腕を掴まれ、バランスを崩した私は、副住職の方へ倒れ込んでしまった。せめて、と思い、身を捩って彼に背を向ける態勢で彼の膝の上に座り込む。意図せず、背後から抱き締められるような態勢になってしまった。けれど、それは副住職が私の腕を掴んだからであって…そんなふうに自分に言い訳する。困惑して、意図を聞きたくて呼び掛ける。
「副住職さん…」
そう言った私を優しく抱き締めて、副住職が言う。
「私の名は道生といいます…」
そうか、副住職にも名はあるのだと、そんな当たり前の事に気付く。そして抱き締められて道生さんが私に少なからず好意があるのを感じる。
「道生さん…」
そう呼ぶと、道生さんが絞り出すような声で言う。
「すみません、少しこのままで…」
そう言った道生さんの顔が私の髪に埋まる。うなじに道生さんの呼吸を感じる。ドキドキして苦しい。それでもその雰囲気を壊したくなくて、自分の呼吸を浅くする。少しってどれくらい? 道生さんの鼻が私のうなじに当たり、鳥肌が立つ。不意に道生さんの私を抱き締める力が弱まって、道生さんが言う。
「冷やさないといけませんね…」
道生さんの腕が完全に離れ、私は名残惜しく感じながらも立ち上がる。立ち上がった私の腕に道生さんが触れたけれど、私はそのままキッチンへ歩いた。スルスルと私の腕を撫で、離れる道生さんの指…。キッチンに入った私は持っていたハンカチを濡らす。
スッスッスッ…
衣擦れの音。道生さんの気配を感じる。シンクでは水道の水が出しっぱなしになっている。道生さんは私の背後に立つと、腕を伸ばして水道の蛇口を持ち、捻って水を止める。持っていたハンカチから水が滴り落ちる。道生さんは私の手ごと、ハンカチを持って、私の手の中にあるハンカチを絞る。大きな道生さんの手が私の手を包む。水分を含んだハンカチが重い。
「こっちを…」
道生さんがそう言いながら、私を振り向かせる。ドキドキして顔を上げられない。道生さんが絞ったハンカチを私の手から取り、私の打たれた頬にハンカチを当てる。冷たくて気持ちが良い。こうして向き合うと道生さんは体も背も大きく感じる。
「花の刺繍が好きですか?」
そう聞かれて私は思わず、道生さんを見る。道生さんは少し微笑んで言う。
「今日持っているハンカチにも花の刺繍が。」
そう言われて私の頬に当てられているハンカチを見る。今日持っていたハンカチは紺地に黄色い糸でミモザの刺繍がされている。
「そうですね…」
そう言って少し笑う。花の刺繍がされているハンカチは昔から好きだった。色々な花の刺繍がされたハンカチを持っているけれど…、ミモザの花言葉は何だったっけ…そんな事を考える。道生さんが私の頬にハンカチを当てる。目を閉じ、その冷たいハンカチに頬を寄せる。不意に道生さんが動く気配がして目を開ける。道生さんはポケットから一枚のハンカチを出す。
「これ…」
そう言って私にそのハンカチを差し出す。そのハンカチは私が四十九日の時に持っていた白い紫陽花が刺繍されたものだった。
「車の中に落とされていました。拾って手洗いして、持って来ました。お返しします。」
あの日のハンカチ…気にもしていなかった。
「本当は持っていたいのですが…」
道生さんがそう言うとは思っていなくて少し驚く。けれど持っていたいとそう言ってくれた事が何だか嬉しくて、言う。
「じゃあ、持っていても良いですよ。」
そう言うと道生さんがふっと笑う。
「良いんですか?」
そう聞かれて私は頬に当てられているハンカチに頬を寄せ、目を閉じ、頷く。
「はい…」
チリーンとまた風鈴が鳴る。
ポタン、ポタンとシンクに落ちる水の音。自分の呼吸の音でさえ、邪魔な気がして、私の呼吸は浅い。さわさわと木々の葉が風に撫でられ、微かにその音が薄暗いキッチンに届く。
スッと衣擦れの音がして、道生さんが私を抱き締める。そうされて初めて私は道生さんの体の熱に気付く。私と同じように体温が上がっている…。そう感じると、その熱でさえ愛しい気がして来る。濡れたハンカチが道生さんの作務衣にその染みを作っている。
どちらからともなく、そう言った方が正確だろう。私が顔を上げるのと道生さんが顔を下に向けるのとが交差する。唇が重なり合い、道生さんの舌が私の舌を攫う。目を閉じていても、道生さんの舌の形が分かってしまう程に、その口付けは時の砂が落ちる度に深く深くなっていく…。
◇◇◇
リビングの奥の部屋、障子が閉められた薄暗い部屋で、道生さんは作務衣を着直している。胸にあった筈の水の染みはもう乾いていた。私も自分の服を直しながら、火照った体が満足している事に気付いていた。喉の渇きを感じて、立ち上がる。フラッとふらつくと、道生さんがそんな私を抱き留める。
「大丈夫ですか?」
抱き留めたその手がさっきまでは…そんな事を意識して私は俯いて言う。
「大丈夫です、ちょっと喉が渇いて…」
そう言うと、道生さんがふわっと笑うのを感じる。障子を開いて、廊下を歩く。道生さんが付いて来るのが分かる。廊下に落ちている紺地のハンカチ。
私と彼の落とし物のようにそれはそこにあった。
それを拾い上げて、キッチンへ向かう。冷蔵庫を開けても、喉を潤せるものは何も入っていない。冷蔵庫を閉めて、水切りの上に伏せてあるコップを手に取り、ハンカチを置いて、水を汲む。道生さんは何も言わずに私の背後に立ち、私の手から水の入ったコップを取り上げ、口に運ぶ。道生さんの喉仏が水を飲み下すたびに動く。滴る水が道生さんの喉を、そして胸元を滑り落ちて行く。不意に道生さんがコップをシンクに置く。そして私の顔を上げさせ、私の口を自身の口で塞ぐ。流れ込んで来る水。水を飲み下すとそのまま、また舌が絡まり合う。