飛び出した船乗りたち。
彼らもまた、生きて帰れる保証のない旅に挑んだのだろう。手にしていた古書の一節が、まるで今の私たちに重なるように思えた。
『機関全速、エンジン出力最大!』
「亜光速航行から、次元跳躍へ!」
『了解! ワープします!』
戦術コンピューターの音声が響く中、クリシュナは再加速した。艦橋の窓から見える星々の光は、点から線へと変わり、やがて完全な暗黒に飲み込まれていく。
次元跳躍の瞬間、身体が一瞬浮くような感覚に襲われ、心臓が強く鼓動を打った。
未知の航路は、まるで果てしない闇の海だ。そこには、古代文明の遺産やマーダの秘密が潜んでいるかもしれない。
だが、同時に、戻れぬ旅となる危険もまた潜んでいる。フランツさんの命じた任務――ライス家の繁栄――を背負いながらも、私の心には別の思いが芽生えていた。
この旅は、単なる技術の奪取や家の栄光のためだけではないのかもしれない。星々の彼方で待つもの、それは人類の未来を左右する何かかもしれないのだ。
クリシュナのエンジン音が低く唸り、ポコリンが「ぽこここ」と小さな鳴き声を上げる。
ブルーはまだ不満げな顔だが、どこか楽しげでもある。私、ブルー、ポコリン――たった三人の旅は、こうして始まった。星屑の海の果てを目指して。