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第5話『6月3日 この日常は現実でありフィクションではないらしい』

 まだ2回しか通っていないバッティングセンターだが、日常の一部にしっかり組み込まれた感覚がある。二十二時少し前に家を出て、日を追うごとに蒸し暑さが増していく夜道を行く。そうして今日も相変わらず閑古鳥が盛大に大合唱しているバッティングセンターへ入ると──。


「今日もちゃんと来たんだね」

 自動ドアの音へ先輩がこちらへ向くのだが──今日はどういうわけか淵のない眼鏡をかけていた。そのせいか普段の活発で人懐っこい笑顔は途端に知的なものへと変わっていた。

 銀髪のセーラー服美少女の眼鏡姿。

 これがもしアニメやゲームだったらそれだけで物語の導入になりそうだ。眼鏡一つでここまで印象が変わるとは、これが初対面だとしたら文学少女としてインプットしてしまいそうだ。

「ん? どうしたの?」

「いえ……眼鏡が珍しかったもので」

 つい見惚れてしまっていたらしい。

 咳払いで誤魔化しつつ、いつもと同じバッティングコーナーの中央ベンチへ座る先輩の隣へ腰を下ろす。膝の上にはブックカバーで隠されたハードカバーの本が置いてある。

 つい先ほどまで読んでいたのだろう、指をしおり代わりにして閉じていた。

「なに読んでたと思う?」

「なんでしょう……受験あるし赤本とかですか?」

「いやぁ、残念。わたしは進学しないから受験の必要ないし」

「意外ですね。大学で遊びたいとか興味ある分野に行くとか思ってました。まさかニート志望とは」

「ニートじゃないよ!」

「冗談です。でも意外ではありますね」

「そうだねぇ~。興味があることがあれば大学とか専門学校行く気にもなったんだけどさ」

 本へしおりを挟んで閉じ直した先輩が困った風に眉を下げる。そして眼鏡をケースにしまってしまった。少し残念だ。

「眼鏡外しちゃうんですか?」

「勉強とか本読みときだけだし……結構キミに見られるの恥かしい」

「な、なんでですか……!?」

「なんでだろうね」

 眉を下げながら笑い、僕から誰もいないバッティングコーナーへ目をやる。

「でもさ、勉強……進学だけが人生じゃないと思うんだよね」

「まぁそれはそうですけど……じゃあ卒業したらどうするんですか?」

「そうだねぇ。とりあえず旅に出たいかな」

「た、旅……? 所謂自分探しってやつですか?」

「うーん……」

 とも違うらしい。

 膝へ手をついて顎を乗せる。眉を寄せた難しい顔をしているあたり、自分探しともまた違うのだろう。

「自分探しってなにするの?」

 そしてその答えは思ったよりすんなり返ってきたのだ──それも予想を大きく外す答えとして。

「自分が何したいのか、価値観変えるとかじゃないですか? 偏見ですけどインドとか変わるらしいですよ。価値観」

「それって海外旅行行きたいだけじゃない? だってここにいるのが自分じゃん? 日常の中で生きる自分と旅行、知らない環境にいる自分って違うと思うんだよね」

「自分の中の欲求と見つめ合う、みたいなことなんじゃないですかね」

 正直僕自身もよくわからない。

 自分探しの旅、なんて言えば聞こえはいいが──僕みたいな引っ込み思案の人間には縁のないものだ。無理して探す自分、背伸びをして見つけ出した自分や居場所が本当に居心地がいいものとも思えない。

 つまりは向いていないのだ。

 しかし先輩なら……。

「旅人って先輩には向いてそうですよね。フットワーク軽そうですし、順応性高そうだし」

「どうかなぁ。楽しくふらふらするのは好きだけど、自分を探さないとなんでしょ? 楽しいと思えないんだよなぁ」

「じゃあ自分探しの旅ではないと?」

「そうだね。でも何でも否定はよくないからさ、本当にそれで自分が見つかるかどうか実験もありかなって」

 ふふ、楽し気に猫目を細める。

 そしてぽんぽん、とひざ元の本を触る。

「だからその本を読んでるってことですか?」

「まぁそんなところかな。自分探しのエッセイだけど……まぁピンとこないかな!」

 そんな得意げに言う事なのだろうか。

 まぁ先輩が楽しそうならそれでいいか……。

「でも人の価値観に触れるのも大事って動画で言ってたからさ。まぁそれもあって少し旅をして視野を広げるのもありかなって思うんだよね」

「なるほど……旅、ですか」

「まあ学校の先生とか両親がどういうかは知らないけどさ。その選択で苦労するとしてもわたしのせいだし……多分後悔はないかな」

「その強いメンタルが羨ましいです」

「そうかな?」

「……僕はもう絶望しかないですよ

 この先の事をほんのわずかに考えただけで勝手に溜息が落ちる。もう頭を抱えたくなるほどに。このまま引きこもりを続けてもいい事なんてないとわかっているのだが──抜け出せない。

 底のない沼にハマり、一歩が踏み出せない。

「学校行かないとって頭ではわかってるんですけどね」

「そう? 別に良くない? 選択肢を広げるための場所だけどさ、別に選択肢が広くないといけないってこともないでしょ? 選べる選択肢が多いに越したことはないけど……それで全部が決まるのかな?」

「なにか特別な才能でもあれば違うんですけどね」

 得意なこと、好きなこと、やりたいこと──。

 何一つとして思いつかない。

 そしていつからかわからないけど、何となく理解もしている。僕はなにか特別なことを成し遂げることも、誰かに評価されることも、歴史に名前を残すこともないという事を。

 普通に生きて普通に働いて、普通に死んでいく。

 しかし普通に生きるための事はできていない──とすれば、残るのは悲惨に生きて、苛烈に働いて、苦痛に死んでいく。

 思い浮かべて頭を抱えたくなるのは当たり前だ。

「僕も先輩みたいに勇気があればなって思いますよ」

「勇気かぁ……そんなのないよ。逃げてるだけかもしれないし」

「でも先輩は学校に行ってるじゃないですか。広がってる選択肢の中で決断した、勇気ですよ」

「大袈裟に考えすぎだよ。多分人生はその程度のつまずきじゃどうにかならないと思うよ?」

 膝に肘を付きながら僕へ向く。

 僕の胸の内を見透かす様な猫目に息が詰まる。そして先輩の事がわからなくなる──まだ関係が浅いからか。彼女としての実感、彼氏としての自覚がほぼないからか。思ったことがそのまま口に出てしまう。

「人生って学生の期間より働いてる時間が長いじゃないですか。この先の事を考えるともうとにかく憂鬱ですよ。運よくどこかの会社で働けるようになっても、その会社が永遠に残るわけじゃない……そうしたら再就職できるのか、とか。そもそも社会に溶け込めるのか、とか……」

「うわぁ、めっちゃ考えてるじゃん……偉すぎるけどしんどいよ」

「それに僕はやりたいこともないんです。だから先輩みたいな決断はそもそも無理なのかもしれません」

 はぁ……。

 情けない、中二病みたいな悩みに溜息が落ちる。笑われてもおかしくないのに先輩は僕を見据えたまま目線を逸らそうとしない。

 真摯に受け止めてくれるのがわかる。

 それがしんどいのだが、

「じゃあさ、キミも一緒に行く? 自分探しの旅ってやつに」

「……なんかもうそれもありかなって思えてきました。先輩と一緒なら不安とかどうにかなりそうですし」

「じゃあそれを将来の夢にしてみようか」

「将来の夢、ですか……。いいかもしれませんね」

 何かやりたいこと、それがあるだけで何かが変わるかもしれない。

 それにこんなに真面目に聞いてくれてるんだ──本当にこの不安がどうにかなるかもしれない。ただ唯一わからないこと。

 先輩はどこまで本気なのか、ということくらいだが。それすらも今は粗末な問題なのかもしれない。

 だって僕はまだ先輩の心の奥底を何一つとして知らないのだから。




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