目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第2話 :自由への旅立ち





1. 王都の城壁を越えて


ソフィア・アルディナが王都を発ったのは、まだ朝の光が柔らかく街を照らし始めたばかりの時間だった。灰色がかった空を白い雲がゆっくりと流れ、城壁の重厚な門が音を立てて開かれると、彼女を乗せた荷馬車はゴトゴトとした振動を伴って外へと進んでいく。


王都は早朝にもかかわらずある程度の賑わいを見せていたが、城壁を抜けて郊外へ出ると景色は一変する。舗装の行き届いていない道が続き、遠くには広大な畑や草原が広がっていた。

ソフィアは馬車の窓辺に身を寄せ、どこか現実味のない景色をじっと見つめる。貴族令嬢として育った彼女にとって、このような“普通の人々の生活圏”に足を踏み入れる経験はほとんどなかった。幼少の頃に父に連れられて地方を視察した記憶はあるものの、それは「公爵家の代表」として行ったものであり、自分の意思で自由に来たわけではなかったからだ。

同時に、あれほど華やかな舞踏会の喧騒と、王都の石畳の光景が今は遠い昔のように思える。ほんの数日前、ソフィアは“第一王子の婚約者”という立場だった。しかし今や彼女は、王都を去り、だれの庇護も期待せず辺境に向かう一人の旅人である。


(私は、これで良かったのだろうか。あのまま王都に残っていたら、どうなっていたのだろう……)


レオナルド第一王子の婚約破棄――それはソフィアの人生にとって衝撃的な出来事だった。公衆の面前で名誉を失い、家族にも責められ、挙句の果てには自ら王都を離れる道を選んだ。しかし、これは同時に「ソフィア自身の足で歩む人生の始まり」なのだと、彼女は自分に言い聞かせる。

どこか心の奥底で、大きな不安と小さな希望が交錯する中、馬車は城壁を遠く離れ、丘陵地帯へと差しかかっていた。道の両脇には低い草と小さな野花が咲いており、春の訪れを感じさせる風が頬をかすめる。アルディナ家を出るときに感じていた鋭い痛みは、少しずつ和らぎ始めていた。


2. 辺境の村への道中


ソフィアが目指すのは、アルディナ公爵家が管理する広大な領地のうち、最も遠い辺境に位置する小さな村だ。本来ならば、貴族の令嬢が一人で行くような場所ではない。だが、アルディナ家としても王家との関係が悪化した今、ソフィアを無理に王都に留めておいても何の得にもならないと判断したのだろう。ソフィア本人も、身を隠しながら心を休めるには都合がいいと考えていた。


馬車を操る御者は、アルディナ家に仕える老齢の男性で、ソフィアが幼い頃から馬車の運行を担当してきた人物である。彼は一度も文句を言わず、黙々と手綱をさばいている。

ソフィアは時折、窓から身を乗り出すようにして彼に声をかける。


「あの……長旅になってしまってごめんなさい。つらくはないですか?」


御者は微かに振り返ってニッコリと笑うと、

「いえいえ、お嬢様。私などがつらいなどと……昔からお嬢様は、私のような下働きにまでお気遣いくださる。ありがたいことです。」

と、落ち着いた声で返す。その表情に一切の嫌味はなく、長年仕えてきた者の忠誠と慈愛のようなものが感じられ、ソフィアは僅かに安堵した。


馬車は時折、道中の小さな町や宿場に立ち寄りながら進む。王都から離れるにつれ、洗練された石畳や美しい洋館は姿を消し、代わりに木造の家々や土の香りが濃厚に漂う土地が増えてくる。そのたびにソフィアは戸惑いを覚えつつも、新鮮な驚きを楽しむ自分に気づく。

貴族として守られた境遇にいた頃は、こんなふうに地方の人々の暮らしに触れる機会はほとんどなかった。畑で汗を流す農民、家畜を連れて歩く子供、素朴な市場で談笑する商人たち――彼らは確かに貧しく、王都のような華やかさはないが、どこか逞しく、地に足のついた生き方をしているように見える。


(私が王都で舞踏会やレッスンに明け暮れている間、こんなふうに暮らしている人たちが大勢いたのね……)


長い道中、ソフィアは王都を遠く離れた生活に初めて思いを馳せる。そんな彼女を包むのは、未知の世界へ足を踏み入れたときの期待感と、過去を振り返りたくないという微かな逃避心かもしれない。

やがて、幾度かの宿泊を重ね、旅の疲れが蓄積し始めた頃、御者は「あともう少しで目的の村です」とソフィアに告げた。


3. シオン村との出会い


目的地となる村は、地図上で「シオン村」と呼ばれている。アルディナ家が管理する広大な領地の一端にあるにもかかわらず、その存在はほとんど知られていない。地の果てとも呼べるほど不便な場所にあり、貴族がわざわざ訪れることは稀だ。

村の入り口は、やせた土と周囲を囲む木々に囲まれ、小さな門があるだけ。門番などおらず、村はほとんど無防備に見えた。だが、御者によれば、この辺りは魔物の被害も少なく、山賊が出ることも滅多にないという。逆に言えば、まったく商業的価値がない土地ゆえに襲撃を受けることも少ないのだろう。


馬車が村の狭い道を進むと、家々がちらほら見えてきた。といっても、十数軒ほどの粗末な木造家屋と農地が点在しているだけだ。中央には少し大きな建物があり、そこが村長の家になっているらしい。

村の人々は見慣れない馬車が入ってきたことで、怪訝そうにこちらを見つめていた。ソフィアは心の中で、「彼らにとって貴族など縁のない存在だろうし、私をどう受け止めるのだろう」と不安を覚えた。


御者が馬車を降り、村人の一人に声をかけると、その村人は慌てたように頷き、村長の家へと走っていった。しばらく待っていると、村長とおぼしき老人が現れ、御者と言葉を交わした後、ソフィアの方へ丁寧にお辞儀をする。

やや腰の曲がった老人だが、目には知恵と落ち着きが宿っている。その雰囲気から、村の長として皆をまとめる統率力を持っているのだろうということが窺えた。


「アルディナ家のお方とお伺いしましたが……いかがなさいましたか?」


老人の問いに、ソフィアはなるべく穏やかな微笑を作り、ゆっくりと答える。


「初めまして。私はアルディナ公爵の娘、ソフィア・アルディナと申します。しばらく王都を離れて静かに暮らしたいと思い、この村を訪れました。勝手を申しますが、私が住めるような家を一軒、お借りできないでしょうか。」


村長は目を丸くした。まさか公爵家の娘がこんな辺境の村を訪れるとは思ってもみなかったのだろう。しかし、彼はすぐに表情を引き締めて深く頭を下げた。


「そ、それは……大変恐れ多いことですが、もちろん歓迎いたします。ですが、この村にはご覧の通り、立派な屋敷などございません。かろうじて空いている家が一軒だけ……少々荒れていますが、よろしいのでしょうか?」


ソフィアは穏やかに頷く。


「ええ。立派な家は必要ありません。雨露をしのげれば十分です。私も貴族の身分をひけらかすつもりはございませんから、どうかお気遣いなく。」


村長はまだ少し戸惑いを隠せない様子だったが、やがて諦めたように微笑み、ソフィアを家へ案内した。そこは村の外れに立つ小さな木造の家。屋根の一部は傷みかけ、庭先は草が伸び放題で、かなり長い間使われていないことがわかる。

それでもソフィアには、これが自分の新しい生活の始まりの場所だと思うと、不思議と安堵の気持ちが湧いてきた。


4. 朽ちかけた家での第一歩


ソフィアがこの家を見たときの第一印象は「思ったよりボロボロ」というものだった。王都の貴族屋敷とは比較にならないのはもちろん、使用人たちが日常的に管理していた離れの建物よりもずっと荒れ果てている。

玄関の扉はかろうじて開閉できるが、軋む音が大きく、床には埃と蜘蛛の巣が広がっている。壁にはひび割れが見られ、何よりも窓ガラスがいくつか割れていた。


「お嬢様、いくらなんでもここは……。もう少し条件の良い場所を探しましょうか?」


御者はさすがに気の毒そうな声をかけた。彼としても、幼い頃から知っているソフィアがこんな場所で暮らすのは忍びないのだろう。

しかし、ソフィアは首を横に振り、思い切った表情で言った。


「大丈夫です。私、ここを自分の手で整えて暮らしてみたいの。きっと、今の私にはこのくらいがちょうど良いのだと思う。」


言葉だけではなく、ソフィア自身もどこか腹をくくったような面持ちだった。この村にやって来たのは、華やかな過去を断ち切り、自分自身を見つめ直すためだ。「何もかも整っている環境」は、結局のところ王都の暮らしを思い出させてしまうかもしれない。

そう考えた彼女は、村長が提示してくれたこの荒れ家を見て逆に「ここならやり直せるかもしれない」と思ったのだ。


村長はソフィアの覚悟を感じ取ったのか、静かに頷いて言う。


「もし何かお困りごとがあれば、遠慮なく私たちを頼ってください。村は貧しいですが、人の助け合いは王都よりもずっと活発でございます。」


ソフィアは感謝を込めて微笑み返し、頭を下げる。そして、まずは最低限の寝泊まりができるよう御者と協力して掃除を始めることにした。

いつもなら使用人がやっていた掃除だが、今ここにはソフィアと御者しかいない。それでも、ソフィアは初めて自分の手で雑巾を握りしめ、埃だらけの床を拭いてみる。腰をかがめ、膝をついてこびり付いた汚れを落とすたびに、王宮での舞踏会や華やかなドレス姿が遥か遠い夢のように思えてきた。


5. 村人たちとの交流


掃除をしている途中、村の女性たちが数人集まってきて、「手伝いましょうか」と声をかけてくれた。ソフィアは恐縮しながらも素直にお願いし、一緒に家の中を片付ける。彼女たちは「貴族令嬢が自分で働いている」ことに少々驚いているようだったが、ソフィアの人柄に馴染みを感じたのか、すぐに和やかな雰囲気になった。


「こんな遠い所まで来るなんて、大変でしたねえ。」

「まあまあ、お嬢様はきっと繊細なお肌でしょう? こんな埃まみれのところ、つらかったでしょうに……。」


村の女性たちの素朴な言葉に、ソフィアは初めて心が温まるような感覚を得る。王都の貴婦人たちには見られない、遠慮のない優しさがそこにはあった。

やがて、多くの手が加わったおかげで家の中は随分と綺麗になり、とりあえず寝泊まりできる程度の環境が整う。最後に村長が「昔使われていた家具や寝具が納屋にあるから使ってほしい」と持ってきてくれたベッドを置き、ようやく最低限の生活基盤が出来上がった。


夕方になり、御者はアルディナ公爵家からの指示通り、王都へ戻る準備を始める。別れ際、御者はソフィアの手を取って深々と頭を下げた。


「お嬢様、私はいつでもお嬢様をお待ちしております。もし王都に戻るお気持ちができたなら、いつでも呼び戻してくだされば……。」


ソフィアは微笑む。


「ありがとう。今まで本当にお世話になりました。私は大丈夫です。しばらくはここで過ごして、自分を見つめ直してみます。どうか父と母に、元気にやっていますと伝えてください。」


そう言うと、御者は心配そうな表情を浮かべながらも、「お気をつけて……」と馬車を走らせて去っていく。しばらくその姿を見送ったあと、ソフィアはひとり取り残された夕暮れの景色を見渡した。

これからは、本当に自分の力だけでこの場所で生きていかなければならないのだ――その事実が、彼女の胸にずしりと重くのしかかると同時に、不思議と清々しい気持ちも湧き上がってくる。


6. 一人きりの夜


夜が訪れると、村は静寂に包まれる。王都のように明かりが溢れているわけではなく、ほとんどの家々が月明かりを頼りに早々に就寝するようだ。時折、風が家の壁を揺らす音と、外で鳴く虫の声が聞こえるだけ。

ソフィアはランタンの小さな炎を頼りに、荒れ家の一室で床に腰を下ろしていた。小さなテーブルには貰い物のパンとスープが置いてある。まだ慣れない味だが、村の女性たちが「今夜の分だけでも」と作ってくれたものだ。


(王都では考えられなかった光景だわ……)


舞踏会や夜会、華やかな客人を迎える晩餐会。そんな過去の生活を思うと、今の自分があまりにもかけ離れた場所にいるように感じられる。それでも、飲み込んだスープの温かさは王宮の高級料理よりも身体に沁み渡るような気がしてならない。

やがてスープを飲み終え、布をかぶせただけのベッドに横になろうとしたとき、ソフィアの目からふいに涙がこぼれ落ちた。ずっと耐えていた悲しみや孤独が、夜の静寂とともに押し寄せてきたのだ。


(もう、あの舞踏会には戻れない。レオナルド殿下にあんな仕打ちをされて……私は用済みになってしまった。すべてを失った。……でも、私は本当に何もかも失ってしまったの?)


声を上げて泣きたいほどの不安と自責の念が込み上げる。それでもソフィアは必死に堪え、心の中で繰り返す――「私はまだ終わっていない。むしろ今からが始まりなんだ」と。

そうして涙を拭い、ベッドに入り込み、目を閉じる。わずかな月明かりが窓から差し込むだけの暗い部屋で、彼女は疲労と心労に耐えながら浅い眠りに落ちていった。


7. 朝の光と小さな手助け


翌朝、早朝に目を覚ましたソフィアが外に出ると、冷たい朝の空気が頬を撫で、薄い霞が村を包んでいた。田畑からは朝露を含んだ土の匂いが漂い、これまで嗅いだことのないほど新鮮に感じる。

王都にいた頃は、起床すれば侍女たちが衣装を用意し、朝食の仕度もすべて整っていた。しかし今は違う。彼女は誰かの手を借りるわけでもなく、まずは身の回りのことを自分でしなければならない。

幸いなことに、昨晩手伝いに来てくれた村の女性がソフィアのために少しだけ食糧を残してくれた。パンや干し肉、野菜など。彼女は慣れない手つきながらも、それを使って簡単な朝食を作ってみる。塩と胡椒を少し振っただけのスープは、至って質素な味だが、それでも「自分で用意した」というだけで格別な想いがあった。


朝食を済ませ、家の庭を眺めると雑草が生い茂り、見るからに手入れが行き届いていない。ただ放置されている土地といった感じだ。ソフィアは「せっかくだから、庭で何か育てられないか」と思い立つ。

とはいえ、農作業などやったことはない。自分で種をまくにしても、どんな土が向いているかもわからない。頭をひねりながら家の周囲を歩き回っていると、隣家の少女が興味津々といった様子で近づいてきた。


「あの……お姉さん、何してるの?」


その少女はまだ十歳くらいだろうか。小さなスカートに素足、手には木の枝を持っている。ソフィアは「お姉さん」と呼ばれたことに少し戸惑いながらも、にこやかに答える。


「ここで何か作物を育てようかと思っているのだけど、私、やり方が分からなくて……。」


そう言うと、少女は「畑ならお父さんに聞くといいよ!」と笑顔で教えてくれた。お父さんは村でもそれなりに大きな畑を持っている農家らしく、村人たちに野菜を分けたりしているらしい。

ソフィアは少女に案内してもらい、その父親にも挨拶を交わすと、親切にも「土の耕し方から教えてやる」と申し出てくれた。かくして、ソフィアは短い時間ながら村の畑で農作業を手伝いながら基本を学ぶことになった。


「なるほど、苗はこうやって植えるんですね……。あ、土が服に……。」


スコップを持つ手は慣れない重労働にすぐ疲れてしまうが、それでもソフィアは新鮮な気持ちで作業に没頭する。農家の人々は疑問を投げかけることなく、ただ「一生懸命やろう」という彼女の姿勢を受け入れてくれた。

王都での貴族令嬢の振る舞いとは正反対の生活。でもそこには、彼女がずっと知らなかった「自分の手で生きる」楽しさの芽吹きがあった。


8. 謎めいた剣士との遭遇


そんなふうに村の人々と少しずつ打ち解け始めたある日、ソフィアは小川へ水を汲みに出かけた。村から少し離れた場所にきれいな湧水が流れる小さな川があり、そこまで行けば澄んだ水を手に入れられる。

木のバケツを片手に、土の道をトコトコと進む彼女。王都にいた頃ならば使用人がしていた雑用である。だが、そうした「雑用」にも今は奇妙な楽しみが感じられ、鳥の声を聞きながら歩くのは心を落ち着かせる。


小川に到着し、バケツを川面に沈めていると、ふと視線の端に人影が映った。振り返ると、男性が岩の上に腰掛け、水面に足を投げ出している。年の頃は20代半ばくらいだろうか。黒っぽい外套をまとい、腰には剣を帯びている。

ソフィアは一瞬緊張した。この辺りは治安が悪いと聞いてはいないが、見知らぬ剣士となれば用心は必要だ。とはいえ、相手は全く敵意のない様子で、むしろ川辺を眺めながらぼんやりとしているように見える。


「……あの、こんにちは。」


意を決してソフィアが声をかけると、彼はゆっくりと振り向き、驚いたように目を見開いた。そして、すぐに薄く笑みを浮かべる。


「ああ、悪い。驚かせたか? 俺はこの辺りを通りがかった旅の者でな。ちょっと休憩していただけさ。」


低い声ではあるが、どこか柔らかい調子で、ソフィアに敵意がないことを伝えてくる。ソフィアもほっと胸をなで下ろし、持ち前の礼儀正しさで一礼した。


「いえ、こちらこそ驚かせてしまって。私はこの近くの村で暮らしています。あなたはどこから……?」


そう尋ねると、男は少し苦笑して答える。


「どこからと言われても、特に決まった住まいはない。名前を言ってもいいが……そうだな、俺は“アレクシス”という。お嬢さんは? 見たところ、普通の村娘には見えないが……。」


その言葉にドキリとするソフィア。やはり貴族育ち特有の雰囲気が出てしまっているのだろうか。とはいえ、自分の素性を詳しく語るのは避けたい。

彼女は少し迷いつつも、できる限り自然な表情を装って名乗った。


「私はソフィアといいます。しがない一住人です。」


アレクシスはソフィアの返答に深く立ち入る様子もなく、「そうか、ソフィア。変な奴に会っても気をつけろよ」と言って再び川面に視線を戻した。ソフィアは彼の態度に拍子抜けしながらも、どこか落ち着いた雰囲気に安堵を覚える。


(何者なんだろう、この人……。剣を持っているけれど、ならず者には見えない。かといって、傭兵か騎士か、どこかの国の護衛か……?)


謎は残るが、敵意がなさそうなことは伝わった。ソフィアは人見知りせずこういう会話ができた自分に少しほっとしつつ、アレクシスに一礼して小川を後にする。

彼は最後に「じゃあな、気をつけて帰れよ」とだけ言って、またぼんやりと川を見つめていた。


9. 村に吹く不穏な噂


ソフィアがシオン村に住み始めてから数週間が経った。最初は戸惑いと不安ばかりだったが、今では村の人々に教わりながら畑仕事を手伝ったり、ちょっとした裁縫で子供たちの服を繕ったりと、忙しくも充実した日々を送っている。

村人たちは「公爵令嬢がなんでこんな所に」と思いつつも、ソフィアが貴族然とした偉そうな態度を取らないため、次第に打ち解けてくれたようだ。食事もお裾分けをもらったり、逆にソフィアができる範囲で礼を返したりしながら、互いに助け合っている。


ただ、一つ気になるのは、数日前から村人たちが「近くの森に不審な影がある」だの、「山の方で争うような声を聞いた」だのという噂を囁き始めたことだ。普段は平穏なこの辺りだが、もし何者かがうろついているとなれば、荒れ果てた家で一人暮らすソフィアにとっても心穏やかではいられない。


ある夕暮れ時、ソフィアは村長の家で用事を済ませた帰り道、「若い男の旅人を見かけたが、あれは怪しいやつじゃないのか?」という話を耳にする。


「黒い外套を着て、剣を持っていて、どこか得体が知れない……。もしかしたら山賊の斥候かもしれん。」


それを聞いたとき、ソフィアの頭をよぎったのは川辺で会ったアレクシスの姿だった。確かに黒い外套に剣を携え、どこから来たかは話さなかった。村人から見れば、疑わしく思われても仕方がないだろう。

だが、川辺で会話を交わした限り、アレクシスは妙な敵意や悪意を感じさせる人物ではなかった。ソフィア自身も、彼が危険な人物だとは思えない。


(でも、私の直感が正しいかどうかは分からないし……。何か問題が起きなければいいけれど。)


村人たちの中には不安を募らせる声もあり、特に男手の少ない家では戸締まりを徹底しようという話になっていた。ソフィアもまた、夜は戸や窓をきちんと閉めるように気をつけ始める。

同時に、アレクシスのことが少し心に引っかかるのを感じながらも、彼女は特に誰かに相談するわけでもなく、そっと様子を見守ることにした。


10. 見えない脅威と決意


それからさらに数日後、ソフィアが自宅で野菜を煮込んだスープを作っていると、村の外れで悲鳴に近い声が上がった。慌てて外に出てみると、近所の老人が息を切らしながら走ってくる。


「大変だ! 村の家畜小屋が荒らされちまった! 誰かが柵を破って、羊を連れ去っていったらしい!」


驚いて駆けつけたソフィアが目にしたのは、無残に崩れた柵と、血痕の残る地面だった。完全に壊滅したわけではないが、一部の家畜が盗まれ、飼育していた農家は呆然としている。

村人たちは「山賊だ」「魔物だ」と口々に叫びながら大混乱に陥った。これまで平和だったシオン村に、突然の災難が降りかかったのだ。


「皆で犯人を捜しに行くぞ!」

「武器を持っていないと危ない!」


男たちは手近な農具を武器に、複数人で周囲を探し回る。ソフィアも何か手助けできないかと考えたが、女性や子供が下手に出歩くのは危険だと止められたため、ひとまず自宅に戻り待機するしかなかった。

この一連の騒動で、村人たちは再び「最近うろついている旅人の男が怪しい」と噂し始める。確かに時期が重なっているため、疑惑を持たれても不思議ではない。ただ、ソフィアの胸には拭えない違和感があった。


(川辺で会ったときのアレクシスは、こんな卑劣なことをするようには見えなかった。それに、家畜を盗んでどこへ……?)


しかし、彼女の個人的な感想を、混乱した村人たちにぶつける勇気はなかった。誰しも疑心暗鬼に陥っており、確証もないのに「私の直感が違うと言っている」などと発言しても納得されるはずがない。


11. 川辺での再会


その日の夕方、騒ぎが一旦落ち着いたころ、ソフィアはどうしてもアレクシスのことが気にかかり、小川のほうへ足を向けた。彼がまだあそこにいる可能性は低いが、村の中を堂々と探し回るよりは目立たないと思ったからだ。

すると、小川に近づいたところで視界の端に再びあの黒い外套が映る。やはりアレクシスは同じ岩の上に腰を下ろし、川を見ていた。ソフィアが近づくと、彼はやや警戒した様子で顔を上げる。


「こんなところにまた来るとは……。奇遇だな、ソフィア。」


ソフィアは少し息を整え、勇気を振り絞って口を開く。


「アレクシスさん、私……ちょっとお聞きしたいことがあって。最近、この村で家畜が盗まれる事件が起きました。村の人々は、あなたを疑っているんです。」


アレクシスは驚くでも怒るでもなく、「ああ、やっぱりそうか」という表情を浮かべた。

ソフィアは続ける。


「私は……あなたがそんなことをする人だとは思えません。でも、何かあなたが知っていることがあるなら、教えてもらえませんか。でないと、このままだと村人たちはあなたを……」


言葉を区切りがちに必死で訴えるソフィアに対し、アレクシスは静かに視線を落とした。しばし沈黙が続き、やがて彼は口を開く。


「確かに、最近この辺りに妙な連中が出没している。山賊か、それとも裏の仕事をしている盗賊か……正体は分からないが、俺も少し前から追っている最中だ。」


ソフィアは目を見開いた。


「追っている……ということは、あなたは彼らを捕まえるつもりなんですか?」


アレクシスは苦笑気味に首を振る。


「捕まえるというか、俺はあの連中に狙われてる立場でもある。あまり詳しくは言えないが、身辺を探られていてな。だからこうして辺境をうろついている。お前の言う通り、家畜を盗んだのは俺じゃない。だが、容疑を晴らすためにいちいち名乗り出るのも面倒だ。俺は旅人だしな。」


その言葉に、ソフィアは歯がゆい思いを抱く。彼の立場も分かるが、このままでは村の誤解は解けないだろう。放っておけば、アレクシスと村人との間に衝突が起きるかもしれない。

しかし、彼女自身も、身元を明かすことなく村で暮らす“よそ者”であることに変わりはない。強く出る権限などないのだ。


「……私、何とかして誤解を解きたいんです。村の人たちが安心して暮らせるように、そしてあなたも無駄な争いに巻き込まれないように……どうか、協力してもらえませんか。」


ソフィアの真剣な願いに、アレクシスはしばらく黙ったままソフィアを見つめた。その瞳には、わずかな警戒と、どこか優しさの光が同居している。

やがて彼は小さく息を吐き、わずかに肩をすくめて言った。


「……分かった。俺も好き好んで疑われるのは面倒だし、もし村が荒らされてこれ以上厄介なことになるのも困る。少し様子を見て、連中の動きを探ってみよう。お前は村を落ち着かせておいてくれ。」


ソフィアは、その言葉に安堵の笑みを浮かべた。確証はまだないが、少なくともアレクシスが村に敵意を持っているわけではないことを確認できてよかったと思う。

そして同時に、ほんの少しだけ胸が高鳴ったことにも気づく。彼の冷静で落ち着いた態度、鋭いがどこか思いやりを感じる眼差し――それはソフィアが王都で会ってきた貴族や騎士とはまったく違うタイプだった。


12. 新たな絆と波乱の予感


シオン村を取り巻く状況は、まだ不透明な部分が多い。家畜を盗んだ犯人が何者かも明確になっておらず、村人たちは不安を抱えたままだ。アレクシスはしばらく村の近くに潜伏し、怪しい動きを探るつもりだという。

ソフィアは村に戻ると、ひとまず「噂の旅人と話をしたが、彼にそんな悪事を働く意図はなさそうだ」と村長に伝えた。村長や数人の男たちはまだ半信半疑ではあったが、ソフィアの真摯な口ぶりに押され、「もう少し静観しよう」という意見に落ち着いた。

これで騒動がすぐに収まるかは分からない。だが、少なくとも一気にアレクシスを排除しようという空気は和らいだ。それは、彼を信じたいソフィアにとって大きな前進だった。


その夜、ソフィアは薄暗いランタンの灯りの中、手帳に今日の出来事を書き留める。王都にいた頃から、彼女は“日記”として感じたことを筆に走らせる癖があった。

──自分から選んだ辺境での生活。そこで出会った謎めいた青年。彼が言う「追われている立場」という言葉に、ソフィアはどこか人ごととは思えないものを感じている。

かつては自分も王子に振り回され、政治の道具とみなされてきた。それを思えば、自分が当事者ではないと言い切れないような奇妙な共感が湧いてくるのだ。


(私は本当に、ここでの生活を守れるのかしら。もし、また何か大きな騒動に巻き込まれたとき、今度こそ逃げずに立ち向かうことができるの……?)


不安は尽きない。それでも、ソフィアは「自分の意志で進んでいる」という実感に支えられている。誰かの命令でも、政略結婚のためでもない。自分の選択だ。

そう考えると、日記の最後に小さく「私は大丈夫」と書き込むことができた。こんな生活でも、少しずつ確かに前を向いて歩いている気がする。


窓の外を見ると、夜空には無数の星が瞬き、遠くからは静かな風の音が聞こえる。王都の華やかなネオンや魔導灯の明かりがなく、月と星だけが優しく村を照らしていた。

ソフィアはベッドに横になり、目を閉じる。寝苦しさはあるが、心の中にはほんの少し温もりが残っていた。いつか、ここで平穏な日々を当たり前のように送れるようになりたい。

そして、アレクシスが抱える影にも、いつか光が差し込めばいいと、そう願いながら浅い眠りに落ちていく。


<次章への予感>


こうしてソフィアは辺境の村「シオン村」での生活をスタートさせた。最初は戸惑いだらけだったが、村人たちの助けと温かい心に触れ、自分の手で暮らす喜びを少しずつ見いだし始める。

一方で、村を襲う家畜盗難事件や正体不明の集団、そして謎めいた剣士アレクシスの存在が、不穏な気配を漂わせている。王都を離れたはずのソフィアが、思いもよらぬ形で再び争いに巻き込まれる可能性もあるだろう。


ソフィアは自らの意志で「ここに留まる」と決め、村を守るために力を貸したいと思いつつある。しかし、その過程で彼女の出生や身元が知られてしまったらどうなるのか。また、王都に残してきた家族や、あのレオナルド王子の動向が、いつか彼女の運命に影響を与えるかもしれない。

新たな一歩を踏み出したソフィアの物語は、次なる試練と出会いによって大きく動き始めるのだ。



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?