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第3話 :揺れる想いと迫り来る影

1. 静かな朝の予感


シオン村に滞在するようになってから、ソフィアは毎朝、東の空が白み始める頃に目を覚ます生活を送っていた。王都にいた頃、侍女たちが優雅に支度を手伝ってくれた朝とは打って変わり、村での朝は忙しい。汲み置きの少なくなった水があれば汲みに行かねばならず、昨夜のうちに洗いきれなかった食器や布類があれば朝のうちに片付けなくてはならない。

それでも、ソフィアは苦にならなかった。むしろ、自分の手を使って少しずつ家を整えていくうちに、ここが愛着の持てる「自分の居場所」に思えてくるようになっていたからだ。


とはいえ、最近は村全体に不穏な空気が漂っている。家畜盗難事件が起こって以来、夜になると村人たちは戸締まりを厳重にし、男手のある家では交代で見張りをするようになった。

その一方、川辺で知り合った剣士アレクシスに関する疑惑は徐々に薄れつつある。ソフィアの働きかけや、実際にアレクシスが村を襲うわけでもなく姿を消すわけでもないことから、少なくとも「彼が犯人だ」という声はあまり聞かれなくなった。

しかし、真犯人がわからぬままでは、村人たちの不安が消えることもない。ソフィアは日に日に、「もっとこの村の力になりたい」という想いを強くしていた。


そんなある朝、ソフィアはいつもより少し早く起きて、家の外に出る。まだ淡い藍色が残る空はやがて黄金色に染まるだろう。深呼吸をすると、薄い朝靄の中から草木の匂いが鼻をくすぐった。王都の香水や香木の香りとも違う、自然そのものの匂いだ。

気持ちを落ち着けてから、家の裏手にある庭――と言ってもまだ荒れ地に近いが――へ回ってみる。ここには、ソフィアが村人に教わりながら耕し始めた小さな畑がある。種を蒔いてから日も浅いため、すぐに実りを期待できるような段階ではないが、「もしかしたら芽が出ているかも」とわずかな期待を抱いて足を運ぶのが日課だった。


かがんで土を覗き込むと、小さな双葉が控えめに顔を出している。ソフィアはそれを見つけると、胸がふっと暖かくなるのを感じた。

ほんの小さな芽。しかし、この芽がいつかしっかりと根を張り、青々と育つかもしれない。自分自身の境遇にも重なるようで、思わずそっと指先で葉を撫でる。


「私も、ちゃんと根を張らなければ――」


そんな独り言を呟いたとき、不意に足音の気配を感じ、ソフィアは振り向いた。見ると、木々の間からアレクシスがこちらに近づいてくるのが見える。相変わらず黒い外套をまとい、腰には剣。しかし、村に怪しい者が現れているときに堂々と現れるあたり、彼の性分なのかもしれない。

朝の光を受けた彼の姿はどこか涼しげで、ソフィアはその顔立ちに一瞬見惚れそうになる。が、すぐに気を取り直し、いつものように微笑みかける。


「アレクシス。こんな朝早くからどうしたの?」


アレクシスは軽く肩をすくめ、


「夜明け前に少し村の外を巡回していた。何か怪しい気配はないかと思ってな。それで戻る途中に、お前の家の裏手に人影が見えたから寄ってみたんだ。」


そう言うと、彼はちらりと畑を見やる。その視線が「貴族令嬢だった女が農作業をしている」という驚きを含んでいるのかは分からない。

ソフィアは照れ隠しのように笑いながら、双葉を指さした。


「見て。芽が出たの。ささやかだけど、すごく嬉しいわ。」


言いながら、自分でも少し浮かれているのが分かる。王都での暮らしでは、苗を植えたり芽が出たことにこんなにも大きな喜びを感じたことはなかった。

アレクシスは少し意外そうな表情をした後、珍しく穏やかに微笑む。


「そうか。小さいな……でも、こういうのは意外と生命力が強かったりするからな。しっかり根を張れば、立派に育つはずだ。」


その言葉に、ソフィアは心が温まるのを感じた。誰もが彼を怪しんでいた頃でも、ソフィアだけは彼を信じたいと思っていた。そして今、アレクシスもまた、彼女の“育つ芽”に期待をかけているかのように見える。


2. 村長の呼び出し


朝の空気を分かち合ったあと、アレクシスは「また様子を探ってくる」と言って村の外へと向かった。彼なりに、自分の方法で村を守ろうとしてくれているのだろう。

ソフィアは朝食を簡単に済ませると、持ち寄ってもらった残り食材を管理しながら、今日の予定を考える。最近は畑仕事に加え、村長や農家の方々に呼ばれて雑用を手伝うことも多く、意外と暇がない。しかし、自分を必要としてくれる人々がいることは、何よりも救いだった。


そうしていると、玄関の扉がノックされた。開けてみると、そこには村の青年が立っており、「村長がお呼びです。すぐにいらしてほしい」と伝える。ソフィアは少し緊張しながら、村長の家へ足を運んだ。

村長の家は村でも唯一と言っていいほどやや広い造りで、入り口近くには会合などに使う部屋がある。そこに通されると、村長だけではなく、村の男性数名がすでに集まっていた。皆一様に真剣な表情をしており、穏やかな日常の話し合いではないことが窺える。


ソフィアが部屋に入ると、村長が安堵したように声をかける。


「おいでか、ソフィア嬢。実はな、先ほど村の西側にある小川付近で、妙な痕跡が見つかったんだ。動物の足跡とは違う、何か靴のような跡があちこちに残っていたという。」


村長の脇にいた男が付け加える。


「しかも、家畜の毛や血痕らしきものが少し落ちていてな。やはり犯人は村の周辺をうろついている可能性が高い。これ以上放っておけば、またどこかで被害が出るかもしれん。」


ソフィアは眉をひそめた。やはり家畜を盗んだ連中がまだ近くにいるのだろうか。村人たちにとっては死活問題だ。

村長は続ける。


「そこで、じゃ。このまま何もしないのは危険だ。村として何らかの手立てを打たねばならんが、我々だけで犯人を探して捕まえるのは難しい。かと言って、王都に助けを求めるとなると、今の村には大した政治的コネもない。時間がかかるばかりじゃろう……。」


村人たちからも「何とか早急に対策しないと」「王都から騎士団を呼ぶなんて無理だろう」という悲観的な声が上がる。

そこで村長はソフィアの方へ向き直り、少し言いにくそうに言った。


「実は……ソフィア嬢がアルディナ公爵家のご令嬢であること、私は知っておる。ここに来てからもあまりそれを表に出そうとはしていないが、わしらは長年公爵家の領地に暮らし、その噂を聞かぬわけがない。どうか、力を貸してはもらえぬか。あなた様であれば、王都の知己もあるのではないか……」


その申し出に、ソフィアの胸は痛んだ。村人たちは、ソフィアを「普通の一人の住人」として受け入れようとしてくれていたはず。けれども、今こうして「貴族のコネ」を頼りにされる状況になったのだ。

もちろん、それが悪意からではないのは分かっている。村長も村人たちも、本当に困り果てていて、わずかな可能性にすがろうとしているのだ。


「村長さん……私、実は王都を出るときにかなり複雑な事情がありまして……。すぐに王都の誰かを動かせるかどうか、正直分かりません。それでも、できる限りは力になりたいと思っています。」


ソフィアの言葉に、村長は神妙な面持ちで頷き、


「そうか。無理は言わぬ。ただ、もし手段があるなら一刻も早くどうにかせねばならん。わしらも村内での警戒を強める。ソフィア嬢も気をつけるのじゃぞ。」


話し合いは、それ以上の決定打がないまま終わった。ソフィアは重苦しい気分を抱えて村長宅を後にする。今の自分に、いったい何ができるのだろう――?


3. 過去との葛藤


家へ戻る途中、ソフィアは頭を抱えるようにして考え込んだ。

アルディナ家の令嬢としての「政治的なコネ」というのは、確かに今までの彼女が持っていたはずのものだ。しかし、それを使うには、当然ながら「アルディナ公爵家」に連絡を取らねばならない。

だが彼女は、あの婚約破棄以降、家族とも疎遠になり、自らの意思で王都を出てきた。いまさら戻って「助けてほしい」と願い出たところで、父がどのように反応するのか分からないし、レオナルド王子や王宮の面々に知られる可能性もある。家としても、王家との関係がギクシャクしているはずだ。


(……でも、それで村人たちを見捨てるの? そんなこと、私にはできない。)


王都を離れる前、父から「これ以上アルディナ家に恥をかかせるな」と言われたのが脳裏をよぎる。自分がここで騒ぎを起こせば、再び家の名誉に傷をつけることになるのだろうか。

しかし、婚約破棄されたまま失意のうちに王都を出たとはいえ、自分が育った家とその責任から完全に逃れられるわけではない。公爵令嬢という“立場”を捨てたつもりでも、完全に断ち切ることはできないという事実が、改めて彼女の心を締めつける。


「……悩んでも仕方ない。まずは、できることからやってみよう。」


そう自分に言い聞かせ、ソフィアはひとまず家に落ち着いた。足の裏にじんわりと疲労が溜まっているのを感じるが、今は休んでいる場合ではない。

彼女は小さなテーブルに紙とペンを用意し、意を決して手紙を書き始めた。宛先は、王都の伯爵令嬢である友人・リディア。かつて王都にいたとき、最も親しくしていた数少ない相手だ。

リディアは社交界での噂話に長けており、家同士の派閥は違えども、ソフィアと馬が合っていた。もしリディアが近況や王宮の情報、そしてアルディナ家や騎士団の動きに関して何か知っていれば、協力を仰ぐ足がかりになるかもしれない。


ソフィアは慎重に言葉を選び、「私が今、ある辺境の村に身を置いている」「村が盗賊らしき者に狙われているかもしれないため、王都の騎士団の派遣などを頼めないか」「ただし、私の行方は極力伏せておいてほしい」など、できる限り具体的に伝える。

半ば祈るような気持ちでペンを走らせたあと、手紙を封じ、村から少し離れた町の郵便所まで行けば都へ届けてもらえるはずだ。問題は、その町へ向かう道も安全とは限らない、という点。だが、誰かに代理を頼むわけにもいかない。

(もう腹をくくろう。自分で行くしかない。)


そう決めたソフィアは、翌日に手紙を出しに行くことに心を固めた。


4. 荒野の道


翌朝、ソフィアはいつもよりしっかりとした身なりを整え、最低限の荷物と、投函予定の手紙を持って家を出た。村長に一言「少し遠出をする」と告げると、村の男たちは心配そうな顔をしたが、「近くの町へ行くなら気をつけるんだぞ」と送り出してくれた。

シオン村は辺境にあるとはいえ、すぐ隣接する町がまったく存在しないわけではない。東へ半日ほど歩けば、小規模ながら商店や宿屋が集まる「マルシアの町」がある。ただ、その道中には森林地帯や岩場を越える必要があり、女性が一人で移動するには決して楽ではない。


(だけど、ここで怯んでは何も変わらない。)


ソフィアは気合いを入れ直し、村人から借りた杖のような棒をつきながら歩き始める。以前王都の屋敷で優雅に庭を散策していた自分からは想像もつかない行動かもしれない。けれど、彼女はこれが今の自分のやるべきことだと信じていた。


道は次第に草や樹木が生い茂り、視界が狭まっていく。鳥のさえずりや小動物の気配が聞こえる一方で、人影はまったく見えない。おそらく普段から往来が少なく、誰も整備をしていない道なのだろう。

足元の小石や木の根に何度もつまづきそうになりながら、それでもソフィアは一歩一歩確実に前進する。ときどき樹々の合間から陽光が差し込み、葉の濃淡が美しく見える瞬間があって、彼女の心にわずかな安らぎを与えてくれる。


しかし、やはり危険は潜んでいた。昼前になったころ、少し開けた場所に出たとき、ソフィアは遠くの茂みから視線を感じて思わず立ち止まる。

微かな動きを感じた次の瞬間――何者かが矢を放った。ひゅっと風を切る音がして、ソフィアのすぐ脇の地面に矢が突き刺さる。どきりとして後ずさると、矢文のようなものが結びつけられているのが見えた。

恐る恐る矢を抜き取ってみると、そこには汚い字でこう書かれていた。


「これ以上うろつくな。余計なことをすれば村人もろとも皆殺しにする。」


ぞっとする文言に、ソフィアは思わず冷や汗が背中を伝うのを感じた。明らかに、自分の動きを監視していた者がいるのだ。家畜を盗んだ集団か、それとも関連する何者かか――いずれにせよ、村の外れまで出向いてきたソフィアを脅し、引き返させようとしている。

心臓の鼓動が激しくなる。逃げるように来た道を引き返すべきか、あるいはこのまま先に進むべきか……。しかし、ここで立ち尽くしていても状況は好転しない。矢を放った者が姿を現す様子はなく、ソフィアがためらっているうちに二の矢を射られる可能性もある。

(……怖い。でも、このまま何もせず戻ったら、あの脅し文句通り、村人たちが狙われるかもしれない。)


ソフィアは意を決して、矢文を折り捨て、足を速めて先へ進むことを選んだ。手紙を出すという目的を諦めるわけにはいかない。強く地面を踏みしめて歩を進める彼女の背中には、なおも誰かの視線がまとわりつくようだった。


5. 不安の行軍と予想外の助け


しばらく道なき道を進み、ようやく人の通りそうな小道に出たころ、ソフィアの脚は疲労の限界を迎えていた。王都にいた頃は散歩や乗馬をする機会こそあれ、このような山道を何時間も歩く体力など身につけていない。

乾いた喉を潤すための水も、ボトルの底が見え始めている。町まであとどれくらいだろう……そう思いながらふらりと立ち止まった瞬間、遠くの林から聞き覚えのある声がした。


「……ソフィア?」


振り向くと、見覚えのある黒い外套をまとった姿がこちらへ近づいてくる。アレクシスだ。彼は深い森を抜けてきたのか、少し葉や枝がついており、何やら急いで駆けてきた様子だ。

ソフィアは驚きながらも、思わず声を上げる。


「アレクシス……どうしてここに?」


彼は息を整えながら短く答える。


「村から抜けた跡があった。お前が一人でどこかへ行ったんだろうと気になって追ってきた。……まさか、こんな道を一人で歩いていたのか?」


その口調には呆れと心配がないまぜになっているように聞こえる。ソフィアはほっとした反面、なぜか申し訳ない気持ちにもなった。しかし、そのままアレクシスを残して進むわけにもいかない。

彼女は手短に事情を話す。犯人への対策を講じるため、王都近くにいる友人に手紙を出そうと決めたこと、そして先ほど脅迫の矢を放たれたこと――。アレクシスは険しい顔で聞いたあと、低く呟いた。


「なるほどな。やはり“何者か”が村の動きを監視しているのは確実だ。お前一人じゃ危険すぎる。すぐに俺と一緒に戻……いや、待て。手紙を出すのが目的なら、先に町へ行くしかないのか。」


ソフィアは真っ直ぐな目で彼を見返す。


「ええ。私も怖いけれど、ここで諦めたらまた同じ脅しが来るだけ。そうしたら、今度こそ村の人たちが危ないと思うんです。」


その意志の強さを感じ取ったのか、アレクシスはわずかに息を飲んだ様子を見せる。しばし無言でソフィアの瞳を見つめた後、彼は静かに頷いた。


「分かった。ならば俺も同行する。道案内も多少はできるし、敵が出たら迎え撃つ。お前はそれでいいな?」


ソフィアは大きく頷く。先ほどまで孤独な緊張感に包まれていたが、頼もしい味方が現れたことで、胸の奥から力が湧いてくるようだ。こうして二人は連れ立って、マルシアの町を目指し歩き始めることとなった。


6. 森の中の追撃戦


アレクシスと合流したことで、道中の警戒も幾分か楽になった。彼は村の周辺の地形を把握しており、少しでも危険が少ないルートを選んで進んでくれる。

それでも、敵の魔の手はそう簡単に緩まない。二人が林の中を移動していた折、またしても何者かが放った矢が木の幹に深々と突き刺さった。ソフィアは悲鳴を上げそうになるが、アレクシスがすぐに腕を引き、一気に茂みの影へ身を隠す。


「くそっ。まだついてきてやがるのか。ソフィア、しゃがめ!」


アレクシスが剣に手をかけ、周囲を警戒する。すると、遠くから低い声が響いた。


「おい、“その女”を連れて来い……。下手に動くと命はないぞ……。」


ソフィアはその声に聞き覚えがなかったが、明らかに自分を狙っていることが分かる。

アレクシスは周辺の地形をちらりと確認すると、ソフィアに小声で言う。


「ここで立ち向かうには地形が悪い。奴らの人数も分からない。できるだけ気付かれないよう回り道をしよう。運が良ければ甥落とせる。」


ソフィアは恐怖に足がすくみかけながらも、必死に頷く。アレクシスは草木をかき分け、木の根元を沿うように進みながら、敵の視線を避けようとする。

すると、すぐ近くの茂みから二人組らしき足音が聞こえ、無造作に刃物を振り下ろして進んでいるのが見えた。ぼろ布をまとい、明らかに山賊か盗賊かと疑われる雰囲気だ。

彼らは「どこだ、どこへ逃げた?」とあたりを探し回り、時折「女を連れてこい」と互いに叫び合っている。どうやらソフィアを確実に捕らえるつもりのようだ。


冷や汗が滲む中、アレクシスは一瞬の隙を狙って走りだした。ソフィアも遅れないよう必死についていく。幸い地形を知っているアレクシスが先導し、邪魔な枝や蔓を鞘で払いながら、敵の視界から外れるように走ることができる。

木々が生い茂る暗い林の中を、心臓の鼓動を感じながら駆け抜ける。荒い息遣いが耳を打ち、後方ではなおも男たちの怒号が響いている。

そして数分ほど逃げ回ったころ、やがて視界が開け、林を抜けた場所に出た。そこには小さな崖と川があり、浅瀬になっているようだ。向こう岸へ渡れれば、追っ手から距離を稼げるかもしれない。


「ソフィア、川を渡るぞ! 浅瀬だ、流れも緩い!」


アレクシスが先に飛び込み、膝下ほどの水しぶきが上がる。ソフィアも覚悟を決めて後に続いた。冷たい川の水が足元を包み、靴や裾が濡れるが、そんなことを気にする余裕はない。

川の向こう岸にたどり着いたところで、二人は一旦腰を落とす。息を整えているうちに、アレクシスは振り返りながら低く唸る。


「奴らの気配が遠ざかってきた。……一旦は振り切れたかもしれないが、安心はできないな。」


ソフィアは肩で息をしながら、恐怖と安堵が入り混じる思いを味わっていた。捕まる寸前の緊張感をまだ引きずっており、膝が震える。

そこにアレクシスが手を差し伸べると、彼女を立ち上がらせるように優しく支えてくれた。その瞬間、ソフィアは彼の体温を感じ、思わず目をそらす。妙に胸がどきりとした。


「ごめんなさい、足手まといになって……。」


言いかけるソフィアに対し、アレクシスは少し眉をひそめて答える。


「謝るな。お前は村を守ろうとしているだけだろう。それに……これは俺自身の問題でもある。俺もあの連中が気に入らない。」


そう言うと、彼は険しい表情のまま、遠くの林を睨みつける。ソフィアには、彼がどこかで“宿命”のようなものを感じているのではないか、と思えた。


7. マルシアの町


川を越え、さらに一時間ほど慎重に歩を進めたところで、ようやくマルシアの町が見えてきた。町の外れに小さな門があり、その近辺には数件の店や人の往来が見られる。王都ほどの活気はないが、シオン村よりはずっと栄えている印象だ。

ソフィアとアレクシスは疲労と汚れを抱えながら門をくぐる。浅瀬を渡ったせいで靴は泥まみれになっているし、服の裾も水滴で重たくなっている。通りを歩く人々がちらちらとこちらを見ているが、彼らはおそらく怪訝に思いながらも、あまり干渉しないようにしているのだろう。


「まずは手紙を出さなくちゃ……。郵便所はどこにあるのかしら。」


ソフィアがきょろきょろと辺りを見回していると、アレクシスが通りを歩いていた行商風の老人に声をかけ、簡単な道案内を聞いてくれた。どうやら町の中心部にある小さな役所のような建物で、王都やほかの主要都市へ郵便を取り扱っているらしい。

二人は行商老人に礼を言い、町の中心へ向かう。道すがら、小規模な市が開かれており、野菜や果物、織物などが売られていた。ソフィアが興味を示すと、アレクシスは「後にしろ」とやや強い口調で制した。確かに、まずは手紙を確実に送り出す方が先決だ。


やがて役所らしき建物に到着すると、中にはカウンターがあり、数名の係員が書類のやりとりをしていた。ソフィアはカウンターへ進み、王都宛ての手紙を送ってほしいと伝える。

係員は慣れた様子で料金を提示し、ソフィアが村人から借りてきたわずかなお金を支払うと、無事に引き受けてもらえた。あとは王都の中央郵便所に届くまで数日かかるだろう。リディアの元に届き、彼女が何らかの方法を提案してくれることを祈るしかない。


手続きを終えて外に出ると、ソフィアは大きく息をついた。長く険しい道のりだったが、これでひとまず第一の目的は達成だ。

アレクシスはそんなソフィアの顔を覗き込みながら、「少し休憩しよう」と声をかける。町の中心にある小さな宿屋兼食堂のような店に入ると、テーブルに腰を下ろし、冷たい水とパンを注文した。

木の椅子に腰掛けた瞬間、ソフィアの全身から力が抜けるように疲労が押し寄せた。無理もない、危険な目に遭いながらここまで来たのだ。パンをちぎって口に運ぶと、空腹に気づいた胃がぐうと鳴る。アレクシスも同様にパンをかじり、黙々と水を飲んでいた。


「ありがとう、アレクシス。あなたが来てくれなかったら、今頃私はどうなっていたか……。」


ソフィアが素直にお礼を言うと、アレクシスは相変わらず素っ気ない口調で返す。


「別に礼はいらない。俺がたまたま気になっただけだ。……それより、今後どうする? 手紙を出したのはいいが、王都から助けが来るかは分からない。そもそもお前の依頼をどこまで受け入れてくれるか……。」


彼の言う通りだ。仮にリディアが話を聞いてくれても、そこから騎士団を派遣してもらうのは容易なことではないだろう。まして今のアルディナ公爵家は、王家との関係が微妙なはずだ。

それでも、ソフィアはできることをやったという安心感を少しだけ得ていた。何もしないまま怯えて過ごすよりは、たとえ望みが薄くても行動を起こした方がいい。それが今の彼女の意志であり、アレクシスの力を借りつつも、自分自身の足で進んだ結果なのだ。


8. 襲撃の報せ


やがて二人がある程度休憩を終えて店を出ようとしたとき、一人の若い男が血相を変えて店に飛び込んできた。


「大変だ! 町の外れの厩舎が襲われたぞ!」


客や店主がざわめき、一気に緊張感が高まる。話を聞けば、つい先ほど外れにある厩舎で何者かが暴れ、馬や荷車を奪って逃走したらしい。負傷者も出ているという。

アレクシスとソフィアは顔を見合わせる。もしこれがシオン村を襲った連中だとすれば、この町まで勢力を広げているのかもしれない。あるいは単なる盗賊の仕業か――いずれにせよ、治安が悪化しているのは間違いない。

二人は店を出て急いで状況を確認しようとするが、すでに襲撃者らしき姿は見えず、町の警備らしい数名が慌ただしく駆け回っているだけだった。被害の詳細も把握できておらず、混乱した様子だ。


「下手に首を突っ込んでも状況が分からない。ここで足止めを食らうより、早く村へ戻った方がいいだろう。場合によっては、あっちも危ないかもしれない。」


アレクシスの冷静な判断に、ソフィアも首肯する。もし今回の襲撃がシオン村と関係あるなら、村にさらなる危険が及ぶ可能性は十分にある。長居は無用だ。


9. 帰路と秘密


マルシアの町を出発し、再びシオン村へ続く険しい道を戻る。今度はアレクシスと行動をともにしているため、往路よりは安心感があるが、それでも敵の追撃を受ける可能性は否定できない。

道中、ソフィアはふと気になったことを口にする。


「ねえ、アレクシス。あなたはどうして、あの連中に追われているの? それも、私たちの村の付近で。何か理由があるんでしょう?」


アレクシスはしばらく黙ったままだったが、やがて吐息混じりに答える。


「理由は単純だ。俺が彼らの計画を邪魔する存在だから。――俺は元々、王都で‘ある任務’を受けていた身だった。だが、それがあまりにも腐敗した連中を相手にする危険な仕事でな。王都の権力者や貴族の利権が絡んでいて、表沙汰にはできない。騎士団や兵士では動けない裏の仕事だ。」


そこで言葉を切り、アレクシスは苦い笑みを浮かべる。


「俺は、その一端を知ってしまった。あの盗賊どもは、単なる盗っ人ではない。何か大きな組織――黒幕が裏で糸を引いているんだ。兵糧や物資をどこかに集めていて、その一部を村や町から強奪している。俺はそれを突き止めようとして、逆に命を狙われているってわけだ。」


ソフィアは驚きと恐怖が入り混じった感情で、アレクシスを見つめる。つまり、家畜盗難や町での襲撃は単なる山賊の仕業ではなく、何らかの組織的な企みの一部ということなのか。

王都で婚約破棄されただけでなく、こんな形で大きな陰謀に巻き込まれるとは思ってもみなかった。しかし同時に、アレクシスがシオン村の周辺をうろついていた理由も合点がいく。彼はこの地域を拠点に動く盗賊団を追っていたのだ。


「じゃあ、私たちの村が狙われているのも、その計画の一環……?」


ソフィアが聞くと、アレクシスは静かに頷く。


「ああ。食料となる家畜や物資が手に入りやすい場所、かつ警備の緩い辺境は格好の標的になる。それに、もしお前がアルディナ家の娘だと知っていたら、政治的なカードとして使おうとする連中もいるかもしれん。」


その言葉に、ソフィアは背筋に寒気を覚える。たとえ自分が公爵令嬢であっても、あるいは王子との婚約が破棄されていようと、利用価値があると判断されれば人質などにされかねない。脅迫の矢文も、そうした意図の表れだったのかもしれない。

しかし、その恐怖を押しのけるように、ソフィアの中で怒りが湧く。


「許せない……。村の人たちを巻き込んで、勝手に物資を奪うなんて。私たちはどうしたらいいの……?」


アレクシスは険しい表情のまま、肩をすくめる。


「手紙を出したのは正解だ。正規の騎士団が動けば、奴らも簡単には手出しできなくなる。ただ、この“裏側”に絡んでいる貴族や役人がいるとすれば、騎士団がどこまで本気で動くかは疑問だが……。俺もできる限りは協力する。お前の村を守るために。」


その言葉に、ソフィアの胸は強く震える。これまで“他人”だったアレクシスが、自分や村のために力になろうとしてくれている――それは、あの冷たそうな瞳の奥にある優しさを感じる瞬間でもあった。


10. 帰還と決意


日暮れ近くになって、ようやく二人はシオン村の入り口に辿り着いた。疲労困憊ではあるが、何とか無事に帰ってこられたことに安堵する。

ところが、村に入ってすぐ、焦りを帯びた様子の村長と青年数名がこちらに駆け寄ってきた。


「ソフィア嬢、アレクシス殿……! 実はまた家畜が盗まれたんじゃ……。昨日の夕方、小屋を留守にした隙を狙われたらしい。村の皆は大変な不安に陥っておる。」


ソフィアは頭がくらりとした。この数日の間にも被害が拡大していたなんて。マルシアの町でも襲撃があったようだし、やはり犯人たちは広範囲で活動しているのだ。

村長はさらに深刻な表情で続ける。


「それだけじゃない。昼ごろ、村の外れを通りかかった娘が“不審な男たちが木陰で武器らしきものを持っていた”と証言しておる。いよいよ本格的な襲撃を受けるかもしれん。」


このままでは村が壊滅する恐れすらある。まともな兵力のないシオン村が、大がかりな盗賊団に襲われればひとたまりもない。

ソフィアは唇を噛み、村長と周囲の人々を見渡す。皆、恐れと不安で顔が青ざめている。この場でどうにかしようにも、戦闘力に乏しい農民や老人ばかりだ。


そんな中、アレクシスがゆっくりと口を開く。


「村長。人手は足りないが、せめて見張りや罠を仕掛けるなど最低限の守りは必要だ。特に夜間は柵を補強し、家畜を安全な場所に移動しておけ。あと、村の女性や子供を安全な建物に集めて守りやすくするんだ。」


初めて聞く、彼の“指示”とも取れる言葉。村長は驚きながらも、その口調が頼もしいのか、大きく頷いた。

ソフィアもまた、何かできることはないだろうかと考える。すると、村長の家で保管している古い防具や弓などがあったのを思い出した。使えるかどうかは分からないが、少なくとも役立つものがあるかもしれない。


「私もできることを探してみます。村長、もし村に眠っている道具や物資があれば教えてください。私も皆さんと一緒に守りを固めたい。」


彼女がそう申し出ると、村長は少し意外そうな表情をしたが、「助かる」と感謝の言葉を述べた。今は一丸となって備えなくてはならない時だ。

アレクシスも「夜間の見張りには俺も加わる」と宣言し、村の男たちと話を詰め始める。盗賊団がいつ襲ってくるかは分からないが、最低限の対策を講じるほかない。

こうして、シオン村は否応なく「戦いの準備」を始めることとなった。


11. 夜の静寂と揺れる心


その夜、ソフィアは自宅の薄暗い部屋でランタンを灯し、村長から譲り受けた古い弓を手に取っていた。王都で弓術を習ったことは一度もないが、持ち方くらいは教養として本で読んだ程度には知識がある。

試しに弦を引いてみると、古い道具なので少し軋む音がしたが、まだ使えそうではある。まともに狙いを定めるには練習が必要だろうけれど、万一の時の護身としては何もしないよりマシかもしれない。


(私がこの村を守りたい気持ちは本物。でも、本当に私に守れるの……?)


不安が頭をもたげる。自分は貴族として育っただけで、兵士や騎士のような戦闘技術など身につけていない。アレクシスは心強いが、彼一人で村全体を守るには限界があるだろう。

さらに、あの盗賊団の背後にある組織――黒幕の存在を考えると、どうにも胸騒ぎが収まらない。場合によっては、アルディナ家の名前が再び関わってくることになるのではないか。もしそうなったら、王都での因縁や自分の婚約破棄が露見して、さらなる波乱を呼ぶかもしれない。


(それでも、私は逃げない。)


ソフィアは弓をそっと壁に立てかけ、拳を握りしめる。これまで何度も挫けそうになりながらも、村での生活を支えに乗り越えてきた。そしてアレクシスもまた、力を貸してくれる。

そう思うと、彼の存在がどれほど大きいかを痛感する。初めは、川辺で出会ったときの謎めいた雰囲気に戸惑い、村人から「怪しい」と疑われている姿に少なからず警戒心を抱いていた。だが今は、彼がいなければここまで踏ん張れなかったことを痛感しているのだ。

その気持ちは、もはや単なる感謝を超えた「特別な感情」へと変わり始めている――そのことを、ソフィア自身はまだはっきりと言葉にできずにいた。


12. 手紙の返事と新たな兆し


翌朝、ソフィアは村の男たちとともに柵の補強を行い、家畜小屋を一カ所に集めて防御を固める作業を手伝った。アレクシスは夜勤の見張りもしているらしく、日中は仮眠をとっている。

そんな慌ただしい日々が数日続いたある日、一人の旅の商人がシオン村に立ち寄った。商人はたまたま郵便所を利用しており、王都から届いた手紙を預かっていたらしい。そして宛名に「ソフィア・アルディナ」の名前を見つけ、村にそんな名を聞いたことがあったため、わざわざ届けに来てくれたのだという。


「ソフィア様、この手紙を王都で預かりました。なにやらお急ぎの様子でして……。」


ソフィアは驚きと期待で胸を高鳴らせながら手紙を受け取る。差出人は、親友の伯爵令嬢リディアからだった。

急いで封を切ると、そこには力強い文字が綴られていた。


「ソフィア、あなたの境遇を聞いて驚いています。王都でもあなたの婚約破棄が噂になっていて、私も心配していました。

さて、あなたの頼み――騎士団を動かせるかどうかは正直難しいところです。今の王宮は王太后派閥と大貴族派閥の駆け引きが激しく、アルディナ家も表立って王子殿下に反抗するわけにはいかない。

でも、一縷の望みとして、私の父がかつて懇意にしていた“フローレス隊長”という騎士がいます。現在は王宮の騎士団ではなく、辺境警備隊に配属されていますが、彼なら私的に調査隊を送るくらいのことはできるかもしれません。

もしそちらで待機できるのであれば、なんとか彼に話を通してみるつもりです。ただし、これはあくまで私的な行動なので、万一大きな組織と衝突するような事態になったら保証はできません。それでもいいなら、返事をください。

あなたの幸せを願っています。 ――リディアより。」


読み終えたソフィアは、思わず目頭が熱くなるのを感じた。リディアがここまで動いてくれるとは、予想以上の進展だ。騎士団を正式に動かすのは困難でも、私的な動きであれば多少の融通が利くかもしれない。

もちろん、フローレス隊長とやらが本当に動いてくれるかは分からないし、動いた先で強大な敵と対峙すれば彼らも危険にさらされる。けれども、今のシオン村にとってはわずかながらの救いの光だ。


「よかった……。これで、もしかしたら村を守る手助けが得られるかもしれない……。」


ソフィアは手紙を胸に抱き、ほっと安堵の息を漏らす。同時に、婚約破棄以来初めて「自分は一人じゃないのだ」と思えた。リディアの温かい言葉が、彼女の心に大きな支えとして届いたのだ。


13. 嵐の前の静けさ


こうして、ソフィアの頼みが王都へ届き、少しずつ歯車が動き出した。だが、まだ騎士たちが来てくれるかは分からず、盗賊団の脅威は依然として続いている。村では夜間の警戒網が強化され、男たちは武器こそ素人同然だが、アレクシスの助言を受けながら見回りを開始している。

ソフィア自身は、必要に応じて逃げ込むための“避難場所”を確保しようと、村長の家の地下室を片付ける手伝いをした。村長の家は構造がしっかりしており、大勢を収容するのは無理でも、女性や子供が隠れられるスペースを作ることはできる。

アレクシスは村の外周を巡回し、敵の偵察が来ていないかを探るようにしていた。もし不審者を見つけたら合図を出し、村内の人々が対応できるように連携を取っている。


村は大きくはないが、皆が協力し合い、一致団結して守ろうとしている。その光景は、王都の貴族社会ではあまり見られなかった“人のつながり”を感じさせた。

そしてソフィアは、その一員として自分の役割を果たすことにやりがいを感じていた。それが「公爵令嬢」としての誇りや義務とは異なる、自分自身の生き方への目覚めのように思えた。


一方で、盗賊団の動向は読みきれない。今は姿を潜めているのか、それとも次の大規模襲撃を計画中なのか――。どちらにせよ、嵐の前の静けさのような不気味な空気が漂う。

ソフィアは夜空を見上げながら、「どうか、このまま何事もなく過ぎてくれれば」と祈るような気持ちになる。しかし、そんなに甘くはないだろう。

手紙が生きるか、それとも自分たちだけの力で何とかすることになるのか。いずれにしても、正念場が近いことを感じながら、ソフィアは夜の闇に消えていく星を見つめていた。


<第3章・あとがき>


王都での婚約破棄という大きな転機を経て、辺境の村で自分を見つめ直すソフィア。しかし村には盗賊団――いや、それを操る組織の暗躍が迫りつつあり、彼女は再び大きな波に巻き込まれようとしている。

謎の剣士アレクシスとの絆は深まりつつあるものの、彼自身も危険な立場であり、二人だけではどうにもならない大きな陰謀の影がちらつく。ソフィアが王都の友人リディアに託した手紙は、はたして騎士団――あるいはそれに準ずる力を呼び寄せることができるのか。

そして盗賊団の黒幕はどこに潜み、どんな目的で動いているのか。王都の政治を巻き込む争いへと発展するのか――物語はここからさらに緊迫の度合いを高めていく。


ソフィアは、この嵐のような出来事を通じて「自分が心から守りたいもの」に気づき始めている。すなわち、それは大切な人々――村の仲間やアレクシス、そして自分自身の尊厳だ。

だが、彼女がかつて背負っていた「公爵令嬢」という肩書と、王家の権力争いは完全には切り離せない。次回第4章では、ついに盗賊団の襲撃が本格化し、王都からの助力が届くかどうかが重大な分かれ道になるだろう。さらに、ソフィアとアレクシスの関係に変化をもたらす出来事も訪れるはずだ。どうぞご期待いただきたい。




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