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第14話『6月12日 今日は暑いですから』

 ついに僕が住んでいる地域でも気温が三十度を超えてしまった。

 日中しっかり温められた外気は陽が沈んでも中々冷めてくれない。幸い海風が吹いているから幾分マシだが、それでも暑い事に変わりない。


 濡れたTシャツをバッティングセンターのベンチで乾かしながら冷たい缶ジュースを煽る中、ちらりと隣を見ると今日も先輩は変わらず冬服セーラーに黒タイツ。

 制服に対する思い入れが相当なのは知っているが、タイツくらいはそろそろ脱いでもいいんじゃないだろうか?

 それともこの程度はまだ平気なのか……?

 雪のように白い肌は今日も変わらず、暑さで朱に染まっている様子もない。「ん?」

 雲一つない今日の夜空を思わせる濃紺色のボブ風ヘアーが鈴の音を奏でるように揺れる。ポニーテールに結ばれた髪がどこか涼し気だ。

「……今日暑くないですか?」

「もうすぐ夏って感じだよね」

「暑くないんですか?」

「またそれ?」

「いやぁ……これだけの気温だと流石に心配になりますよ。制服にこだわりがあるのはわかりますけどタイツくらいは脱いでもいいんじゃないです?」

「あぁー。わたしの生足が見たい的な?」

「どうしてそうなるんですか!」

 にやにや目を緩ませる先輩に声が大きくなってしまった。とは言え見たいかどうかと問われれば、見たくないというのは嘘になってしまう。

 僕も一応健全な男だから当然だ。

 しかし先輩は自分の足へ目をやるや「うーん」と困り眉を寄せる。

「タイツ脱いでもまぁいいんだけどねぇ……」

「なにか問題でもあるんですか?」

「子どもの頃のキズとか色々あるからねぇ。実はちょっとコンプレックス」

「やんちゃな子どもだった感じですか?」

「まぁそれもあるけど。中学まで陸上やっててさ。擦り傷とか色々あるんですよ。それを隠すためにタイツ履いてるの。暑いけど慣れれば楽だし……実はこれそんなに厚くないんだよ」

「そうなんです?」

 パッと見た限り、そうとは思えないのだが……。

「制服は冬用でもタイツは夏用って言えばいいのかな。薄いやつだからさ」

「色々あるのは知ってますけど……そうなんですか?」

 先輩の足を注視してみる。

 膝辺りで肌の色が薄く透けているが──果たして本当に涼しいのだろうか?

 それにしても本当に細い足だ。枝とは言わないが、少し転んだだけで折れてしまいそうなほど華奢だ。太もももこれじゃあ細ももと言わざるを得ない。

 だが陸上をやっていた名残なのか。細いだけじゃなく筋肉も感じられるのだが、それでも不安なことに変わりはない。

「……見過ぎだよ、変態。えっち、スケベ」

「えっ……あっ、す、すみません」

 つい先輩の足へ夢中になってしまった。

「でも確かにタイツ薄い気がしますね。暑そうだなって感想は変わらずですけど」

「まだいけるよ」

「足の傷なら別に気にしなくていいと思いますけどね。それでなにか変わるわけでもないですし」

「彼氏みたいなこと言うじゃん」

「まぁ彼氏ですから。世間一般の彼氏彼女とは違うと思いますけど」

 その辺り、先輩はどういう考えなんだろうか?

「先輩はどう思います?」

「ん、彼氏彼女について?」

「えぇ」

「別に人それぞれ。気にしても仕方ないなぁって思うくらいから」

 そして答えてくれたわけだが、思った以上にドライな回答に驚きだ。

 確かにその通りではあるのだが──他所は他所、と切り捨てるにしては歪な関係にあるんだけどな。未だに僕は先輩の名前や連絡先も知らないのだから。

 ここに来れば必ず会える。

 いつ来なくなるかもしれない不安定な関係──もしかしたらそれが僕をここへ通わせる理由なのかもしれない。

「まぁいいんじゃないかな」

「先輩がいいなら……いいかもしれませんね」

 僕としてはもう少し踏み込みたい。

 世間一般の彼氏彼女として過ごしたいと思ってしまうのだが、先輩の心はどこにあるのだろうか? それを追求しようにも僕にまだその勇気はないらしい。

 ただ時期を見定める女々しさが嫌になる。

「熱中症には気を付けてくださいね」

「ん? ちゅうしたいの?」

「な、何言ってるんですか!?」

 何をどう聞き間違えたというのか。

 突然の返答にしどろもどろになっていると、先輩が僕を見つめたまま小首を傾げる。

 わからない──先輩がわからない。

「どうしてそうなるんですか」

「えっ……だってちゅうしようって」

「えっ……えっ」

 先輩には何が聞こえたというのか。

 僕はただ熱中症に気を付けてと言ったつもりなのだが──なのだが……。あぁ、そう言う事か。

「……言葉狩りもいいところですよ」

「本当に気づかなかったんだね」

「そりゃ先輩がそんな事言うと思ってませんでしたし」

「ふーん……キミがもう少しわたしとちゃんと彼氏彼女っぽいことしたそうな顔してたからさ。ナイスアシストわたし」

「えっ」

 それも見抜かされたというのか……。

「あっ、適当に言ったけど本当だったんだ……」

「……そ、そりゃ。今の僕と先輩って一緒に居るだけで彼氏彼女感薄いじゃないですか」

「そう?」

「だって名前も連絡先も知らないんですよ?」

「確かに……でもさ。ここに来ればキミは来るし」

「そりゃそうだけど」

 それに先輩はまだ僕に隠していることがある。

 まだ心の距離がお互いに離れており、歩み方すら模索中なのだ。しかしそれをどう伝えただいいだろうか? 下手に踏み込めばこの関係はそこで終わり。

 そんな終わりを僕は望んでいない。

 先輩はどうなのだろう。

「先輩は思わないんですか?」

「キミを信頼してるから考えたこともなかったよ。だって引きこもりのキミが毎日ここにちゃんと来てくれてさ。告白した時も次の日はもう来ないかなと思ってたくらいだし」

「そりゃ……そうではあるんですけど」

「でもそれで不安にさせたなら申し訳ないな……」

 ねぇ。

 先輩がもっと近くに寄れとばかりに手招きする。

 眉を寄せ首を傾げながら顔を近づけてみると──。

「今はこれで許してよ」

 瞬間、頬へ温かい何かが触れた。

 すぐ吐息が触れ合う距離に夜空が──星のような瞬きを放つ瞳がある。 

 それはほんの数秒、瞬きしてしまったら覚めてしまう夢そのものだ。ゆっくりと先輩の顔が離れていき、妙に火照った頬と心臓が奏でるうるさい鼓動だけが残る。

「ちょっと暑いかも……」

 いたずらな笑みを浮かべる先輩が照れくさそうにはにかんだ。

 あまりにも眩しいその微笑みを直視することができず、僕は眼を逸らす。

「今日は暑いですから」


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