目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第8話 「私はただ、あなたのそばにいたかっただけ」

 【今日はやめとく。また今度でいい?】


 そう送信して、スマホを伏せた。


 それから、部屋の中にしんとした静寂が落ちる。


 エアコンの音だけが、やけにうるさく感じられた。




(……ああ、バカみたい)




 自分で送ったくせに、胸の中がきゅうっと痛む。

 どうして、こんなに寂しいんだろう。

 ほんの数日前までは、何人もの男たちとそうやって割り切っていた。

 都合のいいときに呼んで、終わればバイバイ。

 その繰り返し。




 心なんて、要らなかった。

 ただ抱かれることで、自分の存在を確認していた。

 誰かに抱かれていないと、自分の体温すら感じられなかった。




(でも……あなたは、違った)




 早川聖斗。


 彼女持ちで、優柔不断で、優しさが罪な男。

 だけど、私の「ポーカーフェイス」の奥にあるものを、無自覚にすくい上げてくれた人。




 ──たった一言。


 「プリン、好きだったでしょ?」




 その言葉が、今も脳内で繰り返される。




 どうでもいい他人が、そんなこと言うわけない。

 私の“好き”なんて、誰も覚えてない。

 家族でさえ、知らない。

 母は男とばかりいて、私のことなんか見てなかった。

 誕生日にケーキが出たことも、覚えてない。




 それでも、あの人は——

 私の“ささやかな好き”を、覚えていた。




 それだけのことで、世界が変わった。





 距離を置いたのは、ただ怖かったからだ。


 「感情を持ってしまった」自分に。

 そして、それを彼に知られたら壊れてしまう気がして。




 今までのセフレとは違う。


 あの人にだけは、「セックスのための身体」になりたくなかった。


 そのくせ、私にはそれしか渡せるものがない。




 やっぱり私は、誰かを好きになる資格なんて、最初からないのかもしれない。




(でも、それでも……)




 スマホを開いて、履歴を見返す。

 聖斗とのL◯NE。通話。

 彼が送ってきた、他愛ない「今日雨降ってるよ」みたいなメッセージ。




 そのひとつひとつが、宝物みたいで。




 好き、なんて言えない。

 言葉にしたら壊れる。




 でも、会いたい。

 触れてほしいんじゃなくて、隣にいてほしい。

 そう思うたびに、どんどん呼吸が浅くなる。




 カーテンを開けて、窓の外を見る。

 ビルの隙間に沈んでいく夕日が、街を赤く染めていた。




 そういえば、あの人が来た日の夜も、こんな夕焼けだった。




 何も言わずにプリンを渡して、気まずそうに笑って。


 「……なんか、ごめん。俺、余計なことしたかなって」


 そんなことを言う聖斗を見て、どうしようもなく泣きたくなった。




 ああ、この人、ちゃんと私を見てくれてる。

 私を“モノ”としてじゃなくて、

 “誰か”として、接してくれてる——




 その事実が、何より苦しかった。




(だって、私はそんな風に扱われる価値なんかないから)




 母親からも、元彼からも、ろくに優しくされたことなんてなかった。

 「お前みたいな女は、誰でもいいんだよ」

 そう吐き捨てられても、反論する力もなかった。




 なのに。

 この人だけは、そうじゃなかった。





 夜、スマホが光る。


 L◯NEの通知。


 差出人は、早川聖斗。




 ただ一言。


 【今日、ちょっとだけ会えない?】




 たったそれだけで、胸が熱くなる。


 “ちょっとだけ”でいい。

 この人に会えるなら、それでいいと思ってしまう。




 ──でも。




 会えばきっと、また弱くなる。

 抱かれたくなって、抱いてほしくなくなる。

 わけがわからなくなる。




 それでも——

 私はもう、とっくにこの人に依存してる。




(ああ、どうしよう。やばいな、私)




 ソファにもたれかかって、ぼそりとつぶやいた。


 初めて、自分の感情をちゃんと認めた気がした。




「私、たぶん、……ずっと寂しかったんだな」




 その言葉を口にした瞬間、涙がすっと落ちた。


 驚いた。

 泣ける自分が、まだどこかに残ってたんだ。




 スマホを握りしめたまま、再びL◯NE画面を見つめる。




【今日、ちょっとだけ会えない?】




 私が傷つかないように。

 あの人なりの気遣いだったのかもしれない。

 それが、逆に痛い。




 でも。




【うん。少しなら】




 私は、たったそれだけの言葉を送信した。


 心は、ぐちゃぐちゃだった。


 でも、ただ一つだけ——




 あなたのそばにいたい、その想いだけは、もう嘘じゃなかった。



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?