朝焼けが、馬小屋のわずかな隙間から差し込んできた。まるで世界が生まれ変わるかのような、淡いオレンジ色の光。ロレッタ・リンドグレイヴは、薄汚れた藁の上で目を開けた。昨夜遅くに、彼女は王都の外れにある小さな集落で、やっとの思いで馬小屋を借り、疲労困憊のまま眠りについたのである。
目覚めてすぐ、ロレッタは自分の置かれた境遇を思い出して、小さく息を呑んだ。つい昨日までは、伯爵家の令嬢として宮廷行事に出席していたはずなのに、今は馬小屋の片隅で寝起きをしている。追放され、すべてを失った現実が、重々しく彼女の胸にのしかかってくる。
「……これが私の新しい朝、か。」
静かにそう呟いて、ゆっくり体を起こす。昨夜の慌ただしさを思えば、深く考える暇もなく眠ってしまったが、一晩経って少しは頭が整理されたような気がする。ドレスの裾はすっかり埃まみれで、淡い水色の生地に汚れが目立った。ロレッタは苦笑いして、自分が持つ数少ない手持ちの衣服を思い返す。しかし当然、着替えなど持ち合わせてはいない。追放直後の身には何もないのだ。
ふと、藁束の近くで誰かの視線を感じた。振り向くと、御者のマティアスが眠そうな目をこすりながら彼女を見ていた。マティアスはリンドグレイヴ家に長年仕え、まだ幼い頃のロレッタの送迎をしてくれた人物である。髪には白いものが目立ち始めた初老の男だが、その瞳には優しさが宿っていた。ロレッタを「お嬢様」と呼び慣れているマティアスは、彼女が追放されたことで深く動揺していた。それでもこうして付き合ってくれているのは、忠義心と昔からの情ゆえだろう。
「おはようございます、ロレッタ……いや、今は何とお呼びすればよいのか……」
マティアスが言葉に詰まる。ロレッタはささやかな微笑みを浮かべながら、首を横に振った。
「何でも構いませんよ、マティアス。私自身、自分がどうあるべきか分からない状態ですから……。でも、もし今までどおりに呼んでくださるのなら、そのほうが私も気が楽です。」
「では……お嬢様、と呼ばせていただきます。私にとっては、ずっと仕えてきた大切なお方ですから。」
その言葉に、ロレッタは胸が詰まる思いだった。本来なら「伯爵令嬢」という身分は取り上げられている。だが、マティアスが変わらずに接してくれることが、どれほど心強いことだろうか。今や、ロレッタには彼しか頼れる人がいないのだ。
朝の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んで、ロレッタは馬小屋の扉を開ける。外には、夜明けとともに活動しはじめた村人たちの姿がちらほら見えた。といっても、ここは集落というよりは農村に近い印象で、昨日案内してくれた老女や、彼女の家族と思しき人々が朝の支度をしているだけである。宿屋もあるにはあるようだが、夜には店を閉めてしまう小さな商売で、正式に宿泊客を迎えるほどの規模はないらしい。
ロレッタは感謝の言葉を述べるために、昨夜扉を開けてくれた老女を探そうとしたが、遠目に見えたその姿は畑へ向かって歩き出していた。農作業に出るのだろう。忙しそうだ。これ以上迷惑をかけるわけにもいかない、と思い、ロレッタは自分の胸元をさぐる。手持ちの小銭はほとんどないが、昨夜どうにか礼金として渡した分を除いて、さらにわずかに残っている。
「……このままでは、何もできないままですね。私たち、どうしましょう?」
ロレッタが馬小屋の前で自嘲気味に呟くと、マティアスは微かな苦笑いを返す。
「お嬢様、本当に私に遠慮はいりません。私の手持ちでは大した金額ではありませんが、しばらく旅を続けるくらいの費用にはなります。……せめてどこか、人目につかない場所までお送りするまでは、私が責任を持ちます。」
「ありがとう、マティアス。でも、あなたの生活もあるでしょう。私のためにすべてを失わせるわけにはいきません。それに、父のことも……」
病床に伏せる父伯爵のことを思うと、ロレッタの心は暗く沈む。自分が身を隠すためにマティアスが同行してくれれば、伯爵家に残る人手は減る。マティアスが長期間戻らなければ、周囲から怪しまれる可能性もあるだろう。追放された娘と接触を持ったという事実は、伯爵家への圧力につながる恐れが高い。
「……マティアス、私からお願いがあります。あなたはここで私と別れて、伯爵邸に戻ってください。私が望まない形で追放されたと知れば、父はきっと苦しむでしょう。でも、私が『自分の意思で旅立った』と伝えれば、少しは気が楽になるかもしれません。」
「お嬢様……本当によろしいのですか? こんな何のあてもない旅に、お一人で出られるなんて……あまりにも危険が多い。」
マティアスは心底心配そうに、ロレッタを見つめる。その気持ちはありがたい。だが、ロレッタの決意は変わらない。もしここでマティアスに付き添ってもらえば、彼まで危険に巻き込まれるだけでなく、病床の父がさらに孤立するかもしれないからだ。ロレッタは小さく微笑むと、自分の指にはめていた銀の指輪をそっと外し、マティアスに手渡した。
「これは、私にとっての大切な指輪でした。あの人……エドワード様が幼い頃にくださったもの。でも、もう必要ありません。マティアス、これを売ってお金に変えてください。そして伯爵邸を守ってあげて。私の父が、どうか安心して余生を過ごせるように……」
マティアスは愕然とした表情で指輪を手に取る。
「しかし、これはお嬢様が唯一お持ちの、思い出の品なのでは……?」
「ええ。思い出です。でも、その思い出にすがることで、私は前に進めなくなってしまうでしょう? だから、これでいいのです。私には父のことが心配。それが、一番の思いですから。」
言いながら、ロレッタは少しだけ唇を噛みしめる。エドワードから贈られたものを手放すという行為が、今の自分には痛烈な現実感として突き刺さる。だが同時に、決別への一歩でもあった。あの夜会の出来事は夢などではない。裏切り、陰謀、婚約破棄、追放――どれも現実で、そしてもう二度と元の生活には戻れないのだ。
マティアスは深く頭を垂れて受け取り、「分かりました。お嬢様のご決意を尊重いたします。どうかお元気で……ご無事をお祈りしています。私もなるべく早く戻り、伯爵邸をお守りします」と、誓うように告げた。
こうしてロレッタは、旅の出立を前に、数少ない支えであったマティアスとも別れることを選んだ。もし今後、自分が王都や伯爵家に害を及ぼすと思われるようなことがあれば、マティアスすらも危険にさらしかねない。だからこそ、身一つで進むことが、今は最善なのだと思い込もうとしていた。
マティアスと別れ、ロレッタは朝日のまぶしさと、吹き抜ける冷たい風を感じながら街道を歩き出す。もっとも、王都から遠く離れたこの場所に詳しいわけでもないし、あてもなければ、確固たる計画もない。指輪こそ手放したが、手持ちの少しばかりの金銭でしばらくは食いつなげそうだ。それでも、宿屋に長く滞在するには足りない金額だし、当面は自力で働き口を探さなければならないだろう。
(働くにしても、どこで、何を? 貴族としての礼儀作法や魔法学、剣術の訓練……そんなものは、この辺りじゃ役に立たないかもしれない。けれど、何かしらできることはあるはず。)
ロレッタは足元の土を踏みしめながら、自分に言い聞かせる。貴族らしく品位を保つことや、王宮の作法を身につけていることは田舎では無用かもしれない。だが、読み書きの能力、計算や経理の知識、あるいは魔法の基礎理論――それらは何らかの役に立つと信じたい。とりわけ、リンドグレイヴ伯爵家の人間は、古くから軍事や行政に携わっており、文武両道の教育を受けてきた。実戦経験は少ないにせよ、ロレッタは自分の能力をゼロだと卑下しすぎることはないだろう。
そう思う一方で、昨日の夜会が脳裏に蘇る。王子エドワード、そして親友だと思っていたクラリスの冷たい視線。あれほどの大勢の前で「悪女」と烙印を押され、身分剥奪を言い渡されたあの瞬間は、どうしても忘れられない。悔しさがこみ上げるが、同時にあの場にいた誰もがクラリスの言葉を疑わずに受け入れたことには、心底失望した。エドワードさえも自分を信じてくれなかった――その事実が、一番辛い。
(でも、あそこで嘆き叫んでも、何も変わらなかったはず。もう、前を向くしかないのよ、私は。)
だから、今日からは「追放者」として、一人で生き抜いていくのだ。ロレッタはまっすぐ道を見つめ、心を奮い立たせる。整備されていない土の街道を歩くうちに、時折通り過ぎる荷馬車や旅人に目を止められはするが、誰も彼女に声をかけてはこない。貴族然とした雰囲気を漂わせているかもしれないが、今のロレッタにはその印象を崩すような余裕もなかった。ただ、無表情に足を進めるのみである。
日が高く昇る頃、街道脇にひっそりと佇む一軒の茶屋が目に入った。腰を下ろせる場所もあるようだ。空腹感を覚えはじめていたロレッタは、ここで何か温かい飲み物と軽食をとりたいと思ったが、値段がどのくらいなのか見当がつかない。貴族時代は金銭の支払いを細かく意識することがあまりなかったので、こうした質素な茶屋の相場など全く知らなかったのだ。
人の良さそうな茶屋の女主人が、店先を掃除しながらロレッタに目を留める。
「お嬢さん、一人旅かい? うちは大したものは出せないけど、休んでいくかい?」
ロレッタは戸惑いつつも、女主人にお辞儀をして店先へ近寄る。こういう時こそ、相手を不快にさせない振る舞いが必要だ。身分は剥奪されても、育ちから染みついた礼儀はすぐには抜けない。
「ありがとうございます。少し歩き疲れてしまって……。温かいお茶と、何か食べ物があれば、お願いします。」
そう言うと、女主人はロレッタを店の中に案内してくれた。決して広くはないが、通りに面した小さな座敷があり、そこに腰をおろして待つ。貴族であった頃なら、こうした庶民的な茶屋に足を運ぶことなど無かっただろう。だが、今はここしか休める場所がないのだ。むしろ、素朴な木の香りや日差しに、どこか安らぎを感じる自分に気づき、ロレッタは少しだけ驚く。
やがて、女主人が麦茶のような香りのする熱い飲み物と、素朴な焼きパンのような食事を運んできてくれた。湯気が立ち昇り、食欲をそそる。ロレッタは「あ、ありがとうございます」と少し緊張して礼を言い、恐る恐る口にする。舌を火傷しそうになりながらも、じんわりと体が温まるその味わいが、疲れた心と体を癒やしてくれる気がした。
「こんな所にまで、一人で来るとは珍しいね。旅の途中なら、もう少し大きい町に寄った方が便利だろうに……。あぁ、でも余計な詮索はしないよ。うちみたいな店は、旅人が寄ってくれるだけでありがたいんだから。」
そう言ってにこやかに笑う女主人に、ロレッタはどう答えればいいのか分からなかった。追放された身であることを正直に話すわけにはいかない。いや、いっそ話してしまったほうがいいのかもしれないが、万が一「自分は悪女として有名な娘だ」と知られれば、相手を怯えさせるだけだろう。そう考え、ロレッタは言葉を濁す。
「いえ……その、少し事情がありまして。王都を離れて、新しい土地を探しているんです。まだ行き先は決まっていないのですが……」
「あぁ、そういうことかい。まぁ、色んな人がいるからね。王都でも何か嫌なことがあったんだろう? 昔はうちも王都に近い町で商売してたけど、人が多い分、問題も多くてねえ。ここはのんびりしていていいよ。特に大きな産業があるわけでもないが、その分争いも少ないし。」
女主人はそう言いながら、もう一杯お茶を注いでくれる。その優しさに触れて、ロレッタはじんと胸が熱くなった。まるで母親のように親切な態度。貴族の令嬢時代には、このように対等に接してもらう機会など滅多に無かった。貴族同士のつき合いは常に何かしらの利害が絡むし、使用人たちは従属関係である以上、表面的には礼儀を示しても、心の底ではどう思っているか分からない。こんな小さな茶屋で、自然に人の温かみを感じることができるなんて思いもしなかった。
「これから、どこへ向かうんだい? 少し行った先に『フェリスタ村』っていうこぢんまりした集落があるよ。大きい町までは行かないけど、人柄はいいし、野菜や果物がよく採れるいい所さ。もし当てがないのなら、ああいう所で足を止めてみてもいいんじゃないかな。」
女主人の言葉に、ロレッタは耳を傾ける。フェリスタ村――聞いたことがない名前だ。だが、わざわざ王都の方へ戻る理由もなければ、別の大都市を目指す当てもない今、そういう小さな村で新しい生活を始めてみるのも悪くないかもしれない。追放者として目立たずに生きるには、人口の多い街より、小さな村のほうが向いているとも考えられる。
「そうですね……ありがとうございます。少し歩いて、そこに行ってみることにします。助かりました。」
ロレッタが礼を述べ、食事の代金として必要最低限の銀貨を取り出す。女主人は「お釣りはいいから、宿代がわりだと思って取っておきな」と言うが、ロレッタは頑なに受け取ろうとしない。今は金銭的に厳しい立場であっても、ただで助けてもらうのは後ろめたい。悪女と呼ばれた身であっても、自分の誇りまで捨てるつもりはないのだ。
「いえ、どうか受け取ってください。あなたのご好意は十分に伝わりました。これは私の気持ち……今できる、精いっぱいのことです。」
そう言って、ロレッタは深く頭を下げる。女主人は少し困ったような顔をしたが、最後には笑顔で受け取ってくれた。「お嬢さん、あんたがどんな事情を抱えていようと、幸せになりなさいよ」と、母親のように優しく背中を押してくれる。その言葉に、ロレッタは胸が熱くなる。
茶屋を出たとき、日差しはすでに強くなり、草むらには夏めいた虫の音が響いていた。ロレッタはフェリスタ村の方向を尋ね、道を再び歩き始める。行く手には野原や畑が広がっており、人家はまばらだ。風が吹き抜けるたびに、草木がささやくように揺れている。王都の石畳の道とはまるで違う穏やかな景色に、ロレッタは少しだけ心を和ませた。空は高く青く、雲がゆっくりと流れている。
(あの茶屋の女主人のように、温かい人がいるなら……少しは、生きていけるかもしれない。)
ロレッタの歩調は、いくらか軽くなった。もちろん、先の見えない不安はある。だが、「この世のすべてが自分を否定しているわけではない」という事実に気づいただけで、心がほんの少しだけ楽になる。王宮から逃げるように出てきて以降、ずっと冷たい眼差しと憎悪ばかりを感じていたからこそ、人の優しさが身に沁みるのだ。
どれほど歩いただろうか。遠くに、小さな小川の流れが見え、緑の樹木が生い茂っている場所があった。道の両脇には素朴な木造の家々が散在し、農地らしき畑が広がっている。牛や馬の姿もちらほら見え、道端には子どもたちが遊んでいるのか、笑い声が風に乗って聞こえてきた。
「ここが……フェリスタ村、かしら?」
ロレッタがつぶやいたとき、ちょうど通りかかった農夫らしき男性が「そうだよ。あんた、旅人さんかい?」と声をかけてきた。ロレッタが「はい、少し前の茶屋で村のことを教えてもらって来ました」と答えると、農夫はニカッと笑う。
「そうかそうか。それなら、村の中央にある教会を探しな。神父さんが世話好きでな、旅人や困ってる奴らをよく助けてくれるんだ。宿がないならそこで寝泊まりもできるかもしれないよ。」
農夫が教えてくれた方向を見ると、確かに小さな鐘楼らしき尖塔が見える。その周囲には村の中心部ともいえる広場があり、人々が集まっているようだ。ロレッタは自然と足をそちらへ向ける。やはりこの村にも宿屋はないのだろうが、教会が助けてくれるなら心強い。
やがて村の中心へ近づいていくと、子どもたちのはしゃぐ声が一段と大きくなった。どうやら広場の一角で、何人かの子どもが鬼ごっこのような遊びに興じているらしい。その中には、膝に擦り傷を負いながらも笑っている子もいて、近くには若い男性が付き添っていた。きっとこの子たちを世話する大人なのだろう。目を凝らすと、男性はラフなシャツにズボンという簡素な服装をしており、どこか柔和な雰囲気がある。やや長めの茶髪を無造作に束ね、優しそうな茶色の瞳で子どもたちを見守っていた。
その男性が、ふとロレッタに気づいたように顔を上げる。そして、にこりと微笑みながらこちらにやってきた。
「こんにちは。旅の方ですか? ここらじゃ見慣れないお顔ですね。」
「ええ、そうなんです。あの……私は行き先が決まっておらず、暫くこの村で滞在できる場所を探しているのですが……」
ロレッタが答えると、男性は子どもたちに「ちょっと待ってて」と声をかけてから、彼女に向き直った。全身に漂う穏やかな気配は、王都の貴族社会で出会うタイプとはまるで違う。無理に取り繕うことのない、自然体の優しさを感じる。その空気感に、ロレッタは少しだけ居心地の悪さと安堵を同時に覚えた。自分が今までいた場所とは、まるで世界が違うと痛感するからだ。
「それなら、まずは教会に行ってみるといいですよ。村の神父様は、困っている人を放っておけない性分なんです。……あ、そうだ。もしよかったら、僕が案内しましょう。子どもたちの遊びは少し休憩させれば大丈夫ですから。」
「いえ、そんな、ご迷惑では……」
遠慮するロレッタに対して、男性はやんわりと首を振った。
「迷惑なんてとんでもない。僕はルークといいます。普段はこの村の孤児院で子どもたちの世話をしているんです。だから、神父様とは普段からよく連携を取っているし、何か相談ごとがあれば一緒に聞いてあげられるかもしれません。」
「ルーク……さん、ですね。私は……ロレッタ、といいます。ご親切にありがとうございます。」
そう名乗りながら、ロレッタはほとんど条件反射で頭を下げていた。いつもなら「リンドグレイヴ伯爵家の令嬢」であることを示すはずだったが、今やその身分はない。素性を詳しく話すつもりもない。戸惑いが募る一方で、自分の名前をただ「ロレッタ」とだけ名乗るのは初めての経験だった。まるで自分が何者でもない存在になったようで、不思議な感覚が胸をかすめる。
「じゃあ、行きましょうか。ほら、みんな、いったん休憩! オルガ、アン、転ばないように気をつけて戻ってくるんだよ!」
ルークが子どもたちを手招きすると、数名がわいわいと声を上げながら集まってくる。その中には、小さな女の子が足を引きずるように歩いている姿があった。どうやら膝の擦り傷が痛むようで、泣きそうになりながらも必死に我慢している。ルークはそれを見つけるとすぐに駆け寄り、「大丈夫か?」と声をかける。続いて、手際よくハンカチを取り出し、清潔そうな水筒の水で傷口を洗い、子どもを安心させるように頭を撫でた。
その優しい仕草は、ロレッタが王都で見慣れてきた「貴族的な慈善」のポーズとはまるで違う。心の底から子どもを労わっているのが分かる。ロレッタはぼんやりと、その様子を眺めながら、何ともいえない安心感を覚えた。
(こういう場所で、こういう人たちと生活していけたら……私の人生は変わるかもしれない。)
しかし、同時に不安もある。悪女の汚名を着せられ、王都から追放された自分が、果たしてこの村で受け入れられるのか。王宮からもし追っ手が来たら、村に迷惑をかけることになってしまわないか。いくら平穏な場所とはいえ、クラリスや宰相ディルク卿が仕掛けてくる可能性は考えられる。そう思うと、ロレッタは一瞬足がすくんだ。
だが、ルークが子どもたちを促しながら戻ってくる姿を見ていると、そんな不安も少しずつ和らいでいく。彼らは無垢な笑顔で、ロレッタに手を振る子もいた。何の疑いも偏見もなく、ただ初めて会った大人を「知らないお姉さんだ」と興味津々に見つめている。ロレッタは微笑みを返した。自分には、もう後ろ盾などない。しかし、この村でなら、自分がどんな人間としても一からやり直せるかもしれない、と希望を抱く。
ルークは子どもたちを孤児院へ一旦連れて行き、そこで教会へ届ける野菜などを受け取るという。ロレッタもそれについていく形で、村の奥へと進んだ。途中、声をかけてくる村人もいるが、誰もが穏やかで親切だ。ロレッタの不自然なほど上品な態度や、埃をかぶったドレスを見て奇異の目を向ける者はいても、悪意を向けてくる人はいなかった。
孤児院は村はずれの木造の家屋を増築して作られており、庭には手作りのブランコや滑り台のような簡素な遊具があった。外観は決して豪華ではないが、ところどころに飾られた花々や、小さな畑で育てている野菜が彩りを添えている。ルークが扉を開けて中に入ると、薄暗い廊下の奥から何人かの子どもの笑い声や、食器の音が聞こえてきた。
「ごめんくださーい、ただいま戻りました!」
ルークが明るい声をかけると、奥からふっくらとした中年女性が出てくる。彼女はルークを見るなり「お帰りなさい、ルーク先生」とにこやかに挨拶し、隣にいるロレッタに気づくと、少し驚いたように目を丸くした。
「あら、お客様かしら? まあまあ、こんな粗末な所へようこそ。私はここのお手伝いをしているエマといいます。」
そう言ってペコリと頭を下げるエマに対し、ロレッタも慌てて挨拶を返す。ここでは自分の身分を名乗る必要もない。何せ、もう身分など存在しないのだから。
「私、ロレッタと申します。村にしばらく滞在する場所を探していて、ルークさんに教会を案内していただくことになりました。」
エマは納得したように頷き、「それなら、神父様のところがいいわね」と微笑む。続いて、「お茶でも用意するわね。少し休んでいってちょうだい」と言い残して奥へ引っ込んでいった。ロレッタはそのもてなしの温かさに、また胸をじんと熱くする。自分はまだ何者でもない旅人であり、見ず知らずの存在だというのに、ここまで自然に迎え入れてくれるとは思わなかった。
「この孤児院には、今十数人の子どもたちが暮らしているんです。元々は教会が運営していたんですが、手狭になってきたので村の有志で建物を増築して、今は僕らが手分けして世話をしているんですよ。」
ルークはそう言いながら、奥から小さな籠を持ってくる。どうやら子どもたちが収穫した野菜らしい。まだ土がついたままの人参やジャガイモ、玉ねぎなどがごろごろ入っている。ロレッタは目を丸くした。王都の市場で見かける綺麗に洗われた野菜とは違い、これはまさに収穫したてという感じだ。
「へえ……私、こんなふうに土の匂いが残る野菜を間近で見るのは初めてかもしれません。貴族の食卓では、下ごしらえされた食材しか見たことがなくて……」
口が滑りそうになり、ロレッタは一瞬ハッとする。今、自分で「貴族の食卓」と言いそうになったが、咄嗟に言い換えた。「都会のお店」とでも言い繕えばよかったかもしれないが、ルークは特に詮索せず、微笑んでいるだけだった。どうやら、ロレッタが上流階級出身の可能性に気づいているのかどうかは分からないが、あえて触れないでいてくれているのかもしれない。
「教会への寄付というかたちで、僕らが育てた野菜をいつも届けてるんです。あそこでは生活に困った人たちも受け入れているので、食材がいくらあっても足りなくて。だから、僕たちもできる範囲で手伝おうというわけです。」
ルークの言葉を聞いて、ロレッタは胸が詰まる思いだった。孤児院すら十分な資金があるわけではないはずなのに、それでも他者を支えようとする姿勢。王都の宮廷で見られる「慈善活動」とは、まるで次元が違う。本当に生活の中で助け合って生きているのだと痛感する。
エマが用意してくれた素朴なハーブティーを少しだけ口にして、ロレッタはルークたちと一緒に教会へ向かうことになった。途中、子どもたちの何人かは孤児院に残り、他の何人かはルークと一緒に行きたいと駄々をこねている。結局、2人の子どもが「お兄ちゃんと一緒に行きたい!」と泣き出しそうな勢いだったため、ルークは仕方なく「じゃあ、ちゃんと言うことを聞くんだよ」と条件をつけて連れて行くことにした。子どもたちは手を取り合い、嬉しそうに笑っている。
「ロレッタさん、子どもは好きですか?」
教会への道を歩きながら、ルークがふと問いかけてきた。子どもたちは二人で先に走って行ったり、時には戻ってきてルークの手を引っぱったりしている。ロレッタは正直に答える。
「私……あまり触れ合う機会がなかったんです。だから、どう接していいかわからなくて。けれど、あなたが子どもたちと接しているところを見て、とても温かい気持ちになります。」
「そうですか。まぁ、最初から上手く接するのは難しいですよ。でも、この村の子たちは素直でいい子ばかりです。すぐに仲良くなれますよ。」
ルークはそう言って笑う。その笑顔は、ロレッタにとって救いの光のように見えた。優しさ、思いやり、そして偽りのない誠実さ。エドワードがかつて見せてくれた穏やかさとは、どこか違う本物の温もりを感じる。エドワードと比較してしまう自分が嫌だったが、何とも言えない感情が胸に広がっていくのを止められなかった。
そんな雑念を振り払うように、ロレッタは視線を前に戻す。村の中心にある教会は、白い石壁と小さな鐘楼を持ち、こじんまりしてはいるが清潔で神聖な雰囲気が漂っていた。扉を開けると、すぐに祭壇があり、その前には椅子が並んでいる。少し古びた印象だが、手入れは行き届いているようだ。中には初老の神父と見られる人物がいて、誰か村人の相談に乗っているらしかった。
「おや、ルークに子どもたち……そして初めて見る顔があるね。」
少し後ろ姿が丸まった神父は、しかし朗らかに微笑んでロレッタを招き入れた。ロレッタは改めて頭を下げる。
「はじめまして。私はロレッタと申します。行く当てもなく、この村へやってきまして……ルークさんにここを案内していただきました。」
神父は「あぁ、そうかそうか」と頷くと、慣れた様子で椅子を勧め、ロレッタを座らせた。ルークは神父の横に回り込み、手早く籠を床に下ろして中の野菜を見せる。神父は嬉しそうに目を細める。
「いつもありがとう、ルーク。ここのところ病人が多くてね、ちゃんと食事を取れるようにしなくちゃいけない。ありがたく頂戴するよ。……それで、ロレッタさんと言ったね? この村での滞在先を探していると?」
「はい。できれば、しばらくここで仕事を探しながら落ち着きたいと思っているんですけど……私、あまり農作業などの経験はなくて、どうお役に立てるか分かりません。ただ、文字を読んだり書いたり、簡単な計算とかは得意です。もし必要であれば、そういったことでお手伝いできるかもしれません。」
ロレッタは、できるだけ謙遜しつつ、自分の能力を提示した。王都の貴族令嬢としては当たり前の基礎能力だが、村の中では珍しいスキルとなるかもしれない。神父は少しだけ考え込む素振りを見せたあと、小さく笑みを浮かべた。
「文字の読み書きができる人は貴重だね。村にも何人かはいるが、忙しさで手が回らないことが多い。教会では、孤児や字を知らない人たちに読み書きを教えることもあるんだが、正直、私一人では手が足りないんだ。もしよかったら、そういう教育の手伝いをしてもらえないだろうか。」
ロレッタは思わず目を見張った。まさか、こんなにもあっさりと役割が見つかるとは思っていなかった。教育、特に読み書きの指導は、貴族として身に付けた学問知識を活かせる絶好の機会だ。ロレッタが戸惑いながらも頷くと、神父は嬉しそうに手を叩く。
「それは助かる。ちょうど、村の子たちにも定期的に勉強を教えてる最中なんだ。しかし、私も歳をとってね、なかなか一度に多くの生徒を見られない。ルークも孤児院の世話で手がいっぱいだから、どうしても人手が欲しかったんだよ。」
すると、ルークもにこやかに賛成する。
「それはいいですね。実は孤児院の子たちも、勉強を教えてやりたいんですが、僕一人じゃ厳しくて。特に年長の子は字が読めない子もいますし……。ロレッタさんが教えてくれたら、きっと子どもたちも助かると思います。」
こうしてロレッタは、村での新しい役割として「子どもたちに読み書きを教える」という仕事を得ることになった。もちろん、まだ寝泊まりの場所などは決まっていない。だが神父は「しばらくは教会の一室を使ってもいいし、村の空き家などをあたってみよう」と積極的に段取りを進めてくれる。ロレッタは何度も頭を下げながら感謝した。
(追放されて、行き場を失って、それでも……人間はこうして助け合って生きていくんだ。)
王都の貴族社会は、表面的には「慈善活動」を標榜しながら、実際には政治的な駆け引きや利害によって左右されるものだった。けれど、この村の人々は何の見返りも求めず、ただ困っている相手を助ける。ロレッタはその素朴で温かい人間関係に触れて、胸がいっぱいになる。まだ出会ったばかりのルークや神父たちが、どうして自分をここまで信頼してくれるのだろうか――と不安に思う部分はあるものの、それでも彼らの優しさは本物に違いなかった。
その日の夕刻。ロレッタは神父の紹介で、教会の裏手にある小さな倉庫部屋を仮住まいとして使わせてもらうことになった。あくまで簡易的なもので、寝台と最低限の家具しか置かれていないが、昨夜の馬小屋と比べれば雲泥の差だ。まさか、こんなに早く落ち着ける場所が見つかるとは思っていなかったロレッタは、神父に何度お礼を言っても足りないほど感謝の気持ちでいっぱいだった。
「お嬢さん、いや、ロレッタさん。遠慮は要らないよ。私たちは神の教えを実行しているだけだからね。それに村の子どもたちに文字を教えてくれるなんて、本当に助かる。むしろ、私のほうが感謝したいくらいさ。」
そんな神父の言葉に、ロレッタは複雑な思いを抱きながらも微笑む。貴族として当然のように受けてきた高等教育が、こうして他者の役に立つ形で活かせる。それはロレッタにとって、小さな喜びと達成感を与えてくれるものだった。
夜になると、教会の集会所でささやかな夕食が振る舞われた。お粥のような穀物料理と、ルークが持参した野菜を煮込んだスープ。素朴だが体に沁みるような味わいで、ロレッタは思わず涙が出そうになる。王都で味わっていた豪華なフルコースよりも、今の彼女にはこの温かい家庭的な食事が身に染みた。
食事のあと、ルークは孤児院に戻ると言う。子どもたちの寝かしつけや、明日の朝食の準備があるのだ。ロレッタは彼に礼を述べ、「また明日からよろしくお願いします」と頭を下げる。ルークは少しだけ照れ臭そうに笑い、「こちらこそ」と言った。
「もし何か困ったことがあれば、いつでも孤児院を訪ねてきてください。僕は……ああ、こう見えても料理や洗濯もやってますから。もし家事のことで困ったら、力になりますよ。」
「ありがとうございます。でも、私も負けずに頑張らないと。お世話になりっぱなしではいられませんし、少しでも皆さんの役に立ちたいんです。」
そう言いきるロレッタの瞳は、追放時の絶望を抜け出し、ほんの少しだけ生き生きと光を帯びていた。王都を離れて数日しか経っていないのに、こんなに心が柔らかく解きほぐされるとは思わなかった。もちろん、問題は山積みだ。身の安全は保証されておらず、いつ王都から何らかの追手が来るかもしれない。クラリスの陰謀がどこまで広がっているのかも分からない。だが、そんな不安を抱えながらも、ロレッタはフェリスタ村の穏やかな夜風を感じ、今ここに生きている喜びを感じずにはいられなかった。
「それじゃあ、また明日。おやすみなさい。」
ルークが手を振り、教会を出る。その背を見送りながら、ロレッタはかすかに胸の奥が温かくなるのを感じた。かつてはエドワードへの思慕を抱いていたが、あの裏切りの記憶が今も心の奥で痛む。しかし、ルークのように真摯に子どもたちと向き合い、誰にでも優しく接する姿を見ると、いつかまた、自分も信じられる相手を見つけられるのではないか――そんな希望がわずかに芽生えてくるのだ。
教会の裏手にある倉庫部屋に戻り、薄暗いランプの灯りを頼りに寝床を整える。と言っても、用意された寝台の枕元にカンテラを置き、貴重品をまとめるくらいしかすることはない。そっとドレスを脱いで、代わりに神父が用意してくれた古いナイトガウンを身にまとった。かつてはシルクやレースの寝間着を当たり前のように着ていたのに、今は粗末な布地のガウンだ。だが、不思議と嫌な気持ちはしない。むしろ現実味が湧き、明日への意欲が湧いてくる。
「明日からは子どもたちに読み書きを教えるのね……。授業の準備をしないと。どんなふうに教えたらいいかしら。」
ロレッタは、小さな机に腰を下ろし、紙とペンを借りて簡単な教案を書き留めてみることにした。子どもたちの年齢やレベルを知らないから、まずは基礎的な文字の形を教えるところから始めるのが良さそうだ。物語を読んで聞かせるのもいいかもしれないが、村の子どもたちは本を読む習慣がなさそうなので、最初は身近な単語から教えよう。そうやって一つひとつ考えていくうちに、ロレッタの心は自然と集中していき、わくわくした高揚感すら覚え始める。
(こんな気持ちになるなんて、追放される前は想像もしてなかったわ。……人の役に立てるかもしれないと思うと、こんなに嬉しいものなんだ。)
王都での生活は、言うまでもなく豪奢だったし、何不自由なく暮らしていた。だが、一方で貴族社会の競争や争いに巻き込まれるたび、ロレッタは息苦しさを感じることも多かった。身を粉にして学問や礼儀作法を修めても、それが「王家に嫁ぐため」の武器として扱われるだけだったのだ。自分の意思よりも周囲の期待に沿って行動することが当たり前の世界。そこでは、ロレッタが本当にやりたかったことなど、いつしか見失っていたかもしれない。
(私は、ただ日々を穏やかに過ごし、誰かの笑顔を見られることが幸せだったんだ。なのにいつの間にか、エドワード様との婚約や王宮のしがらみに囚われて、そんな小さな幸せすら感じづらくなっていた。……確かに、今は何もかもを失ったけれど、こうして自由に考えて行動できるのも悪くないかもしれない。)
ペン先を止めて、ロレッタは倉庫部屋に取り込んだ夜の空気を深く吸い込んだ。外では虫の音がかすかに聞こえる。田舎らしい静かな夜だ。都会の明かりや喧騒が恋しくなるわけでもなく、むしろこの暗さが心を落ち着かせてくれる。
布団に潜り込むと、疲れからかすぐにまぶたが重くなる。追放されてから、まともに安眠できたのは久しぶりの気がした。神経をすり減らすような恐怖と孤独を味わったあの夜会から考えれば、ここで迎える夜は天と地ほどの差がある。まだ先行きは分からないし、不安も尽きない。それでも、ロレッタは今日という日の収穫に感謝しながら、深い眠りに落ちていった。
***
翌朝、ロレッタは少し早めに目を覚ますと、神父に声をかけて外へ出た。まだ朝靄が漂う村の風景は、淡い光に包まれ、まるで絵画のように美しかった。王都では、日の出前から使用人たちが活動し、朝食の準備や掃除が行われていた。その慌ただしさが当たり前だと思っていたロレッタにとって、このゆったりとした朝の時間は新鮮そのものだった。
廊下を歩いていると、ちょうどルークも孤児院からやってきたところのようで、教会の扉を開けて入ってくる姿が見えた。彼は少し驚いた様子でロレッタを見やり、「おはようございます。ずいぶん早いんですね」と笑った。
「おはようございます、ルークさん。私、昨日言っていた子どもたちの勉強の準備をしておきたくて。」
「すごいやる気ですね。それなら、さっそく始めましょうか。僕も手伝いますよ。」
ルークは軽やかな足取りでロレッタの横に並ぶと、昨日のうちに神父から譲り受けた古い教科書や石板を抱えてきた。ここには紙やインクが貴重なので、子どもたちに文字を書かせる道具は石板とチョークが主流だという。ロレッタは初めて見る素朴な学習道具に興味津々だった。貴族の教育では上質な紙やペンが当たり前だったが、こうした方法もあるのだと学び、視野が広がる思いがする。
やがて、数人の子どもたちが眠そうな顔でやってきた。孤児院から来る子もいれば、村の家から親に連れられてやってくる子もいる。年齢はバラバラだが、だいたい6歳から10歳くらいが中心のようだ。最初はロレッタを見て戸惑い気味だった子どもたちも、ルークの紹介によって「新しく勉強を教えてくれる先生」と知ると、興味津々で集まってきた。
「えー、じゃあ今日は、文字の書き方や読み方を一緒に練習してみましょうか。まずは、みんなが知っている言葉……自分の名前から書いてみましょう。」
そう言って、ロレッタは子どもたちに丁寧に文字の形を示す。誰がどれだけのレベルなのか分からないので、最初はひらがなやカタカナのような基本文字(※物語上の世界観として、実際にはこの世界の文字体系があるはずですが、便宜上「ひらがな」「カタカナ」をイメージしたファンタジー文字があるとお考えください)を習得する手順を想定して話を進めた。
子どもたちの中には、まったく文字を知らない子もいれば、断片的に知っている子もいる。書き順が分からずチョークを逆さまに持とうとする子もいたりして、教える側としてはなかなか大変だ。しかし、ロレッタは一人ひとりに目を配りながら、根気よく指導していく。貴族の教育では当然のことでも、子どもたちにとっては新鮮な驚きなのだということを忘れないように。
「すごい……先生、すごく上手だね!」
「わあ、僕の名前、こんなに綺麗に書けたよ!」
子どもたちの歓声が、教会の一角を明るくする。ロレッタは微笑み返しながら、「自分で書けるようになるまで練習しようね」と声をかける。教えることの難しさと同時に、やりがいを強く感じる瞬間だった。少し前まで、絶望の淵でこの世を呪っていた自分が、今は子どもたちと一緒に笑い合っている――その事実に、胸が熱くなる。
これが「ロレッタの新たな日常」の始まりだった。フェリスタ村での生活は決して贅沢ではない。お金の心配もあるし、いつ追手が来るか分からない恐怖もある。それでも、ロレッタは子どもたちの笑顔に触れるたび、自分がここにいる意味を実感できるのだ。ルークや神父、そして村の人々の温かい支えもあって、彼女はゆっくりと前を向き始める。
(私が貴族として育まれた知識や経験は、こんな形で生かせるんだ。人を裏切ったり、陥れたりするためじゃなく、誰かの力になるために使うことができる。それが、こんなに嬉しいなんて……。)
ときに子どもたちを叱り、ときに励ましながら、ロレッタは指導者としての日々を重ねていく。その中で、村の人々との接点も増え、野菜の収穫や家事の手伝いなど、貴族時代には考えられなかった日常業務にも少しずつ慣れていった。ドレスではなく、村の仕立屋に頼んで作ってもらった簡素な服に袖を通すと、心が軽くなったような気もする。
エドワードやクラリスへの憎しみは、まだ完全には消えない。夢の中で、あの夜会の悪夢にうなされることもある。だが、ロレッタはこの村で過ごすうちに、心の傷がゆっくりと癒やされ、そして新たな希望の芽が生まれていることに気づく。何より、ルークの存在は大きい。いつも子どもたちと笑い合い、ロレッタのことも当たり前のように仲間として扱い、細やかな気遣いを見せてくれる。彼と話していると、ふとした瞬間に切なくなるのは、やはりエドワードの思い出がちらつくからだろうか。それとも、少しずつロレッタ自身の心に別の感情が芽生えているからだろうか。
(そんなこと、まだ考えてもしょうがない。私は追放者で、悪女と呼ばれた身。王都や宮廷の人間が、いつ私を探しに来るかも分からない。今はただ、ここでできることを全うするだけ……。)
自分を律するように、ロレッタはそう思い直す。けれど、朝陽が昇るたびに孤児院の子どもたちの笑顔を見て、ルークが「おはようございます」と爽やかな声をかけてくるとき、胸に走る小さなときめきを無視しきれなくなっている自分に、はたと気づく。エドワードとの淡い恋心は裏切りによって粉々に砕かれたはずなのに――それでも、人はまた誰かを想うことができるのかもしれない。
こうして、ロレッタの新たな生活は、試行錯誤と発見の連続だった。いつしか村の人々からも「先生」と呼ばれるようになり、子どもたちは彼女を慕いはじめる。クラリスの陰謀によって手放さざるを得なかった伯爵令嬢の名誉や地位とは無縁の、けれどかけがえのない日常が、そこにはあった。
――だが、穏やかな日々の裏側で、王都の情勢は少しずつ変化の兆しを見せていた。クラリスが第二王子エドワードを掌の上で転がし、己の欲望を叶えようとしているという噂が、王宮の奥深くで囁かれ始めている。やがて、その黒い影が遠く離れたフェリスタ村にも忍び寄ってくることになるのだが、その運命をロレッタはまだ知らない。