昨日の一件が尾を引きずっているせいか、普段よりも家を出るのが随分と遅くなってしまった。普段なら楽しい道中も今日ばかりは憂鬱で仕方がない。そんな僕を励ましているのか──はたまた嘲笑っているのか。バッティングセンターは今日も極めて平常運転。
駐車場、駐輪場に止まっているものもなければ賑やかな声もない。自動ドアをくぐってもそれは変わらず、涼しいエアコンの風が迎え入れてくれる。
そしてあのベンチへ変わらず先輩が座っていた。
自動ドアの音へ気付いてこちらへ向くが、特に何か言われることもない。気まずいのは彼女も同じなのだろう。困り眉を寄せたかと思えば、すぐに目が逸れてしまう。
先輩への第一声、何が最も適しているだろうか。
気まずさがそうさせたのか、普段よりも少しだけ距離を取って隣へ腰を下ろす。だが会話は中々生まれない。
こちらから切り出すべきか、先輩が何か言うのを待つべきなのか……。
あまり誰かと喧嘩したり揉めたり気まずさを覚えたりした経験がないのは友達の少なさ故だが──まさかこんな場面で悩むことになるとは。これまでの人生が恥ずかしくなってくる。
しかしいつまでも黙っているわけにもいかないのも事実。
ゆっくり深呼吸をして、人生最大の勇気を総動員。
「せ、先輩」
やっとの思いで沈黙を切り裂くことができたが、次ぐ言葉は中々出てきてくれない。困り眉の先輩は無言のまま俯くばかり。
今にも再び陰鬱な空気に包まれそうな予感を覚えて、何とか頭をフル回転させる。
「き、昨日はすみませんでした」
しかし出てきたのは昨日何度も唱え続けてきた謝罪。
口が覚えていたのか、思ったよりすんなり出てきた言葉に先輩が僅かに顔を上げる。濃紺色の髪が薄く目元を隠し、目が合っているのかどうか曖昧だ。
「こっちもごめんね」
だがそれでもこちらの応答には答えてくれた。
それが嬉しい反面──昨日の延長戦をやっているように思えて胸が重い。その空気をどうにか払拭したくてどうにか会話を続けようと試みる。
「言わない理由があることなんて考えればわかるのに……」
「うん」
ダメだ──。
言いたいことはそんなんじゃない。
僕は先輩とどうしたいのか考えろ。昨日だってろくに寝ることができず、その事ばかり考えていたじゃないか。
答えはまだ出ていないが、それでも言いたいことはキチンとあるんだ。
それをそのまま声にすればいいだけ。ここで逃げたら昨日と何も変わらないんだ。
自分で自分を拳ながら再び深呼吸。
今度は俯く先輩をじっと見つめて言う。
「どんな理由があるかはわからないですけど……今は言いたくないってなら待ちますから。誰だって踏み込んで欲しくないこともありますし」
「……キミはそれでいいの?」
「正直今すぐにでも話してほしいですよ。でもまだ先輩のことを僕はまだ何も知らないんです。まずはそこからだなって……昨日寝れなくて色々考えてそうなのかなって」
「……随分聞き分けいいんだね」
俯く先輩が自嘲気味に笑う。
乾いた笑いは自分自身に向けてのものだろうか。
「彼氏に何も言えない彼女っておかしいのにさ。なんでキミは怒らないの?」
「……怒り方がわからないだけです。ケンカなんてしたことないですから」
「そっか……。普通なら気まずくて今日も来ないと思うんだよ」
「先輩だってそれは同じじゃないですか」
「それは……」
それは……。
二度唱えるがその先は中々やってこない。
再び沈黙が顔を出そうとしている──しかし今度は僕が切り出す番ではない。きっと先輩の本心が、胸の深いところにある想いが切り裂いてくれる。
不思議とそう信じることができた。
だから俯く先輩がどんな言葉を唱えるのか、穏やかな気持ちで待つことができた。前髪で隠れ気味だった目元が僅かに腫れていることに気付く。
もしかした先輩も眠れぬ夜を過ごしたのだろうか──だとしたら少しだけ嬉しい。喜んではいけないことかもしれないが、先輩の中に自分がそれだけ居る証明でもあるのだから。
「わたしは……キミがくるって信じてたから」
そしてようやく先輩が顔を上げてくれた。
僕を見つめる瞳はやはり赤かった。雪のようにきれいな肌も今日は少し荒れているのか血色が悪く見えてしまう。
そうなるまで僕を……。
熱いものが目頭に集まる。何かが落ちそうなのを目を逸らして誤魔化し、天井を仰ぐ。
「僕だって同じですよ。先輩はここに来ると信じてましたから……気まずさで直前まで行くか悩んでましたけど」
「それは言わなくてよくない?」
「そうですね……そうでした。でも昨日の嫌な空気で終わりにはしたくなかったので」
「わたしが悪いのにごめんね」
「いえ……これはきっとお互い様なんです」
僕も先輩も──やはり二人してお互いのことを何も知らないのだから。
「これから知っていきましょう、お互いに」
「うん……」
「待ってますから、その時まで」
「ありがとう」
ふふ。
ようやく笑ってくれた。
この笑顔が落ちていた僕のテンションを引き上げてくれる。安心させてくれる。
「じゃあ仲直りしよっか」
「ケンカしてないのに?」
「気持ちの問題。これでいったんこの話は終わりにしようってこと」
「そう言う事ですか。わかりました」
「じゃあ……はい」
そうして先輩が右手を差し出す。
しばしその手を見つめてから首を傾げると不満げに頬を膨らませていた。
「仲直りの握手」
「あぁー、何か今小学校を思い出しました。あまり好きじゃないんですよね、それ」
「そう? 女の子の手に触れられるチャンス」
「仲直りの握手をそう捉える人、人類で先輩だけですよ」
「オンリーワンだね」
「ポジティブ過ぎません?」
「いいから、いいから」
はやく~。
差し出した手を振りながらクスクス笑う。こりゃ握手しないと終わらない流れだ。
「仕方ないですね」
「そうそう、先輩であり彼女からのお願いは聞いた方がいいよ」
「はいはい」
むず痒いのだが、差し出した手を握る。
細く不安になりそうな手だが、ようやく普段通りに戻れるのが何より安心してしまう。
「キミの手温かくて好きだよ」
「先輩の手は冷たいですね」
「心が温かいのだよ」
「じゃあそれで」
「うん」
手を離すのがもったいなくて、僕はただただ先輩の手を握り続けるのだった。