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第2話「これは、ただの「都合のいい関係」のはずだった」

 聖斗の部屋を出たのは、夜の11時すぎ。

 ネオンの光が夜の空気に滲んでいて、タクシーを呼ぶにはまだ早いけど、歩くには少し寒かった。


 でも、かなはゆっくり歩くことを選んだ。

 今夜は、そういう気分だった。


 コンビニの前を通り過ぎ、カラオケの明かりに照らされている交差点を渡りながら、胸の奥がチクチクする感覚を、必死で無視していた。




(なに、これ……)




 ——ただのセフレなのに。

 それだけの関係だったのに。


 ほんの少しの優しさが、こんなにも自分の中で波紋を広げていることが、怖かった。


 高木かなは、これまでに何人もの男とそういう関係を結んできた。

 初めてセフレという言葉を知ったのは、高校を卒業してすぐ。

 年上の社会人に言い寄られて、「付き合うわけじゃないけど、会いたいときだけ来てくれたらいい」と言われた。


 別に嫌じゃなかった。

 むしろ、楽だった。付き合うって、面倒くさい。好きとか嫌いとか、言葉にするのが重い。

 そうやって、割り切った関係をいくつも重ねてきた。


 名前を思い出せない男もいた。

 マンションの部屋番号だけ覚えていた人もいた。

 LINEの履歴を見返して、ようやく「ああ、いたな」って思い出す程度。


 ——どの男にも、心は動かなかった。


 身体を重ねても、空っぽのまま。

 愛されているふりをしながら、何かを埋めるように笑っていた。


 だけど、ひとつだけ、心の奥底にあった感情を、見ないふりをしてきた。




(ほんとは、誰かに、ちゃんと、愛されたかった)




 そんなことを思ったところで、誰も振り向いてはくれなかったから。

 父親は酒と怒鳴り声ばかりで、母親はいつの間にか姿を消していた。

 弟はどんどん無口になって、家の中の空気はいつも重くて、音を立てることすら憚られた。


 だから、感情を殺した。

 泣かない、怒らない、笑わない。何も期待しない。


 「ポーカーフェイス」と呼ばれるようになったのは、たぶんその副産物だった。



 ——なのに。どうして、聖斗だけ、こんなにも心がざわつくの?




 自問してみても、答えは出ない。

 彼は彼女持ちで、自分にとっては“いつもの相手”のひとりのはずだった。


 でも、どこかが違った。


 たとえば、終わったあと。

 「寒くない?」と聞いてくれたこと。

 シャワーのあと、自分の分の飲み物を勝手に用意してくれたこと。

 エレベーターで別れるとき、「気をつけてな」とぼそっと言ってくれたこと。


 ——それだけのことなのに。

 なのに、それがたまらなく、心に残っていた。




「ねえ、かなって、本気で誰かを好きになったことないの?」


 昼間、友人の里奈にそう聞かれて、言葉に詰まった。

 正確には「なったことがない」のではなく、「なっちゃいけなかった」だけ。


 好きになるって、期待することでしょう?

 期待って、裏切られるものじゃないの。


 だから、かなはずっと、自分のことを守るようにしてきた。

 感情なんて抱かないように。

 優しくされても、それが“その場限り”のものだと割り切るように。




(なのに、なんで……聖斗だけ……)




 誰かの隣にいたい、なんて。

 誰かの“特別”になりたい、なんて。

 そんな気持ち、とうに捨てたはずなのに。


 翌日の昼休み、かなは学食の隅の席に座って、ひとりでパンをかじっていた。


 スマホには、聖斗からの既読スルーのままのメッセージ。

 「昨日はありがと。また連絡するね」

 それっきり、返事はなかった。


 (これが普通。これが正しい)


 そう自分に言い聞かせながら、心がモヤモヤしているのを止められなかった。


「……なにしてんの?」


 聞き慣れた声が、上から落ちてきた。

 見上げると、そこにいたのは——聖斗。


「聖……」


 声が出そうになって、咄嗟に飲み込んだ。


「時間ある? ちょっと外、歩かね?」


「……いいけど」


 このとき、鼓動が少し速くなっていたことに、かなは気づいていた。

 でも、それを顔に出さないのが、彼女の癖だった。



 公園のベンチに並んで座りながら、聖斗は煙草に火をつけた。

 その横顔を見ながら、かなはなんとなく、言葉を選んでいた。


「昨日、返事なかったね」


「悪い。ちょっと仕事がバタバタしてて」


 その言い訳すらも、なぜか本気で信じたくなってしまう自分が、嫌だった。


「ねえ、あなたさ。私のこと、どう思ってるの?」


 不意に出たその言葉に、自分でも驚いた。

 言うつもりじゃなかった。

 こんな質問、いちばんしてはいけないのに。


 でも、口に出してしまった。




 聖斗は煙を吐いてから、少しだけ視線を向けた。

 そして、こう言った。




「かなってさ、人形みたいに見えるけど——ほんとはめちゃくちゃ、人間臭ぇよな」




 その言葉に、なぜか胸の奥が熱くなった。


 これまで誰にも気づかれなかった、心の底にある「愛されたい」という願望を、

 彼だけが、ふとした一言で、見透かしたような気がした。




 その日もまた、“大人なドール”の心は揺れた。

 聖斗の何気ない一言が、またひとつ、感情のスイッチを押したのだった。

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