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第5話 離婚届

  以来、夫との時間を減らすように、夜勤明けは女性用休憩室で仮眠した。ドアの向こうは事務所で、賑やかな人の気配の中に井浦和寿がいると思うと癒された。そんな夫は私の異変に無関心で『なぜ帰りが遅いんだ』と問い正すこともなく、やはりオンラインゲームに夢中だった。朋美は、夫のテーブルに置いてあった、真新しいアルバイトの求人情報誌を手に取ると、怒りと共にゴミ箱へ投げ捨てた。数週間か夫を避け続けた末、朋美は夫との未来を諦めた。


「離婚してください」


 張り詰めた静けさの中、窓の外を少年たちが笑って通り過ぎた。夫は、観念したようにボールペンを握ると震える指で離婚届にサインをした。朋美が準備した印鑑を持ち、力なく朱肉に置いた。朋美はその指先をグッと握ると、この10年の結婚生活に幕を引くように印鑑を押し付けた。朱肉から赤いインクが血のように溢れ出した。10年の結婚生活に幕を引くと、朋美は空虚な胸を抱え、初夏の風の中、新たな一歩を思い描いた。


 けれど、離婚届に署名したものの、朋美は住む場所もなく、いまだに夫と暮らしている。夫のオンラインゲームの音が響くリビングで、朋美は目を伏せた。毎日、息が詰まりそうだった。


 朋美は、印鑑を捺した離婚届を持ち歩いていた。提出しなかったのは、10年間の結婚生活への未練でも、夫に対する情でもなかった。ただ単純に、次に住む場所がなかった。貯金を持てば良かったと悔やんだ。けれど、朋美の稼ぎを当てにした夫を受け入れられなくなっていた。また、自宅のにおいを身体が拒否するようになった。異臭が耐えがたかった。玄関の扉を開けると異臭を感じ、夫のオンラインゲームの音に顔を顰めた。離婚届を握りながら、朋美は未来を模索した。


 夫との息苦しい同居の中、朋美の心の拠り所は、井浦和寿の存在だった。運行管理表の計算が遅い時は、空のペットボトルで軽く頭を叩きながらも手伝ってくれた。深夜、釣り銭の両替時に『頑張って下さい』と言葉を掛け、事務所をふり仰げば窓辺に立ち朋美を見送った。それが嬉しく、朋美は必要もないのに手袋を買い、両替に寄った。

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