「……決められない。」
聖斗は消え入りそうな声で呟いた。
店内に漂うコーヒーとキャラメルの匂いは、どこか懐かしい。
三人が向かい合うテーブルの上には、各々が頼んだドリンクと、見た目にもかわいいガラスの器に入った——プリン。
「……で、どういうことか説明して?」
葵の声は静かだった。静かだけど、氷みたいに冷たい。
グラスを持つ手が小刻みに震えているのは怒りのせいか、それとも——裏切られた痛みのせいか。
「ごめん、葵……」
聖斗の声はかすれていた。後悔とため息を含んだ言葉。でも、それ以上のことは言えない。
隣に座るかなは、何も言わない。言えない。
「謝ってるけどさ、それだけ? ねえ、“彼女”の前で浮気してた自覚、ある?」
葵の瞳が、燃えるような怒りで染まる。
「ううん、違うよね。“浮気相手”がすぐそこにいるって気づいてないのかな? それとも、ほんとに“悪気ない”とか思ってる?」
葵の視線が、かなに突き刺さる。
かなは視線を伏せ、ただ俯く。何も言えない。いや、言いたい言葉は胸の奥にたくさんある。でも、口から出てこない。
「すみません」
ただ、それだけを呟いた。小さな声で。
葵の手が、テーブルの上にあったスプーンを握りしめる。
「ははっ、ほんとにさ。謝って済むと思ってるんだ……。でも、あんた、他の人にもこうやって“謝って”済ませてきたんでしょ?」
ぐさり。
言葉の刃が、かなの胸を深く切り裂く。
それでも、かなは何も言わない。感情を見せたら、負ける気がした。そんなふうに育ってきたから。
「私さ、聖斗のこと、好きだったんだよ? 本気で。全部見せて、支えて、好きになってもらえるように努力して……でもさ。そういうのより、“黙ってる女”のほうが魅力的ってわけ?」
葵の声が少し震えた。その震えには、確かな“悔しさ”があった。
「……葵、やめよう」
「うるさいっ!!」
聖斗が止めようとした言葉は、葵の叫びでかき消された。
その瞬間——
グシャッ。
テーブルに置かれていたプリンが、スプーンで無惨に潰される。
とろけるように甘かったプリンの中身が、器の縁からゆっくりと溢れていく。まるで、葵の感情の限界みたいに。
「こんな、甘くて、でもほろ苦いだけの関係なんて……最低だよね」
その声は、もう怒りよりも涙に近かった。
「……私、純粋な“いい子”を演じてた。聖斗に、好きになってほしかったから。でも、あんたみたいな、何も言わないくせに惹かれる女がいるなら、なんなの、努力なんて無駄じゃん……!」
葵は泣いていた。強がっていたその仮面が、ようやく外れた。
一方で、かなの仮面は、まだそのままだった。
ただ、ひとつだけ——テーブルに落ちたスプーンを、彼女の震える指先がそっと拾い上げる。その仕草は、どこか儚げで。
「……私は、何も言えなかった。ずっと。誰に対しても」
その声は、消え入りそうだった。でも、確かに届いた。
「怒られるのが、怖くて。捨てられるのが、怖くて。言葉にしたら、全部壊れる気がして……」
「それ、被害者ぶってるだけじゃない?」
葵が睨む。
「いい子に見せたくて、努力して、そうやって“選ばれた”くて必死だった私より、ただ黙ってるだけで“守られた気になってる”あんたのほうがよっぽどズルいよ」
ズルい——。
その言葉が、かなの胸に突き刺さった。だけど、否定はできなかった。
「……そうだね、ズルいと思う」
素直にそう言った。涙は流れない。でも、心は震えていた。
「でも、私は……聖斗の優しさに、救われた。たった一言が、心の中でずっと響いてて……」
「じゃあ、なに? 恋? 愛? それとも、“依存”?」
葵の声は棘のようだった。
「……わからない。でも、会いたくて、どうしようもなかった」
ふいに、かなが聖斗を見た。その目には、ようやく“感情”が浮かんでいた。淡くて、壊れそうで、でも確かにそこにある何か。
「葵……ごめん。俺、やっぱり……」
聖斗の言葉は、最後まで言えなかった。彼の心にも、答えがまだ見つかっていないから。
静寂が降りる。プリンの甘い香りだけが、空間に残っていた。
崩れたプリン。
崩れた仮面。
崩れた関係。
でも、その先に——何かが、変わり始めている。