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第21話『6月19日 恋』

 先輩と仲直り? を果たしたこともあり今日は普段よりも早く家を出ていた。

 不思議なもので昨日交わした握手の感触がまだ右手に残っていた。すぐ傍に先輩がいるような感覚は照れくさく、心地いい。

 だからなのか──家を出てバッティングセンターの看板が見えた頃。急に歓喜の舞いを踊っているのか、心臓が楽し気に弾んでいる。緊張とはまた違う、胸の内がふわふわしているような感覚。

 それは近づくにつれて大きくなり、バッティングセンターを前にして最高潮に達した。息をする度に喉奥へ何かが引っ掛かるような感覚。そわそわして落ち着かないこれはなんなのか。

「落ち着け……落ち着け」

 何度か自分の中で唱えてから自動ドアをくぐった途端、

「えぇー、まだ高校生なの!? こんな時間に出歩くなんてよくないなぁ!」

 ガハハハハ!

 陽気なおじさんの笑い声が僕を出迎える。

 入ってすぐに見えるベンチへはいつかと同じようにスーツ姿の男が何人か腰かけており酒盛りをしていた。男たちの向こう側へ濃紺色の髪を後ろに束ねた女の子──先輩がジュースを片手に楽しげに笑っている。

 なんだこの空気……。

 助けを求めるて受付のお婆さんへ目をやるが、我関せずを貫いているのか。煙草を片手に溜息を零し、新聞をめくるのみ。

 どうやら味方は居ないらしい……。

 今日も先輩と二人の時間を送れると思っていたのに残念だ。幸い普段よりも到着時間も早い、一度で直すという手も──。

「あっ、おーい! こっちこっち!」

 ないらしい。

 サラリーマンたちの群れの奥で大きく手を振る先輩。見事に見つかってしまったらしい。溜息を一つ、半ば諦めながらベンチへ歩みを寄せる。以前顔を合わせたサラリーマンと違い、雰囲気は随分と若い。

 そして僕の事も話しているのか、ビール片手に赤い顔が一斉にこちらを向く。

「せ、先輩……この人たちって」

「さっき知り合った人だよ。ナンパ? されたんだけど彼氏いるからって」

「違う違う! キミみたいな娘が一人でいたから心配したんだって」

「そうそう! 僕たちもうすぐ三十路だよ!? 犯罪だから!」

「ほんとかなぁ?」

「ほんとだって!」

 酔っ払い男たちが必死に弁明するのを先輩がただただ笑っている。先輩の隣へ座りながらこの気まずさをどうしたらいいのか考えるが──右隣の先輩にそっと右手を取られる。

「背もたれで見えないから……」

「え、えぇ……?」

 耳元で一言甘く囁かれ、ドキッと心臓が跳ね上がる。

 昨日に引き続き手を繋ぐことができた嬉しさもそうだが──知らない人が集まる中で見えないとはいえそんなことするとは。

 指同士を絡ませながらも先輩はおじさんたちと話を進めるのだが、全く話が入ってこない。ジュースを掴む手すら震えるし、口にしても全く味がわからない。

 本当にこれはどういう状況なんだ……。

 次第に心臓の音が大きくなって会話すら聞こえなくなる。まるで世界から音が消えていき、先輩の温もりだけがここにいる照明みたいだ。

 時折握り返しては、こちらを向いた先輩が口元を緩ませる。

 その度に胸の内へ温かいものがこみ上げる。初めての感覚で息苦しくて落ち着かない──なのに安心感に包まれどうしていいかわからない。

 これが恋、というやつだろうか?

 今まで誰かを好きになったことなんてない。と言うか感覚としてそれを理解することができなかった。今も感覚は朧気だが、直観としてそうなのかもしれない。

 何を話しているのかわからないままに何かを返答する。

 自分が何を言っているのか、最後の最後まで理解できないまま気付くと目の前で大笑いしていた男たちはいなくなっていた。

「……帰っちゃったね」

「え、えぇ」

 二人きりになってもなお手は繋がっていた。

 まだ繋いでくれているんだと安堵していたのも束の間、

「じゃあちょっとお手洗い行ってくるね。ジュース飲みすぎちゃった」

「は、はい」

 あっさりと繋いだ手が解けてしまった。

 軽やかな足音を後ろにまだ先輩の温もりが残る右手をじっと見つめる。

「……どうしたんだ」

 深く溜息をつく。

 本当に先輩に恋をしてしまったという事か!?

 冗談抜きに、ただ昨日初めて手を繋いだだけで──まだ先輩の事をあまりよく知らないのに好きになった? なぜ? どういう理由で?

「あぁー、もうなんなんだよ」

 恋とはこんなに簡単にしてしまうものなのか?

 そしてなんで二人きりになってホッとしているんだ。

「もうわかんない……なんだこれ」

 恋と自覚した途端恥かしくておかしくなる。

 項垂れ、もう何度溜息を零したことか。

「どうかした?」

「えっ」

「ん?」

「聞いてました?」

 だとしたらいつから……。

 どこからが独り言として口に出ていた?

 何を聞いていた?

 熱くなる顔、今果たしてどれだけ赤くなっているのか。先輩の方を向くのが照れくさくてそっぽに目をやる。

「え、えっと……どこから聞いてました?」

「どこって……キミが凄い溜息してるから。人見知り過ぎるって」

「え、えぇ……まぁ。そ、そうですね」

 何も聞かれていなかったことに安堵してしまう。

 彼氏彼女と言う関係ではあるのだが──そこに恋愛感情と言うのはきっと存在していない。少なくとも今は僕だけが先輩に向けているだろう。

 この場合はどうしたらいいんだ?

 彼女に告白と言うのは変な話にも程があるし、先輩なら「知ってるよ」と普通に返すだろう。

 不都合ではないが、僕の気持ちを知ってもらう方法って……。

「あ、あの……先輩」

「ん?」

「さっきの人と仲良さそうでしたね」

「そうかな?」

 隣で小首を傾げた途端、先輩がニヤニヤしながら身を寄せて肘で小突いてくる。

「あっ、もしかしてヤキモチ? いっちょ前な彼氏ムーブじゃん」

「そ、そりゃ……まぁ一応彼氏というか」

「なるほどねぇ。さっきの溜息もヤキモチ焼いてどうしようみたいなことかな?」

「ど、どうでしょう」

 ほぼ正解なだけに次ぐ言葉に困ってしまう。

 しかし先輩はぴったり肩を寄せたまま、じっとこちらを見つめて離さない。

「それでヤキモチを焼いちゃった彼氏くんはどうして欲しいの?」

「えっ」

「まぁ試しに言ってみなよ。彼女として彼氏くんのメンタルケアみたいな?」

「え、えっと……」

 別に何かしてほしいわけじゃないんだけど。

 内心そう思いながらも、まだ右手に先輩の温もりが残っている。だが直接触れた瞬間の胸の高鳴りはもう薄まっていた。

 もう一度その温もりを──。

「あ、あの……」

「ん?」

「て、手を……繋ぎたいなって」

「あぁー。ヤキモチ焼いてた割りには結構簡単なこと言うんだね。いいよ」

 そして先輩は一切躊躇う事もなく僕の右手をギュッと握る。指同士を絡める恋人同士がやるそれすらも躊躇いがない。

「これでいい?」

「あ、ありがとうございます……」

「なんかテンション低くない? これじゃなかった?」

「いえ、そうなんですけど……躊躇いないなぁと思って」

「彼氏と手を繋ぐのに躊躇う必要ある?」

 小首を傾げる先輩。

 そうなんだけどそうじゃない──一年しか歳が違わないのに立ち振る舞いが随分と年上に思えてしまう。

 高校三年生となるとここまでフランクなのか。

 はたまた僕が女子に夢を見ているだけなのか。

 高揚と緊張で頭がぐちゃぐちゃだし爆発しそうなほど顔が熱い。

「キミの顔……凄い真っ赤じゃん」

「……み、見ないでください」

「んー、面白いから嫌だ。手を繋いだだけでこんな反応してくれるのなんか嬉しいかも。昨日はそんなことなかったよね?」

「……昨日はそう言うのじゃなかったじゃないですか」

「まあそっか。そうかな?」

 うーん。

 首を傾げる先輩だが、すぐにくすりと笑う。

「まぁ彼女としてはこんな反応をしてくれる彼氏は嬉しいかなぁ。何ならもっといろいろしてあげたいけどさ……」

 ジッと僕を見つめて眉を下げる。

「今のキミにこれ以上はどうにかなっちゃいそうだから今はこれが限界かな」

「はい……そうしてください」

「普通は男の子がこういう事言いそうなもんだけど……まぁいっか」

 ふふ。

 楽し気に笑いながら先輩が手を握り返す。

 それがただただ嬉しくて──僕はただこの時間がどこまでも続くのを祈り続けるのだった。



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