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第3話ー嵐のような人ー

唇が触れそうな程にその距離は近い。私は咄嗟に下を向く。耳元で副住職の声がする。

「大丈夫ですよ。」

そう言われた事で私の考えている事が見透かされているような気がしてしまう。このままこの雨の中、車の中に二人で居るのは良くない。漠然とそう思った私は下を向いたまま言う。

「あの、私、家に入りますね…」


その後の事はほとんど覚えていない。助手席のドアを開けて、後部座席にあった荷物を掴んで一気に家まで駆け込んだ気がする。玄関を開ける前に振り向き、深くお辞儀をして、急いで玄関の鍵を開けて、中に入る。玄関のたたきの上でずぶ濡れになった姿のまま、座り込む。胸の鼓動が激しく打つ。こんなふうに胸が高鳴る事なんて今まで無かった。


あぁ、ちゃんとお礼しなくちゃいけなかったのに。


そう思いながらも、しばらくは玄関のたたきから立ち上がれなかった。


◇◇◇


四十九日が終わり、私は通常の毎日へと戻って行く。それでもやらなくてはいけない事は山積みだった。このままアパートを借り続け、更に土日には実家に帰り、実家の片付けをするのか、アパートを引き払って実家に拠点を移すのか…。税理士さんとも話したけれど、実家を売っても二束三文にしかならない、それならアパートを引き払って移り住んだ方が良いに決まっている。


私は何故、こんなにも悩んでいるのだろうか、ふとそう思う。


実家が嫌な訳じゃない。確かに古くはあるけれど、父はリフォームも済ませてくれていて、家の中は綺麗なまま保たれている。そう考えたら実家に住むのも悪くないなと思うけれど…。


そうか、私には広過ぎるんだ。


そう思い当たった。


「でもこの実家にお父さん、一人で住んでたんでしょ?」

四十九日が終わった後になって、都合が付いたから、とやって来た伯母がそう言う。伯母は父の妹に当たる人で、遠方に住んでいる。実家に住まないのか?とそう聞かれて、私には広すぎるんだと思うとそう答えた私に伯母はそう言った。

「確かにそうですね。」

伯母の言う通りだ。私は二十歳になって自立の道を選んだ。父も特に反対はしなかった。子供はいつか巣立つものだといつも口癖のようにそう言っていたから。

清果きよかちゃんが住まないなら、この家、頂戴よ。」

伯母にそう言われて私は驚く。私のそんな様子を見て伯母が笑う。

「私は狭い家に押し込まれて何の自由も無く、田舎で生活して来たからね。息子は清果きよかちゃんよりも年上なのに結婚もせずに家に居て、あれやれ、これやれって。本当に嫌になるわ。」

伯母はさっきから実家の箪笥をひっくり返している。


形見分け


そういう名聞だった。

「あ、これ、くれる?」

そう言って伯母が出したのは、母の形見として取ってあった少し大きめのブローチ。確か父が母に贈ったものだ。

「それは母の形見なので。」

そう言うと伯母は私をキッと睨み、フンとそのブローチを箪笥に投げ込む。そして大きな溜息をつくと言う。

「何にも無いじゃない。」

それはそうだろう。そもそも父の形見分けなのだ、女性である伯母が持って帰れるものなんて無い。

「ねぇ、遺産、入ったんでしょ?」

伯母がそう聞く。こういう人だから、父は伯母とは会わなかったんだろうなと思う。

「遺産については税理士さんに任せているので、分かりませんし、まだ入って無いですよ。」

そう言うと伯母は箪笥を開けっぱなしにしたまま、聞く。

「幾らくらいになりそうなの?」

本当に下品な人だ。

「さぁ? 分かりません。そんなに無いと思いますよ。この家のローンも遅くまで払っていましたし。」

そう嘘をつく。本当はローンは前倒しして払い終えている。

「何だ、来て損したじゃない。」

そう言って伯母は乱暴に箪笥の中に手を入れて、そこに残っていた母の数少ない形見である数枚のスカーフを手に取り、言う。

「これぐらいは貰って行くわよ。」

私の返事を待たずに伯母は箪笥をそのままにして、部屋を出て行く。伯母を追って部屋を出る。伯母はリビングの戸棚にしまってあったお酒の瓶を数本、カバンに入れて、立ち上がり、玄関へ向かう。追いはぎみたいだなと思って少し笑う。玄関で靴を履きながら伯母が言う。

「遺産入ったら、私にも分けてよ。」

そう言われて私は鼻で笑ってしまった。

「無理ですね。」

そう言うと伯母が振り返って私を睨む。

「可愛くない子ね。」

そう言われても心は痛まない。昔から伯母はこういう人なのだ。酒瓶の入ったカバンを持ち上げ、伯母が言う。

「そんなに可愛くない事言ってると、婚期逃すわよ。」

そう言われてまた笑ってしまう。私が笑った事に気分を害したのか、伯母は私に顔を近付けて言う。

「あのねぇ、私は! アンタが独り身だから心配してんのよ。女の独り身で遺産なんか持ってたら碌な目に合わないの!」

そう言いながら酒瓶の入ったカバンで私の胸を押す。私は伯母にニッコリと笑って見せる。

「ご心配なく。」

伯母はカッとなったのか、酒瓶の入ったカバンを落とし、そのまま私の頬を打つ。

「生意気言ってんじゃないわよ!」

次の瞬間だった。

「ごめんください。」

そういう声と共に玄関が開く。現れたのは作務衣姿の副住職だった。伯母は副住職を見てハッとなって、酒瓶の入ったカバンを拾い上げ、副住職の脇を擦り抜け、帰って行く。私は急に副住職が現れた事と、伯母に頬を打たれた事で混乱していた。

「見苦しいものをお見せしてすみません。」

そう言って微笑む。副住職はそんな私に微笑み、言う。

「大きな声が聞こえまして、失礼かと思ったのですが。」

そう言って一歩踏み出し、玄関の中に入って来る。上がりかまちに膝を付いていた私の目線まで下がるようにしゃがんだ副住職は、私に手を伸ばして、打たれた頬にそっと触れる。

「大丈夫ですか?」

そう言われた時にはポロポロと涙が零れていた。恥ずかしいのと、悔しいのと…色々な感情が湧き上がって来て止められない。

「すみませ…」

副住職はそんな私にポケットからハンカチを出し、私の涙を拭う。

「大丈夫ですよ。」


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