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第12話「決断のその先で、誰かが泣いた」

雨が降っていた。

六月の終わり、都会の雑踏の中で降る雨は、すべてを洗い流すには少し生ぬるくて。むしろ、濁ったままの心を余計に蒸らしてくる。


聖斗は立ち尽くしていた。

ひとりじゃない。ただ、ひとりでいるような空気の中で。


「……彼女、泣いてたね」


ぽつりと、かなが呟いた。

長い睫毛の下からこぼれるその声は、まるで他人事みたいに淡々としていて、でもどこか震えていた。


聖斗は答えなかった。答えられなかった。

葵のあの顔が、耳の奥で泣きじゃくる声が、脳にこびりついていた。


――なんで。どうしてこんなことに。


「……俺、ズルかったな」


やっと絞り出した言葉は、自分でも嫌になるほど、情けなかった。


「最初から、何も選ばなきゃいけないなんて思ってなかった。全部、自分だけが心地よい場所に逃げ込んでただけだった」


セフレという関係。

それは責任を取らずに甘えるには、都合のいい居場所だった。


でも、かなが笑った。泣いた。拗ねた。

ポーカーフェイスの仮面の下で、確かに揺れていた。そういう人間の表情を、彼は見てしまった。


「俺……今日で、全部終わらせる」


そう言ったとき、かなは少しだけ目を見開いた。でも、すぐに――いつもの、無表情に戻った。


「……そう。そうだよね。私、あなたにとっては“便利な人間”だったもんね」


「違うんだ」


「違くないよ。私、セックスしてれば誰かに必要とされる気がしてた。誰かに求められた気になってた。けど、結局さ、みんな私の身体しか見てなかったんだよね」


かなの口調は変わらない。でも、その言葉の棘は、確かに心の奥を刺してきた。


「……けどさ」


そこで、少し間を置いて、彼女は続けた。


「聖斗だけは、ちょっと違った。たぶん――ちょっとだけ、期待しちゃったんだ。私が“女”じゃなくて、“人間”として見られる日が来るんじゃないかって」


それは、かなの弱さだった。

いや、“弱さ”なんて言葉では済ませられない、幼い頃から積み上げられた“空虚”だった。


――母親は男にかまけて家にいなかった。

――父親はいなかった。

――誰かに褒められた記憶も、抱きしめられた記憶もない。


だから、誰かと身体を重ねることで、「私はここにいる」と思いたかった。


「……ごめん」


聖斗の謝罪は、本当に心からだった。でも、その言葉では何も補えなかった。


「……謝らなくていいよ」


かなはふっと笑った。乾いた笑みだった。


「聖斗が謝るとこじゃない。私が、ちゃんと誰かを信じる勇気を持たなかっただけ」


言葉とは裏腹に、彼女の拳は小さく震えていた。

それを見たとき、聖斗は気づいた。


彼女は、強がっているだけだ。本当はずっと、誰かに救われたかっただけなんだ。


葵の涙。

かなの微笑み。


どちらも、彼の心に刺さって抜けなかった。

でも、どちらかを選ぶことは、どちらかを深く傷つけることだった。


だからこそ――


「一回、全部やめようと思う。かなとも、葵とも。一人で、ちゃんと考えたい。俺自身のことも、誰かを想うってことも、こんな中途半端な気持ちのままで進むの、もう無理だって思った」


その言葉を聞いて、かなは一瞬だけ眉を寄せた。


「……それって、私を捨てるってこと?」


かなの目がかすかに揺れた。


「違う。ただ……今は、誰かを“選ぶ”とか“守る”とか、そういう資格、俺にはないんだと思う。ちゃんと自分が何を望んでるのか、わかってないまま、誰かと関係を続けるのは違うって思った」


正論かもしれない。でも、ひどく冷たい現実だった。

かなは何も言わず、ただ静かに頷いた。


そして、ゆっくりと聖斗に背を向ける。


「わかった。……じゃあ、またね」


そう言って去っていくかなの背中に、聖斗は声をかけることができなかった。

雨が、より一層強くなる。


すべての音をかき消すように。


かなはその夜、自分の部屋でひとり、ひざを抱えていた。

スマホの画面は暗いまま。通知は何も来ない。


だけど、彼女は泣かなかった。


――私は、まだ平気。

そう思い込もうとしていた。


でも、胸の奥では、何かがこぼれそうだった。

それが「悲しみ」なのか、「愛」なのか、「孤独」なのかは、まだ分からない。


けれど、それでも彼女の中で、確かに何かが変わり始めていた。





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