目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第一節・黎明 灰より目覚めし者 2

石造りの廊下を歩く足音が、コツ、コツと静かに響く。

この音も、もう何年も聞き慣れたものだ。


(……会談、か)


肩の内側で小さく息を吐きながら、私は今日の予定を思い浮かべる。


相手はヴィクトリア──幼馴染であり、軍務の現場で長く支え合ってきた仲でもある。


なのに、わざわざ“記録に残る形式”での会談にするあたり、ただの雑談で済む話ではなさそうだ。


(何か、正式に報告しておくべき軍事の動きでもあるのか……それとも)

そんなふうに、思考を巡らせていた時だった。


おはようございます、ご当主様」


少し先から、聞き慣れた声が届いた。

顔を上げると、手を胸に当てて礼をとる男が一人。


──が、次の瞬間、その顔がぐいと上がる。


目玉を寄せ、鼻をひくつかせ、明らかにふざけている。


「ぷっ……」


思わず吹き出しかけたそのとき、

廊下の奥から「コホン」と控えめながらも鋭い咳払いが響いた。


視線を向けると、柱の陰にロルフが静かに立っていた。

背筋は真っ直ぐ、手は背後で組んだまま。表情はまるで「私はここにいません」と言わんばかり──だが、目だけは語っていた。


レオンには「当主の前でその態度は?」

私には「そろそろ真面目に」──そんな圧。


(……完全に見られてた)


レオンは肩をすくめて退散し、

私は知らぬふりを決め込んで、静かに歩き出した。


先ほどの男は、レオン。ヴェルディア家に仕える名家の出で、昔からの付き合いがある。

陽気で、少し調子者だけれど、根は真面目なやつだ。



静かに歩を進め、渡り廊下の手前でふと足を止める。

中庭の隅で、エリーナが小さな翼竜の首元を撫でていた。


翼竜は目を細め、気持ちよさそうに喉を鳴らしている。

朝露に濡れた草の上、二つの小さな影が寄り添っていた。



──あの翼竜はヴィクトリアの子だな。

彼女はもう、応接室に向かったはずだ。


ふと顔を上げると、渡り廊下の先。

窓辺に立つヴィクトリアと、目が合った。


彼女はふっと微笑んだ。

けれど──どこか、それはいつもの笑顔とは違っていた気がした。


まなざしの奥に、かすかな緊張か、決意のようなものが揺れていた。


私はそれを深く詮索することなく、わずかに口元をゆるめ、歩を進める。

応接室へ向かう足取りは、自然と静かに引き締まっていった。




アグニスが近づいてくる姿を、ヴィクトリアは窓辺から見つめていた。

背筋はまっすぐで、歩幅も迷いがない。

今日も、時間ぴったり。……ほんと、あの子はしっかりしてるわね。


けれど、その横顔を見たとき──

ヴィクトリアはふと、ほんのわずかな違和感を覚えた。

表情のどこかに、普段とは異なる影が差している気がした。

疲れているのか、それとも……直感にすぎない、そんな感覚。


応接室の静けさのなかで、ヴィクトリアは胸の内で静かに思いを結ぶ。


(帝国の皇家。その旗の下で果たすべき責務は、時に命よりも重いもの。

……けれど、あの子には──それすらを超える“何か”がある)


白布越しに差す淡い朝陽が、静かに室内を照らしていた


ノルスティア家の当主代理として、皇家を支える覚悟は常にある。

視線の先──まっすぐ進んでくるアグニスの姿。

(……変わらないわね。だからこそ、信頼できる)

ひょいと手を振られ、思わず微笑みを返す。

──それだけで、充分だった。


アグニスがゆったりとした足取りで応接室に入ってくる。

その姿を見て、ヴィクトリアはふと微笑んだ。

──が、アグニスの方は少し首を傾げ、ゆっくりと口を開いた。



「一体どうしたのさ? 会談という形をとって会いに来るなんて。私たちの間に遠慮なんていらないでしょ?」


アグニスは少し驚いた様子で、けれど冗談めかした笑みを浮かべた。

幼馴染であり、盟約を交わした皇家同士。

互いに陸と空を担い、ひとつの軍として共に戦ってきた。

わざわざ記録を取る“会談”など、これまでは必要なかったはずだ。


「……ここ数年、西部で起きている小競り合い、気になってる?」


ヴィクトリアの声は低く、言葉の端に微かな緊張が滲んでいた。

最近、国境付近での衝突や、帝国各地の異変について耳にすることが増えている。

特に、西部の小競り合いに加え、北部でも徐々に不穏な気配が広がりつつある。

噂では、近いうちに戦線会議が開かれるとも囁かれていた。


帝国は、六つの皇家による緩やかな連合国家。

各家門は半ば独立した領地を治め、隣接する国境の防衛を担っている。

互いの領で起きた異変や紛争の兆しは、通常なら、第一報が上がる前に察知できるはずだった。

だが今、その予兆は妙に鈍く、そして、静かに続いていた。


「最近、帝国内部でもささやかれているわ。

特に、“私たち”に対する視線が強まってきているって話、聞いてない?」


「……視線って?」


「財務局筋よ。皇家軍が優秀すぎるんですって」


アグニスは小さく苦笑した。


「いつから褒め言葉が皮肉になるようになったのか」


「……そんなふうに感じてるの、ヴィクトリアだけ?」


「少なくとも、私の部隊じゃ、皆が警戒してるわ。

任務に支障が出るほどじゃないけれど、じわじわと、何かが仕掛けられてる……そんな不穏さが、確かにあるの」


アグニスは静かに頷いた。


窓の外、中庭では、エリーナが小さな翼竜たちと無邪気に戯れている。

その光景は、今この部屋に漂う重たい空気とは対照的で、どこか救いのようでもあった。


──空を飛ぶ彼らは、広く帝国各地を巡り、微かな異変を敏感に察知する。

晴れ渡る空とは裏腹に、見えない何かが、ゆっくりと世界を濁らせているのかもしれない。


アグニスの胸の奥に、じんわりと沈殿する違和感が、そっと音もなく広がっていった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?