あくびを噛み殺すときも、コンビニの店員に「温めますか?」と聞かれたときも、隣の女子が彼氏に別れ話をされて泣いているのを見かけたときも。
目元も口元も、ちっとも動かない。まるで精巧にできたドールみたいに。
「かなってほんと、感情なくない? なんか、いっつも人形っぽいっていうか」
そう言われるのも、慣れていた。悪口にすら聞こえない。むしろ、便利なラベルだと思っている。
ドール。心を持たない、精密なオトナの飾り物。
バーで、酒を2杯ずつ空けたあと。「じゃ、ウチ来る?」と、彼が言って。
「うん」と答えた自分に、特別な感情なんてなかった。
いや、ほんとうはなかったはずだった。
都合のいい関係。お互い干渉せず、求める時だけ身体を重ねて、明るくなる前にバイバイする。
そのほうが、楽だった。心なんか、いらなかった。
「うわ、寝坊。やば、遅刻するわ……っ」
その朝、聖斗はぐしゃぐしゃの髪を手ぐしでかきあげながら、ベッドから飛び起きた。
シャツのボタンは全部留まってなくて、洗面所の鏡の前で歯磨きしながら着替えるという器用なマルチタスクを披露していた。
かなはというと、ベッドの端で膝を抱えていた。
シャツは一枚借りたけど、下はタオルケットで隠すだけのスタイル。彼の彼女が来たら、秒で修羅場コースだろうなと思いながら、なぜか動けなかった。
「……ごめんな、今日、ちょっと仕事早くてさ。タクシー呼ぶ?」
聖斗がこっちに目線を向けて言った。その言い方が、思いのほか“普通”だった。
怒ってもいないし、邪険にしてもいない。
ただ、ふつうに心配してる人の声だった。
「いらない。歩いて帰るから」
「そっか。……朝、寒いから、上着だけ貸すわ」
何でもないひと言だった。
でも、そのとき、なぜか胸の奥が、きゅっとした。
こんなふうに、心配されたの、いつぶりだったっけ。
かなは答えずに黙っていたけど、聖斗は押し入れから無地のパーカーを取り出して、無造作にかなの肩に掛けてくれた。
——その仕草が、どうしようもなくやさしかった。
「……帰ってくるなら連絡しろっつってんだろ!」
玄関のドアを開けた瞬間、父親の怒鳴り声が飛んできた。
もう昼前なのに、家の中は酒臭くて、灰皿がひっくり返っていた。
かなは何も言わず、淡々と靴を脱いで、無言で階段を上がる。
顔をしかめることも、反論することもない。
こういうとき、表情を動かさないのは便利だ。
母親はいない。もう何年も前に家を出た。
弟は中学生だけど、最近は学校にも行っていない。リビングでゲームをしていたが、かなの顔を見ると視線を逸らした。
それでいい。余計な詮索をされるよりは、ずっと楽だ。
部屋の扉を閉めて、かなはベッドに倒れ込む。
聖斗のパーカーのにおいが、まだ残っている。微かに香水とタバコと、洗剤のにおいが混じった匂い。
くしゃり、とパーカーを握りしめた。
こんなことで、何かを思い出しそうになる自分が、ほんの少しだけ、怖かった。
放課後、カフェで友人たちと過ごす時間もあるけど、心のどこかでずっと浮いてる感覚があった。
その場にいるのに、輪の中にはいない。
友達は笑っていても、自分はどこか、役割を演じているだけ。
「かなってさ、男関係ほんとドライで羨ましいっていうか」
「え? 聖斗くんとまた会ってるの? あの人、彼女いるよね?」
軽口や心配を装った探りの言葉も、全部右から左に流していく。
いちいち本気で受け止めてたら、壊れてしまうから。
だけど、その夜。
聖斗から「今日、空いてる?」とメッセージが来た瞬間、かなは自分でも信じられないほど、携帯を握る手が震えていることに気づいた。
“都合のいい関係で、よかったのに”
——なのに。どうして、こんなに待ってたんだろう。
夜。
聖斗の部屋。
行為のあと、かなはふと、彼の寝顔を眺めていた。
すぅすぅと寝息を立てている彼の横顔は、普段よりずっと幼く見えた。
悪い男、遊び人、セフレ。ラベルを貼れば済むような関係。
でも、そのラベルの向こう側に、“人”がいることを、今さら思い出してしまった。
「……なんで、パーカーなんか、貸してくれたの」
ぽつりと、声が漏れた。彼はもちろん、もう眠っている。
答えなんて、最初から期待していないのに。
でも、その日、“大人なドール”は、心を知ってしまった。
自分が思っていたよりずっと、誰かのやさしさに、飢えていたことを——。