「今日は、逆さ暦の19日。裏盆で家族を迎え入れる日なんだ」
さも当たり前のように語られた言葉の意味を、颯希はすぐに飲み込む事が出来なかった。
それに、もしその、逆さ暦とかいうものが颯希の想像している通りのものなのだとしたら、その日に「家族を迎え入れる」っていうのは変なんじゃないだろうか。
裏盆で先祖を送り出し、逆火で迎えるなら――この村、常に幽霊が家にいるってこと?
「うわっ、こわっ! やだやだ、常に家の中に幽霊が居るってこと!?」
「案外賢いな、颯希」
「案外ってなに! てか、下の名前で呼ばないでよ!」
「子供の頃はそうだったろ」
「今は違うの!」
颯希が怒ると、綜真はくしゃっと笑った。笑い声は出ていないけれど、いきなり顔をくしゃっと潰して笑ったその顔は小さな子供みたいで、さっきまでの無愛想がどこに行っちゃったのかとびっくりしてしまった。
やっぱイケメンってずるいわー。颯希は、腹を抱えて笑っている綜真の足を無言で踏み潰してやる。
顔をくしゃくしゃにしててもイケメンはイケメンなのだから、生まれた瞬間に決まっているヒエラルキーに歯を食いしばりたくなる。
「あ、そういえば。今日昼間に多分アンタのお母さんにハンカチ借りたの」
「ハンカチ?」
「そう。ちょっと小道に入ったら葉っぱで足を切っちゃって。井戸で足洗って、そのハンカチで拭かせてもらったのよ」
「そうだったんだ。黒いやつだろ? 返さなくていいよ。何枚もあるし」
「いや流石にそんな訳にもいかないっしょ。血もついてないし、ちゃんと返すよ」
「いや、いいよ。ついてなくても、血を拭いたってだけできっと、戻ってきても処分されるだけだし」
「あー……」
そういえば、赤はよくないってなんか言ってたな。
綜真の母だろうおばさんの言葉を思い返して、何となくまたお腹の中がもやっとするような違和感が湧き上がる。
今年は印花が出た縁起の良い年だから、村も綺麗にしておかないといけない――そんなふうなことを言っていたと思う。
話していた内容は単純だったが、ブツブツと繰り返し呟いているおばさんの様子は少し変だった。あの時は村の雰囲気にやられて「そんなもんか」とか思っていたけれど、改めて思い返すとおかしい事が多すぎる。
赤が良くない。それだけの事で、ほんのちょっとの血の出ている傷を井戸で洗わせ、血はついていないけれど血の流れた足を拭ったハンカチを処分する、だなんて。
だから、颯希もあんなにジロジロと見られていたのだろうか?
「まぁ、気にしないでいいよ。俺も昔から変な風習だなって思ってる」
「……うん」
もし、この目が原因であんなにジロジロと見られているのであれば、先に教えておいて欲しかった。母はそんな事は少しも言っていなかったし、祖父だって「大きくなって」とは言っていたがそれ以上は言わなかったし。
なんなんだ、まったく。
はぁー、と溜め息を吐き出すと、綜真と話している間はまるで気にならなかった蝉の声が再び耳に入ってきたような気がした。実際にはずっと鳴いていたのに、それまで全然気付かなかったのかもしれない。
村の雰囲気がおかしいと、なんだか心もズッシリ来てしまうのだろうか。折角の夏休みなのに、心までじっとりしてしまいそうな感じだ。
「あぁ、そうだ。あのさ、アンタってお姉さんかお兄さん、居る?」
「……なんで?」
「いや、足を洗いに行かせてもらった時にすごく綺麗な、真っ白い人が居たような気がして」
流石にあれはおばけじゃないよね?
話しながらちょっとゾッとしてしまって、颯希はスカートを握りしめながら綜真を伺った。
颯希としては思い出すのも恐ろしい話だったというのに、綜真と来たらまたきょとんとした顔をしている。なんなんだその顔は。イラッと来てもう一度足を踏もうとすると、今度はヒラリと避けられた。
腹立つヤツだ。きっといいのは顔だけだろう。
「いるよ。兄だ」
「そっか、やっぱり家の人なんだ! 凄い綺麗な人だったから、そうかなーって思ってた」
「……兄はあんまり身体が強くなくて。だから外には出ないんだ」
「美人薄命ってやつ?」
「……印花は人を選ぶんだ。今年は兄に咲いたから、多分、会いに行くなら明日明後日のうちしかないと思う」
シルシカ。綜真の言った言葉に「あ」と声を出してしまう。そう、それだ。おばさんが言っていた花の名前。
『今年はね、印花が出た縁起の良い年なんよ』
おばさんはそう言って、それはそれは嬉しそうな顔をしていた。印花が出た、という意味は颯希にはよくわからなかったけれど、その言葉を聞いて「きっと良いことがあったんだろうなぁ」とだけは思っていたヤツだ。
思わずジッと綜真を見ると、綜真はなんだか口をもにょもにょとさせてから「来る?」と言った。どこに? なんて野暮な事は聞かない。
庭では未だに大人たちが楽しそうに酒盛りをしているし、お香の匂いは変わらず家の中からしてくる。棺があるわけでもないし、綜真も一緒なら少し家を離れるくらいは大丈夫だろう。
ちらっと家の中を覗いた颯希は、ポケットから取り出した携帯で母にメッセージを一言送ってから、綜真と一緒に夜の村を歩き出した。
夜の帰刻村は、昼間のソレより酷く、不気味だ。
太陽がないせいでよりじっとりとしている気がするし、所々にある街灯はチカチカと危なげに明滅していて心許ない。せめて家の明かりがあればいいのに、ほとんどの村人は葬式に参加しているのか家の明かりもほとんど無かった。
時折、家の門扉の影に犬小屋があるのを見かけてはちょっと安心してしまう。そのくらいには薄暗い。
颯希の不安を察したのか、綜真は自分も携帯を取り出すとライトを点けて周囲を照らしてくれた。ライトに照らされてハッキリ見えるようになった麻呂眉のある黒い毛の犬に思わず笑み崩れて、颯希も自分の携帯のライトをつける。
2つのライトが点いているだけで、さっきよりずっと心強い。
眠っていた犬を起こしてしまったのは申し訳ないけれど、田舎道を歩くなら懐中電灯は必須のようだ。
「ついたよ」
「おぉ……夜に見るとなんか余計に、迫力」
そうやって少し歩いてようやく辿り着いた月城の屋敷は、昼間に見るよりもずっと荘厳に見えた。昼間は気付かなかったが、多分金かなにかが屋敷の所々に使われているのだろう。派手に見えるが、いやらしくはない。
開けっ放しで意味を成していない門扉を潜って敷地に入ると、ここにも黒く焦げた土があった。やはりここでも逆火をしたのだろうと思って、この村では裏盆は普通の事なのだと改めて再確認する。
しかし、なんだかこの屋敷の雰囲気も少し「普通」ではない。恐らくは菊だろうが、土に植わっているのではなくただ茎を突き刺しているだけなような花壇があるし、今気づいたが庭の入口にある灯籠は屋根が土台にある。
これも「さかさま」の風習なのだろうか? 気味が悪い。
「おかえりなさいまし、若様」
「うん。
「十燈様でしたら、先ほど水浴びを終えられまして」
お風呂じゃないんだ。出迎えた使用人らしき背中の曲がった老爺が、当たり前のように「水浴び」と言ったものだから、颯希は少々驚いてしまった。
確かに今は夏だし、お湯じゃなくてもいいかもしれない。けれど、だからって水浴びじゃあ身体が冷えちゃうんじゃないだろうか。これもさかさま? 意味がわからない。
「若様、そちらは赤目の……」
「俺の客だ。無駄口を叩くな」
「へ、へぇ……しかし、今は迎え灯籠の出る頃です。赤色を屋敷に入れるのは……」
「聞こえなかったのか?」
ピリッと空気を冷やすような綜真の声に、「赤目」と言われて怒るよりも先に颯希はちょっと怯んでしまった。
赤目と言われればイラッとはするけれど、赤はダメだとは聞いていたしまさかこんなに綜真が怒るとは。颯希はなんだか屋敷にあげてもらうのが申し訳ないような気持ちになってしまって、靴を脱ぐ足を無言で止めた。
居心地が悪い。
「下がれ、真下。綜真の客だぞ」
背中の曲がったおじいさんとガタイのいい若者の無言のピリつき。そんなものを味わっていたくなくて今すぐ帰るかを思案し始めた時、二人を宥めるように第三の声が割り込んできた。
微かに掠れた、大人の男の人の声。思わず顔を上げたら廊下の向こうに見えた白い人影に、颯希はパッと顔を綻ばせた。