雨が降っていた。
六月の終わり、都会の雑踏の中で降る雨は、すべてを洗い流すには少し生ぬるくて。むしろ、濁ったままの心を余計に蒸らしてくる。
聖斗は立ち尽くしていた。
ひとりじゃない。ただ、ひとりでいるような空気の中で。
「……彼女、泣いてたね」
ぽつりと、かなが呟いた。
長い睫毛の下からこぼれるその声は、まるで他人事みたいに淡々としていて、でもどこか震えていた。
聖斗は答えなかった。答えられなかった。
葵のあの顔が、耳の奥で泣きじゃくる声が、脳にこびりついていた。
――なんで。どうしてこんなことに。
「……俺、ズルかったな」
やっと絞り出した言葉は、自分でも嫌になるほど、情けなかった。
「最初から、何も選ばなきゃいけないなんて思ってなかった。全部、自分だけが心地よい場所に逃げ込んでただけだった」
セフレという関係。
それは責任を取らずに甘えるには、都合のいい居場所だった。
でも、かなが笑った。泣いた。拗ねた。
ポーカーフェイスの仮面の下で、確かに揺れていた。そういう人間の表情を、彼は見てしまった。
「俺……今日で、全部終わらせる」
そう言ったとき、かなは少しだけ目を見開いた。でも、すぐに――いつもの、無表情に戻った。
「……そう。そうだよね。私、あなたにとっては“便利な人間”だったもんね」
「違うんだ」
「違くないよ。私、セックスしてれば誰かに必要とされる気がしてた。誰かに求められた気になってた。けど、結局さ、みんな私の身体しか見てなかったんだよね」
かなの口調は変わらない。でも、その言葉の棘は、確かに心の奥を刺してきた。
「……けどさ」
そこで、少し間を置いて、彼女は続けた。
「聖斗だけは、ちょっと違った。たぶん――ちょっとだけ、期待しちゃったんだ。私が“女”じゃなくて、“人間”として見られる日が来るんじゃないかって」
それは、かなの弱さだった。
いや、“弱さ”なんて言葉では済ませられない、幼い頃から積み上げられた“空虚”だった。
――母親は男にかまけて家にいなかった。
――父親はいなかった。
――誰かに褒められた記憶も、抱きしめられた記憶もない。
だから、誰かと身体を重ねることで、「私はここにいる」と思いたかった。
「……ごめん」
聖斗の謝罪は、本当に心からだった。でも、その言葉では何も補えなかった。
「……謝らなくていいよ」
かなはふっと笑った。乾いた笑みだった。
「聖斗が謝るとこじゃない。私が、ちゃんと誰かを信じる勇気を持たなかっただけ」
言葉とは裏腹に、彼女の拳は小さく震えていた。
それを見たとき、聖斗は気づいた。
彼女は、強がっているだけだ。本当はずっと、誰かに救われたかっただけなんだ。
葵の涙。
かなの微笑み。
どちらも、彼の心に刺さって抜けなかった。
でも、どちらかを選ぶことは、どちらかを深く傷つけることだった。
だからこそ――
「一回、全部やめようと思う。かなとも、葵とも。一人で、ちゃんと考えたい。俺自身のことも、誰かを想うってことも、こんな中途半端な気持ちのままで進むの、もう無理だって思った」
その言葉を聞いて、かなは一瞬だけ眉を寄せた。
「……それって、私を捨てるってこと?」
かなの目がかすかに揺れた。
「違う。ただ……今は、誰かを“選ぶ”とか“守る”とか、そういう資格、俺にはないんだと思う。ちゃんと自分が何を望んでるのか、わかってないまま、誰かと関係を続けるのは違うって思った」
正論かもしれない。でも、ひどく冷たい現実だった。
かなは何も言わず、ただ静かに頷いた。
そして、ゆっくりと聖斗に背を向ける。
「わかった。……じゃあ、またね」
そう言って去っていくかなの背中に、聖斗は声をかけることができなかった。
雨が、より一層強くなる。
すべての音をかき消すように。
かなはその夜、自分の部屋でひとり、ひざを抱えていた。
スマホの画面は暗いまま。通知は何も来ない。
だけど、彼女は泣かなかった。
――私は、まだ平気。
そう思い込もうとしていた。
でも、胸の奥では、何かがこぼれそうだった。
それが「悲しみ」なのか、「愛」なのか、「孤独」なのかは、まだ分からない。
けれど、それでも彼女の中で、確かに何かが変わり始めていた。