喫茶店の入口にぶらさがる鈴が、からん、と控えめに鳴った。
2回目の対面だった。
午後の陽が斜めに差し込む店内は、木目のテーブルとレトロなランプで統一されていて、どこか懐かしい空気を孕んでいた。聖斗は、その空気の中で、重く張りつめた沈黙に喉を詰まらせていた。
かなの向かい側には、葵がいた。
彼女の前には、小ぶりなプリンがちょこんと置かれていた。表面にはしっかりと焼き目がついていて、横に小さな銀のスプーンが添えられている。可愛らしい見た目とは裏腹に、そこに流れる空気は、甘さとは正反対のものだった。
「……で、いつからなの?」
静かな問いかけだった。でも、その声には刃があった。笑っているようで、目が笑っていない——そう、まるで舞台役者が観客を騙すような、完璧に計算された仮面のように。
「……」
かなは、何も言わなかった。いや、言えなかった。手のひらの上で指を組み、ただ目の前の木目をじっと見つめている。顔色は薄く、まるで血の気が引いた人形のようだった。
「かなちゃんさぁ、ずっと前から知ってたんでしょ? 聖斗が私と付き合ってるって」
葵の声が、じわじわと熱を帯び始める。彼女のスプーンが、プリンにゆっくりと突き立てられた。ぷるんと震えたプリンの上に、深いスプーンの跡がつく。
「それでも、知らないフリして……。ああ、そうか。いい子ぶってるのが得意なんだもんね。いつも、ちょっと伏し目がちで、無口で、感情出さなくて、でも男ウケする顔だけして……! ホント、あざといよね、そういうとこ!」
声が高ぶった瞬間、スプーンがプリンを突き刺したままぐしゃりと潰した。
プリンの中から、とろりとカラメルソースが溢れる。それはまるで、仮面の下から覗いた黒い本音のようだった。
「葵、やめろ……」
聖斗の声は弱々しかった。
彼は何も言い返せない。どちらの味方をしても、もう元には戻らないことを、本能で理解していたから。
かなは、ずっと下を向いたままだった。葵の言葉はナイフのように鋭く、でも彼女の顔には一切の怒りも、悲しみも、悔しさも浮かんでいなかった。
「ねえ、なんで何も言い返さないの? 黙ってれば許されるって思ってる? それとも、かわいそうな女の子って演じてるの?」
葵の声は震えていた。怒りというより、悔しさと哀しみが混じっていた。
「……ごめんなさい」
かなの唇が、ようやく開いた。
でも、その声は、耳をすませないと聞こえないくらい小さかった。潰れたプリンのように、ぽたぽたと静かにこぼれるだけの、申し訳なさだけでできた言葉。
「……なんで、謝んの?」
葵の声がかすれる。
「謝るくらいなら、最初から奪わないでよ……! 私は、ずっと信じてたのに……!」
葵の目から、涙が一粒こぼれた。
かなの目が、そこでやっと少しだけ動いた。ほんの少しだけ、葵の涙を見たその瞬間に。
——わたしは、誰かを泣かせたことがあるんだ。
その実感が、今さらのように胸の奥にじわりと染みていく。
「私……こんなに努力してたんだよ……? 聖斗に好かれるように、純粋な子に見えるように、バカなフリもした。怒らないように、笑顔も絶やさないように……なのに……かなちゃんみたいな子が、ただ黙ってるだけで、可哀想ぶってるだけで、勝っちゃうの? そんなの、ズルいよ……!」
葵の声が、喫茶店の中でひときわ高く響いた。
数人の客が振り返る。だけど、三人の世界には誰も入り込めない。
「……ズルい……なんて、思ったことないよ……」
かなの声が、か細く返った。
「ただ、どうしてかわからなかったの。誰かに必要とされるってことが……どんなものなのか。だから、好きにならないようにしてた。誰のことも……聖斗くんのことも……」
そう言って、かなはテーブルの上に視線を落とした。
潰れたプリン。そのほろ苦さが、口の中に広がっているようだった。
彼女は、自分の感情が“ある”ことに、まだ慣れていなかった。感情があるのに、どうやって表現すればいいのかを知らなかった。だから、ただ謝ることしかできなかった。
葵は、もう泣いていた。
ぐしゃぐしゃになった顔のまま、椅子を乱暴に引いて立ち上がる。
「……最低だよ、二人とも」
その言葉を最後に、彼女は喫茶店を飛び出していった。扉の鈴がからん、と鳴る。その音が、無言の余韻を残して店内に揺れた。
沈黙。
その中で、聖斗が、ゆっくりとかなに顔を向けた。
「……かな」
「……ごめん、ほんとに……」
彼女の声は、泣き声ではなかった。ただ静かに、心の奥の奥を搾り出すような響きだった。
甘いはずだったプリンの味が、まるでカラメルの焦げのように、彼らの舌にほろ苦さだけを残した。