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第3話 過去との対峙

 朝露がまだ光を帯びる頃、フェリスタ村の教会裏手にある倉庫部屋で、ロレッタは目を覚ました。王都を追放され、途方に暮れてこの村に流れ着いてから、数週間が経とうとしている。神父やルーク、そして村の人々に支えられながら、ロレッタは「読み書きの先生」として新たな日々を過ごしていた。


 教会の鐘が小さく鳴り響き、静かな朝の空気を揺らす。ロレッタは手早く身支度を整え、倉庫部屋の扉を開いた。外には涼やかな風が吹き、青々と茂る木々から小鳥たちのさえずりが聞こえてくる。こんな平和な朝を迎えられることに、彼女は心から感謝した。つい先日まで、怒号や嘲笑が渦巻く王宮の夜会で追放を宣告された、あの混乱した夜の光景が、まだ頭のどこかにこびりついている。それでも今は、子どもたちや村人の笑顔に囲まれながら、穏やかに日々を重ねているのだ。


 「おはようございます、ロレッタ先生!」


 声をかけてきたのは、教会の入り口を掃除していた少年のオルガだ。孤児院の子どもたちの一人で、やや鼻にかかった声が特徴的な活発な子である。彼は朝早くから神父の手伝いに来ているようで、ロレッタの姿を見つけると、箒を持ったまま笑顔を向けてくれた。


 「おはよう、オルガ。偉いわね、こんな朝早くから掃除しているの?」


 「うん、ルークお兄ちゃんに『早起きして身体を動かすと気持ちがいい』って教わったんだ! 今日は朝ごはんのあと、先生の勉強会もあるから、早めに色々と済ませておきたくてさ。」


 そう言って自慢げに胸を張るオルガに、ロレッタは小さく微笑む。自分が教える読み書きの勉強を楽しみにしてくれる子が増えているという話は、村のあちこちで聞くようになった。子どもだけでなく、いい大人になってから「自分も字を習いたい」と興味を示す村人もいる。実際、ロレッタが夜間にこっそり開いている小さな勉強会には、畑仕事を終えた後に駆けつける農夫や村の女性たちの姿があった。こうして、ほんの少しずつ村に貢献できていることが、追放の苦しみを忘れさせてくれる要因にもなっている。


 「じゃあ、私も手伝うわ。終わったら一緒に朝ごはんを食べましょう。」


 「うん!」


 オルガは嬉しそうに応じ、箒をもう一本探してロレッタに渡してくれる。かつては貴族として、清掃は使用人任せだったロレッタだが、ここでは何もかもが自分の手で行う必要がある。最初は戸惑いもあったが、今ではこうした日常的な作業にも慣れ始めた。そして何より、「自分で行動し、周囲と助け合いながら日々を築く」という体験そのものが、彼女の心に満ち足りた充実感を与えてくれるのだ。


 ひとしきり掃除が済むと、オルガと一緒に教会に隣接する小さな食堂へ向かう。ここには神父が簡単な食事を用意してくれており、早起きの村人たちが朝の祈りを終えてから集まってくる。この日の朝食は、昨夜の残り物のスープと薄焼きパン、そして採りたての野菜で作ったサラダだった。ロレッタは席に着くなり、ほっと一息ついてマグカップを手に取る。


 「おはようございます、ロレッタさん。よく眠れましたか?」


 背後から聞こえてきた穏やかな声に振り返ると、そこにはルークがいた。いつものラフなシャツ姿だが、今朝は少し疲れが見える表情だった。恐らく昨晩、孤児院で夜泣きする子どもがいたか、あるいは別の雑事があって寝不足なのだろう。それでも彼は相変わらず優しい微笑を浮かべ、ロレッタの向かいの席に腰を下ろす。


 「ええ、ぐっすり眠れました。ルークさんこそ、お疲れのようですね……大丈夫ですか?」


 ロレッタが尋ねると、ルークは少しだけ苦笑した。


 「うん、まぁ慣れてるよ。昨夜は孤児院の一人が熱を出して、看病してたんだ。まだ子どもが多いから、ちょっとした風邪でもすぐ広がる可能性があって、気が抜けないんだよね。」


 「それは大変……何か手伝えることがあれば、言ってください。私もあまり医療の知識はないけれど、基本的な看病くらいならできますから。」


 その言葉に、ルークは嬉しそうにうなずいた。ロレッタが村にやってきてからというもの、孤児院の子どもたちは「ロレッタ先生」にすっかり懐いている。読み書きだけでなく、彼女が身につけている貴族式の礼儀作法やちょっとした算術なども、興味津々で学ぼうとするのだ。何より、彼らは自分を対等な人間として扱ってくれる大人を求めていたのかもしれない。


 「ありがとう。じゃあ、また困ったときはお願いするよ。……あ、それとね、実は今日の午後、神父様と一緒に村の外れにある集落へ行って、薬草を取ってくることになったんだ。お嬢さん、いえ、ロレッタさんも、もしよかったら一緒にどうかな? たまには勉強会ばかりじゃなくて、外に出て気分転換してもいいんじゃないかと思って。」


 「薬草……確かに、必要ですね。村には病人もいるし、孤児院のほうでも何かと使うでしょうし。私で役に立つのなら、もちろんお手伝いしますわ。」


 ロレッタが即答すると、ルークは安堵したように微笑み返した。そうして二人で短い朝食をとったあと、子どもたちとの勉強会をこなし、午後には神父を含めた三人で少し離れた草原へ薬草採取に出かけることが決まった。


 ***


 その日の午後、澄み渡る青空の下、ロレッタはルーク、そして白髪混じりの神父と共に村の外れへ向かっていた。軽い山道を進むと、日当たりの良い小さな斜面に薬草が育っており、採取にはもってこいの場所だという。神父は籠を二つ担ぎ、ルークは小ぶりの鎌やナイフなど、採取に必要な道具を持参している。ロレッタも簡易の籠と手袋を借り、草花を扱いやすいように長い髪をまとめていた。


 「ロレッタさん、植物の知識はあるのかい?」


 ふと神父が問いかけてきた。彼は年齢のわりに体つきががっしりしており、足取りも軽やかだ。毎日教会や村の人々の世話をしているだけあって、体力は衰えていない。


 「そうですね、王都の女学院で薬学の基礎を学んだことはあります。でも、実地でこうやって薬草を採取するのは初めてかも……。」


 「なるほど。実際に生えている姿を見るのと、書物で学ぶのとでは大違いだろう? 今日は私が知っている範囲で教えるから、一緒にしっかり覚えていってくれ。村では病にかかったとき、医者にかかるよりもまず、自分たちで薬草や漢方を調合することが多いんだ。」


 貴族社会なら、医術の心得がある廷医や薬師が王宮や邸宅に常勤しているものだが、辺境の村ではそうはいかない。自給自足が基本であり、神父や年長者の経験が貴重な財産となるのだ。ロレッタはうなずき、目を輝かせながら周囲に目を凝らした。


 斜面に生える草花を一つひとつ指さしながら、神父は「これは解熱の作用がある」「こっちは毒消しの効果がある」と分かりやすく説明してくれる。ルークも合間に口を挟み、実際に孤児院でどのように使っているかを述べたりする。ロレッタは熱心に耳を傾け、必要ならメモを取りながら学んでいく。久しぶりに「自分が新しいことを学ぶ喜び」を感じていた。貴族としての教育は終始「やらねばならない」義務であり、王宮での地位を築くための手段だったが、今は純粋に「村の役に立ちたい」という気持ちが学ぶ意欲を支えている。


 そうしてしばらく草花を摘んでいると、いつの間にか辺りは静寂に包まれていることに気づいた。木陰から吹き抜ける風は心地よく、どこか懐かしい香りさえ感じる。ルークがふと遠くの景色を見渡し、「いいところでしょう?」と穏やかに微笑んだ。


 「はい……本当に美しい場所ですね。王都からそう遠くない国なのに、こんなに自然豊かな所があったなんて知らなかった。」


 「王都にいると、どうしても人間関係や政治の話ばかりだろうからね。僕も昔、王都に少しだけ滞在していたことがあるんだけど、あの喧騒や空気感はどうにも馴染めなくて……。だから、こういう静かな場所に戻ってくるとほっとするんだ。」


 ルークが王都を苦手としているらしいというのは、ロレッタにとって少し意外だった。だが、それ以上に「ルークが王都にいたことがある」という事実に興味をそそられる。詳しい事情を聞きたい気持ちがあるものの、踏み込みすぎて失礼になるのは避けたかった。ロレッタもまた、自分の出自を詳しく話しているわけではないのだから。


 神父は二人の様子を見ながら、ほほ笑ましそうに口を開く。


 「さて、薬草はだいたい揃ったかな。少し早いが、帰るとしよう。これから分別や乾燥の準備をしなくちゃならんし、夜までにある程度仕上げておかないとね。」


 声をかけられたロレッタとルークは、「はい」と返事をして、重くなった籠を抱え直す。神父が先頭に立ち、慎重に斜面を下りていく。空はまだ明るく、夕暮れにはほど遠い。そろそろ村に戻ってもゆっくり休む時間はありそうだ――そう思っていた矢先のことだった。


 村への帰路にある街道に差し掛かったとき、ルークが小さく眉をひそめた。「何だろう、あれ……」と呟き、ロレッタも視線を同じ方向へ向ける。見ると、遠くの方から一台の馬車が走ってきた。いや、走っているというよりも、どこか焦ったような速度で急いでいる様子だ。御者が必死に馬を制御しきれていないように見える。


 「ずいぶん急いでるみたいだな。どうしたんだろう……事故でも起こさなければいいけど。」


 神父が心配そうに目を細める。すると馬車は、まるでロレッタたちのいる方向を目指すかのように徐々に減速し、最終的には数メートル先で大きく蹄の音を響かせながら止まった。ロレッタは思わず身構える。こんな辺鄙な場所で、わざわざ人を探して馬車を停めるなんて、そう滅多にあることではない。もしや……嫌な予感が頭をかすめる。


 馬車の扉が開き、中から痩せぎすの男性が飛び出してきた。彼の装いは旅人というよりは役人か何かのように見える。実際、胸元には王都の役所で使われる印章らしきものを下げているのがチラリと見えた。表情は険しく、息を切らしながらロレッタたちに近づいてくる。


 「す、すみません……こちらに、フェリスタ村はありますか? 私は……王都から参りました役所の者で、急ぎの用事があって……」


 神父が慌てて「ここはフェリスタ村の近くですよ。何かあったのですか?」と返すと、男性は安堵の表情を浮かべて小さく息を吐いた。彼は少し乱暴に馬車を降り、ぐしゃぐしゃになった書類を抱え直してから続ける。


 「実は……この近辺に、リンドグレイヴ伯爵家の従者が来ているという情報を得まして、探しているんです。お嬢様――いえ、ロレッタという女性が、何らかの事情で村に隠れ住んでいるのではないかと……」


 その言葉を聞いた瞬間、ロレッタの心臓は止まりそうになった。王都からの役人が、明らかに自分を探している――まさに最悪のパターンである。追放されて以降、自分がここで過ごしていることが王都に知られれば、またどんな嫌がらせを受けるか分からない。しかも、従者が来ているという話は、もしかしたらマティアスのことかもしれないが、伯爵邸に戻ったはずの彼が、この村に来る理由は何だろう? それに、この役人が抱えている書類には「王都からの公式な命令」が記されている可能性もある。


 (どうしよう。このままでは私がいることを知られてしまう。でも逃げては、村にさらに疑いがかかる……。)


 ロレッタが思わず後ずさりしかけたとき、神父が落ち着いた口調で尋ねた。


 「ロレッタという名の方を探していると仰いますが……その方に何の用でしょう? もしもここにいるなら、会って何をするおつもりですか?」


 「伯爵家からの至急の伝言があるんです……! 詳細は当人に直接伝えねばならないと命じられています。これは極秘案件のため、内容を洩らすわけには……。」


 役人は口を濁しながら、ちらちらとロレッタの顔を見ている。明らかに、彼が「女性を探している」というのは分かりきっている。ロレッタは震える心を押さえ込み、意を決して前に出た。ここで神父やルークに嘘を貫き通すのは、むしろ彼らを巻き込む危険性がある。なにより、伯爵家――病床の父の身に、ただ事ではない何かが起こっているかもしれない。


 「私が……ロレッタです。探しているのは、私、でしょうか。」


 はっきりと名乗り出ると、役人は目を丸くし、すぐさま安堵の声を上げた。


 「よかった……! 実は、リンドグレイヴ伯爵様の病状が急変したのです。お嬢様がいないままでは危険だと……ぜひとも一度、王都にお戻りいただきたいとのこと。詳しい事情は、伯爵家の従者から直接聞いてください。」


 「父が……病状が急変……?」


 ロレッタは頭が真っ白になった。父は長いあいだ病に伏せっていたが、追放前に訪れたときは、まだ持ち直す余地があると言われていた。もちろん予断を許さない状況だったが、こんなにも早く「危険」という言葉を聞かされるとは思っていなかった。しかも、追放者である自分を呼び戻すなど、どういう風の吹き回しなのだろうか。もし「父の病」を口実に罠を仕掛けるつもりだとしたら……と考えてしまう。


 (でも、父の命には代えられない。たとえ罠だとしても、私が行かないと後悔するかもしれない。)


 ロレッタの葛藤は深い。ここ数週間、フェリスタ村で築いてきた生活は、まだ彼女にとって新しい希望の芽だ。しかし、一方で実の父が危篤に近い状態だと聞かされては、静観するわけにはいかない。まして伯爵家の家督を支える親族が少ない今、自分が行かなければ父が一人孤立してしまうかもしれない。それでも、王都に戻ればクラリスや宰相ディルク卿、エドワード王子から再び厄介な陰謀に巻き込まれることは目に見えている。


 「ロレッタさん……」


 ルークが心配そうな眼差しを向ける。彼は何も分からないまま、この急展開に戸惑っているようだ。神父も同じく、複雑そうに眉をひそめている。ロレッタが王都から追放されている身であることは、二人とも遠回しに理解しているはずだ。しかし、その詳しい背景までは話していない。今さら全部打ち明けるべきか――迷うが、それよりも優先すべきは父の容体だ。


 「……わかりました。私、王都へ戻ります。」


 自分の口から出た言葉が重く響く。決断してしまった以上、もう後には引けない。役人は安堵の息をつき、「馬車で急ぎ戻りましょう。伯爵家の従者が待っておりますので」と促す。ロレッタは神父とルークに目を向けた。


 「急なことで、本当にすみません。父の病状が思わしくないようで、私が行かなければならないのです。……でも、もし戻れたら、またこの村に……」


 言葉を詰まらせるロレッタに、神父は優しく肩を叩いた。


 「分かっておるよ。行きなさい、ロレッタさん。家族のためだ。あなたが本当にここでの生活を大切に思ってくれているなら、また戻ってきなさい。私はもちろん、村のみんなもあなたの帰りを待っている。もし何かあっても、ここがあなたの避難先になれるよう、準備をしておくから。」


 その言葉に、ロレッタは思わず涙ぐみそうになった。追放者の自分にこんなにも優しい言葉をかけてくれる神父の存在は、何よりもありがたい。ルークもまた、籠をそっと地面に置き、まっすぐにロレッタの瞳を見つめる。


 「無理をしないでください。でも、どうか……ご無事で。もし何かあったら、すぐに戻ってきてください。僕たちは、ここで待っていますから。」


 穏やかながらも力強い声。ロレッタはぎゅっと拳を握りしめ、涙をこらえるように微笑んだ。


 「ありがとう、ルークさん。私……必ず戻るわ。」


 そう告げて、ロレッタは踵を返し、役人が用意した馬車へ乗り込む。神父とルークの姿が遠ざかっていくのを窓越しに見ながら、彼女の胸には様々な思いが駆け巡る。村での平穏な日々と、父の病状。過去の裏切り、そしてクラリスやエドワードとの因縁。すべてが再び交錯しようとしているのだろうか――そう予感しながら、馬車は急いで王都へと向かい始めた。


 ***


 馬車は夕刻には城下町へとたどり着いた。王都の外壁を越える際、門兵たちは役人の印章を確認し、あっさりと通してくれる。かつては堂々と貴族の馬車に乗っていたロレッタも、今は追放者の身分。こうして「裏口から」入城している事実が、何とも皮肉だった。役人は余計な手間を避けたいのか、口数少なく御者に指示を飛ばしているだけで、ロレッタのほうを振り返ろうとはしない。


 夕焼けが王都の石畳を茜色に染めるころ、馬車は伯爵家の邸宅前に停止した。門番もいない荒れ果てた雰囲気が漂い、かつての名門リンドグレイヴ家の気配は感じられない。ロレッタが追放されてから、相当な数の使用人が職を辞したり、屋敷を去ったりしたのだろう。家の敷地内には雑草が伸び放題で、玄関には埃が積もっているようだった。


 「ここまでお連れしました。従者の方が、中でお待ちのはずです。私はこれで失礼します。」


 役人は慌ただしく降車し、一礼だけしてから馬車を離れる。どうやら彼には別の用務があるのだろう。ロレッタは黙ってそれを見送り、吸い寄せられるように屋敷の扉へ向かった。重い扉を開くと、廊下は薄暗く、照明もほとんど点いていない。屋敷の中に誰の気配も感じられず、ひどく寂れているように見えた。


 「……父は、どこに?」


 かつて慣れ親しんだ屋敷内を進みながら、ロレッタは大きく胸を痛める。こんなにも静まり返ったリンドグレイヴ家を見るのは初めてだった。父が健在だった頃は、来客が絶えず、使用人たちも忙しなく動いていたというのに。


 すると、奥のほうから足音が近づいてきた。やや年配の女性が姿を見せ、ロレッタを見つけるなり驚いた表情を浮かべる。


 「ロレッタ……お嬢様……!」


 「パトリシア……! まだいてくれたのね。父はどう?」


 ロレッタが呼びかけると、女性――パトリシアは古くからリンドグレイヴ家に仕えてきた侍女長であり、ロレッタの幼少期から世話をしてくれた存在だった。彼女は目に涙を溜めながら、ロレッタの手をぎゅっと握りしめる。


 「お嬢様……奥様方(故人)の遺品を守りたいからと、私だけはここに残ったんです。旦那様は今、寝室で休んでおられますが、容体は思わしくありません。早く……早く会ってあげてください。」


 ロレッタの不安は、さらに強まる。父が本当に危険な状態だという言葉は嘘ではなかったのか。パトリシアに手を引かれ、廊下を奥へと急いだ。かつて、父の寝室は荘厳で落ち着いた雰囲気が漂っていたが、今は薄暗く、重い空気が漂う。扉を開けると、ベッドに横たわる父の姿が見えた。痩せこけ、息をするたびに苦しげな喘鳴が漏れている。


 「父さま……」


 声をかけても、父はすでに意識が朦朧としているようだ。枯れ木のように細くなった腕は、ロレッタを拒むでもなく、ただ虚空を彷徨っている。ロレッタは胸が締めつけられる思いで、父の手をそっと握った。すると、彼はかすかに反応し、薄く目を開ける。


 「ロレッタ……か……?」


 「ええ、私よ。戻ってきました、父さま。ごめんなさい……私、追放されてからずっと……」


 言葉を続けようとするが、父は弱々しく首を振る。ロレッタが追放された後、伯爵家は急速に力を失い、彼の病状も一気に進行したのだろう。何より、「自分の娘が悪女として罰せられた」という噂が、伯爵家の信用を失墜させたのだ。資金繰りが悪化し、使用人たちも去り……このように衰退した屋敷で、父は孤独に病と闘っていたに違いない。


 「よく……戻って、くれた……。お前には、すまないことを……。私は、何の力にもなれず……」


 途切れ途切れの言葉が、ロレッタの胸を刺す。父もまた、ロレッタの追放をどうしようもできなかったのだ。病床からでは、政治的な交渉もままならず、クラリスらの陰謀を阻止する術はなかった。その無力感が、さらに父を苦しめてきたのだろう。ロレッタは必死に微笑みを作り、父の手を包み込む。


 「そんな……謝るのは私のほうです。あなたが苦しんでいるときに、そばにいてあげられなくて……ごめんなさい、父さま。」


 父は何かを言おうと口を開くが、声にならない。ただ、目尻に滲む涙が、彼の辛さを物語っていた。ロレッタは堪えきれず、その手を握ったまま顔を伏せる。パトリシアも嗚咽を押し殺すようにして、二人の様子を見守っている。静寂の中、寝室の時計の秒針だけが空虚に刻を打っていた。


 (私が王都に戻ってきたところで、何ができるわけでもない。でも、せめて父さまの看病くらいはしたい。最後のときまで、側にいてあげなければ……。)


 そう思った矢先だった。寝室の扉がノックされ、まるで人の心情を逆なでするような乱暴な音が響く。続いて、けたたましい足音が二人分、廊下を駆け抜けてくる気配がした。パトリシアが慌てて制止しようとするが、扉が乱暴に開け放たれ、見慣れた姿が飛び込んでくる。


 「あら、ロレッタ……やっぱり戻ってきたのね。よくもまぁ、こんなに図太い神経で伯爵家に踏み込めたものだわ。」


 嫌味な声でそう告げたのは、かつてロレッタの「親友」を装っていた侯爵令嬢のクラリスだった。彼女は妖艶ともいえる笑みを浮かべ、金の髪をゆるくまとめている。隣には、ロレッタの元・婚約者である第二王子エドワードが控えているのが見えた。彼はどこか陰鬱な表情をしており、ロレッタと目が合うと気まずそうに視線をそらす。


 「クラリス……! あなたこそ、勝手にこの屋敷へ……何のつもり?」


 思わず声を荒げるロレッタ。しかし、クラリスはまるで可憐な蝶が羽ばたくように優雅に歩み寄り、ベッドの横に立つ。その姿は、まるで自分が勝者であるかのような傲然たる態度だ。


 「何のつもりかって? そりゃあ伯爵様がお危篤だというから、あなたに代わってお見舞いに来てあげたのよ。大恩あるリンドグレイヴ伯爵家に、こんな大事なとき見舞いもしないなんて、冷たい娘だと思われたくないから。」


 芝居がかった口調に、ロレッタは怒りを覚える。父が危篤になった原因のひとつは、クラリスが仕組んだ陰謀――王子との婚約破棄や悪女の烙印、さらに政治的な圧力で伯爵家を衰退させたことなのは明らかだ。それを「見舞い」などとぬけぬけと口にできる神経が、恐ろしく思えるほどだ。


 一方、エドワード王子は苦しそうに眉を寄せ、ベッドに横たわる伯爵の姿を見下ろす。まるで、「こんなはずではなかった」と後悔しているようにも見えたが、彼は何も言わない。クラリスが支配的に話を続ける。


 「そうそう、実はね……ロレッタ、私とエドワード様は、王宮に新たな計画を通したの。もうすぐ第二王子としての立場は強固になり、あなたのいた頃とは比べものにならないくらいの権力を得られるわ。もちろん、悪女として追放されたあなたに口を挟む権利なんてないけれど……。」


 クラリスは楽しげに笑う。まるで、この伯爵家の崩壊こそが、彼女にとっての成功への踏み台だったかのように見える。ロレッタは拳を握りしめたまま、息をするのも苦しいほどの怒りを感じた。エドワードが黙り込んでいるのは、罪悪感を覚えているからなのだろうか。それとも、ただクラリスの言いなりになっているだけなのか。


 「……帰って。ここは、私の父がもう長くないの。あなた方にかまっている暇はない。」


 ロレッタが低く抑えた声でそう言うと、クラリスはわざとらしく肩をすくめた。


 「ま、いいわ。用件はもう済んだし。この屋敷も近々、借金のカタとして競売にかけられる予定だそうじゃない? お父様がお亡くなりになったら、あなたは悪女の追放者として居場所を失うわけね。ああ、お気の毒。」


 あまりの無神経さに、ロレッタは唇を噛んで言葉も出なかった。後ろをついてきたエドワードは、ちらっとロレッタを見やるが、彼女の目にはもはや彼を想う気持ちなど微塵も残ってはいない。ただ、吐き捨てるように視線をそらすのみだ。結局エドワードは何一つ言わずに、クラリスとともに寝室を出て行った。


 「……あんな連中、二度と父の寝室には近づけないわ。」


 ロレッタは荒い息を整えながら、そう呟く。パトリシアはおろおろとして、「お嬢様、どうかご無理はなさらず……」と声をかける。だが、ロレッタの決意は固い。自分が追放されていた間に、クラリスとエドワードはここまでの権力を握り、伯爵家を追い詰めてきたのだ。こんな理不尽、あっていいはずがない。


 (父さまを助けたい。でも、どうしたら? すでに伯爵家にかつての力はなく、資金も人脈もない。このままでは本当に、父が息を引き取った後、私は行き場を失うだけ……。)


 絶望に押し潰されそうになるロレッタ。しかし、その胸の奥底には、一筋の灯火が確かに存在していた。それは、フェリスタ村の人々と築いたつながり、そしてルークの優しい眼差し。自分がここでくじけてしまえば、あの温かな村に戻ることもできない。まだ諦めたくない――そう思う気持ちが、彼女を奮い立たせる。


 「パトリシア、お願いがあります。父さまの看病を、私にも手伝わせて。薬の調合は少しばかり心得があります。フェリスタ村で教わった薬草が、この屋敷の庭でも育てられるかもしれない。」


 「はい……! 私も全力でお手伝いいたします。お嬢様が戻ってきてくださって、旦那様もきっと心強いと思うんです。」


 パトリシアは涙をこぼしながら力強く頷いた。ロレッタも覚悟を決める。王都で生きるのは危険がいっぱいだが、父が危篤である以上、ここを捨てて逃げるわけにはいかない。それが終わったとき、もし自分の命が無事ならば、再びフェリスタ村に戻る機会もあるだろう。ルークや子どもたち、神父が「待っている」と言ってくれたことを信じている。


 そして同時に、クラリスやエドワードの傲慢さに対し、心の底からの怒りがふつふつと湧き上がっていた。自分を陥れ、伯爵家を没落させ、今も尚、あざ笑うかのようなクラリスの態度。何より、かつて「愛」を囁き合ったはずのエドワードが、何も言わずについて行く情けない姿。このまま泣き寝入りするつもりはない。父の命を守るためにも、伯爵家の誇りを取り戻すためにも、必ず真実を暴き、彼らの不正を叩きつぶす――そんな決意が、ロレッタの胸を熱くした。


 (私には何も武器はないと思っていたけれど、フェリスタ村で教わったことや、幼い頃から学んできた知識がある。彼らの陰謀を暴くには、王都の情勢や貴族社会の内情を熟知している私だからこそできることがあるはず。必ず仕返し……いえ、正義を取り戻すわ。)


 ロレッタは父の手をそっと握りしめ、心の中で誓いを立てる。伯爵家に残されたわずかな権限と、彼女自身の知略を尽くし、クラリスたちの策謀を打ち砕く。そして父を救い、再びフェリスタ村へ帰る――それこそが、自分の歩むべき道だ。


 こうして、追放されたはずのロレッタは、再び王都の深い闇の中へ戻ってきた。裏切りと陰謀が渦巻く宮廷社会の只中で、彼女は父の命を守り抜くことができるのか。そして、フェリスタ村で育まれつつあった幸せな思いは、無事に取り戻せるのだろうか。薄暗い屋敷に灯される小さなランプの光を見つめながら、ロレッタの決意はますます強まっていく――。




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