石造りの廊下を歩く足音が、コツ、コツと静かに響く。
この音も、もう何年も聞き慣れたものだ。
(……会談、か)
肩の内側で小さく息を吐きながら、私は今日の予定を思い浮かべる。
相手はヴィクトリア──幼馴染であり、軍務の現場で長く支え合ってきた仲でもある。
なのに、わざわざ“記録に残る形式”での会談にするあたり、ただの雑談で済む話ではなさそうだ。
(何か、正式に報告しておくべき軍事の動きでもあるのか……それとも)
そんなふうに、思考を巡らせていた時だった。
おはようございます、ご当主様」
少し先から、聞き慣れた声が届いた。
顔を上げると、手を胸に当てて礼をとる男が一人。
──が、次の瞬間、その顔がぐいと上がる。
目玉を寄せ、鼻をひくつかせ、明らかにふざけている。
「ぷっ……」
思わず吹き出しかけたそのとき、
廊下の奥から「コホン」と控えめながらも鋭い咳払いが響いた。
視線を向けると、柱の陰にロルフが静かに立っていた。
背筋は真っ直ぐ、手は背後で組んだまま。表情はまるで「私はここにいません」と言わんばかり──だが、目だけは語っていた。
レオンには「当主の前でその態度は?」
私には「そろそろ真面目に」──そんな圧。
(……完全に見られてた)
レオンは肩をすくめて退散し、
私は知らぬふりを決め込んで、静かに歩き出した。
先ほどの男は、レオン。ヴェルディア家に仕える名家の出で、昔からの付き合いがある。
陽気で、少し調子者だけれど、根は真面目なやつだ。
静かに歩を進め、渡り廊下の手前でふと足を止める。
中庭の隅で、エリーナが小さな翼竜の首元を撫でていた。
翼竜は目を細め、気持ちよさそうに喉を鳴らしている。
朝露に濡れた草の上、二つの小さな影が寄り添っていた。
──あの翼竜はヴィクトリアの子だな。
彼女はもう、応接室に向かったはずだ。
ふと顔を上げると、渡り廊下の先。
窓辺に立つヴィクトリアと、目が合った。
彼女はふっと微笑んだ。
けれど──どこか、それはいつもの笑顔とは違っていた気がした。
まなざしの奥に、かすかな緊張か、決意のようなものが揺れていた。
私はそれを深く詮索することなく、わずかに口元をゆるめ、歩を進める。
応接室へ向かう足取りは、自然と静かに引き締まっていった。
アグニスが近づいてくる姿を、ヴィクトリアは窓辺から見つめていた。
背筋はまっすぐで、歩幅も迷いがない。
今日も、時間ぴったり。……ほんと、あの子はしっかりしてるわね。
けれど、その横顔を見たとき──
ヴィクトリアはふと、ほんのわずかな違和感を覚えた。
表情のどこかに、普段とは異なる影が差している気がした。
疲れているのか、それとも……直感にすぎない、そんな感覚。
応接室の静けさのなかで、ヴィクトリアは胸の内で静かに思いを結ぶ。
(帝国の皇家。その旗の下で果たすべき責務は、時に命よりも重いもの。
……けれど、あの子には──それすらを超える“何か”がある)
白布越しに差す淡い朝陽が、静かに室内を照らしていた
ノルスティア家の当主代理として、皇家を支える覚悟は常にある。
視線の先──まっすぐ進んでくるアグニスの姿。
(……変わらないわね。だからこそ、信頼できる)
ひょいと手を振られ、思わず微笑みを返す。
──それだけで、充分だった。
アグニスがゆったりとした足取りで応接室に入ってくる。
その姿を見て、ヴィクトリアはふと微笑んだ。
──が、アグニスの方は少し首を傾げ、ゆっくりと口を開いた。
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「一体どうしたのさ? 会談という形をとって会いに来るなんて。私たちの間に遠慮なんていらないでしょ?」
アグニスは少し驚いた様子で、けれど冗談めかした笑みを浮かべた。
幼馴染であり、盟約を交わした皇家同士。
互いに陸と空を担い、ひとつの軍として共に戦ってきた。
わざわざ記録を取る“会談”など、これまでは必要なかったはずだ。
「……ここ数年、西部で起きている小競り合い、気になってる?」
ヴィクトリアの声は低く、言葉の端に微かな緊張が滲んでいた。
最近、国境付近での衝突や、帝国各地の異変について耳にすることが増えている。
特に、西部の小競り合いに加え、北部でも徐々に不穏な気配が広がりつつある。
噂では、近いうちに戦線会議が開かれるとも囁かれていた。
帝国は、六つの皇家による緩やかな連合国家。
各家門は半ば独立した領地を治め、隣接する国境の防衛を担っている。
互いの領で起きた異変や紛争の兆しは、通常なら、第一報が上がる前に察知できるはずだった。
だが今、その予兆は妙に鈍く、そして、静かに続いていた。
「最近、帝国内部でもささやかれているわ。
特に、“私たち”に対する視線が強まってきているって話、聞いてない?」
「……視線って?」
「財務局筋よ。皇家軍が優秀すぎるんですって」
アグニスは小さく苦笑した。
「いつから褒め言葉が皮肉になるようになったのか」
「……そんなふうに感じてるの、ヴィクトリアだけ?」
「少なくとも、私の部隊じゃ、皆が警戒してるわ。
任務に支障が出るほどじゃないけれど、じわじわと、何かが仕掛けられてる……そんな不穏さが、確かにあるの」
アグニスは静かに頷いた。
窓の外、中庭では、エリーナが小さな翼竜たちと無邪気に戯れている。
その光景は、今この部屋に漂う重たい空気とは対照的で、どこか救いのようでもあった。
──空を飛ぶ彼らは、広く帝国各地を巡り、微かな異変を敏感に察知する。
晴れ渡る空とは裏腹に、見えない何かが、ゆっくりと世界を濁らせているのかもしれない。
アグニスの胸の奥に、じんわりと沈殿する違和感が、そっと音もなく広がっていった。