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七律の詩篇 焔の皇女と氷の魔女
七律の詩篇 焔の皇女と氷の魔女
JILL
文芸・その他純文学
2025年06月02日
公開日
8,397字
連載中
兄が命を落とした洞窟で、少女は“違和感”を感じていた。 だが、その感覚の正体も、世界の歪みも、誰にも語られないまま過去へ沈む。 現在と回想が静かに交錯する、記憶と赦しの幻想詩篇。

第1話 第一節・黎明 灰より目覚めし者 1

──そこは、地下に広がる巨大な洞窟だった。

赤黒い岩肌に囲まれたその空間は、まるで世界の裏側のように静かで、そして狂っていた。


金属がぶつかり合う音、魔術が爆ぜる音、悲鳴と怒号──それらが断続的に響くたび、空間の歪みが濃くなっていく。

だというのに、不意に訪れる沈黙の瞬間が、何よりも恐ろしかった。


携帯魔導灯の揺れる光と、壁に張りついた蛍光虫の微かな輝き。

それ以外に、この場所を照らすものはなかった。

天井から滴る水音と、踏み抜く水たまりの音──そのすべてが、どこか遠く、歪んで響く。


おかしい。

光の届き方、空気の流れ、肌の感覚……すべてが、ほんの少し“ずれて”いた。


わたしだけが、この空間で“浮いて”いるような──

そんな違和を覚えたのは、これが初めてじゃない。

けれど、この洞窟で感じたそれは、一段と濃く、はっきりとしていた。

その正体はまだ分からない。

ただ、この空間は──確かに危険だった。


「アグニス! お前たちは、今のうちに行け!」


兄の怒鳴り声が、闇に響き渡る。

目の前には、──黒い靄を纏った、輪郭の定まらない“何か”。


その巨体と対峙する兄の背が、一瞬、炎に包まれて見えた。


「兄様、あれは……! 


「いいから行け!」

「レオン、連れて帰れ! 絶対に──無事に帰せ!」


怒号とともに、肩が強く引かれる。

レオンの手が、わたしを現実に引き戻した。


倒れた同級生たち。動かない身体。震える足。

わたしは、ただ立ち尽くしていた。


「くそっ……動けよ……!」


言葉とは裏腹に、足がすくむ。

心の奥から沸き上がる恐怖と、自分への怒りが喉を締めつける。


──そのとき、兄が放った最後の炎の魔術が、洞窟の闇を赤く染めた。

一瞬だけ、世界が熱を帯びる。空気が震え、光が視界を満たす。



走る。振り返ることも許されないまま。



わたしの中に、“違和感は確かにあった。

けれど、それがあれほどの危機を示していたとは──

誰にも、分からなかったはずだ。

兄も、仲間たちも、最善を尽くしていた。

それでも……結果は、誰一人止められなかった。


ただ……ほんの少しでも、自分の感覚をもっと信じていたら。


──そう思ってしまうのは、きっと弱さじゃない。


走るたび、胸の奥がきしむように痛んだ。

振り返ることは──もう、できなかった。


……どこか遠くで、まぶたの裏に光が触れた。

じんわりと、夜の闇が後退していく。


わたしは、かすかに瞬きをした。

そして、ゆっくりと目を開ける。


見慣れた天井が、ぼやけた視界の奥に浮かんでくる。

寝室。朝の光。

けれど、心臓は妙に速く打ち、息がどこか浅い。


何か、見ていた気がする。

けれど、思い出せない。

ただ、胸の奥に重たいものが残っている。


ふと、懐かしいような──けれど曖昧な、灰の匂いが鼻先をかすめた。

わたしは無意識に、そっと拳を握りしめた。


微かに懐かしい、炎の後に残る灰のような匂いが鼻に残っている気がした。


深呼吸をし、息を整えた。


「トントン」


静かに響く、決まった朝の合図。


「おはようございます、アグニス様」


執事のロルフの声が、扉越しに響く。

彼は、私たち兄妹にとって、親代わりでもあった人だ。

物心つく前から、ずっとそばで支えてくれている。

いつもの時間、いつもの調子。ほんの少しも狂わない。──それが、彼らしさだ。


「本日はノルスティア家との会談がございます。

旧知の仲とはいえ、アグニス様は当家の当主なのですから──くれぐれも、二度寝などなさいませんように、会談なのですから、いつもの格好ではなく正装で望むようにお願いします」


それだけを言い残し、ロルフはスススっと足音も静かに廊下の奥へと消えていった。


(……まったく。いつまで子ども扱いしてるんだか)

ふふふ


思わず、笑みが溢れる。

いつも通りなのが、妙に心地よく安心した。

朝の光が、窓辺から差し込んでいた。

ほんの少し、眩しい。遠目には、見慣れた湯煙が空に向かって舞っている。

鼻につく硫黄の混ざった匂いもいつも通り。

昨日は温泉宿で、久しぶりにエララと一緒に食事もとれて、気分転換ができた。

──今日からまた、政務に専念できそうだ。


軽く身体を起こし、「やるぞー」と自分に言い聞かせながら、後ろにぐっと体を伸ばす。


ひと伸びして寝床を降りると、さらさらと布の擦れる音がした。


視線を落とすと、小さな黄色い尻尾の先が、ぴょこぴょこと揺れていた。


(……頭隠して、尻隠さず、ってやつね)


隠れているつもりのこの尻尾の主は、女中見習いのエリーナ。

狐族の獣人の少女で、少し前の紛争から逃れてこの地に流れ着いた子だ。


当初は不安げに耳を垂らし、物陰からこちらを見つめるばかりだったけれど、

なぜか私にだけは懐いて離れようとしなかった。


だから、そのまま女中として引き取ることにした。

学校よりも、この屋敷で暮らしながら学ばせる方が──この子には合っていると思ったから。


布団の端がもぞもぞと動く。

「……んー、エリーナがいる気がするなぁ」ととぼけると、尻尾がぶんぶんと振られ、

「アグニス様ーっ!」と飛び出し足にぴたりと抱きついた。


「おはよう、エリーナ。……これから着替えるからね」


頭を軽く撫でると、彼女は満足そうに目を細めた。

怯えていた頃の面影は、もうどこにもない。


──そのことが、何より嬉しかった。


ふと横を見ると、今日の仕立て服がすでに整えられている。

きっと誰よりも早起きして準備してくれたのだろう。

尻尾をブンブン振るエリーナの

手を借りながら素早く着替えを終え、私は朝のうちに処理すべき書類をまとめるため、執務室へと向かった。


寝室の扉を開けると、冷えた空気が肌を撫で、廊下に差し込む朝の光が静かに床を照らしている。まだ誰の足音も聞こえず、屋敷は一面、穏やかな静けさに包まれていた。


執務室に入ると、エリーナがそっと茶器を運んできた。

大きな盆を抱えて、こぼさぬように慎重に歩いてくる姿が、なんともけなげで愛らしい。


湯気とともに立ちのぼる香りが、張り詰めていた思考をゆるやかにほぐしていく。

添えられた焼き菓子は、わたしには少し甘すぎる。だから、そっとエリーナに手渡すと、彼女は小さくお辞儀をして、嬉しそうに部屋を出ていった。


茶を一口含み、ふと傍らの時計に目をやる。


──会談の時間が、近づいていた。


湯呑を静かに置き、書類をひとまとめにして立ち上がる。

背筋を正し、ひとつ深く息を吸い込むと、私は応接室へと足を向けた。


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