昨日、人生初めての彼女ができた。
名前も知らない、どこに住んでるかも知らない。
好きなもの、嫌いなもの、趣味、連絡先も知らない──唯一知っていること。それは僕が通っている高校の一学年先輩であることくらいなものだ。
もし僕が引きこもりじゃなければ校内でバッタリ、なんて期待もしてしまう。円実はそうではない。故に実感は全くない。
仮に昨日だけの関係で今日あの人が現れなかったとしても僕の日常に、感情に変化は一切ないだろう。
しかし別れ際、
『また明日。これくらいの時間にここで』
先輩はそう口にした。
引きこもりの人間が連日外出するなんて事は滅多にない。日々入り浸っているネット掲示板によれば引きこもりの大多数は一日一ターン。つまり一日に一つの行動しか取れないらしいが──僕の身体は一切の抵抗を見せることもなく、昨日見つけたバッティングセンターへ歩み出していた。
今日も駐車場に止まっている車も自転車もない。
店内へ入っても同じだ。
左手の受付では今日も店長と思わしきお婆さんが眠たげに新聞をめくっており、真っ直ぐ言った先に見えるバッティングコーナーでも遊んでいる人はいない。
ただ一人。
「約束通りだね、待ってたよ。彼ぴくん」
「最悪の呼び方ですね」
「嘘嘘、冗談だよ」
ふふ。
楽しげに八重歯を覗かせる銀髪の長い少女。
ぱっちり見開かれたその目は好奇心の塊のようだが、よく見ると猫のような印象を覚える。もしかしたらそれが人懐っこさも演出しているのか、はたまた獲物になった気分にされられているのか。
昨日と変わらず蒸し暑さを感じ始めた梅雨時期でも冬用のセーラー服に身を包んでベンチに座っている。
ほぼ二人きりの空間。
だが明確に昨日と違う事が一つ。
「……なんですかこの匂い。ラーメン?」
近づくとわかるのだが、カロリーの暴力。背徳の味、深夜にこそ堪能したいジャンクな香りが漂っているのだ。
そしてその正体は先輩の隣へ座ってようやく明らかとなる。
「カップ麺ですか。この時間に」
「いいでしょ。売店で買ったんだよね」
「売店……?」
「店長に直接言うとあるものは売ってくれるんだよ」
「それでカップ麺ですか」
見たところお湯は淹れたばかりらしい。
閉じた蓋の上でスープの子袋を温めている。濃厚とんこつ味、チョイスも中々背徳的で深夜にピッタリだ。
「先輩もとんこつとか食べるんですね」
「あっ! そう言うのよくないよ? 女子がとんこつ食べないって偏見」
「生きにくい世の中」
「嘘嘘、まぁ言いたいことはわかるよ。結構匂い苦手とか脂っこいとかあるからね」
「あとこれは偏見ですけど、女性って塩とか醤油が好きな人多そうだなって」
「そんなことないよ。女の子もとんこつとか全然食べるよ。好きな人の前で演じてるだけ。夢を見せてる的な? 慣れたらとんこつとか食べると思うけど」
「立派な女優ですね」
しかしこの匂いを嗅いでるとお腹が空いてきて困る。
家を出る前に夕飯を済ませてきたのだが、ジャンクフードの匂いと言うのはここまで魅惑的なのか。
先輩も箸を手に今か今かと待ち構えている。よほどお腹空いてるらしい。
「カップ麺って三分ちゃんと待つ?」
そして雑談で気を紛らわせたいのだろう。
「いやぁ、体感で食べてるので多分待ってないですね」
「だよねぇ~。でも早すぎると麺がパリパリだから難しいところ。特にとんこつだとバリカタが好きだからタイミングがね……うーん、もういいか」
そして豪快に蓋を剥がす。
瞬間、ふわっと湯気が立ち上り濃い油の匂いが漂う。そこへ温めたスープを溶かせば一気にお馴染みのとんこつ臭の完成だ。
見ているだけでお腹が空いてくる。
もう僕も売店に走ってしまおうか……。
「いただきまーす」
そんな僕を見せつける様に先輩が手を合わせ、背徳の海に沈んでいく。
スープを一口、その後女性にしては珍しくしっかりと麵をすすり、そしてまたスープを楽しむ。見てはいけないとわかっていながらも食の誘惑に抗えない。
「染みる~。深夜のカップ麺……最高」
「僕も売店行こうかな……」
「行っちゃえ。でもさ、男の子って一個だと多分足りないよね? わたしでも少ないなぁーって思うし」
「そうですね……家だと行儀悪いけど残ったスープにご飯入れて食べます」
「世界一美味しいやつ……!」
「カップ麺とおにぎり一個くらいが丁度いいですよね」
「わかる~。ラーメンをオカズにご飯って太っちゃいそうだけど……たまにはね」
「とんこつじゃなくて家系ラーメンだと味が濃すぎてご飯欲しくなりますし、ラーメンとご飯の親和性の高さはもう仕方ないですよ」
話してるだけで口に味が広がる。
しかし本当に美味しそうに食べるな……。
まるで今この瞬間だけは世界の中心が自分であるような幸福感に満ちた顔。正直ずっとこの顔を見ていたい──あれ。
瞬間、一際大きく心臓が鼓動した。
何だ今の?
一瞬の事ではあるが胸がキュッと締め付けられるような、それでいて心地いい感覚はなんだ?
「ん? お腹空きすぎて限界になっちゃった感じ?」
「い、いえ……」
ずっと見ていたいはずの顔から眼を逸らす。
ゆっくり深呼吸をし、平常心を取り戻そうと誰もいないバッティングゾーンを見やる。その間も麺をすする音が聞こえ、ついつい意識がそちらへ引っ張られてしまいそうだ。
「ここにおにぎりも売ってればなぁー。まぁ仕方ないか」
「そ、そうですね」
「スープ全部飲んじゃえばお腹いっぱいになるか? でも流石にまずい? いや……もったいないからいっちゃえ」
そうして躊躇なくスープ完飲へ向けてカップを傾ける。白い肌がラーメンの熱気でほんのわずかに紅潮しており、口端から艶かしくスープが一筋滴り、首筋を舐めていく。
ただ食事しているだけなのになんでここまで魅惑的なのか。
官能的──エロイのか。
「ふぅ……深夜のカップ麺だめだなぁ。幸せが過ぎる、カロリーの暴力! 気持ちいい!」
「成長期と言う言葉が僕らを優しく包み込んでくれる」
「それ! でもスープ全部飲んじゃう女子って彼氏的にはどう?」
「どう……どうってなにがですか?」
「印象と言うか何と言うか」
「……特に何の感情もないですね。美味しいならいいんじゃないです?」
「そういうもんか。幻滅したかなーって思ったけど」
「先輩が美味しそうに食べてたので……何と言うか僕は今すぐカップ麺を買いに行きたいくらいで。見事にやられてしまったなぁーと」
「そっか」
期待外れなのか、はたまた安堵なのか。
ペットボトルのお茶を傾けながら満足気な吐息を零している。
「じゃあ買いに行ってきますね」
「はいはーい」
ひらひらと手を振られる。
財布にまだお小遣いは入っていたはず。知らない人と話すのは緊張するが、それでも食欲に火がついた今、そんなことは次の瞬間には意識の奥底へ沈んでいた。