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 あれから数日が経った。工事現場からは何も連絡が来ない。

 こちらから統括責任者に電話をしたが、普通に無視された。まあ、忙しいのだろう。

 だから私は、自分の関心に集中することにした。

 あの手紙の続きがあるはずだ。

 あの学生――日野昭一は、何か決定的なことを知った。それで失踪したのではないか。

 郷土研究会の地下書庫――限られた研究者しか立ち入れないその場所に、答えが残されているかもしれない。

 時計を見ると、もうすぐ閉館時間だった。

 だが、私は係員に事情を説明し、特別許可を得て、地下書庫に留まった。

 埃と沈黙に包まれたその空間で、私は懸命に探し続けた。古びた段ボール、裂けたファイル、劣化したインクの匂い……。

 そして、ついに見つけたのだ。

 一通の封筒。茶色く変色した厚紙の上に、万年筆で記された墨色の文字が、静かに警告を放っていた。

「この祠を動かしてはならない 昭和五十年 日野昭一」

 私は封を開け、震える指で中の手紙を広げた。



『甲府の親戚の家に滞在している。偶然にも彼らは今、海外旅行中で、家を自由に使ってよいとのことだった。幸運だった。生活の煩わしさから解放され、調査に没頭できたのだから。

 倉庫の資料を追い、土地の古老に聞き込み、郷土史料館を巡るうちに、いくつかの正確な事実が浮かび上がってきた。

 やはり、あの祠はただの石ではない。

 あれは、黒染明神――通称「敗者の神」に捧げられた“器”だ。

 戦国末期。甲府の地で武田家が滅びた後、土地に取り残された兵士や農民たちは、政治的にも宗教的にも行き場を失い、ある種の精神的共同体を築いた。

 彼らが崇めたのは、戦に勝った神ではなかった。

 敗北し、屍となり、無念のまま声も上げられず葬られた者たちの“残響”――それが、黒染明神である。

 この神は、怨嗟と流血を糧とする。

 信仰の中核にあるのは、祟りでも呪いでもない。もっと原始的で純粋な“怒り”だ。

 血が流れるたびに黒染はその怒りを蓄積し、地中に染み込んでいく。そして、信者たちはその怒りを神聖視し、祝祭と称して意図的に流血を繰り返した。

 最初は村の中での儀式だった。それが次第に外へと広がっていく。辻斬り、騒乱、反乱。彼らは自ら争いを引き起こし、流血を“祭祀”として捧げた。

 徳川政権の成立以降、信者たちは報復の象徴として、黒染明神の“器”を江戸の地下に密かに移し、それが後の祠となった。元々はそういう話であった。

 だが、徳川の世は200年以上も続いた。

 時が流れるにつれ、黒染信仰は徐々に形骸化していった。そもそもの目的――徳川政権への報復という怨念は次第に忘れ去られ、信仰の核は曖昧になっていった。

 それでも、“敗者の神”という概念と、祠、そして流血の儀式だけは、形を変えながら残り続けた。

 そして誠に皮肉なことに、幕末――徳川幕府が新政府に敗れたとき、かつて“神”に報復される立場だった側が、今度は敗者となり、この信仰にすがった。

 旧幕臣や没落した士族たちが、黒染明神を再び“必要な神”として見出したのだ。

 明治維新以降、社会の片隅に追いやられた人々――士族、攘夷派の残党、徴兵を拒んだ農民たち、戦後には復員兵、元将校から帰還した者たち。さらに現代では、経済戦争に負けた貧困者たち。

 それぞれが心の奥に渦巻く怨念を、この神に託した。

 そして、黒染明神は時代ごとに信仰の形を巧みに変化させ、“敗者”の系譜を吸収し続けた。

 その結果――

 あの祠は、もはや単なる宗教的象徴ではなくなっていた。

 あれは一種の“呪術装置”と化していた。

 もっと正確に言えば、都市の深層に埋め込まれた“感情の地雷”だ。

 周囲の人間の怒り、猜疑、憎悪を静かに吸い取り、蓄え、ある閾値を超えた瞬間、それらを爆発的に撒き散らす。

 その発露は、精神的錯乱、集団ヒステリー、暴力行為といった形をとる。

 現代の科学では検出できないが、確かな“反応”が起きている。

 私が参照した記録――先人の記録者によると、関東大震災後、似たような祠が都内数か所で見つかった。復興事業で祠の撤去が検討された際、関係者の間に異常な対立が生まれ、遂には暴力沙汰にまで発展したという。

 それはただの偶然ではない。

 異常な心理状態が集団的に発生する――それを、信者たちは“神聖な憑依”と解釈しているらしい。

 祠は、人の精神を歪ませる。

 地下に埋もれ、都市の血管のようなインフラの合間を縫って根を張り、じわじわと社会を蝕む“病巣”だ。

 今回の再開発にあたり、当初、祠はコンクリートで封じられる予定だった。

 それならば、まだ良かった。

 だが、最終的に業者は祠の撤去を決定した。

 それだけは、決して許されてはならない。

 さもなければ――何が起こるか分からない。

 いいや、もはや「分からない」では済まされない。

 “起こる”と確信している。

 だが、私の行動はすでに誰かに監視されている。

 地上げ屋か、公安か、あるいは……それ以外の、正体の知れない存在か。

 近頃、背後に視線を感じることが増えた。

 無言の電話、ノイズ混じりの盗聴のような音。

 駅で何度も出会う同じ顔――偶然とは思えない。

 被害妄想と言われても構わない。

 だが私は、まもなく“消される”。本気でそう感じている。

 この手紙を読んでいるあなたが、学者であれ、通りすがりの人であれ、どうか覚えていてほしい。

 あの祠は、封じられたままでなければならない。

 誰にも近づかれず、忘れ去られることこそが、この都市を守る唯一の方法だ。

 これは私の遺言であり、願いであり――そして、もしかしたら、私自身の“呪い”でもあるのかもしれない。

 だが、私の前の記録者が私に託したように、私はあなたに託す。

 頼む。どうか……頼む』



 私は、しばらくその場に立ち尽くしていた。

 指先が震えていた。背筋を汗が流れていた。

 だが、それでも確信していた。これは、狂人の妄想などではない。

 すべてがつながっていた。

 あの祠の意味。宗教の異常性。

 そして、都市の構造に巧妙に仕込まれた、“呪い”の装置。

 日野昭一という一人の男が、命を賭して遺そうとした真実が、いま、私の中で形を成し始めていた。

 それは、恐ろしいほどに、理にかなっていた。

 気づけば、時計の針は午後11時を回っていた。

 その瞬間だった。ポケットの中でスマートフォンが震えた。

 発信者名――上田。

 私はすぐに通話を取った。

「せ、先生! 大変です!」

 彼女の声は、明らかに混乱していた。

「どうした?」

「佐々木さんから連絡が……いま、現場にいるらしくて……っ」

「……現場?」

「渋谷の、祠のところです……! さっきから工事音がしてて……」

 上田の声が震える。

 そして、決定的な一言が告げられた。

「……壊すそうです。あの祠……もう、撤去が始まってるって……!」

 その言葉が、私の脳を焼いた。

 鼓膜がきしむような警報音が、頭の奥で鳴り響く。

 血流が暴走し、胸の奥が熱を持った。

 次の瞬間には、私はもう走り出していた。

 資料を鞄に詰め、郷土研究会の建物の階段を駆け上がる。

 深夜の通りに飛び出し、手を挙げてタクシーを止めた。

「渋谷の再開発地区まで。できるだけ急いでくれ!」

 タクシーの中で、窓の外の風景が流れていく。

 しかし、それらはどこかで見たことがあるような、奇妙な既視感に満ちていた。

 見知った街なのに、知らない街のように感じる。

 息が詰まる。

 胸の奥が、見えない手で握りつぶされていく。

 思考が、断片的になる。言葉にならない焦燥が全身を包む。

 ――これは“既視感”ではない。

 黒染の“念”が、すでに動き出している。

 空気が重い。目に見えない何かが、街全体を覆い始めている。

 そして、現場に到着したとき――

 私は言葉を失った。

 そこに広がっていたのは、私の想像を遥かに超えた光景だった。


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