昨日の今日で果たして先輩の体調は回復したのか。
もしかしたら今日も一人バッティングセンターで過ごすことになるかもしれないと思いながら自動ドアをくぐると──その心配は杞憂に終わってくれた。
夜空を閉じ込めたような濃紺色のボブカットを後ろで束ねるその背中にすごく安心してしまった。もう随分会っていないような安心感がそこにはあった。
自然と近づく足が速くなるのだが、同時に息が詰まる様な緊張がこみ上げてくる。
『今日こそ先輩の隠し事を話してもらう』
今もまだお兄さんの一言はくすぶり続けたままだ。
話してくれるかはわからないが、僕の思いだけでも知ってほしい。ゆっくり深呼吸をして隣へ腰を下ろすと、俯き気味にスマホを眺めていた顔が持ち上がる。何か夢中で読んでいたらしく、眼鏡をかけていた。
「昨日はごめんね。急に体調悪くなってさ」
「そういう日もありますよ」
それより──。
そう切り出した次の瞬間、
「キミはどう思う?」
被せるように先輩が口火を切った。
早くも出鼻をくじかれてしまったが仕方ない。病み上がりの先輩も色々話したいことがあるのかもしれないのだから。それが済んでからの方が──ある程度会話が温まってからの方が都合がいいだろう。
隣へ腰かけるや、先輩がスマホの画面を向ける。
「なんです?」
パッと見たところ画面へ横書きでテキストが綴られている。web小説のようだ。
内容までは一瞬じゃ理解はできないが、多分読んで欲しいわけではないので無視するとして、これがどうしたのか。
「おすすめ作品ですか?」
「うーん、だったらよかったんだけどさぁ」
「内容に納得がいってない……的な?」
「それとも違うんだけど……なんて言えばいいのかな」
スマホを膝の上に顎へ手を当てて天井を仰ぐ。
それから数秒の間を置いて、
「……異世界ものにハマれないんだよね」
内容は別として妙に深刻に呟くのだ。
しかしそれがどうして悩みの種になっているのか──間に必要な言葉が幾つも抜けているが、それはいつものこと。
「好みの問題だから仕方ないんじゃないですかね。みんながみんな好きな作品って存在しないと思いますよ」
「アニメとかでもそうなんだよ。もちろん面白い異世界ものもあるんだけどさ……どうしても自分の中で邪魔な思考が働くというか……」
「ほぉ……例えばどんなのです?」
先輩が何を思いながら異世界ものを見ているのか若干の興味が湧いてきた。
確かに今の時代、アニメも新発売の作品もとにかく異世界ものが多い。僕も実際に触れて好みに合う作品も多いが──ハマったかどうか問われるとまた難しい話だ。
もしかしたらそんな疑問を解消してくれるヒントになるかもしれない。
ほんのわずかな期待と、猫を殺さない程度の好奇心を胸に先輩へ目をやる。
「まずさ……なんで呼吸できるの?」
「……はい?」
「異世界転生ってことはさ。地球から別の世界に転生するって事じゃない?」
「まぁ……おそらくは。そのあたりは作者によると思いますけど」
「でも全く別世界に転生するじゃん? そもそも地球ってめちゃくちゃ色んな奇跡と偶然が重なってできてるんだよ。わたしたちが生きているのもその奇跡のおかげで……空気内の割合がほんの少しでも狂うだけで生きていけないこともあるっていうじゃん?」
「は、はぁ……」
なんかその話はぼんやり授業かネットで見た記憶はある。
しかし断片的んで中途半端な知識だから黙っておこう。
「でも異世界転生して呼吸が普通にできてるのおかしくない? 普通に死んだり未知の病原菌に犯されたりとか……なんでならないの? 異世界なのに地球……? 異世界?」
「落ち着いてくださいよ。まさか根柢の問題と思わなかったですけど……」
「だって普通に初手で言語が理解できるのもおかしいよね?」
「気持ちはわかりますけど……転生する際に身体が最適化されたと思えば」
「無理やりだけど……まぁじゃあそれでいいよ」
納得してないのだろう。
寄せた眉はまだ抗議を訴えているが──僕に訴えられてもどうにもできない。しかし先輩が抱いていた気持ちも当然理解できる。
僕も自分を納得させるのにどれだけ時間がかかったことか……。
「他にも何かあるんですか?」
「よくありがちなのがメインヒロインの全裸を偶然見ちゃったとかあるじゃない?」
「まぁ導入ではよくあるかと……最近はどうかわかりませんけど」
「うん……どうしてその女の子から恋愛感情向けられたりするの?」
「まぁ主人公の活躍で……。ジャイアン劇場版の法則の応用的な」
「いや、普通は関わりたくないと思うんだよね……」
はぁ。
この日一番とも取れる溜息だ。
「例えばだけどキミが女の子で全然知らない赤の他人に全裸を見られたらどうする?」
「……その想像はこれまで一度もしたことないですけど、多分最悪ですね」
「だよね。じゃあその人に何かされて好きになる?」
「……いやぁ、どうですかね」
自分が女子になった想像はあまりにもピンとこない。
「でもヒロインの境遇とか主人公が何をしてくれたとか……積み重ねで好きになることはあるかもしれませんね」
「わたしもそれならいいんだよ。それこそ十巻続いているとして、七巻くらいで好きになってくれるならね。でも一巻でいきなりそう言う感情抱くのはおかしいって! 尻軽すぎるよ!」
「せ、先輩落ち着いてくださいって……」
言いたいことはわかるが──そう言うもの、と捉えてしまってる僕はただ先輩をなだめることしかできない。だがもうすっかりスイッチが入ってしまったのか落ち着く様子もない。
「あと……なんで現代でパッとしない人間が異世界で活躍できるの?」
「女神の気遣いとか……成功者バイアスと言うか……エンタメだからと言うか。物語の都合上仕方ないですよ」
「納得できない……だってそれじゃあみんな同じだよ! もっとこう……ゴミみたいな能力で何もうまくいかないけど泥臭く這い上がる成長ストーリーとかほしいじゃん!」
「まぁそれはそうですけど……」
「例えば世界的に有名なアーティストが異世界に転生して音楽の力で盛り上げるとかならわかるんだけど……何も実績がない一般人だよ? 優遇する必要ある? と言うか肩入れ有りなの? 女神のさじ加減次第じゃんね」
「……ですね」
ダメだ、止まらない。
これじゃあ先輩が隠していることについていつになっても聞くことができないじゃないか──しかしどうしてか僕は少し安心していた。緊張から解き放たれたからこその安堵。
さながらイタズラがバレずに怒られずに済んだ子どものような心境かもしれない。
だがそれでもヒートアップ真っただ中、一足先に夏を迎えたような先輩の話が楽かは話が別だ。しかしそれは僕が求めていた日常なのかもしれない。
「キミはそれを踏まえて異世界ものどう思う?」
「どうって言われても……活躍するにしても現世で活かせなかった才能とかあると思いますし……そもそも先輩に異世界ものを楽しむ才能、ポテンシャルがないだけですよ」
「あっ! それ言っちゃう!?」
「残念ながら……」
多分普通の読者はそこまで気にしていないのだから。
しかし当然ではあるが先輩は納得していないのか、ぶつぶつ呟きながらスマホを弄っている。新しい作品でも探しているのか、それとも同じ意見を抱いている同士を探しているのか。
「まぁ別にいいけどさ。別にいいんだけど! でもこのテンションで今日を終えたくないというか、モヤモヤするからさ。キミのおすすめを教えてよ」
「僕のですか……えぇー。でも先輩が楽しめるかどうか」
「いいよ別に。キミはこれが好きなんだって思えば楽しめると思うし」
「そうですか? まぁ隠す意味もないんで送りますけど……」
あまり本数を読んでいるわけじゃない上にメジャータイトルばかりだ。
それでも先輩に少しでも自分を知ってもらえたなら、秘密を打ち明けてくれるかもしれない。そんな淡い期待を胸にリンクを送ろうとするのだが……。
「そう言えば連絡先聞いてなかったですね」
「だね。交換しようか」
「そうしてください。色々不便だと思うので」
これがスタートラインかもしれない。
先輩のスマホへ表示されたQRコードを読み込むと、メッセージアプリへ先輩が追加される。それが妙に嬉しくて、僕はしばらくそのアイコンをじっと眺めていた。