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第4話 真実の愛

 夜の王都は、不穏な空気に包まれていた。ロレッタが追放された後、王宮内部では第二王子エドワードと侯爵令嬢クラリスが手を組み、急速に権勢を強めているという噂が広がっていた。それに伴い、第一王子派や老臣派の貴族たちとの軋轢も表面化しつつあり、いつ何時、大きな政争に発展してもおかしくない状況だという。


 しかし、ロレッタにとっては父の容体が最優先だった。クラリスとエドワードが訪れたあの日以来、父はさらに体力を消耗していた。もはや自力で食事をとるのも困難な状態が続き、パトリシアとロレッタが交代で看病をしている。屋敷には最低限の使用人しかおらず、神経をすり減らす日々だった。


 薄暗い蝋燭の灯りの下、ロレッタは父の寝室で看病を続ける。枕元には村で学んだ薬草を乾燥させて作った煎じ薬が並んでいたが、急性の病にどれだけ効果があるかはわからない。それでも、ロレッタは村で学んだ少しの知識をフルに活用し、父を救おうと必死だった。


 (フェリスタ村から持ってきた薬草だけでは限界があるわ。けれど、薬師に頼むお金もない。この屋敷は借金のカタに競売にかけられる話まで出ている……どうすれば?)


 思考に沈むロレッタだったが、やがて微かな足音に気づいて振り返ると、侍女長のパトリシアが溜息まじりに入ってきた。


 「お嬢様、ここ数日寝ていらっしゃらないでしょう。お体に障りますから、少し交代なさってください。私が看ています。」


 ロレッタは疲れた瞳を閉じる。看病を始めてからというもの、ほとんど休めていない。だが、パトリシアにすべてを任せるわけにもいかないだろう。ロレッタは小さく首を横に振った。


 「ありがとう、パトリシア。でも、もう少しだけ……。父さまが落ち着いてくれるまで看病を続けたいの。――あぁ、でも何かほかに動かなくてはならない事があるなら、交代してもらうわ。」


 そう言いかけたとき、扉の向こうから玄関をノックする音がかすかに聞こえた。こんな夜更けに誰が来るのだろうと、ロレッタとパトリシアは顔を見合わせる。使用人の一人が扉を開く声、そして軽い押し問答の末、慌てた足音がこちらに近づいてくる気配があった。寝室の扉を開けたのは若い使用人の少年で、彼は息を切らしながらロレッタに告げる。


 「お、お嬢様! 玄関に……城下の商人の方が来ておられまして、伯爵家への借金の返済について話があると。競売の件で新たな取り立てかもしれません……いかがいたしましょう?」


 ロレッタは歯を食いしばる。こんな夜更けに押しかけてくるなど、まさに弱った伯爵家を揺さぶる常套手段だ。お金の工面ができないまま支払い期限を迎えれば、伯爵家は正式に財産を差し押さえられ、父の寝室であっても容赦なく追い出される可能性がある。


 「わかったわ。私が会いに行く。パトリシア、父さまをお願いね。」


 「はい、お嬢様。お気をつけて。もし向こうが無茶を言うようでしたら、すぐに戻ってきてくださいませ。」


 パトリシアの不安げな表情を横目に、ロレッタは廊下を急ぎ足で進む。玄関に着くと、身なりの良い商人風の男が待ち構えていた。色白の顔つきに嫌みな笑みを浮かべている。その隣には、いかにも荒くれ者という風貌の護衛らしき者が数名控えており、この屋敷から何かを「力ずくでも奪い取る」意志があるように見える。


 「おや、お嬢様ともあろうお方が、こんな夜更けに直々に対応してくださるとは……恐れ入りますな。私どもはただ、借金の返済期限が迫っていることをお伝えに上がっただけです。期限を過ぎれば、競売の手続きを進めねばならない。これは法律に則った正当な手続きですので、どうぞご了承ください。」


 言葉遣いこそ丁寧だが、その口調はあからさまに脅しの含みを帯びている。ロレッタは気丈に顔を上げ、はっきりと口を開いた。


 「存じています。ですが、父の容体が思わしくない今、すぐに大金を用意することは難しい。少しだけ待っていただけませんか。せめて父さまの治療が落ち着くまで……」


 「いやはや、それは困りますな。延期にはそれ相応の保証をいただかないといけない。伯爵家の価値ある品……いえ、むしろ屋敷そのものを差し押さえることになるかもしれませんが?」


 商人の男がニヤニヤと笑う姿に、ロレッタは怒りを抑え込みながら「どうにかして支払う方法はないものか」と考える。しかし、この伯爵家が昔のように潤沢な資金を持っているわけではない。追放騒動によって信用を失った伯爵家は、融資を受けるあても見つからず、屋敷の維持が精いっぱいの状況だ。


 (このままでは、本当に父さまの最期を看取ることすらできなくなってしまう……。)


 絶望感が胸を締めつける。けれど、そんなロレッタの様子を見かねてか、商人の背後に控えていた男たちがそわそわと視線を交わし始めた。そのうちの一人が、手にした帳面を少しめくりながら、商人に耳打ちする。すると、彼はやや興味深そうにロレッタへ向き直った。


 「……そういえば、お嬢様。伯爵家には、王都近郊に小さな領地や農地がいくつかあるとお聞きしていますが、その農地を売却することはできませんか? これも抵当に入れると、少なくとも当面の借金は返せるはずですが……」


 農地の売却――それはロレッタにとって青天の霹靂ともいえた。あのリンドグレイヴ伯爵家は、長い歴史を通じて騎士団や国政に貢献しつつ、ささやかながら領地を発展させてきた。それが今、借金のカタに手放さなければならないなど、どれほど屈辱的だろうか。だが、このままでは家も財産もすべて失うに等しい。


 ロレッタが返答に窮し、唇を噛むと、商人は勝ち誇ったように続ける。


 「ご決断を急がれるのがよろしいでしょう。伯爵様の容体が悪いというなら、なおさら。もしお嬢様が継承するにしても、借金を清算できなければ、この家も農地もすべて競売にかけられますよ? その先は……言わなくてもお分かりですよね?」


 どこかせせら笑うような口調に、ロレッタは歯ぎしりしそうになる。だが、言い返しても仕方ない。今は、せめて数日の猶予を得なければならないと考えた。ほんの少しでも時間が稼げれば、父を医師に診せたり、別の方法で援助を頼んだりできるかもしれない。


 「……わかりました。農地の売却については検討します。ただし、どの程度の価値があるかを精査しないといけません。そちらも買い手のあても必要でしょう?」


 「もちろんですとも。私どもは誠実な商売人ですから、お嬢様と協議の上で適正価格を決定いたします。……では、五日。五日後の夕方には正式な回答をお願いします。それまでに何の連絡もなければ、競売手続きへ移行する手筈を整えましょう。」


 そう言い残すと、商人たちは護衛を連れて足早に去っていく。ひどく一方的なやり取りだったが、ロレッタはどうにか五日間の猶予を勝ち取った形だ。玄関が閉まった瞬間、彼女は壁に寄りかかりながら深いため息をつく。


 (五日……父さまの治療と財政再建を、同時に何とかしなくちゃならない。もはや私一人でどうにかできる話じゃないわ。でも、クラリスやエドワードが援助を申し出るはずもない。むしろ伯爵家を滅ぼしたがってるのだから……。)


 暗澹たる気持ちで廊下を戻り始めたとき、不意に窓の外がかすかに騒がしい気配に包まれていることに気づいた。玄関先から遠ざかったはずの馬車が、再び屋敷の塀の前で止まっているようだ。まさか先ほどの取り立て連中が引き返してきたのか――そう警戒して窓越しに外をうかがうと、そこには、まったく別の馬車が停まっていた。ロレッタは息をのみ、思わず目を凝らす。


 「……マティアス……?」


 かつて伯爵家に仕えていた老年の御者、マティアスの姿が見えた。ロレッタが追放される直前に別れを告げ、彼には伯爵邸を守ってほしいと託したはずだったが、その後どうしていたのか詳しくは知らない。すると、マティアスは馬車から誰かを支えるように降ろしている。背丈のある青年――見慣れた姿だ。ロレッタが慌てて玄関に駆けつけると、そこには、まさに自分が思い描いた通りの人物が立っていた。


 「ルーク……!? どうしてここに……?」


 思わず声を上げる。ルークは少し恥ずかしそうに苦笑しながら、ロレッタを見つめ返した。かつてフェリスタ村で毎日のように顔を合わせていた青年――孤児院で子どもたちを世話し、いつも温かい笑顔を見せてくれる存在。王都に戻ったロレッタは、まさか彼が追いかけてくるなど夢にも思わなかった。


 「神父様から話を聞いたんです。ロレッタさんが伯爵家に戻ったのは、お父上の病状が深刻だからだと。だけど、どうにも胸騒ぎがして……あなた一人では大変なんじゃないかと思った。お世話になった馬車の御者さん(マティアス)とも偶然連絡が取れて、一緒に来ることにしたんです。」


 少し照れくさそうに言うルークに対し、マティアスも深く頭を下げる。


 「お嬢様、いえ、ロレッタ様……申し訳ありません。私も伯爵様をお支えしたいと思っていたのですが、この屋敷がほとんど人手不足だと聞き、いても立ってもいられず。そこへルーク殿が協力を申し出てくださったのです。」


 なんという思いがけない助力だろう。王都の貴族たちのほとんどはロレッタを「悪女」と侮蔑し、伯爵家の崩壊を傍観しているのに、遠く離れた村からわざわざ助けに来てくれる人がいる。ロレッタは感激のあまり、思わず涙がこぼれそうになる。けれど、ここで取り乱してはいけないと自分に言い聞かせ、落ち着いた態度を装った。


 「ルーク、ありがとうございます。こんな危険な場所まで来るなんて……本当に、感謝してもしきれないわ。」


 「僕はただ、ロレッタさんを手伝いたいと思っただけです。神父様も『行っておいで』って背中を押してくれましたからね。……それで、まずは伯爵様の容体を見せてもらってもいいですか? 僕に詳しい医術の心得があるわけじゃないですが、村で看病した経験もあるし、何か手伝えるかもしれない。」


 そう言ってルークは馬車から薬草や道具が入った袋を下ろす。フェリスタ村には正式な医師こそいないが、薬草を用いた民間療法を長く続けてきた人々の知恵がある。その一端でも、今の伯爵家には大きな助けとなるはずだ。


 ロレッタはルークとマティアスを寝室に案内する。父の容体を確認したルークは眉をひそめながらも、脈や呼吸を丹念に確かめ、持参した薬草の煎じ薬を少しずつ飲ませる手伝いをしてくれる。パトリシアも「ありがとうございます……」と安堵の表情を浮かべ、慣れない手つきながらもルークの指示に従って布団を整え、部屋の空気を入れ替える。緊迫した雰囲気は変わらないが、少なくとも「誰もいない」よりははるかに心強い。


 「これで大幅に回復するかは分かりません。でも、今の伯爵様には、体力を少しでも回復させて免疫を高めることが必要です。……お医者さんの診断も受けたいところですが、やはり費用がかかりますよね?」


 ルークの問いに、ロレッタは辛そうに目を伏せる。そう、医師を呼ぶ資金すらままならないのだ。商人には五日後に農地の売却を回答するよう迫られている。何か打開策はないだろうかと頭を抱えていると、マティアスが小さく咳払いをして口を開く。


 「ロレッタ様……じつは、私が城下で聞いた噂なのですが、近々、第二王子エドワード殿下が大きな式典を開き、さらに新たな税制改革と貴族層の統合を進めようとしているとか。その式典には多くの貴族が集まり、政治的な発表もなされるはず。もしそこで、クラリス嬢と殿下がさらなる権力を得るような流れになれば、伯爵家の借金問題も、国の政策の一環として処理されかねません。つまり、我々がいくらあがいても、政府が強権的に差し押さえを行う可能性があります。」


 「そんな……やはり、クラリスとエドワードは伯爵家を徹底的につぶすつもりなのね。」


 ロレッタは唇を噛む。父の病床を狙うかのように伯爵家を経済的に追いつめるやり口は、すでに露骨なほどだ。思い出されるのは、クラリスが伯爵家を見下すようにして「借金のカタで屋敷を取られるかもね」と嘲笑っていた光景。まさにそれが現実となりつつあるのだ。


 「どうにかして、この陰謀を覆す方法はないかしら。彼女が自分を追放するために用いた嘘、たとえば……私に“反逆の証拠”があるとデマを流したことや、王子への内通を仕組んだ証拠をどこかに隠しているはず。でも、それを暴くには権力者の後ろ盾が必要か、あるいは動かぬ証拠を掴まないと……」


 そう考えながら、ロレッタは幼少期から家に残されている古い文書や書庫の存在を思い出した。リンドグレイヴ家は長い歴史の中で、軍事や政治に貢献し、さまざまな記録を保管してきた。あるいは、その中に「クラリスや王宮の黒幕が仕組んだ不正」の手がかりが残されているかもしれない。


 「……書庫を見てみるわ。父さまが保管してきた書類の中に、きっと何か重要な情報があるはず。」


 そう決心したロレッタは、パトリシアに父の世話を任せ、ルークとともに屋敷の地下にある書庫へ足を運んだ。そこには大量の書物や記録文書が並び、埃まみれの棚が長い列を作っている。ロレッタも幼少期に何度か足を踏み入れたきりだったが、こうして改めて見ると、その膨大な資料量に圧倒される。


 「これ全部を読み漁るのは大変そうですね……。何か当たりをつけられないかな。」


 ルークが呟くと、ロレッタは懸命に頭を巡らせる。クラリスが「他国との内通」をでっち上げたのは、王宮の外交方針に反する行為としてロレッタを陥れるためだった。もしそれが虚偽だと証明できれば、クラリスは罪に問われる可能性がある。だが、そのためには「虚偽の書簡や偽造文書を作成した証拠」が必要だ。伯爵家の書庫には、その当時の外交関連文書や報告書が残されているはず。ロレッタは埃っぽい棚をひとつずつ探り始めた。


 「これも違う……こっちは三十年も前の遠征記録……あぁ、これも古いな……。」


 息苦しいほどの埃が舞う中、ルークと二人で必死に探り続ける。何時間経ったかもわからないころ、ロレッタはひとつの木箱に目を留めた。蓋には「極秘・国交書簡」と掠れた文字が見える。伯爵家が王宮の外交事務に関わっていた時期の記録かもしれない。ロレッタは胸の鼓動を早めながら箱を開け、その中の書簡を丁寧に取り出した。


 「これ……一部、破り取られたような跡があるわ。何かが切り取られた? それとも……」


 よく見ると、数枚の書簡には不自然な穴が開いていたり、文章の一部が消されている箇所があった。それはまるで「何かを隠蔽しようとした」痕跡のように見える。ロレッタは顔をしかめたが、逆に言えば、そこに何か重大な事実があった可能性が高い。


 「こっちはどうだろう……おや?」


 隣で探していたルークが、別の封筒を取り出して手にしていた。それは、王宮の正式な紋章が押された封書で、中には書簡が数枚。日付はロレッタが追放される直前のものだ。文面には、他国の宰相宛てと見られる宛名が書かれているが、肝心の内容部分が何者かに書き換えられているように見える。インクの色が微妙に違ったり、書き足した跡が残っていたりと、不審な点が多い。


 「これは……“リンドグレイヴ伯爵家が他国との密約を取りつけようとしていた”という内容にされている……でも、文面の末尾と署名が不自然ね。これは私や父の筆跡じゃない。まるで真似しようとした形跡はあるけれど、明らかに偽造だわ。」


 ロレッタの声が震える。自分を悪女として追放するために、クラリスか、その関係者がこの封書を偽造したのだろうか。もしこれが証拠として王宮に提出されていたとすれば、国への裏切り行為があったとされるのも無理はない。まさにロレッタを陥れるための決定的な“偽証”だったのだ。


 「ここに、この書簡が“偽造”であると証明できるだけの要素があれば……。たとえば本物の宛先には違う名前が書かれていた、署名の筆跡がリンドグレイヴ家の正式なものと異なる、とか。あるいは――そうだ、この封筒自体が王宮の紋章を勝手に流用している可能性がある!」


 ルークも興奮を抑えきれない様子で、封筒や印章部分を丹念に確認する。すると、紋章のレリーフの一部に、微妙な形の違いが認められた。本来の紋章は「王冠の先端に小さな宝珠が描かれている」はずなのに、それが歪んでいたり、線が一本足りなかったり……。


 「間違いない。これは王宮の公式な印とは微妙に違う“模造品”だ。たとえ素人目にはほとんど判別不能だとしても、王宮に出入りする者なら気づくはず。――これこそが偽造の証拠になり得るね。」


 「ええ、これならクラリスが私にかけた罪は真っ赤な嘘だと証明できる。……でも、どうやって王宮の場で証拠を提示すればいいの? いきなり持ち込んだって、相手は権力を握っているんだから、黙殺される可能性が高いわ。」


 ロレッタの不安げな声に、ルークは少し考え込むように顎に手を当てた。しかし、その表情はどこか前向きな光を帯びている。


 「大きな式典が近いんだろう? そこには各派閥の貴族や、王族の関係者が大勢集まるはずだ。つまり、“公の場所”で証拠を提示できる唯一のチャンスでもあるんじゃないかな。クラリスとエドワードが新政策を発表するなら、その場に他の有力貴族も同席するだろう。そこで偽造書簡を示し、さらに証人を立てれば……たとえエドワード王子でも、強引な揉み消しは難しいはず。」


 ロレッタは目を見開く。確かに、皆が注目する公の式典ならば、簡単に圧力をかけて潰すことはできない。そこでは発表される政策に対して各貴族が目を光らせているだろうし、もし偽造疑惑が浮上すれば、他の派閥も黙ってはいまい。エドワードとクラリスが失脚する可能性すらある。問題は、その場にどうやって“追放者”のロレッタが出席できるかという点だった。


 ルークはさらに続ける。


 「僕は貴族社会の慣例には詳しくないけれど、リンドグレイヴ家は由緒ある名門だったんだろう? 伯爵様がご存命のうちは、正式に“家名剥奪”されたわけじゃないなら、ロレッタさんが参加する権利はあるんじゃないかな。少なくとも、追放が“王家への反逆罪”でなされたにしては、こうして今も伯爵邸に滞在しているわけだし……手続き上、中途半端なんじゃない?」


 その言葉に、ロレッタはハッとする。確かに、自分はクラリスによって「悪女」と呼ばれ、事実上の追放処分を受けた。だが、それが正式な法手続きを踏んだものだったかというと疑わしい。少なくとも国王や枢密院などの署名は確認していない。すべては「第二王子の婚約破棄」と「宰相ディルク卿の口頭」のみで決まったような形だった。正式な布告がない以上、実はロレッタには貴族として最低限の権利がまだ残されている可能性がある。


 「……そうかもしれない。もしそうなら、私にも式典に参加する資格があるわね。あとは、その場でクラリスの偽造を暴き、エドワード殿下にも真実を突きつける。それが成功すれば、この借金問題や父さまの名誉も取り戻せるかもしれない。」


 とはいえ、当然ながら危険な賭けだ。式典の場でクラリスを告発すれば、逆に“門前払い”を食らうかもしれないし、エドワード王子が激怒して力づくで退ける可能性もある。だが、ロレッタはもう後がないことを悟っていた。このまま黙っていれば、父の死後、伯爵家は完全に破滅し、フェリスタ村で得た新たな人生にも決して戻れないだろう。ならば、やるしかない。


 「まずは、この書簡が本物とどこがどう違うのか、細かい鑑定が必要ね。それから式典に出る方法を模索しましょう。王宮の守衛や出席の手続きは……あぁ、考えることが山ほどあるわ。」


 ルークは笑顔で肩を竦めた。


 「大丈夫、僕も手伝うから。パトリシアさんやマティアスさん、そして家に残っている使用人の方々とも協力すれば、きっと道は開けるはず。」


 ロレッタはルークの温かい瞳を見つめ、思わず胸が熱くなる。王都で独りきりだった自分を支えてくれる存在――フェリスタ村の仲間たち。特にルークの存在は、彼女にとって大きな光になっていることを強く実感した。


 「ありがとう、ルーク。あなたがいてくれるなら、きっと勝てる気がするわ。」


 そう言って微笑むロレッタの表情からは、追放を告げられた日々の絶望や孤独感が、少しずつ拭われていく兆しがあった。


 ***


 それから数日の間、ロレッタとルークは伯爵家の人々と力を合わせ、書簡の精査や偽造の証拠固めに奔走した。パトリシアとマティアスは使用人たちをまとめ、必要な物資や情報を集める。中でもマティアスは長年伯爵家の外回りを担ってきたため、王宮周辺で顔の利く知人も少なくなく、式典当日の出入りについて内密に教えてくれる者もいた。


 さらにロレッタは父の看病も続けながら、なんとか体調を安定させるためにルークが煎じる薬草を飲ませ、少しでも意識を保たせようと尽力した。父は相変わらず弱々しいが、時折、うわ言のように娘の名を呼んでは「許してくれ……何も守れなくて……」と繰り返す。その声を聞くたびにロレッタは胸を締めつけられる思いを感じながら、夜通し薬湯を口元に運んだ。


 やがて、エドワード王子が主催する新政策の発表式典が目前に迫った。宮廷の大広間で行われるこの式典には、大貴族や有力者、軍関係者などが集まると噂されている。そこにロレッタが堂々と姿を現し、クラリスとエドワードに宣戦布告する――言葉にすると無謀にも思えるが、これはリンドグレイヴ家を救うための最後の手段だ。


 式典前日の夜、ロレッタは自室でパトリシアが用意してくれたドレスに袖を通してみた。以前のような華美な貴族服ではなく、落ち着いた青の生地に最低限の装飾が施された仕立て。追放された身としては、これでも十分に派手な装いかもしれないが、正式な場に出るからには相応の礼を尽くす必要がある。鏡に映る自分の姿に、ロレッタは一瞬戸惑う。


 「……ずいぶん痩せてしまったな。髪も艶がない……。」


 王都を離れ、フェリスタ村で過ごす中、ロレッタは“貴族令嬢としての容姿”にそこまで気を遣ってこなかった。今の自分には、華やかさも魅力もほとんどないと感じる。だが、それがどうした――と自らを奮い立たせる。自分の目的は、きらびやかな宮廷に映えることではなく、偽りを暴き、父を救うことなのだ。


 「ロレッタさん。」


 ふと、ドアの外から声がかかる。ルークだった。彼は寝室に続く廊下のあたりで遠慮がちに待っている様子だ。ロレッタは「入って」と促すと、ルークは目を伏せながら部屋に入り、軽く会釈した。


 「……あ、ごめんなさい。着替え中だったかな。明日のことで少しお話があって。」


 「ええ、もう大丈夫よ。明日の段取りの確認かしら?」


 ロレッタが微笑むと、ルークはまっすぐ彼女を見つめ、少し口ごもったあと、言葉を絞り出す。


 「ロレッタさん、もし明日、式典の場で何かが起こって……あなたが危険にさらされたら、僕が守ります。……というか、僕が何とかするから、あまり無茶はしないでほしいんです。」


 その瞳は真剣そのものだった。王都の宮廷は、ルークのような“村人”からすればまったくの異世界だろう。それでも、彼は身を呈して守ると言っている。ロレッタは胸の奥が熱くなるのを感じた。


 「ありがとう。あなたがそう言ってくれるだけで、私はすごく心強い。でも、あなたを危険に巻き込みたくないわ。だから、もし大騒動になったら……すぐに逃げて。私が巻き込みを望んでいるわけじゃないの。」


 「それはできません。僕はロレッタさんだけに助けられっぱなしだったわけじゃないんですよ。村で過ごすあなたを見て、僕もたくさん勇気をもらった。だから今度は、僕の番です。」


 ルークの言葉に、ロレッタは返す言葉を失う。フェリスタ村での日々が頭をよぎり、子どもたちの笑顔、神父の温かなまなざし、そして二人で過ごした穏やかな時間が鮮やかに蘇る。もし、すべてが終わったら――晴れて伯爵家の名誉を取り戻し、父の病が快方に向かったら――もう一度、あの村へ帰りたい。心の底からそう願う自分がいる。


 「……わかったわ。ありがとう、ルーク。」


 短い言葉に、ロレッタはありったけの感謝と決意を込める。ルークも小さく笑って頷き、明日の打ち合わせを簡単に確認してから部屋を出て行った。夜は更けているが、もう眠るわけにはいかない。ロレッタは机に置いた偽造書簡の証拠と手紙を再度確認し、頭の中で明日のシミュレーションを繰り返す。この闘いに勝たなければ、すべてが終わる――そう、覚悟を固めて。


 ***


 そして、式典当日。王宮の大広間は、朝早くから華やかな装飾と人々のざわめきで満ちていた。名立たる貴族や官僚たちが列を成し、第二王子エドワードと、その傍らに控えるクラリスの動向を注視している。豪奢な衣装をまとい、きらびやかな宝石を身につけた貴婦人たちが、口元を扇やハンカチで隠しながら噂話を交わす光景も散見された。


 そんな中、ロレッタとルークは思い切って正面玄関から入場した。守衛に制止されるかと思いきや、マティアスが裏で手配してくれていたおかげで、正式に「伯爵家の令嬢」として通行を許されたのだ。追放されたはずのロレッタが堂々と現れたことに、周囲の貴族たちは目を見張り、ひそひそと囁き合い始める。


 (ここで臆してはいけない。堂々と胸を張って、私はリンドグレイヴ伯爵家の令嬢として……真実を証明するために来たんだから。)


 ロレッタは高く背筋を伸ばし、ルークとともに一歩ずつ大広間へ進む。そのとき、中央の壇上に立っていたクラリスが、ロレッタの姿に気づいて目を丸くした。彼女はすぐさま扇で口元を隠し、鋭い視線をロレッタへ向ける。エドワード王子も同様に驚愕の表情を浮かべ、言葉を失っているようだった。


 「これは奇遇ね、ロレッタ。悪女として追放されたはずなのに、よくもまあノコノコと王宮に姿を現せたものだわ。」


 クラリスが声を張り上げ、会場の注目を誘う。まるで、ロレッタをその場で糾弾しようという目論見だ。集まった貴族たちも一気にどよめくが、ロレッタは一歩も引かない。ルークが少しだけ前に出て、クラリスをまっすぐ見据えた。


 「貴女が言う“悪女”という烙印は、どうやら根も葉もない嘘だったらしい。――そうですよね、ロレッタさん。」


 ロレッタは静かに頷き、取り出した書簡の束を掲げる。


 「クラリス。あなたは私を“他国との内通”を画策した悪女として、エドワード殿下に訴え出ましたね。しかし、これは偽造だわ。王家の紋章を勝手に複製し、私や父の名前を騙って作り上げた書簡。――これを、ここにいる皆様にご覧いただきたい。」


 会場が大きくざわめく。傍にいた老臣や宰相らしき人物も鋭い目つきでロレッタの手元を見つめ、「本当に偽造なのか?」と声を上げる。クラリスは扇を折りたたんで睨みつけ、「馬鹿馬鹿しい、何の証拠があるの?」と笑みを浮かべようとするが、声が震えているのがわかる。


 ロレッタは落ち着いた口調で、印章の微妙な形の違いや、筆跡のずれ、宛先の不自然さなどを一つひとつ指摘し始めた。さらには「この書簡が作成されたとされる日時には、私も父も公務で王宮に詰めており、他国の使者と密会する余地はなかった」と証人の名前を挙げる。いくつもの矛盾が積み重なり、周囲の貴族たちは一斉に私語を交わし始めた。


 「それに……クラリス、あなたは私が“婚約を壊した原因”であり、“悪女”であると周囲に吹聴してきたけれど、実際に王家から正式に追放令が出された覚えはありません。あなたと殿下が私を宮廷から追い出したに等しい。つまり、それ自体、法的な手続きを踏んだ処分ではなかったのです。」


 もう一度、会場にどよめきが走る。「追放令」なるものが公式に布告されていなかったのは、すなわちロレッタの罪がきちんと裁かれた結果ではなかったということに他ならない。もしクラリスの言う「反逆の証拠」が確たるものであれば、速やかに王家の名で裁判が行われるはずで、それが行われなかった時点で矛盾があるのだ。


 「ま、まさか……殿下、そんなことが……?」


 周囲の貴族たちがエドワードを見つめる。殿下本人は青ざめた表情で唇を噛んでいる。クラリスが必死に取り繕おうとするが、その声は裏返った。


 「な、何を馬鹿な……! すべては王家と国のために、あなたの不穏な動きを阻止する必要があっただけで――」


 「不穏な動き? そういうなら、この偽造書簡の存在はどう説明するの? 私と父を陥れるために、誰がこんな小細工をしたのか、あなたが一番よく知っているんじゃないかしら?」


 ロレッタの問いかけに、クラリスは返事を詰まらせる。周囲は完全にロレッタの発言に耳を傾けている。老臣たちの中には、クラリスとエドワードの強引な手法を疑問視していた者たちもおり、ここぞとばかりに「事実を明らかにすべきだ」と息巻き始める。


 そのとき、エドワード王子が痺れを切らしたように、一歩前へ進み出た。だが、その目は絶望の色を帯びているかのようだった。


 「クラリス……これはどういうことなのだ? 本当に偽造が行われていたのか? お前が“ロレッタには確たる罪の証拠がある”と言うから信じたのに……まさか、嘘だったのか?」


 クラリスは「違うの、殿下……! これは、ロレッタの方こそ嘘をついてるのよ!」と必死に抗弁しようとするが、もはや会場にはそれを信じる空気はほとんどない。彼女がロレッタを陥れるために偽造した可能性が高い――その疑惑が一気に広まったのだ。


 「宰相、衛兵は何をしている! 早く、この無礼者たちを排除しろ!」


 クラリスがヒステリックに叫ぶ。しかし、宰相や衛兵も彼女の言葉にすぐ従おうとはしない。なぜなら、この場には数多くの貴族や重臣が集まっており、もし下手に力ずくで排除すれば、逆にクラリスとエドワードが「暴力的手段で真相を隠蔽しようとした」と非難されかねないからだ。彼らにとって、これ以上の不祥事は避けたい。


 ロレッタは最後の一押しに、はっきりと声を張り上げる。


 「王国の名誉にかけて、私は誓います。リンドグレイヴ伯爵家は何も裏切りなどしていない。クラリスあなたが捏造した証拠によって、私と父は追放同然の仕打ちを受け、家は借金まみれに陥った。……このような悪意ある行為が許されるなら、この国の正義はどうなるの? エドワード殿下、あなたも目をそらさないでください。いつまでクラリスの言いなりになるつもりですか?」


 エドワードは苦悶の表情を浮かべ、やがて口元に手をやる。


 「……俺は……ただ、お前のことを信じられなくなって、クラリスの言葉を聞いた。疑惑は濃厚に思えたし、周囲にもそう囁かれていた。……だが、もし本当に偽造だったなら、お前に申し訳ないことをした。」


 弱々しい声音。まるで、今さら後悔しているかのようだ。だが、ロレッタの胸には冷たい思いしか芽生えない。かつて憧れ、愛を抱いた相手――しかし、その愛を裏切り、彼女を追放したのはエドワード自身である。ロレッタは一瞬だけ切なさを覚えるが、すぐに頭を振った。


 「殿下、私はあなたを糾弾するためだけにここへ来たわけではありません。私の名誉を回復し、父を救いたい。リンドグレイヴ伯爵家にはまだ役目があるはずです。……あなたがそれを認めないのなら、私は闘うだけ。」


 そこへ、老臣の一人が「まずは伯爵家の追放処分を正式に撤回すべきではないか」と声を上げ、周囲も賛同し始める。宰相や重臣たちがエドワードに迫る形で次々と提言を行い、式典の雰囲気は一気に変貌する。もはや新政策の発表どころではなく、クラリスが関わった証拠偽造疑惑の解明こそが最優先となりつつあった。


 「あ、あのっ……! 違うのよ、私はただ、この国を思って――」


 完全に追い詰められたクラリスは必死に言い訳をしようとするが、衛兵たちが「お連れします」と腕を掴み始める。国の重要式典で王子を欺き、公文書を偽造した疑いが濃厚――それは最悪の場合、反逆罪にも準ずる重大事だ。あっという間にクラリスは顔面蒼白となり、その場で失神寸前に陥る。人々の視線が冷たいのは、彼女が今まで築いた人脈が、利害関係でのみ繋がっていたからだろう。追放したロレッタが「潔白」であると証明された今、彼女を庇う者などいない。


 こうして、クラリスは衛兵に連行される形となった。エドワード王子は呆然とそれを見送ったあと、深いため息をつくように視線を落とす。ロレッタのほうをチラリと見やり、申し訳なさそうな表情を浮かべた。


 「ロレッタ……すまなかった。俺は、お前を信じきれず、結果的にお前とお前の父上を苦しめた。今からでも……この償いをさせてくれないか?」


 かつてなら、その言葉を待ち望んだかもしれない。だが、ロレッタはもう過去には戻れないと知っていた。エドワードに対する気持ちは、伯爵家を救いたいという“義理”や“悲しみ”には残っていても、愛情としては完全に消えてしまっている。ロレッタは静かに首を横に振った。


 「あなたがどう償おうと、私が失ったものは元には戻りません。私が今望んでいるのは、“リンドグレイヴ伯爵家の名誉回復”と“父の治療”、それから“借金問題の解決”です。――それが叶えられるのなら、私はもう二度と王宮に足を運ぶつもりはありません。」


 エドワードは悲痛な顔で頷き、宰相や重臣たちと協議を始める。伯爵家に対する迫り来る競売や借金の差し押さえは、明らかな政治的圧力の下で行われていた可能性が高いため、そのプロセス自体に再調査が入ることが決定した。また、リンドグレイヴ伯爵は国の功労者であり、適切な処遇がなされるべきだという意見が強まり、医師の手配や治療費の拠出についても検討される運びとなった。


 すべてが終わったあと、ロレッタは強烈な脱力感に包まれた。ルークがそっと彼女の腕を支えてくれる。


 「お疲れさま、ロレッタさん……大丈夫? すごく顔色が悪い。」


 「ええ、大丈夫よ。ただ、緊張が解けて……立ちくらみがしているだけ。……私、勝ったのね。」


 声が震える。あの夜会以来、どれほど長く苦しい思いをしてきただろう。フェリスタ村での安らぎさえも、一度は断たれるかと思った。その苦難を経て、ようやく真実が白日のもとにさらされ、父も家も救われる可能性が見えてきた。ロレッタはルークの腕にすがるように小さく息を吐き、目を閉じる。


 (私には、もう王都に未練はない。父さまが快方に向かったら、私はあの村に戻ろう。そして、新しい人生を歩むんだ。今度こそ、私自身の意思で――)


 そう、心で呟きながら、ロレッタは静かに涙を一粒だけ落とした。嬉しさとも悔しさともつかない、複雑な思いが混じった涙だった。ルークがそっと手を握ってくれるぬくもりが、ロレッタに「生きる意味」を教えてくれるようだった。


 ***


 式典から数日後、王都ではクラリスの“書簡偽造”疑惑が大々的に取り沙汰されていた。エドワード王子も管理責任を問われ、しばらく政治の表舞台から退くことが決定。第一王子派や老臣派の影響力が再び増していく中、リンドグレイヴ伯爵家に対しては弁明の機会が与えられ、競売や借金差し押さえの手続きも一旦停止された。


 さらに、ロレッタの父には専門の医師が派遣され、病の進行を食い止める治療が始まった。正直、完治は難しいかもしれないが、少なくとも早期に対応できたことで「命の危険」は遠のきつつある。ロレッタは日夜看病に努めながら、パトリシアや使用人、そしてルークたちと協力して屋敷の整理を進めた。借金そのものは残っているが、国の支援と伯爵家の資産見直しによって、支払い方法を模索できる余地は出てきた。フェリスタ村からの薬草を取り寄せるなど、新しい連携も着々と進んでいる。


 そしてある朝、父の病室で目覚めたロレッタは、弱々しいがはっきりとした父の声を聞いた。


 「……ロレッタ……すまなかった、どうにかお前を守る手立てを示せずにいた私を……」


 父の手はまだ震えていたが、前よりは多少力が戻ってきたように感じられた。ロレッタは目に涙をためながら微笑む。


 「いいんです、父さま。今は治療に専念してください。伯爵家のことは、私がなんとかします。――ただ……私、今の状況が落ち着いたら、フェリスタ村に行こうと思っています。あそこには、私を支えてくれる温かい人たちがいるの。」


 父は少し息を乱しながら、ロレッタの言葉を噛み締めるように頷いた。


 「村……そうか、お前が本当に生きたい場所なら、私は反対しない。リンドグレイヴ伯爵家も、いずれはお前の帰りを待っているが……お前がやりたいことをしなさい。お前の人生は、お前のものだ。」


 ロレッタはその言葉に感謝し、父の手をそっと握りしめた。伯爵家を継ぐという選択肢もあるだろう。だが、すでにロレッタは「貴族の令嬢」として生きることに意味を感じなくなっていた。自分の本当にやりたいことは、村で子どもたちを教え、温かな人々と共に笑って暮らすこと。王都の華やかさや権力争いとは無縁の場所で、穏やかな日常を大切にしていきたいと願うようになったのだ。


 「父さま、またお見舞いに来ます。ちゃんと治して、元気になってくださいね。」


 そう言って父と別れたロレッタは、屋敷の廊下でルークと鉢合わせる。ルークは伯爵家の財務整理や荷物運びを手伝っていたが、ほどなくして一度フェリスタ村に戻るつもりらしい。孤児院の子どもたちが心配だし、神父やエマも日常業務に苦労しているだろう。


 「ああ、ロレッタさん。ちょうどよかった。これ、明日の早朝に村に出発するので、もし手紙や荷物があるなら預かりますよ。」


 ルークはそう言って笑顔を向ける。その優しさに触れ、ロレッタの胸はあたたかい気持ちで満たされるが、同時に少しだけ寂しさも感じる。なぜなら、明日には彼が去ってしまうから――けれど、自分もいずれ村へ戻ると決めたのだ。こうしてしばしの別れを経ても、きっとまた会えるはず。


 「……ルーク、本当にありがとう。あなたがいなかったら、私ひとりでは乗り越えられなかったわ。父さまもようやく回復の兆しが見えて、借金問題も再検討されることになった。全部、あなたや村の皆が支えてくれたおかげよ。」


 ロレッタが感謝を伝えると、ルークは少し照れ臭そうに頬をかく。


 「そんな大したことはしてませんよ。僕はただ、ロレッタさんの行動力や決意に合わせて、ちょっと手伝っただけです。むしろ、あなたが諦めずに立ち向かったからこそ、結果がついてきたんだ。……ああ、そうだ。子どもたちもずっと待ってますよ。『先生はいつ帰ってくるの?』って。」


 ロレッタは目を潤ませて微笑む。フェリスタ村での日々を思い出し、子どもたちの笑顔が瞼に浮かんでくる。村の穏やかな風景、神父やエマの優しさ――そのすべてが、もう一度ロレッタを受け入れてくれるというのだ。


 「私も……早くあの子たちに会いたいわ。父さまがもう少し落ち着いたら、必ず村に戻る。もし私がまた辛い状況に陥っても、今度は逃げずにあなたを頼るわ。いいかしら?」


 その問いかけに、ルークは柔らかな微笑みを浮かべ、ロレッタの手をそっと握った。


 「もちろんです。僕らは仲間だし、もう……逃げたりなんかさせませんよ。」


 その一瞬、二人の視線が重なり合う。そこには、王都の華麗な宮廷にはない「本当の温もり」と「信頼」があった。エドワードとの虚ろな恋とは違う、静かで穏やかな愛の芽生え――ロレッタはそれを心の奥底で感じ取る。


 こうして、リンドグレイヴ伯爵家は完全崩壊を免れ、ロレッタの冤罪は公式に晴れた。父の命はまだ予断を許さないものの、確かな治療の手が差し伸べられ、家の再建に向けて少しずつ動き出している。彼女自身もいずれ伯爵家を出て、フェリスタ村に戻る日が来るだろう。そのとき、ルークや村の人々とともに築く新たな人生こそが、ロレッタにとっての「真実の未来」なのだ。


 王都の夜、ロレッタは廊下の窓から星空を見上げながら、そっと胸に手を当てて祈る。


 (クラリスが受ける裁きやエドワード殿下の未来は、私の手には負えない。だけど、私は私の人生をもう一度歩んでいける。それだけで十分……。)


 遠い空には、一筋の流れ星が瞬く。まるで、フェリスタ村からの風を運んできたかのような、優しい輝きだった。ロレッタは瞳を閉じて微笑む。追放され、すべてを失ったはずの人生が、今こうして大きく花開こうとしている。そこには偽りの愛も名誉もない。ただ、確かな仲間と、確かな自分の意志があるのだ。


 ――こうして、名門伯爵家の令嬢として生きてきたロレッタは、一度はすべてを奪われながらも、新たな道を見つけた。フェリスタ村での活動、そしてルークとの小さな「真実の愛」が、これから先の彼女の人生を照らしてくれるだろう。


 薄明かりの差し込む寝室では、父が微かな寝息を立てている。ロレッタはその横顔に安堵を感じながら、深い呼吸をしてベッドサイドに腰を下ろした。もう迷いはない。父が目を覚ましたとき、ロレッタは自分の意思をはっきりと伝えるのだ。――伯爵家は、他の親族に任せる形でも存続させられる。自分はフェリスタ村で、子どもたちの先生として暮らし、仲間たちと笑顔を分かち合いたいのだ、と。


 そこには、あの華やかに飾り立てた宮廷生活にはない、不思議な安堵と期待があった。追放され、疑われ、苦難を経て辿り着いたこの場所こそが、「ロレッタという人間」にとって真の居場所だと気づいたのだから。彼女を待つのは、ルークとともに紡ぐ穏やかな未来。そして、何よりも確かな「真実の愛」である。



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