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第22話『6月20日 スキンシップ』

 つい昨日まで梅雨らしい蒸し暑さ、そして夏目前の気温をしていたというのに今日はやけに冷える。天気予報では前日との気温差は十度以上。夜になれば更に寒さは如実なもので、バッティングセンターへ向かう僕の服装は久しぶりのロングデニムに薄手のパーカーとなった。

 気温は過ごしやすいが強い雨にうんざりしながら今日もいつもと変わらぬ時間にバッティングセンターの自動ドアをくぐる。そしてすぐ目の前のベンチへいつもと同じ後ろ姿──星空を閉じ込めたような藍色の髪が目に付いた。

 まだ仄かに残る右手の温もり。

 それを逃がさぬようにポケットに突っ込みながら先輩の隣へ。

「先輩、今日も来ましたよ」

 腰掛けると同時に、彼女の頭が右へ左へゆらゆら踊る。

 そしてついには、

「せ、先輩?」

 僕の右肩へ預けるように頭を寄せた。

 途端に背筋が伸びるのだが、間もなく聞こえる静かな吐息。一向に返事がないその顔へ目をやると、穏やかな顔でおやすみ中だ。

「ね、寝てる……。まぁ今日は涼しいし過ごしやすいからな」

 この寝顔を見続けるのはまずいのではないか?

 しかし僕は彼氏。彼氏なら許されるのではないか?

 このまま見ていたい──起こさなくてはいけない。

 二律背反の思いを胸に抱えながらも、身体は緊張。顔は熱く、指先は冷たい。呼吸は荒く、心臓はうるさい。それでいて動くことができない。

 結果、僕は悪いと思いながら先輩の顔を見つめ続ける。

 長いまつげ、実は垂れ気味な目元。薄い唇から揺蕩う穏やかな吐息。漫画やアニメだと寝てる彼女の頭を撫でるなんてのが定番の一つだけど、そんな勇気はない。しかしこの綺麗な髪へ触れる事が出来たら──僕はまた一つ先輩を知ることができる。

「いや……まだ早いだろ」

 冷静に考えれば、寝ている女の子の髪を撫でる。

 交際期間がそれなりに長い相手ならば許されるだろうが、僕はまだまだ数週間の付き合い。髪はまだ早いし起きてしまうだろう。

 だがそれでも──せめて、せめて指先で頬へ触れるくらいなら。

 ゴクリ。

 緊張でカラカラの喉へ強引に唾液を押し込み、左手をゆっくり持ち上げる。

「し、失礼します……」

 無意識に呼吸が止まっており、震える手が時間をかけて白い肌へ近づく。心臓の鼓動は重ねるごとに激しく、その音を大きなものにさせる。

 心臓が口から飛び出そう、なんて例えはもしかしたら本当にあったことが元になっているんじゃないか。そう思えるほどだ。

 そして──。

「さ、触ってしまった……」

 雪のような白さを誇る肌だからこそ、触れたら冷たいんじゃないか。そう思っていたが逆だ。冷え切った指が温まっていく感覚がある。そして何よりもちもち、ぷにぷにだ。

 正直ずっとこうしていたいほどだったのだが、

「んっ……あれ。寝ちゃってた……?」

 薄く瞼を持ち上げた先輩と目線が重なる──重なってしまう。

 まだ半分まどろみの中にいるらしく、にへらぁと締まりのない顔で笑う。

「来てたんだ。起こしてくれればよかったのになぁ……」

「気持ちよさそうだったので。あと先輩の寝顔が新鮮で」

「そっかぁ。だからわたしのほっぺをもちもちしてたの?」

「えっ……あ、これは」

 頬へ触れたままの指を慌てて引っ込めようとするのだが、先輩に手首をゆったり掴まれてそうもいかない。それどころか自分から指へ頬を寄せてくる始末。

「せ、先輩……あ、あの……」

「ん~、なに?」

「えっと……これは」

「キミからのスキンシップ記念? 髪じゃなくてほっぺなのがキミらしいね」

「……悩んだ末と言いますか」

「うんうん。それでどうだったわたしのほっぺは?」

 まだ眠いのか。

 ふわふわした声のまま小首を傾げる。

 半分閉じた瞳も相まって──見てはいけない、先輩のプライベートに深く踏み込んでいる気がしてならない。そしてそれが何より嬉しいのだ。

「キミがもちもちしてるほっぺ。毎日ケアしてるんだよ?」

「や、柔らかくて……ぷにぷにで……」

「うんうん」

「ずっとこうしてたいです」

「おっぱいの話?」

「ほっぺです!」

「冗談だよ。でもキミからこうしてくれるの……本当に嬉しいなぁ。ちょっと前だと多分起こさないようにジッとしてたと思うからさ」

「それはそうかもしれませんね」

「でしょ? だから記念日」

 ふふ。

 ゆったり笑いながら頬へ触れていた手が離れ、自然と下りる。

 指先へ残る温もりの名残惜しさも束の間に──僕の右腕へ寄り掛かっていた顔を上げ、すぐに指を絡めるようにして繋ぐ。

「せ、先輩?」

「まだ手を繋ぐの緊張する? もう慣れてよ」

「は、はい……」

 にぎ、にぎ、にぎ。

 繋いだ手が何度も握り返され、クスクス先輩が笑う。

 いい加減慣れろと言われてもこればかりはどうも無理だ──幸せが過ぎるのだが、今日はやけに先輩の手が温かい。いや、熱い。

 先ほどの頬もそうだが、今日は全体的に体温高めなのだろうか?

「キミの手、今日はちょっと冷たくて気持ちいいかも」

「そうですか? 僕はいつも通りなんですけど……」

 それにまだ寝起きみたいなふわふわした話口調なのもまた気になる。

 先輩の方を見てみると、妙に目が潤んでいるように思える。どうも普段と調子が違うように感じるのは僕だけだろうか?

「あの……先輩、今日はどうしたんですか?」

「どうって?」

「何もないならいいんですけど……いつもとテンション違うというか……」

「いつもと違うかぁ……」

 そうだなぁ。

 先輩が小首を傾げてふにゃと笑う。

「なんか今日、いつもより寒いよね」

「ここ数日はらしいですけど……その格好でもですか」

 幾ら気温が低いとは言え、この時期にしては──だ。

 先輩が寒がりだとしても冬用のセーラー服にタイツまで装備してて寒いと言われると妙な話である。もしかして普通に風邪をひいてるんじゃ……。

「あ、あの……ちょっと失礼します」

「えっ?」

 熱でもあったら大変だ。

 すぐに家に帰ってもらわないと……。

 緊張よりも不安が勝ったからなのだろう、僕の手は頬へ触れる瞬間の躊躇いを見せることなく先輩の額へ触れていた。

「熱っ……。えっ」

「んー、おでこ触ってどうしたの? キミの手……気持ちいいね」

「先輩、熱あると思いますよ」

「えぇー。そんなことないよ。ちょっと寒くて……眠くてふらふらするだけで元気だよ~」

「それを人は風邪って言うんです。とりあえずお兄さんに迎えに来てもらいましょう」

「えぇー。キミと会ったばっかりなのに」

 むぅ。

 子どもみたいに頬を膨らませながらも繋いだ手、額へ当てた手から逃げることはない。変な素直さが愛らしい。普段しっかりしている人、極端な人は風邪をひいたら幼くなる、みたいな話を聞いたことがある。

 先輩もそうだという事か。

 もし回復した後、今日の事を覚えていたら先輩はどんな反応をするのか──めちゃくちゃ見てみたいが、こちらからは黙っておいてあげよう。

 それはそれとして──。

「風邪治ればすぐ会えますから。長引いて会えなくなる方が嫌じゃないです?」

「それはそうだけど」

「お兄さんたちも心配すると思いますよ」

「ずるい……」

「ずるくてもいいです。はい、スマホで連絡してください」

「えぇー。しょうがないなぁ」

 はぁ。

 呆れ気味に溜息する先輩。

 本来ならそのリアクションは僕がやるべきだと思うのだが、今はツッコまないでおこう。渋々ではあるが先輩がスマホを操作し、耳に当てたところだ。ここで子どもみたいに機嫌を損ねてしまっては──もうこのまま家まで送ってくれなんて言い出しかねないのだから。

「はい……繋がったよ」

「えっ」

 なぜ僕へスマホを差し出すのか。

 先輩の顔とスマホを交互に見やるのだが、ただ不思議そうな顔をされるのみ。

「おにぃと繋がってるから、はい」

「ぼ、僕が話せと」

「うん」

「え、えぇ……」

「ほら、早く。切れちゃう」

「あぁー、もう!」

 急かされ、渋々手に取ると間もなくして、

『……イタズラ電話か? 聞こえてるか?』

 若干イライラしているのが伝わる低い声が鼓膜を突く。

「え、えっと……もしもし」

『ん、ん? なんでお前が出るんだ?』

「先輩にスマホを渡されまして……」

『アイツなぁ。で、何の用だ?』

「先輩が熱あるっぽくて……その、僕からお願いするのもあれなんですけど……」

 本当にあれなんだけど。

『迎え行けばいいんだな、すぐ行く。いつものとこか?』

「えっ、あぁ。はい。お願いします」

『あぁ。サンキューな』

 それだけ言い残して通話は終了したのだが──ここまですんなり事情が伝わると思っていなかっただけに拍子抜けだ。お兄さんの察しがいいのか、はたまた過去に似たことでもあったのか。

 その真意はわからない。

「おにぃなんだって?」

「すぐ迎えに来るって言ってました」

「そっか、そっか。じゃあそれまでキミを独占だ」

 スマホを僕から受け取ると同時に、再び右腕へ頭を預け出す。

 その顔はやはり子どもっぽく──ただただ微笑ましかった。


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