彼女の寝息が隣で静かに続いていた。
そのリズムは、やけに穏やかで——それが、今の自分の心のざわつきと対照的で、痛かった。
夜の2時過ぎ。
高木かなの髪が、布団の端からさらりとこぼれている。
目を閉じている彼女の横顔は、いつになく無防備で、年相応に見えた。
「大人なドール」なんて、勝手にそう呼んでいた。
無表情で、何を考えているか分からない。
セフレ関係を続けているのに、LINEも滅多に来ないし、甘えられることもなかった。
──だけど、あの夜。
「やさしいね」と言われて、はじめて知った。
この女は、愛を欲しがっていた。
触れられることより、抱きしめられることを求めていたんだ、と。
そして今、彼女の寝顔を見ていると——不思議な罪悪感が喉の奥にじっとりと溜まっていく。
(……俺、何やってんだろ)
視線が、スマホに滑った。
画面には、本命の彼女・
【今日ありがとう! 聖斗といるとほんと落ち着く~♡】
【お昼一緒に食べたパン、また今度買いに行こ!】
やわらかい言葉。
どこまでも優しい彼女。
浮気なんて、絶対にしないし、どんなときも信じてくれる。
……最低なのは、俺のほうだ。
浮気。それも、一回だけじゃない。
高木かなとは、もう何度も、何度も身体を重ねている。
(でも、それだけじゃ……もう説明つかない)
彼女が泣きそうに笑った日。
「プリン買ってきたよ」と言ったときの、あの表情。
聖斗の心には、深く爪を立てるような違和感が残った。
それは「恋」とも違った。
胸が高鳴るわけじゃない。
一緒にいてもドキドキするわけでもない。
でも、放っておけない。
この女を、ひとりにしたくないと思ってしまう。
やさしくしたのは、罪滅ぼしのつもりだった。
でも気づけば、自分のほうが救われている。
(葵には申し訳ないって思ってる。……でも、それでかなの存在が消えるわけじゃない)
じゃあ、どっちかを選ぶのか?
そう思った瞬間、胃の奥に吐き気が押し寄せた。
翌日、葵とのデート。
快晴の空の下、カフェのテラス席に座った葵は、にこにこといつも通りだった。
「ねえ聖斗、最近ちょっと疲れてない?」
「え?」
「うん、なんとなく、顔が……こう、曇ってる気がする」
どきりとした。
あまりに核心を突かれて、思わずコーヒーをこぼしそうになった。
「……仕事がちょっと立て込んでて」
「ふふ、そっか。頑張りすぎないでね」
ああ、まただ。
このやさしさに、俺は甘えてる。
全部バレても、きっと葵は泣くだけで、責めたりしない。
そんな“いい子”すぎる彼女の存在が、今は皮肉にも、余計に罪を濃くしていた。
そして浮かぶ、かなの無表情な笑顔。
(このままズルズル、二人とも傷つけていくのか)
どちらも選ばないのが、最悪だ。
そうわかっているのに、心はひとつに絞れなかった。
その夜。
L◯NEの通知がひとつ届いた。
差出人は、高木かな。
【今日はやめとく。また今度でいい?】
ただそれだけの文面に、なぜか胸がざわついた。
会わないと、言われただけ。
予定が合わないとか、そういう理由かもしれない。
なのに、急に取り残された気がして、指が震えた。
返信するべきか迷って、でもできなかった。
その夜は、ひとりで酒をあおった。
葵と過ごしたばかりの休日なのに、心は空洞だった。
かなに恋しているわけじゃない。
なのに、離れるのが怖い。
──この感情に、名前をつけられない。
次の日。
仕事終わり、なんとなく足が勝手に動いて、聖斗はかなの家の前に立っていた。
連絡もしていない。
不意打ちの訪問。
それでも、扉の前で立ち止まると、インターホンが押せなかった。
彼女の顔を見るのが、怖かった。
罪悪感で押し潰される気がした。
そしてもうひとつ——
あの無表情の奥に隠された「愛されたい」という光を、今の自分がどう受け止めるべきなのか分からなかった。
インターホンに指を伸ばしかけて、引っ込めて。
しばらく立ち尽くしたあと、ようやく振り返る。
「……会いたいって思ってる時点で、俺、もう……アウトなんだよな」
誰にも届かない独り言だけが、夜風に溶けていった。