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追放令嬢、幸せへの旅路――偽りの愛を捨てて真実の未来へ
追放令嬢、幸せへの旅路――偽りの愛を捨てて真実の未来へ
ゆる
異世界恋愛悪役令嬢
2025年06月02日
公開日
5.4万字
完結済
「ロレッタ・アルディート、貴様をこの国より追放する」 最愛の婚約者・第二王子の言葉で、私はすべてを失った。 無実の罪で“悪女”とされ、家族にまで見放され、たった一人で王都を追われた伯爵令嬢。 ……でもね。もう泣いたりなんてしない。 たどり着いた小さな村で私は、生きる術と、人の温かさを知った。そしてもう一度立ち上がる決意をしたの。今度は、誰にも私の人生を踏みにじらせない。 ──家族の名誉も、私自身の誇りも、全部取り戻してみせる。 これは、追放された令嬢が“悪女”の汚名を晴らし、愛と自由をつかむ逆転劇。 王子様? もういらない。 私の人生、私が主役ですから!

第1話 追放の夜

 伯爵家の令嬢ロレッタ・リンドグレイヴにとって、それはあまりにも突然の出来事だった。王都の夕暮れは美しく、宵の明星が遠くの空を淡く照らし出している。馬車の車窓から、ロレッタは燃えるように赤い夕陽を見つめていた。いつもなら、優雅なティーサロンでお茶を楽しんだり、晩餐会の準備に追われたりしている時間帯だろう。しかし、今日はそんな穏やかな日常とはかけ離れた、嵐のような一日であった。


 高級なベルベットのシートが敷かれた馬車の中、ロレッタは薄手のショールをぎゅっと握りしめている。もともとは、王宮で催される夜会――それは王家の方針発表と、新たな摂政会議の開催を祝した華やかな場であり、多くの貴族や有力者が顔を揃える大きな式典――に参加する予定だった。だが、その夜会こそが、ロレッタにとって自らの立場と人生を一瞬にして変えてしまう悪夢の始まりだったのである。


 夜会が始まったのは、まだ夕陽が沈みきらない薄闇の頃合いだった。絢爛豪華なシャンデリアが天井を彩り、貴族たちがそれぞれ飾り立てた衣装を身にまとい、ワインを片手に社交の花を咲かせていた。ロレッタも、伯爵家の令嬢として相応しい衣装を身に着けていた。淡い水色のドレスは、彼女の銀糸のような長い髪と、凛とした深紅の瞳を一層引き立てる。磨き上げられた大理石の床を歩む度に、ドレスの裾が柔らかな音を立て、まるで優美な踊り手のように彼女の存在をアピールしていた。


 その端正な姿は、周囲の羨望と敬意を集めるに充分であった。伯爵家リンドグレイヴ家は、先祖代々から軍事と学問の両面に貢献してきた名門であり、ロレッタ自身もその家柄に恥じぬよう、幼少期から礼儀作法や学術、魔法学、さらには剣術など、幅広い分野を学んできた。その努力は報われ、彼女は「才媛」として王都でも名を知られるほどになっていたのである。


 そして何より、彼女には幼い頃からの婚約者がいた。第二王子エドワード――穏やかな性格と優れた統治能力を持つと謳われ、第一王子ほどの政治的権力はないにせよ、多くの国民に愛されている人物だ。ロレッタは、そんな彼と近い将来に結婚することが決まっていた。誰もが祝福する組み合わせだった。ロレッタは心優しく聡明で、エドワードは穏健で良識ある王族。ふたりが将来的に王宮を支えれば、国家の安定や繁栄にも寄与するだろう、と人々は噂していたのだ。


 ところが、である。華やかな夜会の場において、エドワードが突然「婚約を破棄する」と宣言した。その言葉は、まるで氷の刃のように会場を凍りつかせた。美しく響いていた音楽は途切れ、貴族たちは皆一様に息を呑む。場違いな沈黙が降りた中で、ロレッタだけが状況を理解できず、呆然としていた。


 「……今、何とおっしゃいましたか?」


 場の誰よりも凛として立っていたはずのロレッタは、しかし今にも震えだしそうな声で問い返す。耳を疑うしかなかった。エドワードは押し黙ったまま、困惑の表情を浮かべる。しばしの沈黙の後、彼は再び口を開いた。


 「リンドグレイヴ伯爵令嬢ロレッタ――貴女との婚約は、今日この場をもって破棄する。……今までの事情を考慮し、賠償等は一切求めないが、これ以上の縁は断たせてもらう。」


 その瞬間、ざわざわと貴族たちの声が沸き起こった。だが、ロレッタの耳には何一つ届かない。目の前が暗くなるような感覚に襲われ、どうしてこんなことに、と心中で必死に問いかけていた。エドワードの視線はどこか居心地悪そうに斜め下を向いている。ロレッタをまっすぐ見ようとはしない。彼がこんな無慈悲な決断をする理由が見当たらない。ロレッタには、本当に思い当たる節が何もなかったのだ。


 「その……理由を教えていただけますか?」


 ロレッタがようやく声を振り絞り、問いかける。彼女は動揺していたが、それでも貴族の令嬢としての矜持を失わないよう、必死に立ち振る舞った。ここで取り乱しては、リンドグレイヴ伯爵家に泥を塗ることになる。それだけは避けなければ――そう思っていたのだ。しかし彼女の心の奥底には、冷たい恐怖と混乱がじわじわと広がっていく。


 エドワードの隣には、ロレッタがかつて「親友」と信じていた侯爵令嬢クラリスの姿があった。クラリスはいつもの美しい微笑を浮かべながら、エドワードの腕に絡むように立っている。その仕草は、王子の婚約者であるロレッタですら、遠慮していたほどの親密さを感じさせた。やがて、クラリスは周囲の視線を一身に受けながら、ロレッタに向かって静かに口を開く。


 「ロレッタ様……まさか、ご自分のなさってきたことをお忘れとは言いませんわよね?」


 「あ……な、何を……?」


 「殿下や周囲の方々を欺き、王家の信用を損ねる行為を続けてきたのは、どなたなのでしょう?」


 優雅に微笑みながら、クラリスの唇から紡がれる言葉は、鋭利な刃よりも痛々しい。周囲の貴族たちは、クラリスの告発の言葉に好奇心を掻き立てられるようにざわめいた。「欺き」「信用を損ねる」……どれもロレッタにとって身に覚えのないことだ。だが、この場を支配しているのは、言った者勝ちの雰囲気であった。しかもそれを告げるのが、王子の隣に立ち微笑む侯爵令嬢であれば、なおさら信用されやすい。


 ロレッタは咄嗟に反論の言葉を探すが、動転した頭では上手く思考をまとめられない。それでも必死になって自分の無実を訴えようとする。しかし、クラリスは続けて淡々と事実のように語り始めた。


 「私、殿下にお伝えしましたの。ロレッタ様が他国との内通を疑わせる怪しい文書をやりとりしているのを見た、と」


 「……そ、そんな馬鹿なっ。私がそんなことをするわけが……!」


 ロレッタは声を上げたが、周囲の視線は彼女に対して一層冷たくなる。まるで彼女こそが陰謀を張り巡らせていた張本人だと言わんばかりだ。その刹那、ロレッタはクラリスの目に、勝ち誇ったような一瞬の笑みを確かに見た。そして直感する。この嘘は、すべてクラリスが仕組んだものだ、と。


 「エドワード殿下に取り入っていたのも、最初から利害関係だけだったのではないか――そう思うと、悲しくてたまりませんわ。ロレッタ様とは幼い頃から親しくしておりましたのに……。」


 クラリスは悲しげな声を装っているが、その目はまったく悲しんでいない。むしろ、長年の宿願を叶えるかのように満足げですらあった。ロレッタはただ呆然とし、言葉を失う。何より痛かったのは、エドワードがクラリスの言葉を黙って肯定していることだった。彼はロレッタを一度も見ようとしないまま、首を振る。


 「ロレッタ……そうだとしても、俺は信じたくなかった。だが、あまりに証拠が揃いすぎている。それらが作られたものである可能性も考えたが……クラリスがここまで言うからには、どうにも覆しようがない。」


 「待ってください、エドワード様! 私は何も……!」


 ロレッタが声を張り上げようとしたそのときだった。王宮の衛兵たちが彼女を取り囲み、威圧するように距離を詰めてきた。ドレスの裾が床をこすり、踏みにじられる。その行儀の悪さに気づく余裕もない。なぜ、なぜこんなことになっているのか。誰も味方してくれないのか。


 「ロレッタ・リンドグレイヴ、汝は王家への反逆の疑いがある。よって即刻、すべての身分と権利を剥奪し、王宮からの退去を命じる。」


 主導するように声を上げたのは、重鎮である宰相ディルク卿だった。かつてはロレッタの父と共に国家運営を支えてきたはずの男である。その彼までもが、ロレッタを蔑むような目で見下しているのだ。ロレッタは歯を食いしばり、父の顔が浮かぶ。父は病床に伏している。長らく体調を崩しており、政治の表舞台からは退いているため、今回の夜会にも参加していない。もし父が健在であれば、こんな不当な処分は通らなかったに違いない。


 エドワードは一度、ロレッタのほうを見かけたが、その瞳には優しさの欠片もなかった。彼は心を鬼にしているのか、あるいは完全にクラリスの言葉を信じきってしまったのか。それを確かめるすべはない。ただ、一連の宣言の後、王都に轟くような沈黙が訪れた。集まった貴族たちもまた、こんな劇的な展開に呆然とするしかなかったのだろう。


 「お、お待ちください……私は、本当に何も……」


 「……もういい、ロレッタ。お前には失望した。追放処分が決まった以上、今宵のうちに王宮を立ち去れ。」


 震えるロレッタの声を遮るように、エドワードは背を向けた。そのままクラリスと連れ立ち、人々が作る道を通り抜けて去って行く。ロレッタは伸ばしかけた手を空中に彷徨わせたが、そこにはもう彼の姿はない。まるで悪い夢でも見ているかのようだった。周囲の視線は、同情よりもむしろ面白がる好奇の色が強い。貴族社会とは、得てしてこんなものなのかもしれない。誰かが落ちる姿を見れば、自分ではないことに安堵し、その不幸に酔いしれる者さえいるのだ。


 やがて、宰相ディルク卿が再び声を発した。


 「ロレッタ・リンドグレイヴ――今後、汝は『悪女』として大罪を犯したものと見なす。王家への裏切りを働き、国家の秩序を乱す可能性が高い。この命に背けば、死罪に処す。すみやかに退去せよ。」


 ロレッタは一瞬、嘲笑うしかない気持ちに襲われる。自分がいつの間に「悪女」などと呼ばれるような行為をしたというのか。しかしそれを口にすることは、もはや許されない空気だった。数名の兵士がロレッタを取り押さえるように腕を掴み、馬車まで半ば強引に連れて行く。その間中、ロレッタはただ呆然と地面を見つめていた。


 こうして、華やかな夜会は一転して、ロレッタを糾弾する場へと変貌した。王宮の入り口を出るころには日がとっぷりと暮れ、周囲には冷たい夜風が吹き始めていた。兵士たちは一定の距離を置きながらも、ロレッタが逃げ出さないよう常に視線を向けている。彼女を王宮の門外まで送り届ければ、それで任務完了なのだろう。誰もがロレッタの言葉を聞こうとしない。もはや泣くことすら許されない雰囲気の中、ロレッタはただ、なんとか平静を装い、伯爵家所有の馬車に乗り込んだ。


 「……伯爵令嬢では、もうないのですよね……」


 誰にともなく、ロレッタは呟く。彼女の身分は即刻剥奪され、実家にとっても勲章どころか汚点になりかねない扱いを受けてしまった。馬車の御者はリンドグレイヴ家で長年仕えてきた男だった。彼は顔に憐れみを湛えながらも、ロレッタにかける言葉を見つけられない。ロレッタもまた、何かを言ってほしいわけではなかった。ただ、静かにこの場を去りたい。それだけを望んでいた。


 馬車が動き出すと、王宮の華やかな灯りが遠ざかっていくのが窓越しに見える。まるで現世の祝福の光が、ロレッタに背を向けるかのようだった。王宮の外壁を囲む大通りには、夜会を終えた貴族たちや従者たちが行き交っている。華やかな笑い声が微かに聞こえてくる度に、ロレッタの胸の奥がきしむように痛んだ。つい数時間前まで、あの中で同じように笑い、踊り、未来を夢見ていたというのに……。


 「お嬢様……このまま伯爵邸にお戻りになりますか?」


 ようやく御者が問いかけた。かつてはロレッタを「お嬢様」と呼ぶことに誇りを持ち、敬意を払ってくれていたが、今その言葉がどこか虚しい響きを帯びている。ロレッタはそっと目を閉じる。帰ってもいいのだろうか。自分は追放された身だ。伯爵家に戻れば、父に危害が及ぶかもしれない。実際、国家への反逆者とみなされた娘を庇う父に、王宮や他の貴族がどう出るかは火を見るより明らかだ。


 「……いえ。申し訳ないけど、伯爵邸には寄りません。荷物を取りに行くこともできませんし、行けば父に迷惑がかかる。……少し、遠くへ行く必要があります。」


 どこへ行けばいいのかは自分でも分からない。ただ、このまま王都に留まれば、さらなる追及や嘲りの目に晒されるだけだ。まだ病床の父を守るためには、むしろ一刻も早く王都を出るほうがいいだろう。そう悟ったロレッタは、わずかに唇を震わせながら、なんとか意志をはっきりと口にする。すると御者は苦渋の表情を浮かべ、「かしこまりました」とだけ答えた。


 馬車は王都の石畳を進む。夜道の街灯が揺れ、その影が不気味に伸びる。普段なら優美な夜の景色も、今のロレッタの目にはどこか薄暗く、陰鬱に映った。時折、馬車の車輪が石畳の溝に触れ、ぎくしゃくと揺れる。ロレッタはそのたびにドレスの裾を握りしめ、不安を堪えるように目を伏せた。


 「……追放、か。」


 小さく呟いてみても、それが現実なのだと理解するには、まだ時間がかかる。いつか悪い夢から覚めるのではないかと思ってしまうほどだ。しかし、これは紛れもない事実である。王子から婚約を破棄され、国への反逆者として罰せられ、身分を剥奪された。まさに人生の転落というべき瞬間だろう。だが、ロレッタの心には、混乱と絶望だけでなく、ひどく冷めた感覚も芽生えていた。


 (エドワード様は、あのクラリスの言葉を信じてしまった。私の訴えに耳を貸すことすらしなかった。この数年間、私がどれほど彼を慕い、信頼してきたかなど、まるで無意味だったのね……)


 今思えば、エドワードの優しさは表面的なものだったのではないかとすら感じる。もともとエドワードは、国や民に対しては穏やかで慈悲深い対応をする一方で、どこか優柔不断で流されやすい面があると噂されていた。それをフォローしていたのがロレッタの存在だった、というのが周囲の見方だったはずだ。だが、そのフォロー役である彼女自身が悪女として追放されるに至ったというのは、何とも皮肉な話である。


 しかも、クラリスが陰で糸を引いていたことは明白だ。幼い頃は、ロレッタとクラリスは同じ学舎に通い、社交界でも姉妹のように仲が良かった。だが、クラリスは王族との縁故を強く望み、いつしかロレッタに嫉妬を抱くようになったのかもしれない。ロレッタが第二王子の婚約者に決まった頃から、クラリスの態度は徐々に冷たくなった。その変化を感じ取りながらも、ロレッタは彼女を友人だと思い続けていた。しかしそれが、こんな形で裏切られるとは……。


 馬車が王都の外れに差し掛かるころ、ロレッタは唐突に御者へ声をかける。


 「少し、遠くの村まで……行っていただけますか? 王都から南に向かった先に、小さな村が幾つかあるはずです。具体的にどこへ行こうと決めたわけではありませんが、とにかく王都から離れたくて……」


 声が震えていた。伯爵邸にも帰れず、頼れる縁者もこの都にはいない。友人たちも、今回の騒動でどれだけ信用できるかわからない。もし王家に睨まれていると知れば、態度を翻してロレッタを受け入れないかもしれない。もしくは、クラリスがどこまで手を回しているかも分からず、危険が伴うかもしれない。――そう考えると、頼れるのは自分の力だけ。リンドグレイヴ家の庇護など、もはや期待できないのだ。


 御者は微かに息を飲んだようだったが、まるで覚悟を決めたように頷いた。長年仕えた主の娘がこんな仕打ちを受けているのを見て、心が痛まないはずがない。それでも、彼にはこの国の制度や王命に逆らう力はない。できるのは、ロレッタの望む場所まで送り届けること。それだけだ。


 「かしこまりました。では、このまま南街道に出ましょう。深夜までには城下を抜けられます。……お嬢様、いえ、ロレッタ様。しっかりおつかまりください。」


 彼のかすかな声に、ロレッタはぎこちない微笑みを返した。どんなに絶望しても、自分だけを慕ってくれる者がまだ一人はいる。その事実が、かろうじてロレッタを支えていた。


 馬車が城下町の門を通り抜ける。夜警の兵士からは奇異の目で見られたが、さしたる咎めもなく通行を許された。すでに宰相ディルク卿が手を回しており、「ロレッタを速やかに王都から退去させよ」という命令が下されているのかもしれない。細かい事情は分からないが、こうして合法的に城下から出られるだけでも幸運だった――そう思わねばならないほど、ロレッタは追い詰められていた。


 門を抜けると一気に街灯の数が減り、月明かりだけが頼りになる暗い道が続く。昼間なら商人や旅人が行き交う街道も、深夜ともなれば人影はほとんどない。かすかな風が草木を揺らし、寂寥感を際立たせた。ロレッタはその闇の向こうに、どんな未来が待っているのか想像すらできない。だが、たとえどんなに辛くとも、前に進むしかないのだ。


 ふと、ロレッタは窓の外を見つめながら、幼少期のことを思い出していた。父は、まだ壮健だった頃、彼女に何度も言い聞かせていた。


 「ロレッタ、もしお前がどんな困難にぶつかっても、誇りを失うな。お前はリンドグレイヴ伯爵家の娘だ。その誇りある血に恥じることなく生きよ。必ず、お前は自分の道を切り拓ける。」


 その言葉は、ロレッタの心に深く刻まれていた。ただし今の彼女には、もはや伯爵家の娘という身分は失われてしまっている。それでも、貴族として学んだ多くのことは、きっと彼女の血肉になっているはずだ。礼儀作法だけでなく、学問や実務能力、魔法の基礎知識、そして剣技の心得も少しはある。上流階級で生きてきたがゆえに、世間知らずと指摘される面はあるものの、何もかもが無駄になったわけではない。


 やがて馬車は、街道沿いの街灯さえ途切れるほどの場所に差し掛かる。深夜の空気がひんやりと肌を刺し、ロレッタはショールを重ねながら窓を閉じた。さすがにこの暗闇の中を延々と走り続けるのは危険だ。馬や御者の疲労も考えると、どこかで一度は休息を取る必要がある。


 「そろそろ、どこか宿を探しましょうか。」


 御者がそう提案するのももっともだった。だが、ロレッタにはまとまった所持金がほとんどない。今日は王宮の夜会に出席するだけという前提で、余分なお金を持ち歩いていなかったのだ。伯爵邸に戻って必要な荷物を整える余裕もなかったし、そもそも伯爵邸に戻ることを避けた。今手元にあるのは、装飾の少ない銀細工の指輪と、懐に忍ばせていた僅かな小銭だけ。慣れない長旅となれば、それではとても足りないだろう。だが、それでも少しは休まないと馬車の馬が持たない。


 「宿……取れるか分かりませんが、探してみましょう。もし宿代が足りなければ……この指輪を売るしかありませんね。」


 ロレッタはそう呟くと、左手の薬指にはめられていた銀の指輪をそっと撫でた。これは、かつてエドワードが幼い頃に贈ってくれたものだった。正式な婚約指輪というほど高価ではないが、ロレッタにとっては大切な思い出の品だった。今となっては、その思い出に縋るべき理由などどこにもない。それでも、彼女の心にはまだほんの少しだけ、捨てきれない感情が残っているのを感じる。だが、いずれ売るしかないのだろう。生きるためには、過去の象徴を捨てる必要があるのだから。


 どこまでも暗い街道が続く。風の音だけが頼りないBGMのように耳をかすめる。ロレッタは、曇天の空からそっと覗く月を見上げながら、自分の運命を考えた。これから先、どこに向かい、何をして生きていくのか。貴族の娘という誇りは奪われ、無実を訴えても聞き入れられず、悪女と蔑まれ――そんな状況の中で、彼女にできることは何なのだろうか。


 (……まずは、生き抜くこと。どんな形であれ、今はそれしかない。)


 追放されたからには、再び王宮に戻る未来は考えられない。たとえ戻ることができたとしても、そこで待っているのはさらなる醜聞か罰だけだ。ならば、きっぱりとこの国を出てしまう手もあるかもしれない。しかし、隣国の言語や文化にはあまり通じていないロレッタにとって、異国で生きるのは容易ではないだろう。選択肢は少ないとはいえ、今は焦って結論を出すのではなく、とにかく休息を取りながら考えるしかない。追い込まれた状態で判断を誤れば、命さえ危うくなりかねないのだ。


 その時、馬車の前方を照らす灯りが見えた。どうやら、小さな集落に辿り着いたようだ。夜道にしては珍しく、二、三軒の民家がまとまって並んでいる。宿屋らしき看板も見えたが、もう店じまいの時間なのか、入口は閉じられていた。御者が馬車を止め、「どういたしましょう?」と困惑気味に尋ねる。ロレッタはかすかな期待を抱きつつも扉を叩いてみたが、反応はない。仕方なく、彼女は溜息をついた。


 「こんな夜更けに叩かれても、警戒されるのが当然ですよね……」


 すると、一軒の家の窓からちらりと明かりが漏れ、年配の女性らしき声が聞こえてきた。


 「夜中に騒がしいねぇ。お客さんかい? うちは宿屋じゃないよ。」


 失礼にならないように言葉を選びつつ、ロレッタは窓辺に近寄った。


 「申し訳ありません。馬車で旅をしていたのですが、夜遅くなってしまって……もし宿屋があればと思ったのですが、閉まっているようで……」


 「あんたも大変だねぇ。でも、うちじゃ泊めてやれんよ。お上の許可もないし……。宿屋の主人は年寄りで、もう寝ちまってるから。」


 ロレッタは苦笑するしかない。無理やり起こせば不審者扱いされることだろう。だが、馬は疲れ切っているし、御者もまた疲労の色を隠せない。泊めてもらえなくとも、せめて馬を休ませる場所が欲しい。しかし、ここでトラブルを起こすわけにもいかない。もはや野宿するしかないか――と覚悟を決めかけたそのとき、女性は迷うように言葉を継いだ。


 「あんたたち、見たところ金持ちそうだし、町でなにかあったのかい? まぁ、詳しいことは聞かないけど……馬小屋ならあるよ。ただし、布団の用意なんてないからね。それでもいいなら……。」


 「本当ですか? ありがとうございます。お支払いできるものは少ないですが……助かります。」


 ロレッタは深く頭を下げた。女性は「まぁこんな夜中だし、仕方ないねぇ」と呟きながら、鍵を開けて馬小屋へと案内してくれた。そこは決して快適とは言えないが、馬と御者とロレッタがなんとか身を横たえるスペースはあった。野宿をするよりはずっとマシだろう。こうしてロレッタは、泥だらけの床にコートを敷き、ドレスを汚さないよう慎重に身を横たえる。ドレスが多少汚れることは仕方ないし、そんな贅沢を気にする状況でもない。


 馬小屋のかすかな藁の匂いと、夜のひんやりした空気。かつてのロレッタならば考えられないほど粗末な環境だったが、不思議と落ち着かないわけではなかった。むしろ、今日一日の荒波を経て、ようやく安息できる空間にたどり着いたのだ。無事に眠れるだけでもありがたい。天井を見上げると、木材の隙間から僅かに星空が覗いている。遠くの夜空は満天の星が輝いているのだろうか――そんなことを考えるうちに、瞼が重くなっていく。


 (……これが、私の人生の転機なのかもしれない。婚約破棄、追放……。そう、もう後戻りはできない。)


 疲れ切った頭でそう思いながら、ロレッタは目を閉じた。裏切られ、追放され、奪われた名誉と立場。残されたのは、自分自身と、ほんのわずかな荷物と……この先どうなるかも分からない真っ暗な未来だけ。それでも、心の奥底で燃えるような何かがあるのを感じる。悔しさや怒り、悲しみ――あらゆる感情が混ざり合って胸を熱くしている。やがて、その熱はゆるやかに冷まされ、意識は眠りの深淵へと沈んでいった。


 こうして、伯爵令嬢ロレッタ・リンドグレイヴは、王宮を追われる形で新しい夜を迎えたのだった。華やかな宮廷生活から一転、行き場を失い、悪女の汚名を着せられ、愛する者に裏切られ――しかし、彼女の物語はまだ終わらない。この暗闇の先にある未来こそが、ロレッタの真の人生を開く鍵となる。追放の夜は、むしろ始まりの合図だったのだ。


 夢うつつの状態で、ロレッタは静かに決意を固める。どんなに絶望しそうでも、自分の誇りと意思だけは失わない。明日から、伯爵令嬢ロレッタという身分は何の役にも立たないかもしれない。だが、自分の中に培ってきた知識や覚悟、そして真っ直ぐに生きようとする意志は、決して誰にも奪えないはずだ。失ったものは大きい。しかし、まだ何かを取り戻せる可能性はある。――そう信じて、少女は深い眠りにつく。


 夜風がささやくように馬小屋の扉を揺らし、遠くで犬の遠吠えが聞こえる。冷たい夜の静寂の中、ロレッタの心は、不思議と穏やかだった。確かにすべてを失った。でも、それは同時に自由を得たということでもある。これから先、誰も自分に「貴族令嬢らしさ」を求めない。エドワードの「王子の婚約者」という枠にも縛られない。裏切りや陰謀を巡らす社交界のしがらみからも解放される。そう考えると、ほんの少しだけ心が軽くなる思いがした。


 追放の夜は、闇を抱えながらも、かすかな希望の光を含んでいた。ロレッタはまだそれに気づいてはいなかったが、やがて彼女が歩む先には、思いもよらぬ出会いと、真実の愛が待ち受けている。そして、かつて彼女を追放した者たちがどんな末路を辿るのか――その運命は、既に静かに回り始めていたのである。





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