ひとつ、沈黙が落ちる。
だが次の瞬間、アグニスは顔をしかめた。
「……冗談じゃない」
ヴィクトリアは少しだけ目を細めたが、何も言わずに静かに頷く。
ふいにアグニスが視線を窓から外し、ふっと笑みを浮かべる。
「……そういえば、昔あったよね」
「昔……?」
「私たち4人で、無断で翼竜を拝借して空の散歩に出かけたこと。
あのとき、あの隊長に死ぬほど叱られた」
「ええ……まだ現役よ、あの人。しかも、今じゃ団長よ」
「……うわぁ」
互いに、思わず笑い合う。
けれど、その笑いは長く続かなかった。
ふと、静かに空気が変わる。
るさ
「もしも……とか、考えたくないよ」
アグニスは、そっと目を伏せる。
笑みを残した唇とは裏腹に、その瞳には、かすかな不安がにじんでいた。
アグニスはそっと目を伏せ、静かに呟く。
笑みの残る唇とは裏腹に、その瞳にはかすかな不安が滲んでいた。
ふいに、胸の奥に、懐かしくも苦い記憶がよぎる。
かつては、もう一人、その輪の中にいた。
リュカ・ヴェルディア──アグニスの兄であり、ヴェルディア家の後継者。
みんなにとっても、兄のような存在だった。
誰よりも真面目で、誰よりも人のために動いていた彼は──
ある時、帰らぬ人となった。
あれ以来、私たちは他領に出る任務や、援軍の依頼をどこか縁起の悪いものとして感じてしまう。
口には出さないけれど、それは皆、同じ気持ちだった。
⸻
「なら、私がついて行こうか?」
不意に、窓の下から黒い三角魔術帽子がぴょこりと現れた。
その帽子には、小さな炎の
「エリザ……聞いてたの?」
「ふふん、偶然通りかかっただけ。たまたまね」
帽子のつばを指先でくいっと持ち上げると、
金色にきらめく瞳が、朝の光を跳ね返して輝いた。
その拍子に、帽子にしがみついていたサラマンダーとシルフが、ふらりと振り落とされる。
小柄な身体に、ふわりと揺れる魔術師のローブ。
帽子の上では、サラマンダーが尻尾をぱたぱたと振り、シルフが小さな風を巻き起こしている。
エリザがいるだけで、ほんのりと空気が賑やかになる。
この、精霊の導きで予期せぬ場所に現れる、神出鬼没な精霊魔術士も──私にとっては、友であり、幼馴染であり、大切な家族だ。
少し驚いたようにアグニスが声を上げると、
ヴィクトリアとエリザは目を合わせ、くすっと笑い合った。
ありがたいけど、それはダメよ、エリザ」
ヴィクトリアが言う声には、いつもの冷静さと、それ以上の柔らかさが混じっていた。
「あなたはアグニスを守る役目があるのだから」
「……ふふ、気持ちはすごく嬉しいけどね」
「大丈夫。アグニスは強い。」
エリザは淡い笑みを浮かべ、視線をある一点へと向けた。
「それに、レオンもいるしね」
彼女の視線の先──扉にもたれかかっていたレオンが、ふっと手を挙げる。
どうやら、最初から一部始終を聞いていたようだ。
「レオンまで……!」
アグニスが目を丸くすると、三人は彼女の反応に、思わず笑い声をこぼした。
アグニスは、変わらない。
まっすぐで、誰よりも優しい。
ただそこにいるだけで、皆の中心になってしまう――
「心配すんな、ヴィクトリア。姫は、この私が命に代えても守って差し上げましょう」
レオンは手を腹に当て、深々と三人のレディたちに向かって一礼した。
室内に笑い声が響き、張りつめていた空気がふっと和らぐ。
「私なら、大丈夫だよ。それにね……その……」
アグニスはもじもじと視線を逸らしながら、少し照れたように口を開いた。
「この中で、一番心配してるのは私なんだから!」
「確かに!」
と一同が声を揃え、また笑い合う。
「エリザ、お願いね。あなたもヴィクトリアも、必ず戻ってきて。……もし少しでも危険なら、私も行くから」
やれやれという顔でレオンはアグニスを見つめ、エリザは静かにうなずいた。
ヴィクトリアも、どこか申し訳なさそうに頷く。
「心配性だなあ、姫は」
レオンが笑いながら肩をすくめると、アグニスはむっとした顔で彼を見上げた。
「だって、放っておくと無茶しそうな人たちばっかりなんだもの」
「誰のことかな?」
と、ヴィクトリアがにやりとした目つきで言うと──
エリザがじっとアグニスを見つめた。
「いやいや、君ら全員のことだよ……ほんとに」
レオンが両手を上げて降参のポーズを取ると、三人からくすくすと笑いがこぼれる。
ほんの少しだけ、空気が軽くなった。
そして四人は、自然と円を描くように立ち、腕を伸ばした。
真ん中で、拳と拳が重なる。
「──グランディスに、誓って!」
拳を離したあと、一瞬だけ誰も言葉を発さなかった。
けれどその沈黙すら、たしかな信頼を語っていた。
──このひとときが、終わりを告げるときが来たとしても。
重ねた拳にこめた想いは、決して揺らがない。
炎はただ燃えるにあらず、
闇を裂き、夜に灯をともす。
風が運びし希望を暖め、
大地に小さき誓いを刻む者。
紅蓮にして慈しみ、
剣を執り、心を抱く者。
世界を焦がさぬために、
己の火を、ひとしずくずつ灯す者。
在るべき場所に、在る者たち──
アグニス・ヴェルディア
同日深夜 セイフォルト領・セイフォルト市
「グラン君、例の薬はまだかね? あれがないと、どうにも調子が悪い。……持病持ちは苦労するよ」
豪奢な椅子に深く身を沈めた男は、葉巻に火を点けた。
ぱち、と小さな音と共に、もくもくと甘く苦い煙がゆるやかに空中を漂い始める。
「先代様……特殊な品ゆえ、仕上げにはもう少し……しかし、予算の都合もあり……」
グラン──エレンデル商会の当主にして、セイフォルト市の実務を担う男。
だが、その声は、隠しきれないほどの怯えに揺れていた。
「私が誰に何を与えたのか、お前は忘れてはおるまい?」
先代の眼が細められる。
その一言で、部屋の空気が音もなく変わった。
「帝国の市場。セイフォルト領の独占。……その意味を忘れるな、グラン」
火の先端を弾くように指先で払うと、細かい灰が床に落ちた。
「……実を結ばぬ木は、どうなる?」
ようやく絞り出した言葉に、先代はふっと笑みを浮かべた。
その言葉に重なるように、
煙に塗れた部屋の奥で、何者かが、ゆっくりとグランを見据えていた。
夜の深さだけが、それを包んでいる。
窓の外、夜がしんしんと降りてくる。
どこかで鐘がひとつ鳴った。
葉巻の香りだけが、まだこの部屋の空気に残っていた。
ゆっくりと帝国の夜はふけていった。