今にも雨が降り出しそうな空の中、僕と先輩は今日も変わらずバッティングセンターのベンチに腰を下ろしていた。しかし先輩は昨日僕が勧めた小説に夢中なのか、かれこれ一時間は会話と言う会話がない。
邪魔をする理由もなく、この沈黙が心地いいから別に構わないのだが──昨日先輩の連絡先を知ることができた今、少し早いかもしれないがもう一段踏み込みたいというのが本音だったりする。
先輩が隠していること、果たしてどこまで喋ってくれるかはわからない。だがいつまでも胸の内でくすぶらせておくにしても、この熱は熱すぎるのだ。
「ふぅ……キミがお勧めしてくれたやつ面白いね」
「そうですか、よかったです」
「どうかした?」
「えっ……なにがです?」
「空返事だからさ」
「あ、あぁー」
考えすぎていたらしい。
先輩には全て筒抜けのようで、
「困りごとなら話聞くよ?」
スマホの画面をオフにして膝へ置いた。
こちらへ向く顔は至ってフラットなものだが──僕のなにもかもを見透かしているように思えて背筋が寒くなる。
それでもくすぶり続け今にも手放したい言葉は溢れてしまう。
「先輩……僕に何か隠してることありますよね」
目を見て唱えることはできなかった。
そして途方もない後悔が早鐘を打ち心臓の鼓動と共に襲ってくる。普段は先輩の顔を見るなんてなんでもなかったのに、今だけは怖くて仕方ない。
今どんな顔をしているのか。
肌へ突き刺そう様な視線から逃げ続けながらも、ちらりと横目で伺ってみる。笑ってもいないし怒ってもいない。困っている様子もなければ悲しんでいることもない。
凪そのものだ。
透明な笑顔とでも言えばいいのだろうか──なにかを悟ってなにかを諦める。手放そうとしているような冷たいもの。透明とはそこになにもないという事。
真実も嘘もなにもない──空っぽの笑顔なのだとこの時僕は初めて知った。
「あちゃー、バレちゃったか」
しかしそれは束の間の事。
瞬きしたころにはいつものフラットな微笑みへと変わっていた。困惑にも近い声は表情と合致していない、ちぐはぐだ。
それがますます僕を不安にさせる。
「なにを隠してるんですか?」
自分が安心したいがための追及。
先輩はそれを悟ってか、小さな溜息と共に眉を寄せた。
「実はさ……」
重く開いた唇。
表情と顔が合致したことになにを安心しているのか。
これから明かされる真実──今まで踏み込みたくても踏み込む勇気がなかった先輩の不可侵領域はもう目の前だ。
今まさに語られようとしている。
乾いたの喉へ唾液を押し込む。ずっと待っていたことなのに緊張で心臓の音がうるさい。
「実は……なんですか?」
「うん。メイク新しくしたんだよね、どう?」
「えっ……」
「んっ……?」
「め、メイク……?」
「うん……ん、それじゃない?」
「え、えっと……」
改めて先輩の顔をよく見てみるのだが──美容知識もなければ化粧に関する知識も皆無の人間だ。どこがどう変わったのか、普段の涼しげな顔。ぱっちり開いた目、薄い唇。そのベースとなる雪のような白い肌。
どこが変わったのか。
ダメな彼氏の典型的な感想故に言葉へ詰まってしまう。
「あれ……それじゃなかった?」
「か、かわいいと思いますけど……すみません」
「そ、そっかぁ……」
無難な回答に先輩が眉を下げる。
「それ以外の事ってことだよね」
「まぁそうですね……あるじゃないですか、他にも!」
「えぇー他の事かぁ。急に言われても困るかなぁ」
「そうですか? 結構答えは近いところにあると思うんですよ」
「そんな事言われても……あっ!」
瞬間、先輩がわざとらしく声を上げた──そしてジト目でこちらを見やる。
「キミってもしかして結構独占欲強い感じ?」
「な、なんのことですか?」
「キミが初彼氏ってこと……ちゃんと言ってなかったかもなぁって」
「それでもないですね……というか先輩に元カレが居ても驚かないというか。世の中の大半の女性は彼氏いた経験あると思ってるくらいなので」
「それは大袈裟だと思うけど……」
「かわいい人、美人には彼氏がいる。彼氏がいないのは何か理由があるってだけですよ」
「ドライだなぁ。これでもないんだ」
じゃあなんだろう……。
俯いてポツリと漏らすが、本当に気づいていないのだろうか?
だとしたら──嘘が前提での付き合いという事になる。だとしたらこの関係は何だというのか。
うまく言葉にできないが、すぐ手の届くところにいるのに触れることができないもどかしさ。自分が怒っているのか悲しいのかすらわからない。
「どうしてなにも言ってくれないんですか……」
自分の中へ蓄積された色んな感情が綯交ぜになったものは許容値を超えてしまい、ついに言葉になってしまった。
先輩は何も言わない。
次第にベンチの正面へ広がるネット越しのバッティングゾーンから雨音が聞こえ始めた。店内BGMを塗り潰す様な激しい水音だけがこの沈黙を保っている。
怖くて顔を上げることもできない。
そんな時間は果たしてどれだけ続いたのだろう。
「ごめん」
雨音の隙間を縫うように悲し気な声が落ちた。
ふと我に返って先輩の方を向くと、深く俯いており──濃紺色の髪がその表情を一切伺わせてくれない。膝上の両手は固く握られており、白い肌が薄く赤みがかっている。
「ごめんね」
雨粒のように何度もその声が落ちる。
その度、超えてはいけないラインを土足で踏み込んだ後悔に胸をしめつけられる。まだ早かったかもしれない──知る、ただそれだけなのにここまで悩むことになるとは思ってもみなかった。
しかし考えてみれば当たり前のことだ。
隠しているのはそれ相応の理由があるから。
「すみません……先輩の気持ちも考えるべきでした」
今にも泣き出しそうな先輩へ頭を下げる。しかしやはり怖くて彼女の方を向くことができない。
「いつかちゃんと話すから……今はごめん」
「はい」
「ごめん」
「先輩の事を知りたくて……焦りました」
「わかってるから」
「すみません」
「うん……ごめんね」
何度も謝罪の言葉が行き交う。
隣にいるのに先輩は遥か彼方にいる様だ。
近くて遠い──先輩の髪が本当に夜空に見えて、ただただその距離を痛感させられる。まだまだ雨は弱まりそうにない。