聖斗の部屋を出たのは、夜の11時すぎ。
ネオンの光が夜の空気に滲んでいて、タクシーを呼ぶにはまだ早いけど、歩くには少し寒かった。
でも、かなはゆっくり歩くことを選んだ。
今夜は、そういう気分だった。
コンビニの前を通り過ぎ、カラオケの明かりに照らされている交差点を渡りながら、胸の奥がチクチクする感覚を、必死で無視していた。
(なに、これ……)
——ただのセフレなのに。
それだけの関係だったのに。
ほんの少しの優しさが、こんなにも自分の中で波紋を広げていることが、怖かった。
高木かなは、これまでに何人もの男とそういう関係を結んできた。
初めてセフレという言葉を知ったのは、高校を卒業してすぐ。
年上の社会人に言い寄られて、「付き合うわけじゃないけど、会いたいときだけ来てくれたらいい」と言われた。
別に嫌じゃなかった。
むしろ、楽だった。付き合うって、面倒くさい。好きとか嫌いとか、言葉にするのが重い。
そうやって、割り切った関係をいくつも重ねてきた。
名前を思い出せない男もいた。
マンションの部屋番号だけ覚えていた人もいた。
LINEの履歴を見返して、ようやく「ああ、いたな」って思い出す程度。
——どの男にも、心は動かなかった。
身体を重ねても、空っぽのまま。
愛されているふりをしながら、何かを埋めるように笑っていた。
だけど、ひとつだけ、心の奥底にあった感情を、見ないふりをしてきた。
(ほんとは、誰かに、ちゃんと、愛されたかった)
そんなことを思ったところで、誰も振り向いてはくれなかったから。
父親は酒と怒鳴り声ばかりで、母親はいつの間にか姿を消していた。
弟はどんどん無口になって、家の中の空気はいつも重くて、音を立てることすら憚られた。
だから、感情を殺した。
泣かない、怒らない、笑わない。何も期待しない。
「ポーカーフェイス」と呼ばれるようになったのは、たぶんその副産物だった。
——なのに。どうして、聖斗だけ、こんなにも心がざわつくの?
自問してみても、答えは出ない。
彼は彼女持ちで、自分にとっては“いつもの相手”のひとりのはずだった。
でも、どこかが違った。
たとえば、終わったあと。
「寒くない?」と聞いてくれたこと。
シャワーのあと、自分の分の飲み物を勝手に用意してくれたこと。
エレベーターで別れるとき、「気をつけてな」とぼそっと言ってくれたこと。
——それだけのことなのに。
なのに、それがたまらなく、心に残っていた。
「ねえ、かなって、本気で誰かを好きになったことないの?」
昼間、友人の里奈にそう聞かれて、言葉に詰まった。
正確には「なったことがない」のではなく、「なっちゃいけなかった」だけ。
好きになるって、期待することでしょう?
期待って、裏切られるものじゃないの。
だから、かなはずっと、自分のことを守るようにしてきた。
感情なんて抱かないように。
優しくされても、それが“その場限り”のものだと割り切るように。
(なのに、なんで……聖斗だけ……)
誰かの隣にいたい、なんて。
誰かの“特別”になりたい、なんて。
そんな気持ち、とうに捨てたはずなのに。
翌日の昼休み、かなは学食の隅の席に座って、ひとりでパンをかじっていた。
スマホには、聖斗からの既読スルーのままのメッセージ。
「昨日はありがと。また連絡するね」
それっきり、返事はなかった。
(これが普通。これが正しい)
そう自分に言い聞かせながら、心がモヤモヤしているのを止められなかった。
「……なにしてんの?」
聞き慣れた声が、上から落ちてきた。
見上げると、そこにいたのは——聖斗。
「聖……」
声が出そうになって、咄嗟に飲み込んだ。
「時間ある? ちょっと外、歩かね?」
「……いいけど」
このとき、鼓動が少し速くなっていたことに、かなは気づいていた。
でも、それを顔に出さないのが、彼女の癖だった。
公園のベンチに並んで座りながら、聖斗は煙草に火をつけた。
その横顔を見ながら、かなはなんとなく、言葉を選んでいた。
「昨日、返事なかったね」
「悪い。ちょっと仕事がバタバタしてて」
その言い訳すらも、なぜか本気で信じたくなってしまう自分が、嫌だった。
「ねえ、あなたさ。私のこと、どう思ってるの?」
不意に出たその言葉に、自分でも驚いた。
言うつもりじゃなかった。
こんな質問、いちばんしてはいけないのに。
でも、口に出してしまった。
聖斗は煙を吐いてから、少しだけ視線を向けた。
そして、こう言った。
「かなってさ、人形みたいに見えるけど——ほんとはめちゃくちゃ、人間臭ぇよな」
その言葉に、なぜか胸の奥が熱くなった。
これまで誰にも気づかれなかった、心の底にある「愛されたい」という願望を、
彼だけが、ふとした一言で、見透かしたような気がした。
その日もまた、“大人なドール”の心は揺れた。
聖斗の何気ない一言が、またひとつ、感情のスイッチを押したのだった。