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第一節・黎明 灰より目覚めし3

ひとつ、沈黙が落ちる。

だが次の瞬間、アグニスは顔をしかめた。


「……冗談じゃない」


ヴィクトリアは少しだけ目を細めたが、何も言わずに静かに頷く。


ふいにアグニスが視線を窓から外し、ふっと笑みを浮かべる。


「……そういえば、昔あったよね」


「昔……?」


「私たち4人で、無断で翼竜を拝借して空の散歩に出かけたこと。

あのとき、あの隊長に死ぬほど叱られた」


「ええ……まだ現役よ、あの人。しかも、今じゃ団長よ」


「……うわぁ」


互いに、思わず笑い合う。

けれど、その笑いは長く続かなかった。

ふと、静かに空気が変わる。

るさ

「もしも……とか、考えたくないよ」


アグニスは、そっと目を伏せる。

笑みを残した唇とは裏腹に、その瞳には、かすかな不安がにじんでいた。


アグニスはそっと目を伏せ、静かに呟く。

笑みの残る唇とは裏腹に、その瞳にはかすかな不安が滲んでいた。


ふいに、胸の奥に、懐かしくも苦い記憶がよぎる。


かつては、もう一人、その輪の中にいた。


リュカ・ヴェルディア──アグニスの兄であり、ヴェルディア家の後継者。

みんなにとっても、兄のような存在だった。


誰よりも真面目で、誰よりも人のために動いていた彼は──

ある時、帰らぬ人となった。


あれ以来、私たちは他領に出る任務や、援軍の依頼をどこか縁起の悪いものとして感じてしまう。

口には出さないけれど、それは皆、同じ気持ちだった。




「なら、私がついて行こうか?」


不意に、窓の下から黒い三角魔術帽子がぴょこりと現れた。

その帽子には、小さな炎の精霊サラマンダーと、軽やかな風の精霊シルフがしがみついている。


「エリザ……聞いてたの?」


「ふふん、偶然通りかかっただけ。たまたまね」


帽子のつばを指先でくいっと持ち上げると、

金色にきらめく瞳が、朝の光を跳ね返して輝いた。


その拍子に、帽子にしがみついていたサラマンダーとシルフが、ふらりと振り落とされる。


小柄な身体に、ふわりと揺れる魔術師のローブ。

帽子の上では、サラマンダーが尻尾をぱたぱたと振り、シルフが小さな風を巻き起こしている。

エリザがいるだけで、ほんのりと空気が賑やかになる。


この、精霊の導きで予期せぬ場所に現れる、神出鬼没な精霊魔術士も──私にとっては、友であり、幼馴染であり、大切な家族だ。


少し驚いたようにアグニスが声を上げると、

ヴィクトリアとエリザは目を合わせ、くすっと笑い合った。


ありがたいけど、それはダメよ、エリザ」


ヴィクトリアが言う声には、いつもの冷静さと、それ以上の柔らかさが混じっていた。


「あなたはアグニスを守る役目があるのだから」


「……ふふ、気持ちはすごく嬉しいけどね」


「大丈夫。アグニスは強い。」


エリザは淡い笑みを浮かべ、視線をある一点へと向けた。

「それに、レオンもいるしね」


彼女の視線の先──扉にもたれかかっていたレオンが、ふっと手を挙げる。

どうやら、最初から一部始終を聞いていたようだ。


「レオンまで……!」


アグニスが目を丸くすると、三人は彼女の反応に、思わず笑い声をこぼした。


アグニスは、変わらない。


まっすぐで、誰よりも優しい。

ただそこにいるだけで、皆の中心になってしまう――



「心配すんな、ヴィクトリア。姫は、この私が命に代えても守って差し上げましょう」

レオンは手を腹に当て、深々と三人のレディたちに向かって一礼した。


室内に笑い声が響き、張りつめていた空気がふっと和らぐ。


「私なら、大丈夫だよ。それにね……その……」


アグニスはもじもじと視線を逸らしながら、少し照れたように口を開いた。


「この中で、一番心配してるのは私なんだから!」


「確かに!」


と一同が声を揃え、また笑い合う。


「エリザ、お願いね。あなたもヴィクトリアも、必ず戻ってきて。……もし少しでも危険なら、私も行くから」


やれやれという顔でレオンはアグニスを見つめ、エリザは静かにうなずいた。

ヴィクトリアも、どこか申し訳なさそうに頷く。


「心配性だなあ、姫は」


レオンが笑いながら肩をすくめると、アグニスはむっとした顔で彼を見上げた。


「だって、放っておくと無茶しそうな人たちばっかりなんだもの」


「誰のことかな?」


と、ヴィクトリアがにやりとした目つきで言うと──


エリザがじっとアグニスを見つめた。


「いやいや、君ら全員のことだよ……ほんとに」


レオンが両手を上げて降参のポーズを取ると、三人からくすくすと笑いがこぼれる。


ほんの少しだけ、空気が軽くなった。


そして四人は、自然と円を描くように立ち、腕を伸ばした。

真ん中で、拳と拳が重なる。


「──グランディスに、誓って!」


拳を離したあと、一瞬だけ誰も言葉を発さなかった。

けれどその沈黙すら、たしかな信頼を語っていた。

──このひとときが、終わりを告げるときが来たとしても。

重ねた拳にこめた想いは、決して揺らがない。


創星詩篇セレナの律動第五節 炎の継承


炎はただ燃えるにあらず、

闇を裂き、夜に灯をともす。

風が運びし希望を暖め、

大地に小さき誓いを刻む者。


紅蓮にして慈しみ、

剣を執り、心を抱く者。

世界を焦がさぬために、

己の火を、ひとしずくずつ灯す者。


在るべき場所に、在る者たち──

アグニス・ヴェルディア


同日深夜 セイフォルト領・セイフォルト市


「グラン君、例の薬はまだかね? あれがないと、どうにも調子が悪い。……持病持ちは苦労するよ」


豪奢な椅子に深く身を沈めた男は、葉巻に火を点けた。

ぱち、と小さな音と共に、もくもくと甘く苦い煙がゆるやかに空中を漂い始める。


「先代様……特殊な品ゆえ、仕上げにはもう少し……しかし、予算の都合もあり……」


グラン──エレンデル商会の当主にして、セイフォルト市の実務を担う男。

だが、その声は、隠しきれないほどの怯えに揺れていた。


「私が誰に何を与えたのか、お前は忘れてはおるまい?」


先代の眼が細められる。

その一言で、部屋の空気が音もなく変わった。


「帝国の市場。セイフォルト領の独占。……その意味を忘れるな、グラン」


火の先端を弾くように指先で払うと、細かい灰が床に落ちた。


「……実を結ばぬ木は、どうなる?」


ようやく絞り出した言葉に、先代はふっと笑みを浮かべた。


その言葉に重なるように、

煙に塗れた部屋の奥で、何者かが、ゆっくりとグランを見据えていた。


夜の深さだけが、それを包んでいる。


窓の外、夜がしんしんと降りてくる。

どこかで鐘がひとつ鳴った。


葉巻の香りだけが、まだこの部屋の空気に残っていた。


ゆっくりと帝国の夜はふけていった。


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