──そこは、地下に広がる巨大な洞窟だった。
赤黒い岩肌に囲まれたその空間は、まるで世界の裏側のように静かで、そして狂っていた。
金属がぶつかり合う音、魔術が爆ぜる音、悲鳴と怒号──それらが断続的に響くたび、空間の歪みが濃くなっていく。
だというのに、不意に訪れる沈黙の瞬間が、何よりも恐ろしかった。
携帯魔導灯の揺れる光と、壁に張りついた蛍光虫の微かな輝き。
それ以外に、この場所を照らすものはなかった。
天井から滴る水音と、踏み抜く水たまりの音──そのすべてが、どこか遠く、歪んで響く。
おかしい。
光の届き方、空気の流れ、肌の感覚……すべてが、ほんの少し“ずれて”いた。
わたしだけが、この空間で“浮いて”いるような──
そんな違和を覚えたのは、これが初めてじゃない。
けれど、この洞窟で感じたそれは、一段と濃く、はっきりとしていた。
その正体はまだ分からない。
ただ、この空間は──確かに危険だった。
「アグニス! お前たちは、今のうちに行け!」
兄の怒鳴り声が、闇に響き渡る。
目の前には、──黒い靄を纏った、輪郭の定まらない“何か”。
その巨体と対峙する兄の背が、一瞬、炎に包まれて見えた。
「兄様、あれは……!
「いいから行け!」
「レオン、連れて帰れ! 絶対に──無事に帰せ!」
怒号とともに、肩が強く引かれる。
レオンの手が、わたしを現実に引き戻した。
倒れた同級生たち。動かない身体。震える足。
わたしは、ただ立ち尽くしていた。
「くそっ……動けよ……!」
言葉とは裏腹に、足がすくむ。
心の奥から沸き上がる恐怖と、自分への怒りが喉を締めつける。
──そのとき、兄が放った最後の炎の魔術が、洞窟の闇を赤く染めた。
一瞬だけ、世界が熱を帯びる。空気が震え、光が視界を満たす。
走る。振り返ることも許されないまま。
わたしの中に、“違和感は確かにあった。
けれど、それがあれほどの危機を示していたとは──
誰にも、分からなかったはずだ。
兄も、仲間たちも、最善を尽くしていた。
それでも……結果は、誰一人止められなかった。
ただ……ほんの少しでも、自分の感覚をもっと信じていたら。
──そう思ってしまうのは、きっと弱さじゃない。
走るたび、胸の奥がきしむように痛んだ。
振り返ることは──もう、できなかった。
……どこか遠くで、まぶたの裏に光が触れた。
じんわりと、夜の闇が後退していく。
わたしは、かすかに瞬きをした。
そして、ゆっくりと目を開ける。
見慣れた天井が、ぼやけた視界の奥に浮かんでくる。
寝室。朝の光。
けれど、心臓は妙に速く打ち、息がどこか浅い。
何か、見ていた気がする。
けれど、思い出せない。
ただ、胸の奥に重たいものが残っている。
ふと、懐かしいような──けれど曖昧な、灰の匂いが鼻先をかすめた。
わたしは無意識に、そっと拳を握りしめた。
微かに懐かしい、炎の後に残る灰のような匂いが鼻に残っている気がした。
深呼吸をし、息を整えた。
「トントン」
静かに響く、決まった朝の合図。
「おはようございます、アグニス様」
執事のロルフの声が、扉越しに響く。
彼は、私たち兄妹にとって、親代わりでもあった人だ。
物心つく前から、ずっとそばで支えてくれている。
いつもの時間、いつもの調子。ほんの少しも狂わない。──それが、彼らしさだ。
「本日はノルスティア家との会談がございます。
旧知の仲とはいえ、アグニス様は当家の当主なのですから──くれぐれも、二度寝などなさいませんように、会談なのですから、いつもの格好ではなく正装で望むようにお願いします」
それだけを言い残し、ロルフはスススっと足音も静かに廊下の奥へと消えていった。
(……まったく。いつまで子ども扱いしてるんだか)
ふふふ
思わず、笑みが溢れる。
いつも通りなのが、妙に心地よく安心した。
朝の光が、窓辺から差し込んでいた。
ほんの少し、眩しい。遠目には、見慣れた湯煙が空に向かって舞っている。
鼻につく硫黄の混ざった匂いもいつも通り。
昨日は温泉宿で、久しぶりにエララと一緒に食事もとれて、気分転換ができた。
──今日からまた、政務に専念できそうだ。
軽く身体を起こし、「やるぞー」と自分に言い聞かせながら、後ろにぐっと体を伸ばす。
ひと伸びして寝床を降りると、さらさらと布の擦れる音がした。
視線を落とすと、小さな黄色い尻尾の先が、ぴょこぴょこと揺れていた。
(……頭隠して、尻隠さず、ってやつね)
隠れているつもりのこの尻尾の主は、女中見習いのエリーナ。
狐族の獣人の少女で、少し前の紛争から逃れてこの地に流れ着いた子だ。
当初は不安げに耳を垂らし、物陰からこちらを見つめるばかりだったけれど、
なぜか私にだけは懐いて離れようとしなかった。
だから、そのまま女中として引き取ることにした。
学校よりも、この屋敷で暮らしながら学ばせる方が──この子には合っていると思ったから。
布団の端がもぞもぞと動く。
「……んー、エリーナがいる気がするなぁ」ととぼけると、尻尾がぶんぶんと振られ、
「アグニス様ーっ!」と飛び出し足にぴたりと抱きついた。
「おはよう、エリーナ。……これから着替えるからね」
頭を軽く撫でると、彼女は満足そうに目を細めた。
怯えていた頃の面影は、もうどこにもない。
──そのことが、何より嬉しかった。
ふと横を見ると、今日の仕立て服がすでに整えられている。
きっと誰よりも早起きして準備してくれたのだろう。
尻尾をブンブン振るエリーナの
手を借りながら素早く着替えを終え、私は朝のうちに処理すべき書類をまとめるため、執務室へと向かった。
寝室の扉を開けると、冷えた空気が肌を撫で、廊下に差し込む朝の光が静かに床を照らしている。まだ誰の足音も聞こえず、屋敷は一面、穏やかな静けさに包まれていた。
執務室に入ると、エリーナがそっと茶器を運んできた。
大きな盆を抱えて、こぼさぬように慎重に歩いてくる姿が、なんともけなげで愛らしい。
湯気とともに立ちのぼる香りが、張り詰めていた思考をゆるやかにほぐしていく。
添えられた焼き菓子は、わたしには少し甘すぎる。だから、そっとエリーナに手渡すと、彼女は小さくお辞儀をして、嬉しそうに部屋を出ていった。
茶を一口含み、ふと傍らの時計に目をやる。
──会談の時間が、近づいていた。
湯呑を静かに置き、書類をひとまとめにして立ち上がる。
背筋を正し、ひとつ深く息を吸い込むと、私は応接室へと足を向けた。