再開発現場のフェンスは、まるで爆風にでも吹き飛ばされたかのように、歪み、千切れ、無惨に倒れていた。
その入口には、警備員がうつ伏せに倒れていた。
ピクリとも動かない。
近くには、血に濡れた鉄パイプが転がっていた。
それが何を意味するかを考えるより先に、私は本能的に足を震わせながらも、現場の中へと踏み込んでいた。
そして、その先に広がっていた光景は――もはや“現実”とは呼べなかった。
作業員たちが、互いに襲いかかっていた。
頭を掴み、顔を殴り、髪を引き裂き、歯を食いしばりながら腕に噛みついている者さえいた。
誰もが血に塗れ、呻き声と唸り声を混ぜ合わせたような、獣の咆哮を上げていた。
理性は、完全に剥がれ落ちていた。
人間の皮を被った何か――そうとしか思えない。
私は思わず叫んだ。
「やめろ! これは呪いなんだ! 祠を壊してしまったからだ!!」
だが、誰一人として耳を貸さなかった。
むしろ、数人がこちらを振り向いた。
血走った目。剥き出しの歯。
額から流れる血が頬を伝い、彼らの顔を異教の戦士のように彩っていた。
――まずい。殺される。
私は背を向けて、走った。
ただ一つの目的地――かつて祠があった場所へ。
だが、そこに祠はなかった。
あるのは、破壊された赤石の残骸。
中心にあった石室は真っ二つに割れていた。
その裂け目から、“それ”は滲み出していた。
黒い泥のようなもの。
だが、それは液体ではなかった。
それは――闇そのものだった。
光を吸い込み、熱を奪い、空気を腐らせていく。
それは地面に染みこみながら、世界の構造そのものを侵していた。
周囲の空間が、ゆっくりと歪んでいくのがわかった。
空気が、光が、音が、すべてがねじれていく。
――ここはもう、現実ではない。
現実に重なった、もうひとつの世界。“異界”だ。
そのときだった。
足元に、何か柔らかく、冷たい感触があった。
私は反射的に振り返った。
「……上田……?」
彼女が倒れていた。
あれほど好奇心旺盛だった助手が、仰向けに横たわり、瞳を虚空に向けて開いたまま、動かなくなっていた。
顔は蒼白で、唇が紫色に染まっていた。
首元には明らかに絞められた痕があり、胸元には――見たことのない、異様な形の“手形”がくっきりと残っていた。
――生きた人間のものではない。
この場に現れた“何か”が、彼女を……。
私は後退りながら、嗚咽のような呼吸を繰り返した。
視界が滲み、身体が震える。
――もう、祠の呪いは封印ではない。開かれてしまったのだ。
制御も、祓いも、もう間に合わない。
「これは……“祠型の呪詛装置”なんだ……」
日野昭一の声が、耳元で囁くように蘇った。
そのときだった。
背後から、乾いた金属音が響いた。
カン、と鈍く響くそれは、工事現場特有の無機質な音ではなく――獲物を狙う捕食者の牙が擦れる音に近かった。
私は振り返った。
佐々木がいた。
顔は血に染まり、表情は虚ろだった。目は焦点を失い、しかし狂気だけがはっきりと宿っていた。
右手には、重そうなスパナが握られていた。鉄の塊のようなその工具は、すでに何かを打ち据えた血で赤黒く染まっていた。
「……お前も……俺を笑ってたんだろ……」
掠れた声は、呻きとも呪詛ともつかない。
「現場のことなんか、どうでもよくて……。あの祠のことばかり見て……俺のことなんか、バカにしていただろう……!」
「違う! 佐々木さん、それは――呪いに、取り憑かれてるんです……!」
必死に叫ぶ私の声は、虚空へ吸い込まれていった。
佐々木は叫び声と共にスパナを振りかぶった。
殺意のこもった、重い一撃。
私は咄嗟に身をかわし、足をもつれさせながら暗がりの中を駆け出した。
肺が焼けるように苦しく、心臓は耳元で爆発しているようだった。
どこか、逃げなければ。
どこでもいい、誰でもいい、助けてくれる誰かを――!
崩れたフェンスの隙間を見つけ、私はそこに身を滑り込ませるようにして外へと飛び出した。
背後からは作業員たちのうめき声、断末魔、そして血と泥の悪臭が追いかけてくる。
この場所はもう、現実ではない。呪われた“場”だ。
そして――出口の手前。
私は一人の男とぶつかった。
「た、助けてください! もう、ここはおかしいんです……祠のせいで、何かが……何かが出てきて……!」
男は、スーツ姿だった。
この状況には不似合いなほどに清潔で、しわ一つなかった。
だが、その目だけが異様だった。冷たく、何も映さず、それでいてすべてを見透かしているような――“上”の目。
私は、その顔を知っていた。
渋谷再開発プロジェクトの資料で、幾度となく見た写真。
都と国を繋ぐ、キーマン。
現場に姿を現すことなど滅多にないはずの、統括責任者。
電話越しで何度か話したことはあったが、実際に顔を合わせるのは初めてだった。
だが、その彼が、私を見下ろして――笑った。
静かに、しかし確かな悪意と確信を込めて。
「……ああ、そう。やっぱり君が来たんだね」
背筋が凍るような声だった。
「ようやく、だよ。……また一つ、“黒染”の念を解放できた。ずっとこの日を待っていたんだ」
鼓動が、胸の奥で跳ねた。
「……な、何を言って……?」
男はゆっくりと袖をまくった。
その右腕には、あの祠と同じ、禍々しい文様が刻まれていた。墨ではなく、肉に刻まれた“痕跡”だった。
「明治維新の混乱で、我々の準備は一度途絶えた。あのバカな、旧幕府の信者が増えたからだ。
その後、文明開化で神道の力は分断され、関東大震災では封印の兆しすら“科学的合理性”の名のもとに消された。
戦中は“本土決戦”の混乱で、それどころじゃなかった。
戦後? あの時代は酷かった。セゾングループのせいで、渋谷は“商業の街”に成り下がった。……あれで百年、我々は動けなかった」
男の目が、異様な熱を宿して爛々と光った。
その光が、私の皮膚の下を焼くように這った。
「だが、今は違う。都市計画は飽和し、再開発は“カネになる神話”として喧伝され、都も国も夢中だ。が、実際には失敗だらけだがな。でも我々は、その“都市再構成”に紛れ込ませた。“神の構造”を――」
「……まさか……再開発に、黒染の祠を組み込んだ……?」
男は嗤った。
「“騙した”と思うか? 違う。“気づかせてやった”んだよ。自分たちが敗者であり、そしてその敗者の神を崇めることが、どれだけメリットがあることか」
懐から取り出したのは、図面だった。
それは再開発区域を中心に描かれた、一種の“設計図”だった。だが、建築でも都市計画でもなかった。
線は血管のように枝分かれし、点は祠であり、瞳であり、封印だった。
道路は神経。排水路は血流。高層ビルは“角”であり、“目”だった。
東京は――神体だった。
この都市は、神を“宿す器”として、作られていた。
「“敗者の神”はもう胎動している。君たち凡人には、乱開発にしか見えなかったろうがね」
私は思わず一歩後ずさった。喉が震え、声にならない音が漏れる。
「こんなこと……こんな計画が、通るわけが……!」
男の声は静かに、しかし絶望的に確信に満ちていた。
「もう通ったよ。工事は始まった。フェンスも破られた。祠も壊された。封印は、すでに――解かれた」
彼の声が低く、冷たく響いた。
「新宿の再開発も、我々の“初手”だった。トー横? あれは祠を壊した余波にすぎない。だが、我々にとっては祝祭だった。見ろ、人々どもが生き生きとしているではないか。かつての大菩薩峠の村もあのような感じだったと聞く。
そして今、渋谷。お前のような異物を排除すれば、“完全なる器”にまた近づく」
そう言って男は、地面に落ちていた鉄パイプを拾い上げた。
「やめろ……やめてくれ……!!」
私は背を向け、逃げようとした。
だが――遅かった。
背後から、風を裂く音。
次の瞬間、頭蓋の内側に閃光のような痛みが走った。
視界が、ぐにゃりとねじれた。
膝をつく。呼吸が、できない。
こめかみから、ぬるい血が垂れた。
男が覗き込む。その口元に、笑み。
だが、私が凍りついたのはその“目”だった。
あまりにも澄んでいた。おぞましいほどに、純粋だった。
「君も、血肉として捧げよう。
東京は“神殿都市”として再誕するだろう。
そしてこれから我々は、勝者であったすべてのものを地獄へ落とす。
人間関係でも、社会構造でも。いや、国家レベルで、だ。
バカなインバウンド観光客を“信者”に仕立て、他国にも信仰を広げる。
“経済”の皮を被った“神事”は、誰にも止められない」
私は、意識が遠のく中で、ひとつの確信に至った。
これは、陰謀なんかじゃない。
計画でもない。
これは――祈りだ。
数百年の時を超えて続いた、“黒染”の宗教的執念。
東京は今、その“祈り”に呑み込まれようとしている――。