「颯希、起きなさい。颯希」
古い木の雨戸が開かれ、朝陽が部屋を満たしていくのをぼんやり眺めながら、颯希はまだ半分眠っている頭を起こした。
なんとも不思議な目覚めだ。昨日あった事が全部夢だったんじゃないかと思ってしまうくらいに、頭の中がぽやぽやしている。
昨日は葬式のあとに月城のお屋敷に行って、綜真の兄だという
井戸で足を洗っている時にちらりと見た白い姿は、まさしく十燈その人だったのだ。あの時なんで彼が颯希を無視したのかという疑問も、本人に会ってみればあっという間に解決した。
十燈は目が見えなかったのだ。
完全に見えないのではなく、光の強弱や強い色なんかはわかるらしいが、薄暗い時間や場所だと人が居てもわからないらしい。昼間に颯希が井戸に行った時には、外の明るさと屋敷の暗さの明かりの差で外がよく見えなかった、と、十燈は謝罪をしてくれた。
家の中であれば普通に歩けるが、外に出る事はできないのだ、と、十燈本人が教えてくれた。
その話だって、実は颯希は話半分に聞いていた。何しろ十燈は美しくて、まるでファンタジー小説の中に出てくる森の人のような面立ちをしていたのだ。真っ白な髪に、薄い青の瞳。白い着流しに藍色の羽織を着ている身体は細いが慎重は綜真に負けないくらいにあって、そのアンバランスさにもまたちょっとドキドキした。
颯希は、こんなにも綺麗な人を今まで見たことがなかったのだ。
しかし残念なことに、十燈とはまともな会話は出来なかった。
颯希の事を「赤目」と呼んだ使用人を注意はしたものの、十燈と綜真の間にも会話はほぼなく、十燈はすぐに屋敷の奥へ戻っていった。綜真が一声呼び止めたが、十燈は綜真に向けて少しだけ頭を下げて、それだけ。
なんとも不思議な兄弟関係だ。布団の上でごろりと寝返りを打って昨夜のことを考える。今日もまた、陰鬱な葬儀があるのだろうが、綜真は来るのだろうか。
通夜にわざわざ来てくれた村長は、流石に葬式には来ないだろう。というか、火葬のない葬式って何をやるんだろうか?
「ほら、いつまでもお布団に入ってないで」
「はーい」
母に叱られて布団から起き出した颯希は、ササッと身支度を整えると顔を洗うために洗面所へ向かった。廊下に出ると、途端に線香の匂いが鼻をくすぐる。
昨日はあんなに鬱陶しいと思った匂いだが、朝にほんのりと香る分には嫌な匂いではない。
「おぉ颯希。おきたか」
「おはようじーちゃん」
「朝にゆっくり眠れるのはえぇこっちゃ」
洗面所でざっと顔を洗って居間に行くと、すでに起きていた祖父がテレビを見ながら颯希を手招いた。
伴侶が亡くなったというのに、祖父は相変わらず笑顔だ。昨日の葬式もみんなニコニコ笑顔だったし、この村の人はあんまり死というものを悲しまないのかもしれない。
そりゃそうか。逆火とやらで死者を家に招くような土地柄だ。死んでも一緒とか、そういう感じなのだろう。
「ねぇじーちゃん。印花って知ってる?」
「おめぇ、颯希。どこでその名前を聞いた?」
「昨日、月城さんとこの奥さんが、今年は印花が出たから縁起がいい、って言ってた」
あと綜真も、とは、続けるのはやめておく。綜真はなんだか考え込んでいるような表情だったし、十燈の事を「印花に選ばれた」とも言っていた。
印花が出るのは縁起がいいのに、印花に選ばれた十燈とは今日明日しか会えないかも、というのは一体どういう事なんだろう? 選ばれた人はこの村を出るとかだろうか。
「……颯希、その名前は外で言っちゃなんねぇ。おめぇまで印花に呼ばれっちまうぞ」
しかし、少しの間沈黙してから颯希を見た祖父の顔は、そんな気楽なものではないと言いたげに歪んでいた。
繰り返し「アレの事は話しちゃなんねぇ」と繰り返す祖父には、縁起の良いものなんでしょ? と、問いかける事も出来ない。
結局逃げるように居間から庭に出ていってしまった祖父を、颯希は見送る事しか出来なかった。
何がなんだかわからない。この村独自の風習と言われればそれまでだが、あまりにも違和感がありすぎる。
聞いてはいけない、話してはいけないなら、いっそそんな特別なものの名前を言わなきゃよかったのに、と唇を尖らせてしまう。
知らなければ、気になる事だってなかったのだ。
「ねー、おかあさん。このカレンダーなに? 意味わかんないんだけど」
気になるものといえば、他にもある。この家にあるカレンダーは、数字が逆に書かれているのだ。
普通のカレンダーで8月1日と書かれるべき所に8月31日と書かれているそのカレンダーは、異質どころの問題じゃない。パッと見は普通のカレンダーなのに大きく「8月」と書かれている所も、よく見れば8の字がさかさまだ。8という数字なせいで、一瞬さかさまなのがわからないのがまた気味悪い。
これも、昨日綜真の言っていた「逆さ暦」ってやつなんだろうか?
「あぁそれねぇ。この村の風習で、逆さ暦っていうカレンダーよ」
「なんでわざわざさかさまにすんの?」
「さぁねぇ。お母さんも昔から気になってるんだけど、さかさまさまのためだ、としか教えてもらえないのよ」
「さ、さかさまさま? さかさまさまって、誰?」
「この村の神様よ。そんな言い方しないの」
危うく舌を噛んでしまいそうなその名前に、颯希は怪訝な顔つきで母を見た。母は颯希の朝ご飯だろうお茶碗とお皿を卓袱台に乗せてから「あれよ」と神棚を指差す。
この家についてから、神棚もちょっと気になってはいたものだ。父方の祖父母の家にも神棚はあったけれど、あちらは真っ白な木で出来ていて、鮮やかな榊の葉を祀られた綺麗なものだった。
しかしこの家の神棚ときたら、ボロボロで触れたら指先に棘が刺さってしまいそうなほどに汚く、榊の葉には見えない形の葉っぱは薄白く枯れてしまっている。
けれど、綺麗な神棚には置かれていなかったまぁるい石ころのようなものが、神棚の扉を開いた奥に置かれていた。
「あれが、さかさまさまの神棚? 綺麗にしなくていいの?」
「さぁねぇ。古ければ古いだけ長い事信仰してる、とかそういう事なんじゃないの?」
「変なの……なんかこの村って全部変……」
そんな事言っちゃダメよ、なんて言いつつ、母はまた台所に戻って行ってしまった。台所からはお味噌汁のいい匂いがしてきているから、颯希の朝ご飯のためだろう。
そんな母を見送って、颯希はまたカレンダーを覗き込んだ。
今日は、8月14日。この日は逆さ暦では、18日らしい。本当によくわからないが、こんな風に印刷されたカレンダーが出回っているという事は、この村では当たり前の事なのだろう。
変なの、と思いつつ卓袱台についた颯希は、視線の先にどうしても入ってくる神棚を見上げて眉間にシワを寄せる。何となく、本当になんとなくだが、あの神棚の中にあるまぁるい石が、この村に来てすぐに見つけた壊れた祠の中にあった石を彷彿とさせるのだ。
苔むして、誰も祈りを捧げない、もしかしたらかつては御神体だったのかもしれない石。
この村の人はそれが神社だとしても、古びてきたり壊れてしまってもそれで良しとするのだろうか。颯希としては、いつもピカピカで綺麗で居て欲しいのだけれど。
「か、葛木さん! 大変だぁ!!」
母が持ってきてくれたカブのお味噌汁とご飯と、アジの開き。実に〝和〟な食事に手を合わせた颯希は、いざ食べ始めようとした時に庭に駆け込んできた声に驚いて顔を上げた。
庭から人が入ってくるなんて、朝ドラの世界みたいだ。そんな変なことを考えつつ、駆け込んできたおじいさんと自分の祖父の姿を横目で見る。やっぱりこの村は、老人が多い。
「なんだって? 日田さんが亡うなったと?」
「朝ンなったらもう冷たくなっとったらしい。ほんで、赤い花が咲いたとよ」
「こらぁ、裏盆踊りを早めにゃならんか!」
――裏盆踊り?
また知らない言葉が出てきたなと思いながら味噌汁をすすって、「あらあら」なんて言っている母を見る。
慌てて連絡をしてきたお爺さんも、母も、祖父も、びっくりしたり慌ててはいるが、やはり誰かが亡くなっても悲しそうな顔はしていない。
それにしても、連続で葬式が出るなんて不吉な話だ。縁起がいい印花が出たというのは一体なんなんだ。
他人事だと聞き流す事を決めて、颯希は柔らかく煮込まれたカブの真っ白な実をパクリと一欠片、カブの葉といっしょに口に入れた。