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第17話『6月15日 先輩がいない夜』

 先輩はいつも何時ぐらいに来ているのだろうか。

 僕は大体いつも二十二時頃に来るスケジュールだったが──たまにある気まぐれでそれよりずいぶんと早くバッティングセンターへ到着していた。

 しかしそこに先輩の姿はまだなく、ただただ退屈な時間である。

 早く来ないかな……。

 そんなことをも思っているうちに二十二時を過ぎていく。

 別に約束しているわけでもない。

 先輩にも先輩の都合があるし、当然僕にだってある──かもしれない。引きこもり故に一日自由時間みたいなものだ。都合が悪くなるなら僕より先輩だろう。

 楽しみだった待ち時間が徐々に寂しさへ塗り潰されていく。

 溜息をするのも何度目かわからない。

「楽しみにしてたんだなぁ……」

 自覚していなかった感情に気付かされる。

 そして──そんな僕の期待へ応えるように遠くバイクのエンジン音が聞こえたのだ。脳裏へいつだったか、お兄さんや他の仲間と一緒にバイクで走っていた光景が蘇る。

 今日もツーリングにでも行ってて遅くなったのだろう。

 退屈な時間もようやく終わる、その期待に腰を上げ自動ドアの方へ足を進めると、

「ん、やっぱ来てたか」

 入って来たのは先輩ではなかった。

 見上げるほどの長身にスキンヘッド、革ジャンの男。低く野太い声、眉も沿って顎鬚だけを薄く生やしているから威圧感がすさまじい──先輩のお兄さんだ。

 思わず一歩、二歩と後退してしまう。

 しかしそんな僕へお構いなしに溜息。

 店内光を跳ね返す頭を撫で回し、サングラスを僅かに持ち上げる。妙に人懐っこく愛らしい目と交差し、小首を傾げた。先輩の癖はお兄さんから来ているのだろうか?

「お前ら……本当に付き合ってるんだよな?」

「え、えぇ」

「じゃあなんで連絡先知らねぇんだよ。普通真っ先交換するもんだろ」

「ですよね。僕もそうだと思います」

「……アイツが発端か」

 そしてもう一度溜息が落ちる。

「まぁ何でもいいけど。今日はアイツ来ないってさ。体調悪いらしいわ」

「大丈夫なんですか?」

「平気だろ。アイス食べ過ぎて腹、壊したんだとさ」

 何と言うか理由がらしくて容易に想像できてしまう。思わず笑いそうになるのを堪えて、それでも吹き出てしまうものを咳払いで誤魔化す。

「わざわざそれ教えに来てくれたんですか?」

「まぁな。どうしてもって頼まれてよ。丁度ツーリング帰りだったし」

「あ、ありがとうございます」

「別にいいさ。ただなんだ……」

 足元から舐め回す様に見られているのだが、今僕は値踏みされているのだろうか? 大事な妹を任せるに足る人間なのかどうか──兄なら心配して当然だ。

 そしてそんな彼氏は絶賛引きこもりの僕。

 お眼鏡に適うかと言うと怪しいところだ。

「お前はアイツのことどれくらい知ってるんだ?」

「えっ」

 しかし向けられた言葉は予想と異なるもの。

 サングラスでもう隠されてしまった瞳が何を語っているのかわからない。

「知ってるも何も……正直ほぼ何も知らないですよ。名前すら教えてもらってないんですから」

「……アイツも変なこと始めたな」

「付き合ってるのに名前も連絡先も知らないって変ですよね」

「普通ではないな」

「ただ聞くのが許されない空気、みたいなのを感じて……」

「アイツを擁護するわけじゃないが……昔からそう言うところがあってな」

 やれやれ。

 後ろ頭を搔き回し、ふと目線を受付脇に向ける。

「……お前と二人で話す機会もないだろうから。少し喋ってくか。なんか飲むか?」

「いいんですか?」

「高校生だろ。大人に甘えとけ」

 言うや自販機の方へ行ってしまう。

 昔ながらの店だからなのか。自販機が並ぶブースに置いてある喫煙所に仕切りはない。お兄さんの後ろについて、何も考えずにコーラを買ってもらう。

 お兄さんはと言うと缶コーヒー片手に一服だ。

「悪いな。煙そっちに行かないように気を付けるから」

「気にしなくていいですよ。父さんも喫煙者ですから」

「そうか? まぁ未成年の前だし一応な」

 咥える煙草は父さんと同じピースだ。

 味は知らないが匂いは良く知っている──家に染み付いている匂いそのものだ。

「煙草って美味しいですか?」

「……美味くはないな」

「父さんも同じ事言ってますけど。どうして吸ってるんです? 美味しくないのに」

「カッコイイから」

「えっ?」

「嘘だよ、入りはそんなだったけど……もう今じゃ酸素と一緒……だと言いすぎか。無きゃ落ち着かないんだよ」

「そう言うもんですか」

「まぁ吸ってていい事なんてないけどさ」

「それもよく言いますよね」

 灰皿へ灰を落としてコーヒーを一口。

「話を戻すが……アイツ、家だとお前の事ばっか話してるぞ」

「えっ」

「毎日会ってるから話題は尽きないんだろうな。今日はこう言う事を話したとかなんとか。相当気に入ってるのは伝わってくるよ」

 そこに好き、と言う言葉が出てこないあたり──この人はまだ僕を認めていないのか。それとも先輩をよく知っているからか。

 しかし家でそんなことを……。

 むず痒さをコーラで誤魔化してもにやけてしまう。

「なんか照れますね」

「照れてる場合か?」

 サングラス越しにきっと鋭くなっているであろう眼光が僕を射抜く。煙草をもみ消し、隣へ腰を下ろす。仄かに残るはちみつみたいな甘く、スモーキーな香りが僕を緊張させる。

 父さんが家にいるときにリビングに出れない気まずさと同じだ。途端に言葉に詰まり、やけに乾く喉をコーラが刺激する。

「お前はまだアイツの事を何も知らないのはわかってるな」

「……はい」

「なんで何も知らないか考えたことはあるか?」

「隠したいことがあるからですよね。それくらい……」

「お前がまだアイツの彼氏になれてないからだ」

 わかってる──わかってたことだ。

 僕と先輩の関係は歪だ。ただここで会うだけの関係、それを普通は友達と呼ぶのだろう。だがその段階をすっ飛ばし、恋人と言う言葉で甘く溶かし、誤魔化している。

 恋人なのに責任はない。

 例えどちらかが来なくなってもしばらくしたら忘れてしまうだろう。大したキズも痛みもなく、ただ不思議な時間だったと片付けて終わりなのだから。

「お前は本当にアイツを知ろうとしているのか?」

「そりゃ……」

「お前は本当にアイツに知ってもらおうとしているのか?」

「……」

「別にお前らがどんな関係になろうと俺にはどうでもいいことだが……。久しぶりにアイツの楽しそうな顔を見た。俺はそれを無駄にしたくない」

 それだけだ──。

 お兄さんも何か隠してるじゃないですか、そう言いたくて仕方なかった。

 まるで何かへ八つ当たりでもしたいのか、口を開けたゴミ箱へ空き缶を放り投げたのだから。そして逃げるように僕へ背を向けて自動ドアへと向かっていく。

 先輩もお兄さんもどうして僕へそこまで大事なことを言おうとしないのか。

 サンドバックのように言いたいことだけ言われて、いざ踏み出そうとするとそのラインを明確に示してくる。 

 踏み込んでくるなと。

「お兄さんだって……なにか僕に隠してるじゃないですか!」

 遠のく背中へ思い切り声を上げる。

 久しぶりに誰かへ届けようと大きな声を出した気がする。声は掠れるし、指先から冷たくなっていく感覚がある。

 それでも声に出すと幾分か胸の中の鬱憤はスッキリしてくれた。

「……」

 足を止めたお兄さんは僕の方へ向こうとしたのだろうか。首が僅かに動いたかと思えば、何も言わずに自動ドアの彼方へ消えていった。

 随分と久しぶりに感じる静寂。

 慣れないことをしたせいで心臓は早鐘を打ち、ドッと疲れが背中へのしかかる。

 今日先輩が来ればこんなことにはならなかった。

 こんな一日にはならなかったのだから──だから早く明日になればいいのに。いつもと変わらないこの場所で落ち着かせてくれ。

 先輩を知らないといけないのに、安心を求めてしまう僕はどうやらまだまだ子どもなのかもしれない。


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