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第7話ー私の中の…ー

道生さんはその日、そのまま帰って行った。

「また来ます。」

そう言い残して。


また来ますの“また”がいつになるのかは分からない。


道生さんは私の白い紫陽花の刺繍の入ったハンカチを持って行った。夕飯の支度をしながらシンクに立つと、つい思い出してしまう。甘くて溶けそうな程のキス、温かくも少し強引な手、私の為だけに動く体、湿気を含んだ部屋、そして乾いて行く水の染み…。


実家で一人、夕飯を食べながら、私はこの先の事を考えた。自分がしたいように、自分が一番幸せになれるように、そう思いながら。


チリーンと風鈴が小さく鳴る。


あの部屋で一人で布団に入った。この部屋に居ると道生さんを思い出す。彼の残り香が、彼の存在の余韻がそこにはあったから。布団の上でスマホを見る。


白い紫陽花の花言葉━━ 一途な愛


検索ワードを変える。


黄色いミモザの花言葉━━ 秘密の恋


二つとも今の私にぴったりだった。天井を眺める。


でも本当にそうだろうか。私は道生さんを愛している?


彼の穏やかな微笑みに、そして細やかな気遣いに、心惹かれているのは確かだけれど…。それを愛と呼ぶんだろうか。それでも私はあの瞬間、キッチンで抱き合った瞬間、彼を欲していた。そしてそれは彼もそうだった。激情に流されるように肌を合わせた。それでも彼はその後も私を抱き締めた。彼が自分の欲の為だけに動く人では無い事は分かっているし、普通の人よりもきっと都合はつかないだろう事も何となく理解は出来る。僧侶だし、お寺の副住職なのだから、檀家さんとは懇意にしているだろうし、何か相談事があればいつでも聞くという事も知っている。お寺での生活もあるだろう。


私はどうしたいんだろうか。


道生さんの近くに居たい…そういう意味でも実家に居れば、アパートに居るよりも近いだろう。けれど不安もあった。


伯母だ。


伯母はあれからしつこくメッセージを送って来ている。私が返事をしない事で苛立っているのも分かる。幸いなのは伯母の住んでいる所が遠方だという事。そして伯母はああいいながらも自分の家に縛られている人だ。それ程、頻繁にはこっちには来ないだろう。けれど、私一人で対応出来るだろうか。ご心配なくと言った私の頬を張るような人だ。そしてメッセージの内容はお金や家の権利に関するものばかりだ。


法的に言えば、伯母には何の権利も無い。子供である私が居るのだから。これで私が居なければ、父の遺産は兄弟間で分割したのだろう。親族だから、兄弟だからと、権利を主張して来る人は居るとは聞く。昔から伯母は嫌味な人で、幼いながらも私は伯母が嫌いだった。親族だからと母の葬儀には参列させたけれど、家に入って来て値踏みし出した時に父が追い出した。伯母が苦労しているのは知っている。母の葬儀でペラペラと良く喋っていたからだ。当時の私は幼くて分かりもしなかったけれど、今なら分かる。でもそれは私には関係ない。この家は私が育った家だ。そして父と母が大事に、守ってくれた家でもある。


そう思うとやっぱり私はアパートを引き払ってここへ来るべきだと思う。


◇◇◇


翌日、私は朝から家の片付けに精を出した。昨日、伯母が荒らして行った部屋を片付ける。伯母が放り込んだブローチを大事にしまう。もうこの家から何も持ち出させないとそう決める。


午前中を片付けに費やし、私はお昼の準備をする。今日は少し暑い。冷たいものでも食べようかと、そうめんを茹でる。キッチンもリフォームが済んでいて、綺麗な状態だ。そうめんが出来上がり、リビングに置いた時、玄関の呼び鈴が鳴る。誰だろう? そう思って玄関へ行く。

「はい。」

そう返事をしながら玄関扉を開けると、そこには道生さんが居た。昨日と同じような作務衣姿だった。

「道生さん…」

頬が緩んでしまう。道生さんは私を見下ろして微笑むと言う。

「寺に咲きかけの紫陽花がありまして、それをどうしても清果きよかさんにお渡ししたく…」

そう言いながら差し出された紫陽花。新聞紙にくるまれた紫陽花は白だった。昨日、自分で検索した花言葉が過ぎる。


道生さんに上がって貰う。

「お昼にしようかと思っていたところでした。」

そう言うと道生さんが少し笑う。

「そうでしたか、タイミングが悪かったですね。」

リビングのテーブルの上に置かれたそうめんの入った器。それを見て私は言う。

「良かったら一緒にどうですか?」

そう聞きながらも私は道生さんの分のめんつゆを用意し始める。道生さんから貰った紫陽花、一つは花瓶に生けて、もう一つは父の仏壇へ飾った。めんつゆを持って行くと道生さんはリビングのソファーに座っていて、私を見て微笑む。

「どうぞ。」

そう言って器を差し出す。


二人でそうめんを食べ、食べ終わったお皿を下げる。

「手伝います。」

そう言って道生さんが手伝ってくれる。シンクでお皿を洗っていると道生さんが言う。

「その後、伯母様からは何も?」

そう聞かれて心配してくれているのだなと思う。

「ずっとメッセージが来ていますね。」

少し笑ってそう言う。道生さんは私の横に立ち、洗ったお皿を拭いてくれている。

「大丈夫ですか?」

そう聞かれ道生さんを見る。

「伯母は遠方に住んでいますし、家に縛られている人なので、それ程、頻繁にはこっちには来られないと思います。だから大丈夫です。」

道生さんは布巾を置き、私の頬に触れる。

「心配です。」

彼の手が頬をくすぐる。

「何かあったらすぐに教えてください。」

そう言われて私は目を閉じて少し笑う。

「連絡先も知らないのに。」

道生さんの手が離れる。目を開けると道生さんはバツが悪そうに言う。

「失念していました。」

そう言って作務衣のポケットからスマホを出す。


◇◇◇


私のスマホの中に道生さんの名前がある。それだけで何だか繋がれたような気がして、嬉しかった。

「私はそろそろ…」

そう言って道生さんが玄関へ行く。引き留めてはいけない、そう思うけれど、引き留めたいと思う自分も居る。でもまた来ますとそう言った翌日には紫陽花を渡したいという理由で私の所まで来てくれた人だ。玄関で道生さんが振り返る。

「ではまた。」

そう言って歩き出し、ふと足を止めて、引き返し私の腕を掴んで強引に口付ける。流れ込んで来る、道生さんの中にある、確かな情熱。道生さんの作務衣を掴む、激情に流されないように、口付けで溺れないように。


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