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第8話ー首にかかる手ー

仕事の為にアパートに一旦、戻った私は、今までここで生活していた自分を不思議だと思った。当たり前だけれど、そこには私の生活の痕跡がありありと残っている。仕事へ行く為のスーツやカバン、冷蔵庫に入っている缶ビールや缶酎ハイ、壁に掛けられている飾り気のないカレンダー。ノートPCや仕事で使う資料、何もかもが“それまで”の私の生活だ。仕事に行く準備を済ませ、一人でシングルベッドに横になる。


目を閉じれば思い出すのは道生さんとの口付けやその胸の体温…。求め合った肌の感触や眉間に寄る皺の深さ、切なく私を見下ろすその瞳…。昨日の夜、私は確かに自分に問いかけた。


道生さんに対する思いは愛なのか、と。


こうして離れた場所に来て、思い出すのは道生さんとの事ばかりだ。彼に出会って、彼に惹かれ、彼と思いを重ねた。そうした途端に、私の中は道生さんでいっぱいになった。不謹慎だと思いながらも道生さんに会えるのが嬉しくて、心が躍った。彼は何かと理由をつけて私の所へ来てくれた。それが嬉しかった。


伯母からのメッセージは止む事無く、ずっと届いている。返事をしろだとか、そういう言葉の裏には、自分の思い通りにしてやるという決意すら感じる。誰かに間に入って貰った方が良いのだろうか。そう思った時に思い浮かぶのは道生さんだった。彼なら僧侶だし、説得力があるかもしれない。でも、私の所へ彼が来た事を伯母は知っていて、あの坊主は誰かと聞いて来ている時点で、道生さんに入って貰うと逆に拗れるかもしれないとも思う。


次のお休みまで、一週間。その一週間で私はこのアパートを引き払おうと思い始めていた。大きくないワンルームのアパート。だからこそ、引っ越しは最小限で済みそうだった。明日は定時で上がらせて貰って…ネットで段ボールを注文して…それで段ボールに普段使わないものから詰めて行って…


そんなふうに考えながら、私は眠りに落ちた。


翌日から私は届いた段ボールに荷物を詰め始めた。不動産屋さんにも連絡を入れて、事情を話し、アパートを引き払う旨は伝えてある。引っ越し業者の方も手配済みで何とかなりそうだ。


ピコンとスマホの通知音。メッセージの着信を伝える音。


伯母かな、そう思いながらスマホを見る。そこには道生さんの名前。


『お疲れ様です。

  メッセージ失礼致します。

  昨日、昼間にお会いしたのに、もうあなたが恋しいです。

  次はいつご実家の方に戻られるのでしょうか。

  教えて頂けたら、合間を見て、会いに行きたいです。

  白い紫陽花、また持って行きますね。』


それを読んで笑みが漏れる。こんなふうにメッセージを送ってくれるなんて思っていなかったから。


◇◇◇


それから引っ越しの準備を少しずつ進めて、部屋に段ボールが増えて行くのを見ながら、心が躍った。あれ程、悩んでいたのが嘘のようだ。明日には引っ越し業者が来て、この段ボールを運んでくれる。道生さんにも明日、引っ越しがあると言ってある。実家に戻るだけ、しかも誰も住んでいない実家に戻る、その不安はまだ確かにあった。けれど、私の心には以前とは違う、心の支えとなる人が居る。


その夜、またメッセージが来る。道生さんだ。


『週末ですね。清果さんは何をして過ごしているのでしょう。

 私は普段と変わらない今日を過ごしています。

 明日は引っ越しですね。時間を作って、お手伝いに伺わせて頂きます。』


綺麗な日本語の並んだ文章、私を気遣う優しい言葉…。今までメッセージのやり取りをして来た人とは違う穏やかさの中にある熱情を感じる。明日は彼に会える…そう思うと、胸が高鳴って、体が熱くなる。


◇◇◇


引っ越し業者に荷物を積んで貰い、引っ越しトラックに乗る。道案内の為だ。荷物が運び出された私の住んでいたアパートはただの入れ物になった。がらんとした空の入れ物。そこに詰め込まれていた私の荷物はその思い出と共に運び出された。


「この段ボールはどちらに?」

そう聞かれ指示を出す。さすがは引っ越し業者だ。あっという間に荷物が運び込まれて行く。積まれて行く段ボール、荷解きを思うと、それだけで疲れてしまいそうだった。


「アンタ、まさか越して来たの?!」

そんな声に振り向くと、そこには伯母が立っていた。伯母には私が引っ越す事は伝えていない。面倒だなと思った。先週だってこちらへ来たというのに。業者の人は作業を終えて、帰って行ったばかりで、玄関は開け放たれていた。閉めておけば良かったと後悔したけれど、もうそんな後悔など、どうでも良かった。

「そうです。ここは私の家なので。」

そう言うと伯母は一瞬、カッと目を見開き、その目に怒りを露わにした。そしてドカドカと上がり込むと、私の目の前まで来て、私の両腕を掴む

「アンタねぇ! この前までこの家に住むかどうかは分からないって言ってたじゃない!」

確かに私は先週、伯母が来た時にはそう言った。伯母の私の腕を掴む手に力が入る。

「私、ずっと言ってたわよね? この家を私に頂戴って。」

私よりもかなり年上、経験だって豊富な伯母は、私の目の前で今、まるで友達の玩具を欲しがっている子供のようだ。欲しがっているものは玩具では無く、家なんだけれど。

「この間も言いましたけど、この家は私のものです。父が残してくれた家なんです。そして私が育った家でもあります。」

目の前のこの人は何をそんなに焦っているのだろう。

「私、もう言っちゃったのよ! 兄さんの家を私が貰う事になったから、家を出て行くって!」

そんな事情は知らない。確かに読み飛ばしているメッセージには早く家の権利を寄越せ、遺産を半分寄越せと書いてはあった。そのどれにも私は返事をしていない。

「私はこの家の権利も遺産も、伯母さんに渡すなんて一言も言ってないです。」

そう言うと伯母が私を睨み付け、私の両腕を握り潰すかもしれないと思う程の力で掴む。

「ダメよ! 兄さんの物なんだから、私だって貰う権利はあるわよ!」

そう言われて私は思わず笑ってしまう。この人は本当に私よりも年上の人間なんだろうか。二十八歳の私ですら知っている事を、この人はまともに知らないのだと思うと、哀れでもある。

「伯母さんには何の権利も無いんですよ。」

そう言うと、伯母は私の腕を押し出し、私を倒す。尻もちをついた私に伯母が馬乗りになり…気付けば伯母の手が私の首を絞めていた。

「アンタさえ死ねば! この家も兄さんの遺産も! 私に入って来るの…!」

首を絞められて、私は伯母の手の間に手を突っ込む。内側から押し出せば何とかなるかもしれない。そう思ったけれど、力が入らない。呼吸が無理やり止められる。視界がチカチカして意識が遠のく。


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