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第7話「好きじゃない。でも、嫌いにもなれない。」

 彼女の寝息が隣で静かに続いていた。


 そのリズムは、やけに穏やかで——それが、今の自分の心のざわつきと対照的で、痛かった。




 夜の2時過ぎ。

 高木かなの髪が、布団の端からさらりとこぼれている。

 目を閉じている彼女の横顔は、いつになく無防備で、年相応に見えた。




 「大人なドール」なんて、勝手にそう呼んでいた。


 無表情で、何を考えているか分からない。

 セフレ関係を続けているのに、LINEも滅多に来ないし、甘えられることもなかった。




 ──だけど、あの夜。

 「やさしいね」と言われて、はじめて知った。

 この女は、愛を欲しがっていた。

 触れられることより、抱きしめられることを求めていたんだ、と。




 そして今、彼女の寝顔を見ていると——不思議な罪悪感が喉の奥にじっとりと溜まっていく。




(……俺、何やってんだろ)




 視線が、スマホに滑った。

 画面には、本命の彼女・あおいからのL◯NEが表示されている。




【今日ありがとう! 聖斗といるとほんと落ち着く~♡】


【お昼一緒に食べたパン、また今度買いに行こ!】




 やわらかい言葉。

 どこまでも優しい彼女。

 浮気なんて、絶対にしないし、どんなときも信じてくれる。




 ……最低なのは、俺のほうだ。


 浮気。それも、一回だけじゃない。


 高木かなとは、もう何度も、何度も身体を重ねている。




(でも、それだけじゃ……もう説明つかない)




 彼女が泣きそうに笑った日。

 「プリン買ってきたよ」と言ったときの、あの表情。


 聖斗の心には、深く爪を立てるような違和感が残った。




 それは「恋」とも違った。


 胸が高鳴るわけじゃない。

 一緒にいてもドキドキするわけでもない。


 でも、放っておけない。


 この女を、ひとりにしたくないと思ってしまう。




 やさしくしたのは、罪滅ぼしのつもりだった。

 でも気づけば、自分のほうが救われている。




(葵には申し訳ないって思ってる。……でも、それでかなの存在が消えるわけじゃない)




 じゃあ、どっちかを選ぶのか?


 そう思った瞬間、胃の奥に吐き気が押し寄せた。




 翌日、葵とのデート。


 快晴の空の下、カフェのテラス席に座った葵は、にこにこといつも通りだった。




「ねえ聖斗、最近ちょっと疲れてない?」


「え?」


「うん、なんとなく、顔が……こう、曇ってる気がする」




 どきりとした。


 あまりに核心を突かれて、思わずコーヒーをこぼしそうになった。




「……仕事がちょっと立て込んでて」


「ふふ、そっか。頑張りすぎないでね」




 ああ、まただ。

 このやさしさに、俺は甘えてる。


 全部バレても、きっと葵は泣くだけで、責めたりしない。


 そんな“いい子”すぎる彼女の存在が、今は皮肉にも、余計に罪を濃くしていた。




 そして浮かぶ、かなの無表情な笑顔。




(このままズルズル、二人とも傷つけていくのか)




 どちらも選ばないのが、最悪だ。

 そうわかっているのに、心はひとつに絞れなかった。





 その夜。

 L◯NEの通知がひとつ届いた。




 差出人は、高木かな。




【今日はやめとく。また今度でいい?】




 ただそれだけの文面に、なぜか胸がざわついた。


 会わないと、言われただけ。

 予定が合わないとか、そういう理由かもしれない。


 なのに、急に取り残された気がして、指が震えた。




 返信するべきか迷って、でもできなかった。


 その夜は、ひとりで酒をあおった。

 葵と過ごしたばかりの休日なのに、心は空洞だった。




 かなに恋しているわけじゃない。

 なのに、離れるのが怖い。




 ──この感情に、名前をつけられない。





 次の日。

 仕事終わり、なんとなく足が勝手に動いて、聖斗はかなの家の前に立っていた。


 連絡もしていない。

 不意打ちの訪問。




 それでも、扉の前で立ち止まると、インターホンが押せなかった。




 彼女の顔を見るのが、怖かった。

 罪悪感で押し潰される気がした。




 そしてもうひとつ——


 あの無表情の奥に隠された「愛されたい」という光を、今の自分がどう受け止めるべきなのか分からなかった。




 インターホンに指を伸ばしかけて、引っ込めて。

 しばらく立ち尽くしたあと、ようやく振り返る。




「……会いたいって思ってる時点で、俺、もう……アウトなんだよな」




 誰にも届かない独り言だけが、夜風に溶けていった。

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