「最悪だ……」
家を出た頃は雲が広がりつつも降り出しそうな気配はなかったのに──バッティングセンターへ着く頃には見事な土砂降り。スイッチのオンオフしか無いのかと言いたくなる容赦ない雨に身体はすっかり冷えてしまった。
最早夏と思いたくなる蒸し暑さでもまだまだ梅雨という事なのだろう。
早く中で温まりたいとバッティングセンターへ入るが、入口から見えるバッティングゾーンのベンチに先輩の姿はない。
「今日もまだか……」
ずぶ濡れのところを見られて心配されるのもあれだ。適当に飲み物を買って乾くのを待つには丁度いいだろう。そうしてホットコーヒーを購入。そのままいつも座っているベンチへ腰を下ろそうとすると、
「……あれ?」
そこには先輩のと思われるスマホだけがぽつんと置いてあった。
「もう来てたのか……トイレ? スマホ置いてくなんて不用心と言うか何と言うか」
ここに来たのが僕でよかったな。
そう苦笑したのも束の間──ネットの向こうへバッティングエリアを照らす灯りへぼんやりと人影が浮かんでいることに気付く。
「……!?」
一瞬の驚き。
心臓がキュッと締め付けられ、芯から冷える気持ち悪さを覚えた。
しかしそれはすぐに消え去ったのだが──次に僕を襲ったのは奇妙な違和感、理解できないモヤモヤだ。
誰もいない、その人以外はいないバッティングゾーン。
本来なら人が立ち入るべきではないバッターボックスの先。ピッチングマシーンのすぐ傍、所謂内野とでも言えばいいのか。
そこに彼女はいつものセーラー服姿で立っていた。
勢いを増す雨に全身を濡らしながら、ただただいつ晴れるのか知らぬ鈍色の空を眺める少女──先輩だ。
「えっ……えぇー……な、なにしてるんですか?」
引きこもりにしては頑張った声量でネット越しに声をかけると、ちらりと肩越しにこちらへ目をやる。細い目は精力を失ったようにもろく、張り付いた銀色の髪、空を駆ける閃光、響く轟音が不気味に映る。
アニメやゲームならば重大な秘密が明らかになる瞬間だ。
しかしこれは嫌になるほどの現実。
そんな劇的なことなど起ることはない。それにこの先輩だ──どうせ気まぐれで雨を浴びている、なんて言い出しかねないのだから。
「風邪ひきますよ」
「あぁ、うん」
拍子抜けなほど淡白な返事。
そのまま水音を奏でながらバッターボックスまで戻ってきた。
「なにしてたんですか?」
「ん、そうだなぁ……なんだろう?」
「なんだろうって」
こんな時ハンカチでも持っていればよかったのに。
ポケットを探っても出てくるのはスマホに財布、いつかのレシート。そもそもハンカチがあったら僕がもう使っている。
「とりあえず座っててください。店長にタオル借りてきますから」
「ありがと。でもその心配ないかも?」
「えっ」
「だってほら」
そうして目で示した先──受付の方から呆れ顔の店長がタオルを手にこちらへ向かってきていた。動きやすそうなジャージ姿に咥え煙草、短い白髪の髪。眼鏡越しの瞳が既に「何やってるんだか……」と訴えている。
「ずぶ濡れでお前さんが入ってきたと思ったら……二人して酷い格好だね。水も滴るイイ女ってそういう意味じゃないよ」
「やった、いい女だって!」
「うるさい、馬鹿。深夜に高校生がここにいるのがまずいんだ、騒ぎになるようなことはしないでほしいね」
「す、すみません」
「ごめんなさーい」
「ったく。風邪ひく前に身体ふいちまいな」
「は、はい」
「まったく。ほんとアンタらは楽しそうにすんじゃないの。若気の至り、今のうちに楽しんどきな」
そうしてタオルを渡すや店長はそそくさと戻ってしまったのだが──先輩は反省していないのかクスクス笑う。細くなった目、覗く八重歯、前髪が乱れに乱れているせいか子どもみたいだ。
「怒られちゃったねぇ~」
「僕はとばっちりですけどね」
「まぁ連帯責任って事で。それと彼女をちゃんと見てなかったからさ、同罪同罪」
「最悪すぎる連帯責任……今来たばっかなのに」
「それで言うとわたしもキミを見てなかったから……やっぱり同罪? なんでキミはそんな濡れてるの?」
ベンチへ腰掛け僕から受け取ったタオルで髪の水分を沁み込ませつつ首を傾げる。
「家を出た時は雨降ってなかったんですよ……気付いたらどしゃぶりで」
「ふーん、じゃあ連帯責任だけど結果的にはわたしの方が楽しんでるね」
「何ですかその勝負」
「わたしはここで待ってたら雨降って来たから何となく当たってみたいなーって外に出たわけだし。キミは降られて濡れちゃったわけじゃん?」
「まぁそうですけど。どっちでもいいので風邪ひかないようにしてくださいね」
「はーい、キミにまで怒られちゃった」
ふふ、なぜかはにかんだ先輩の顔は少しだけ嬉しそうに見えた。
髪の毛はまだ湿っているがある程度拭けただろう。
タオルを首へ引っ掛け先ほど買ったホットコーヒーのプルタブを持ち上げる。ほんのり甘くて苦い液体がじんわりと身体を温めてくれる。
先輩は長い髪に苦戦しているのか。今もタオルに髪を挟んでパタパタしている。濡れたセーラー服はすっかり肌へ張り付いているが、下着が透けることはない。あれはフィクションであり、何かが見えることはない。
ただ思った以上に細いシルエットであることはわかった。
「髪長いと大変そうですね」
「そうなんだよねぇ~。まぁこれも楽しんだ代償ってことで……。でもさ、雨降ってるときに外出たいってなったことない?」
「……いやぁ、特には」
「なんだつまんないの」
「先輩はあるってことですよね。どうしてです?」
「ワクワク……?」
「なんで疑問形なんですか」
「わたしもよくわからないんだけどさ……」
頭へくるりとタオルを巻いて、腕を組む。
ぼうっと天井を見上げて考えること数秒、僕へ目線が向く。
「雨に打たれると自分の嫌なことが流れていく気がするから、かな」
その声は酷く寂しく聞こえた。
困り眉で無理に笑っているのがこの時ばかりは確信をもってわかる。
「なにかあったんですか?」
「そうだなぁ。じゃあせっかくだし彼氏くんに頼っちゃおうかなぁ」
そうして頭からタオルを解いた。
乾いたのだろう、手櫛で乱れに乱れた髪を整えたかと思えば首へタオルをかける。
「……パンツまでずぶ濡れなのどうしたらいいかな」
「……それは知らないですよ」
「冷たいなぁ。雨だけに冷たいってね」
「小笑いですね」
「そのツッコミも冷たい!」
はぁー。
力なく溜息して、背もたれへ寄り掛かる。濡れた身体が酷く寒そうだった。
「温かい飲み物買ってきますよ」
「ありがと。お願いしていい?」
「ダッシュで行ってきますんで!」
「なにそれ。パシリくんになってるよ」
「確かに。すぐ戻りますんで」
そうして席を立った。
寒そうだったから、はただの言い訳に過ぎない。実際はこれから何か先輩について重大なことを打ち明けられる──そんな気がして心の準備をしたかったからだ。
余裕がない。
果たして受け止められるのか。
自信がない。
自分のことすら満足にできてない引きこもりが他者にかまう余裕なんてあるのか。
ふと過った不安を拭うように自販機で温かいお茶のボタンを少し強く押してみる。
「先輩の事何も知らないんだもんな……」
まだ出会って一週間も経過していない。
圧倒的に交流が足りていないのを理解しているが──思い返すと僕の事ばかり話している気がする。探られているというべきか。核心に迫ることを聞くことはできない、思えば話題もそうだ。
雑談が中心で大事なことは何も……。
今の僕と先輩は彼氏彼女と言う仮の役割を与えられ、バッティングセンターと言う場で各々役割を演じているだけ。偽りのカップル──いや、それ未満の関係だ。
人にかまう余裕がない引きこもりが願っていいのだろうか。
「もしできたらでいいんですけど。女物の着替えとかってあったりしますかね」
ベンチへ戻る際に差し掛かる案内所で店長に声をかけてみる。
丁度吸い終えたところらしく、灰皿へ煙草を押し消していた。新聞を畳み、溜息を一つ。
「あの娘、着替えもなくあんなことやったんか」
「みたいで……」
「呆れて言葉も出てこないよ」
「全くです」
「アンタが彼氏なんだろ? その辺ちゃんとしてくれないと、甲斐性なしって思われちまうぞ」
「甲斐性、ですか……」
その通り過ぎて苦笑してしまう。
「まぁいいさ。これ持ってってやりな、洗って返してくれよ」
「も、もちろんです。ありがとうございます」
そうして店のロゴが入った上下のジャージを差し出される。
この店の制服と言ったところか、店長が着ているのとデザインはほぼ同じだ。サイズはまぁこの際どうでもいいだろう。
「ほれ、用が済んだらサッサと行ってやんな」
「は、はい!」
追い返されるように手を振られ、曲がれ右。
先輩の元へ急いで駆け寄るのだった。
2
先輩が女子トイレから戻ってきたのはに十分ほどが経過したころだった。両手へセーラー服を抱えながら隣へ座る。
すっかり乾いた銀色の長い髪の女の子がとても着るとは思えない緑に白のラインが入ったジャージ。それも左胸に店名の刺繍が入ったそれが先輩の雰囲気とミスマッチで面白い。
笑いそうになるのを堪える。
今は笑っちゃだめだ。
「それで……何があったんですか?」
「例えばの話だけどさ……キミは自分の力じゃどうしようもない事に直面した時ってどうする?」
「いきなり例え話されても難しいですね……」
「そういう話だからさ」
詳細は聞いてほしくないのか眼を逸らされてしまった。
「でもそれだけだと……どうしようもないって具体的にどういうことです?」
「うーん、そうだなぁ……。じゃあ極端な話、明日もし死ぬって言われたらどう?」
「確実に?」
「回避方法はないって言われたらさ」
「そのレベルですかぁ……えっ。先輩がそうなるとかじゃないですよね」
少し不安になって聞くと、「なにそれ」とクスクス肩を揺らす。
「いきなり明日死ぬ状況ってないと思うよ。そんな顔しなくてもわたしは明日もここに来るから……キミって結構かわいい顔するんだね」
「そ、そんな変な顔でしたか……?」
あまりの恥ずかしさを咳払いで誤魔化す。
明日死ぬとしたら僕はどうする、か。
「でも何してもダメなら受け入れると思いますよ。引きこもりなので……名残惜しいとか未来に対する後悔はないですから」
「ほんとかなぁ? わたしは取り残されちゃうよ?」
「……そうですね。じゃあ最後に先輩に会いたいと思うかもしれません」
「そんなもんかぁ……」
「死ぬのが確定ならその時にやりたいことをして、その時を迎えると思います」
それしか言葉が出てこなかった、考えが至らなかった。
あまりにもテンプレ通りな答えに己の空虚さが明るみになった気がしてならない。引きこもるという事は何かを得る事を放棄することなのかもしれない。
きっと同年代に比べて自分は持っているものが少ないのだろう。
だから先輩と話すのが楽しい、毎日ここに来るのかもしれない。
「それで先輩はどうしたいんですか?」
「それなんだよねぇ。わたしはどうしたいのかなって……」
自嘲気味に笑い、温かい緑茶のペットボトルを頬へ当てる。
何かを諦めたようなその横顔にどんな言葉をかけたらいいのか──今、先輩は何を思っているのだろうか。
雨に濡れたせいか、気温が下がっているせいか。
指先から感覚が鈍くなっていくような浮遊感がある。
「本当に明日死ぬとかじゃないんですよね」
不安でもう一度同じことを聞いてしまった。
しかし先輩は今にも壊れてしまいそうな笑顔で頷く。
「それじゃないから安心して。ちょっと家族の事でさ……誰かが死ぬとかじゃないんだけど、どうしようもないことがあって……しんどくなってさ。それで雨にあたってた。それだけなんだよ」
「……そうですか」
「うん。話聞いてくれてありがとうね」
「いえ……」
嘘だ。
何か嘘をついている──隠している。
それだけしかわからなかった。
証拠はなにもないが、それでも確信できる。
先輩は僕に何かを隠していると。
「君は強いんだね」
その呟きの意味もわからない。
だが雨音がやけに大きくて今日はそれ以上先を聞くことができなかった。