1. アルジェント王国とアルディナ公爵家
アルジェント王国――王都には白亜の城がそびえ立ち、古くから栄え続ける伝統と権威を象徴している。大陸の中央に位置し、豊かな交易路を有するこの国は、多くの領土を従え、他国からの信頼も厚い。その一方で、王族を頂点とした貴族社会は複雑な政治的駆け引きに満ち、表面上は華やかに見えるものの、裏では権力争いが絶えないのが実情だ。
そんなアルジェント王国において、古くから高い地位を保ち続けてきた名門がアルディナ公爵家である。幾代にもわたり王国の政治を支え、ときに軍事面でも王家を助けてきた。国政に深く関わってきた血筋だけに、王宮内でも大きな発言力を持ち、その財力と人脈は圧倒的だ。
しかしながら、近年のアルディナ家には、王家との微妙な溝が生まれつつあると言われていた。公爵自身は王家に忠誠を誓っているものの、あまりにも強大な影響力を持つため、王族の中には「いつか王位を脅かしかねない存在になるのでは」と警戒を抱く者も少なくない。
その公爵家に一人の娘がいた。名をソフィア・アルディナ。しっとりと輝く黒に近いダークブロンドの髪と、青く透明感のある瞳を持ち、気品ある立ち居振る舞いから「王都一の美貌を持つ令嬢」と称えられている。しかし、彼女の存在はただ「美しいだけ」ではなかった。
ソフィアは幼少期から聡明であり、礼儀作法や芸術、語学などを父や優秀な家庭教師たちのもとで学び、貴族令嬢として申し分ない教養を身につけていた。さらに彼女の性格は、穏やかでありながら芯が強く、理不尽なことや筋の通らないことには毅然とした態度をとる。そのため、貴族子女の集まる場でも一目置かれる存在であった。
だが、今回の「政略結婚」という大きな波は、彼女にとってあまりにも大きな負担となる運命をもたらすことになる。
2. 政略結婚の背景
ソフィアが婚約した相手は、アルジェント王国の第一王子、レオナルド・アルジェント。将来の国王候補として、幼い頃から周囲の期待を一身に背負ってきた青年だ。浅黒い金髪に、やや吊り上がった鋭い瞳、端整な顔立ちで、見た目だけを取れば女性に人気があると言われている。
しかし、王宮内でささやかれる噂はあまり芳しくない。王太后の庇護のもと甘やかされて育ったとも、政治に興味が薄く遊興に耽っているとも聞こえてくる。いずれにせよ、アルディナ公爵家との縁組は、国の重鎮であるアルディナ家の力を引き続き王家の味方につけるための政治的策――いわゆる「政略結婚」として、ほぼ強制的に決められたものだった。
ソフィアは、最初に婚約話を聞かされたとき、動揺しながらも公爵家の長女としてそれを受け入れる決心をした。表向きは王家のため、家のためだが、彼女にはもう一つの思いがあった。「王子として国を背負うお方なら、どれほど冷たく見えても、きっと国や民を想う優しい心を持っているのではないか」と。まだ見ぬ未来の伴侶に一縷の希望を抱き、「いつか私を心から必要としてくれる日が来るかもしれない」と信じたのである。
しかし、現実は甘くはなかった。レオナルド王子はソフィアに対してまるで興味を示さず、会っても必要最低限の言葉しか交わさない。ときに侍従を通して伝言を送るだけで、直接顔を合わせる機会さえほとんど作ろうとしない。ソフィアが一生懸命に笑顔で話しかけても、彼の返事はどこか上の空で、彼女を物のように扱っているかのようだった。
3. 舞踏会の前夜 ― 不穏な空気
ソフィアがレオナルド王子との結婚を正式に受け入れてから数か月が過ぎた頃、アルジェント王国の王妃――レオナルドの母である現王妃が大規模な舞踏会を開くとの知らせが届いた。国王の体調が芳しくなく、公の席に出る機会が減ったため、その代わりとして王妃が社交界を盛り上げる役目を担っているという。
この舞踏会でソフィアは「近く王家に迎え入れられる公爵令嬢」として正式なお披露目をする予定だった。彼女自身も内心では緊張と同時に、ようやく周囲に「私はレオナルド殿下の婚約者である」と胸を張って示せる機会だと思い、気合を入れていた。
しかし、舞踏会を数日後に控えたある夜。ソフィアの部屋をノックする音が響き、彼女の侍女が慌てた様子で入ってきた。
「お嬢様、大変です……殿下が先程、宮殿で他のご令嬢とご一緒にいらしたとか……」
「……別に、殿下が誰と一緒でもおかしくはないわ。正式にはまだ婚約中とはいえ、男性に女性の友人がいても不思議ではないもの。」
ソフィアはなるべく穏やかな声を保ちつつ答える。だが、侍女の表情は曇ったままだ。
「そのお相手が、侯爵令嬢のエレオノーラ様らしいのです。最近、王宮ではとても評判の……」
「――あの方ね。確か、私も何度か宮廷で拝見したことがあるわ。」
エレオノーラ・バークリー侯爵令嬢。ソフィアも噂程度には知っている。才色兼備で、レオナルド王子に積極的にアプローチをしている、という話だった。
ソフィアは胸に小さな痛みを感じながらも、「王子にはよくある話」と気丈に装うしかなかった。侍女の不安げな顔をこれ以上煽りたくなかったのだ。だが、彼女自身も、この結婚において「私はただの政治の駒にすぎないのではないか」という疑念を捨てきれずにいた。
4. 舞踏会の当日 ― 華やかな会場での予感
そして舞踏会当日――。
王宮の大広間は、まばゆいシャンデリアの光に照らされ、煌びやかな衣装に身を包んだ貴族たちでごった返していた。辺境の伯爵家から大公家、国外の使節までが招かれており、音楽隊が奏でる優雅な調べが広間の隅々まで行き渡っている。
ソフィアは、仕立て屋が腕によりをかけて作った純白のドレスに身を包み、控えの間で侍女たちの最終チェックを受けていた。ドレスの胸元には繊細なレースがあしらわれ、ウエストはしっかりと絞られている。端整な顔立ちと立ち居振る舞いが合わさり、その美しさは息をのむほどだ。
「今日こそは、レオナルド殿下と並び立ち、国中の人々に認められるべき日……」
そう心に念じながら、ソフィアは鏡に映る自分を見つめる。しかし、なぜか胸の奥に不安が渦巻いて離れない。
侍女の一人が、「殿下がお待ちかもしれません」と言って控えの間を出ると、ソフィアも軽くドレスの裾を整えながら後を追う。遠くから華やかな人々の笑い声と、グラスの触れ合う音が聞こえてくる。まるで、この空間から彼女だけが疎外されているように感じた。
5. きらびやかな宴と冷たい王子
王宮の大広間に足を踏み入れた瞬間、ソフィアは人々の視線を一身に浴びた。王家に近しい高位貴族の娘として、その存在感は圧倒的だ。しかし、それ以上に彼女の「レオナルド王子の婚約者」という立場が関心を集めているのは言うまでもない。
ソフィアは緊張を悟られないように背筋を伸ばし、顔には微笑をたたえながら、まずは王妃のもとへと向かった。王妃は薄いヴェールをまとった豪華なドレス姿で、多くの貴婦人たちに囲まれている。
「ごきげん麗しゅうございます、王妃陛下。本日はこのような舞踏会にお招きいただき、光栄に存じます。」
ソフィアが礼儀正しく頭を下げると、王妃は愛想よく笑みを浮かべる。しかし、その笑顔の奥には一抹の冷たさが感じられた。
「ようこそ、ソフィア。あなたが来てくれて嬉しいわ。ところで、レオナルドとはもう会ったかしら?」
「いいえ、まだお姿を拝見しておりません。お見かけしましたら、ご挨拶いたします。」
そう答えたソフィアの声が、わずかに震えを含んでしまったのを自覚する。王妃は「そう」と短く返したのみで、周囲の令嬢たちとの談笑に再び戻っていった。
(……殿下はどこにいらっしゃるの?)
視線を巡らせると、会場の中央付近でレオナルド王子が笑顔を振りまきながら、エレオノーラ侯爵令嬢と談笑しているのが目に入る。エレオノーラは銀色に近いプラチナブロンドを上品にまとめ、宝石が散りばめられたドレスを纏い、まさに絵画の中から抜け出てきたかのような美しさを誇示していた。
レオナルドの目は、まるでソフィアの存在など目に入っていないかのように、エレオノーラだけに注がれている。ソフィアは、その光景を黙って見つめるしかなかった。
6. 王子との再会 ― 冷ややかな言葉
一通りの挨拶を終えた後、ソフィアは意を決してレオナルドのもとへ歩み寄った。途中、知り合いの貴族令嬢や公爵家の関係者に会釈を返しながら、静かに歩を進める。
レオナルドのすぐそばまで来ると、さすがにエレオノーラがソフィアに気づき、やや気まずそうな笑みを浮かべた。
「あら、ソフィア様。今宵もとてもお美しい装いですこと。」
「ありがとうございます。エレオノーラ様も、とてもお似合いですよ。」
歯が浮くような社交辞令のやり取り。その間、レオナルドは一瞥するようにソフィアを見ただけで、まるで彼女がそこにいないかのように振る舞っている。
ソフィアは心中の動揺を必死に押し殺し、頭を下げるようにして声をかけた。
「殿下、今宵はお招きいただきありがとうございます。皆様とご一緒できて嬉しく存じます。」
レオナルドはエレオノーラから視線を外し、無表情でソフィアに向けた。その瞳に温かみは微塵もない。
「ああ、お前か。……まぁ、来て当然だろう。なにしろ、お前は“今のところ”俺の婚約者なのだからな。」
何気なく放たれた言葉。しかし「今のところ」という部分が、ソフィアの心を鋭く抉る。彼にとって、ソフィアは未来を共に歩む存在ではなく、「必要があればいつでも切り捨てられる相手」でしかないのだと改めて思い知らされる。
それでも、ソフィアは感情を表に出さず微笑んでみせる。それが、公爵令嬢として幼少から叩き込まれた「誇り」だった。
7. レオナルドの宣言 ― 衝撃の瞬間
夜も更け、舞踏会はさらに盛り上がりを見せていた。ワインやシャンパンがふんだんに振る舞われ、貴族たちの声は上機嫌に高まる一方で、陰湿な噂話や牽制もあちこちで飛び交う。
ソフィアはというと、先ほどからレオナルドに無視され続け、気疲れしていた。せっかく作り上げた笑顔も、今では硬さが隠せない。何人かの貴婦人に話しかけられては、「殿下との結婚はいつ頃になるのか」とか、「次期王妃としての意気込みは」などと聞かれ、そのたびに曖昧な返事をするしかない。
(……なぜこんなにも冷たくされ続けなければならないのだろう。私はただ、婚約者として礼を尽くしているだけなのに……)
そのとき、会場の片隅で突如として聞こえてきた鋭い声が、ソフィアを含むすべての出席者の注目を集める。レオナルド王子がワイングラスを軽く持ち上げ、壇上へと進んでいたのだ。
貴族たちは「王子が何か重大な発表をするのだろう」と囁きあい、その場は瞬く間に静まり返る。ソフィアも胸騒ぎを覚えながら、その様子を見つめた。
レオナルドは壇上で周囲をぐるりと見回し、薄く笑みを湛えた。その笑みには喜びや友愛の気配がなく、むしろ何かを嘲笑っているようにも見える。そして、彼はアルディナ公爵や王妃、その他の貴族たちを見やったのち、高らかに声をあげた。
「皆の者、静粛に。今宵、ここに集う諸侯、貴族の方々にお伝えしたいことがある。」
一瞬の静寂が訪れる。ソフィアはグラスを持つ手が震えそうになるのを必死に堪えながら、レオナルドの言葉を待つ。
そして、レオナルドはまるで何でもないことのように、こう続けた。
「私は――本日をもって、公爵令嬢ソフィア・アルディナとの婚約を破棄することに決めた。」
ソフィアだけではなく、会場にいた誰もが息を飲んだ。何が起きたのか理解できず、一瞬時が止まったようになる。
だが、レオナルド本人は誰の戸惑いなど意に介さず、さらりと続ける。
「理由は簡単。彼女は王妃としての器量を持たない。愛想がいいだけで中身がなく、俺の目指す未来には必要ないからだ。」
その冷酷な言葉の数々に、ソフィアは頭の中が真っ白になった。まさか、この場で――公衆の面前で、婚約破棄を宣言されるとは思いもしなかった。
周囲の貴族たちがざわざわと声を上げる。アルディナ公爵夫婦は怒りと困惑で顔を真っ赤にし、王妃も「これほど大衆の前で発表するとは聞いていない」といった表情を浮かべている。
誰一人として、この結末を予想していなかったのだろう。だが、レオナルドはそんな空気を嘲笑するかのように、壇上をさっさと降りてしまう。
8. 怒りと絶望 ― 立ち尽くすソフィア
「……どういうこと?」
ソフィアはしばらく呆然としていたが、やがて現実感が押し寄せ、体中が震え出した。
王妃や周囲の貴族たちが慌ててフォローしようとしたが、レオナルドがはっきりと「婚約破棄」を宣言した事実はどうしようもない。その場にいる全員がソフィアに同情のまなざしを向けるか、あるいは好奇の目を向けている。
「ソフィア様、いったいこれは……?」
エレオノーラが言葉をかけてくるが、その表情はどこか優越感を含んでいるようにも見えた。ソフィアは返事をする気力もなく、ただ頭を下げてその場を離れた。
王妃やアルディナ公爵が声をかけるのが聞こえたが、ソフィアには何も耳に入ってこない。ただ一つ分かったことは、これほどの屈辱は人生で初めてだということ――そして、自分がレオナルドにとってまったく愛されていなかったことを、思い知らされたということだ。
9. 絶望の帰路 ― 冷たい王宮の廊下
舞踏会の途中で会場を後にし、王宮の長い廊下を歩くソフィアの足取りは重く、今にも崩れ落ちそうだ。美しく着飾ったドレスが逆に痛々しく見える。
王宮の衛兵や侍従たちは、何があったのかを察しているのか、あるいは単に噂話を聞いたのか、ソフィアを遠巻きに注視していた。彼女はその視線に耐えきれず、下を向いたまま早足で通り過ぎる。
(……どうして、あんなにも一方的に……? 私がなにか、彼に迷惑をかけただろうか?)
思考は混乱し、涙すら出ない。アルディナ家の名に恥じないよう、どんなときも気丈に振る舞うと心がけてきたソフィアだったが、今回ばかりは自尊心が粉々に砕かれ、心が折れかけている。
「ソフィア! 待ちなさい!」
背後から鋭い声が響く。振り返ると、そこには父のアルディナ公爵が息を切らせて立っていた。
公爵は怒りに震える声でソフィアに問い詰める。
「何故だ、ソフィア。なぜ殿下との間をうまく取りもてなかった? お前の態度が悪かったのか? それとも何か粗相をしたのか?」
ソフィアは答えられない。自分に非があったわけではないと分かっているが、いま父の怒りを受け流す余裕はなかった。
すると、公爵は苦渋の表情を浮かべながら、「お前は家に戻れ」とだけ告げた。婚約が破棄された以上、王宮に長居する意味はない、ということなのだろう。
10. 公爵家の行方 ― 突きつけられる責任
翌朝、ソフィアは公爵家の邸で重い空気の中を過ごしていた。母は心労のあまり寝込みがちになり、父は怒りを押し隠しながらも「王家への対応」に追われている。
しかし、その態度はどこかソフィアを責めているようにも感じられる。王家に恥をかかされた事実は、アルディナ家の名誉を大きく傷つけるのだ。そして、その「失態」の原因がソフィアだと、少なくとも父はそう見ている節がある。
「……ソフィア、何とかして再度殿下と話し合い、婚約を元に戻せないのか?」
「そんなこと、できるはずがありません……。殿下があれほど公の場で破棄を宣言なさったのですから、私が今さら何を言っても……」
声を震わせながら答えるソフィアに対し、父は渋い顔をして黙りこむ。
その沈黙が、ソフィアには耐えがたかった。まるで「役に立たない娘だ」と言われているような圧迫感を覚える。
「父上、私は……しばらく王都を離れたいと思います。」
思い切ってそう切り出したのは、何もかもに押しつぶされそうだったからだ。ソフィアは今の王都で、自分が「婚約破棄された悲劇の令嬢」として見られるのが苦痛でならない。
父は意外そうな顔を見せる。しかし、あれほどの屈辱を味わい、心身ともに限界に近い娘をこれ以上王都に縛っておくわけにもいかない、と考えたのか、強くは引き留めない。
「……好きにしろ。ただし、アルディナ家の名前をこれ以上貶めるような行為は慎め。分かったな。」
「……はい。」
こうして、ソフィアは自分の意思で「アルディナ家から離れる」ことを決意した。どこへ行くかは明確には決めていない。だが、王都に留まっている限り、レオナルドやエレオノーラの存在を嫌でも思い出し、周囲の同情や好奇の視線に晒され続けるだろう。
11. 旅立ちの朝 ― 新たな決意
数日後、ソフィアは必要最低限の荷物をまとめると、邸の玄関先で使用人たちに別れを告げた。高級な馬車や騎士の護衛を従えるのは避け、できるだけ「普通の貴族令嬢」として旅立ちたいと思ったからだ。
アルディナ家の紋章が入った荷馬車だけは用意せざるを得なかったが、それでも行く先は人里離れた辺境の領地。そこに行けば、しばらくは誰にも見咎められずに過ごせるはずだと考えた。
「それでは、父上、母上……。しばらく失礼いたします。」
父は相変わらず渋い顔をしていたが、母は心配そうに「体に気をつけるのよ」と声をかけてくれた。ソフィアも微笑みで返す。わだかまりが全くないわけではないが、それでも家族は家族なのだ。
馬車に乗り込む瞬間、ソフィアはもう一度邸の正門を振り返った。そこには、彼女が生まれ育った思い出が染みついている。いつか再び、ここに胸を張って帰ってこれる日は来るのだろうか――そんな不安が頭をよぎる。
しかし、その思いを振り払うように、彼女は馬車のドアを閉めた。車輪が回りだし、石畳をゴトゴトと軋ませてゆっくりと進んでいく。
(私はもう、殿下の婚約者ではない。ならば、自分の意志で生きるしかないのだ。)
王宮からの強制にも、父からの期待にも縛られず、「ソフィア・アルディナ」という一人の女性として、どのように生きていくのか。まだその答えは見つかっていないが、彼女の胸には小さな炎のような決意が宿っていた。
12. 闇の淵からの出発 ― 第2章へ向けて
馬車に揺られながら、ソフィアは窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めていた。まだ朝早いというのに、王都の外れは活気に満ち、行き交う人々の姿や露店が軒を連ねている。
その光景を見ていると、王宮の煌びやかさや貴族たちの世界がまるで遠い夢の中の出来事のように思えてくる。自分がほんの数日前まで「次期王妃候補」などと呼ばれていたなんて、嘘のようだ。
(王妃候補……私には、そんな肩書はもう関係ない。あの夜で、すべては終わったのだから。)
彼女はそっと目を閉じて、レオナルドが婚約破棄を宣言した瞬間を思い出す。あまりにも突拍子もなく、一方的で、それでいて周囲には大きな衝撃を与えた出来事。あの瞬間から彼女の人生は大きく変わった。
だが、同時に「自分の生き方を見つめ直す機会」を手に入れたのかもしれない、という微かな希望もあった。もしあのまま結婚していれば、レオナルドの冷淡な態度に苦しみながら、王宮の華やかさの裏で孤独に苛まれる日々を送っていたかもしれない。
もちろん、今のソフィアには未来の展望などほとんどない。ただ、今は自分の心を癒し、王都の喧騒から遠ざかって、ゆっくりと考えたい。そう思ったからこそ、辺境への旅を選んだのだ。
この先、どのような試練が待っているかは分からない。それでも、彼女は自分の足で歩き出そうとしている。
「私にしかできない道……。私が本当に望む幸せ……。それを、自分の手で掴んでみせる。」
ソフィアの瞳には、不思議な力が宿っていた。婚約破棄という最大級の屈辱を味わいながらも、まだ折れずに残っている彼女自身の誇りと意志。その炎は、今は小さくとも消えることなく燃え続ける。
馬車はどこまでも走り続け、やがて王都の城壁を抜け、広大な平原へと出る。朝日が地平線を照らし、遠くには山々のシルエットが浮かんでいる。ソフィアはその風景を見つめながら、まだ見ぬ明日へと旅立つのだった。